二話 月のような少女
人は嘘を吐く。
偽り、本当の自分を隠す。その人に映る自分。誰かに求められる自分。自分を自分じゃない自分に偽って生きている。
誰もが嘘を信じ求め、はたまた嫌っている。
本物なんてかっこいいけれどあるかどうかなんてわからない。不明瞭で不確かな理想。
でも、描かない限り手に入れることは出来ない。
偽らない、ありのままでいることが本物なのか。それとも特別な感情、信じるとか愛とか親愛とか。どれを取って本物と呼べるのかわかりえない。
それとも事象において嘘は真実の上に成り立っているのかもしれない。
自分のため、誰かのため、物事のためだったりする。守る、隠す、閉ざす。意味がそれぞれあって意志がそこには確かにある。
ならその根っこは真実、つまるところ『本物』と呼べるのではないだろうか。
でも、やっぱりわからない。
だから、今日もぼんやりと生きる。
本物があればいいなーなんて思いながら。
*
秋が終わり冬がやって来た。
風は冷たさを増し、葉は赤色から茶色へと変わり移る。空の青さは冴えわたる雲海のように澄んでいて凍り付きそう。
マフラーを緩く巻き、星蓮は黒のコートのポケットに手を突っ込みながら、さむっと漏らす。
寒さに震えながら、とぼとぼ歩いていると後ろから奇声が聞こえてきた。
「せーれぇえええええええーーんんん――っ!!」
聞き間違えだろう。
星蓮はその声を無視して歩く足を止めない。
(聞き間違えに違いない。奇声が俺を呼んでるなんて狂気の沙汰すぎる。お化け屋敷で聞こえてきたら即倒ものだけどな)
狂気を孕んだ奇声を上げる享楽人。龍也たる狂気人は笑顔で星蓮に抱きついてきた。
「おっはよー!」
「やめろ!変人」
龍也を剥がそうとすれど、一向に離れない。接着剤レベル。
「鬱陶しいんだよ」
イラつきを募りながら龍也の頬をビンタする。
「イッタぁー!何すんだよ⁉︎」
「それはこっちのセリフだ!」
龍也はビンタされた頬をなぞりながらため息を漏らす。茶色に染めた髪の前髪をサラッと払って頬をほんのり赤に染めながらも口を止めない。
「ハグは親愛の証。俺からお前への気持ち、さ」
サムズアップをしながらよくわからない戯言を言う龍也に心底呆れキモいと思う。
「きもい」
「ちょっと……俺の心が傷つくぜ」
(声にでてたか……まあいいか)
相手をするのがくそ面倒なのでスルーする。龍也は何も言わずに星蓮の後を追う。不貞腐れている龍也が面白くて頬が少しだけ綻んだ。
龍也と星蓮は世間話を適当に嗜んで、いや適当にだらだらと話ながら教室に入る。
学校に着けば賑やかになり、教室に入れば騒がしくなった。
「あっ!蓮と龍おっはよう!」
仄華は星蓮と龍也を見つけると手を振りながらすぐにこちらへてくてくと駆ける。赤黒の髪が目立つセミロングを揺らし華麗な顔立ちは親しみやすく愛嬌がある。
ちなみに、蓮は星蓮で龍は龍也の略称である。
星蓮なんて恥ずかしい名前をもつ彼を気遣って昔からみんな蓮と呼ぶ。
そして、仄華は笑顔いっぱいに龍也へ会心の蹴りを入れた。それも腹に……
「うえっ⁉︎」
龍也は腹を抑えながらフラフラと後ずさる。
「いきなり何すんだよー!」
「あんたが昨日私のハンバーガー全部食べたからでしょ!」
ぷくーと腰に手を当てて怒る仄華に龍也は苦笑い。
「で、でも蹴りはちょっと……」
仄華は悪魔な笑顔を浮かべて龍也の肩に手を置いた。龍也はぶるっと震えてうすら笑を浮かべる。それは絶望にも似ていた。
「あんたが悪いのよ。わかってる?」
「はっはい!分かっています!」
声を裏返しながら、敬礼をする。新米の警察官もこんな感じなんだろうか。
仄華はうんと頷いた後いつもの調子に戻ったが、龍也は蛇に睨まれたカエルみたいに肩を窄めていた。
仄華は孤児院で育った子供だ。
七年前路上に気を失った少女が発見された。
警察に保護された少女は記憶喪失と判明し親の姿形すら今も何も掴めていない。年齢は十歳前後であり、文字の書き取り読み取りが出来ず、箸の使い方も日本の常識もわからないことから真っ当な教育を受けていなかったことが頷けた。幸いなのが言葉を話せたことと、唯一覚えていたのは『ほのか』という名前だけだった。そのまま孤児院に預けられ、そこで勉学や常識を学び、元々地頭がよく一年半と少しで十歳程度の学習や常識を得た『ほのか』は小学四年生から学校に通う事になった。
そのきっかけは二人の祖父母に引き取られたことが幸いしている。『仄華』を与えて、本当の家族のように受け入れ過ごしてくれた二人に今でも感謝しかないと仄華は言っている。
そして、転校生として学校へ通いそこで星蓮と出会った。
それから四年後に祖父母二人ともが他界。裕福な家庭であったため、残されたお金とバイトで今は一人暮らしをしている。
そしてよく星蓮あるいは龍也の家へ上がり込み晩ご飯を共にしたりもしているほどの仲だ。
「そう言えば」
仄華は何かを思い出したようで、声の調子が上がる。星蓮は自分の席に着き授業の準備をしながら、仄華の声に耳を傾ける。
「今日、転校生が来るらしいよ」
「へえー珍しいな」
「興味とかないわけ?」
「うーん。人による?」
「なんで疑問形なの?」
「だってどうせ関わらないだろうし」
「はあー。蓮、私たちがいるからって……蓮の将来が心配になるよ」
「お前は俺の親かよ」
仄華の心配演技にツッコミを返して二人で笑う。龍也はまだお腹を泣きそうにさすっていた。
可哀想に自業自得だ。
その後は仄華と龍也と適当に駄弁って授業までの時間を潰した。これがなんでもない日常だったりする。
「おーい。お前ら座れ」
担任の面倒くささ全開な声音が今日も今日として一日の始まりを告げる。髪も服もボサボサの男子教師。
ほんとにやる気あるのか。
担任が教室に入ると後から付いてくる女の子がいた。肩まで伸びた少し薄い黒髪に整った顔とさらっとした手足はモデルのよう。気の強そうな差し支えない美少女は教卓の前まで来ると、にこりと笑った。
まるで貼りつけたかのように。
「はじめまして、この街に転校してきました青井雫と言います。よろしくお願いします」
浅く頭を下げて、また笑顔を放った。その笑顔は男子にはたまらなかったようで、そこらで……
「可愛すぎるだろ!」「彼氏いんのかな?」「まじ付き合いたてぇー」、と大騒ぎ。
女子の冷ややかな視線がメロメロな男子を殺していた。
怖すぎだろ。
ふと、彼女のほうをもう一度見た一瞬、星蓮と目があった。
星蓮を見定めるかのような眼差しがあった。
当の星蓮はただ目があったくらいにしか思っていないけれど、それは確かな観察であった。
その全てに気付いているのはある間者だけだ。
すぐさま青井雫は眼を逸らす。
「おし。青井は廊下側の一番後ろな」
「はい。わかりました」
転校生への期待、興味、興奮、慈しみが渦巻く教室で、ただ一人だけ眼を細め思考する『間者』がいたことに青井雫は気づいていた。
雫の注目は言うまでもない。
休み時間ごとに質問攻めに遭っている姿は、同情してしまうほどだ。
遂には昼休みになっても鳴りは治らない。
「すごい人気ね」
仄華は、ほえーと間抜けな声を上げる。
仄華の周りの弁当を広げている友達も苦笑い。
そんな中、龍也が自信に満ちた顔で何かを語り出した。
「それはそうだろ。あんなに可愛くて綺麗で慎まやかな淑女。もう、天使もといい女神!女も男も彼女の虜。分け隔てないあの笑顔。さりげない気遣いに優しさ。もはや神!彼女ほどの美と心を持ち合わせた者はどこにもいないだろ」
「なんだその売り込み文句」
「可愛さは罪だぜ」龍也はウインクした。
まじですごく引いた。
本当に引いた。
仄華たちも顔をしかめるあまり。
「中二病は傷の間違えだ」
龍也は気にした素振りも見せずに弁当を広げる。
図太いのか無神経なのか馬鹿なのか。たぶん馬鹿なのだろう。
「でもやっぱりかわいいっていいよねー!私が男ならすぐアタックしてるのに」
「沙代里も可愛いんだから。てか、すぐにアタックするとかどうなのよ?」
水戸沙代里は優雅に言い放った。
「すべては早い者勝ちってね」
そして舌をぺろりと出しておどけて見せる。
「だから、柚木。私と付き合わない?」
「馬鹿言え。お前が俺と付き合うわけないだろ」
「本気だったらどうする?」
それは魔性。
上目遣いに星蓮を見つめ、口から漏れる微かな吐息がなめまわしく凹凸のある体を惜しげもなく強調する。まさに魔性。
それは誘惑な美があった。
だからこそわかる。
「本気じゃないから断る」
「どっちだって断ってたくせに!」
「違いない」
本当に性格が悪い
もう一方では、龍也が仄華の弁当から勝手に卵焼きを奪っていた。
「龍——っ⁉︎私の卵焼き何勝手に取るなよ⁉︎」
「いいだろ、美味そうなんだから」
「良くないわよ!楽しみにしてたのに」
「俺も好きなんだよ。ほらいただき」
「あっああーっもう——っ!」
龍也と仄華のじゃれ愛に沙代里と星蓮は苦笑い。
そんな中、視線に気づいて星蓮は振り返った。
……そして、目が合った。
青井雫と星蓮の瞳が交差する。
たった一瞬。
でも、星蓮の眼に雫の瞳が映り、雫の眼に星蓮の瞳が映った。それは刹那。 意味もないし意義もない。
ただ、映ったそれだけでよかった。
青井雫の瞳が灰色に見えた。
そして、青井雫の眼に映った星蓮の瞳は星屑が輝く闇夜に輝いていた。
ただ一人、鋭い瞳を持った者がいた。それは『間者』。
観察、思惑の妨害、守るべきもの。
その者の眼は人がするものとは到底思えない。
数多の残虐を知り、己の未熟さを呪い、己の使命に命に賭している者の瞳だ。
数え切れない後悔と死よりも辛い別れ。
誰も経験したことがない。
誰かに与えられたわけでもない。
自分の思考で自らの身で生きてきたものの瞳。
そこには絶対的な忠誠が刻まれていた。
間者は卵焼きを頬張りながら口元を歪めた。
「帰ろうぜ」
「ああ」
龍也と星蓮は席を立ち教室を出て行く。
仄華はバイトがあるからと走って先に帰っていったので、龍也と星蓮の二人きり。
一日の喧騒が落ち着きを取り戻し、黄昏が空を覆う。
赤と青のハイライトの空。
赤が勝りいずれ青が勝す。そして夜へと変わる。
冬とは時間の短さに感傷的なってしまう季節。
センチメンタルと言えば頭がよく聞こえる気がする……うん。しないな。
だから、雪でも降ってくれれば嬉しかったりする。
「そう言えば、今日だな」
龍也の呟きは確かに星蓮の耳に届いた。
「そうだな」
「あれから何年だ?」
「三年だよ」
「そうか……早いな」
「……」
それから少しの沈黙と風が吹いた。冷たい風だった。
「どこで何してんだろうな?」
「さーな」
「まあ、あの人なら大丈夫だろう」
「好きすぎだろお前」
「俺は可愛い女の子が好きだからな。あと巨乳も可」
「うるせえ変態」
「なんだとー」
それから他愛もない喧嘩でもないじゃれあいをした。それはいつも通りでやけに胸が痛かった。でも、嬉しかった。
彼の気づかいが。
星蓮に話してくれることが。
暗黙の了解。
彼の、龍也の前に暗黙は滞りもない。
彼の純心だけがあるばかり。
*
三年前に星蓮の姉、柚木桜良は突然と姿を消した。
それは唐突な出来事だった。
三年前の今日の夜、中学一年生の星蓮を家に置いて桜良はコンビニへ飲み物を買いに行き、そのまま姿をくらました。
最初は誘拐や事故の線を疑ったが、手掛かりは何も上がらず、神隠しなどと噂が広まった。
唯一の支えだったたった一人の家族の失踪に星蓮は泣き喚き、諦めずに何日も何か月も探し回った。家に入ればそのうち帰ってくるかもしれないと家に入る時間が多くなり、毎日近所の人に尋ねてはわかりきった答えに愕然としては沈黙した。
ずっとずっと信じて待っていた。
でも、そんな都合のいい未来は何処にもなく姉のいない三年が過ぎた。
数年前まで淡い期待とどうしようもない諦めが星蓮の心を凍らせ続けている。
誰もいない家は想像よりも寂しいものだ。
もう慣れた星蓮ですらこんな日には寒々しく感じる。
抑揚もなければ味気もない。モノトーンを表現するならこの家が最適である。
こんな日に家でいるのは酷く心地悪い。制服の上に黒のコートを着て、家を出る。
瑠璃色の空に薄っすらと月が浮かんでいた。満月だった。
コンビニで肉まんと水を買って腹を膨れさせる。手持ち無沙汰にふらふらと町を彷徨う。
灯りを灯す家々は光る気球のようでそこには確かに命の灯があった。
色があり形があり過去と未来がある。
明るい色で正しく個性的な形で笑顔の過去と願う未来がある。
そこに入れるほど星蓮は強くなかった。
そして、月は青かった。
そこまで大きくもない山の頂は広場のような空間が広がっている。
誰が管理しているのか草は切り揃えてあり、円状になっている頂の右側からは町の風景が一望できる。
無数の明かりが輝きを放つ。
星蓮はそれを一瞥してから斜め左のベンチが置いてある所に向かう。
ここは姉の桜良と毎年星を観に来ていた思い出の場所だ。桜良がいなくなってから毎年この日に星蓮はここに来る。まるで、姉の帰りを待つように。
「ふぅ……」
ベンチに腰を下ろし空を見上げる。
瑠璃色の空は徐々に群青色に染まりだし、北極星らしき星が一つ輝いていた。
月は白銀に青を纏い淡く光る。
それはこの世界よりも美しく、氷のような夜空だった。
やがて星々は輝きを魅せ、月が白銀よりも青をより一層強くする。
その時、世界が満ちた。
青に満ちた。
星が唸った。
空が叫んだ。
風がざわめき、ありとあらゆる光が月に発向する。
光が集結し、風が光を混ぜる。
白銀の光を青い光が包み、光はどんどん大きくなり、それは光の嵐と変わり星蓮を呑み込むほどに燦々する。
逃げなきゃ駄目だ。
こんな意味のわからない現象、何が起こるかわからない。
踵を返さないと、走り去らないと、逃げないと……
でも星蓮には出来なかった。
逃げる事も目を瞑る事も。その光景が何よりも美しかったから。
どんなものよりも不思議であったから。
心臓が高鳴り、鼓動が速くなる。鼓膜するのは風と光の音色。
冷気はどこかへ行き、感じるのは暖かな光。
やがて光と風が一斉に世界を覆った。
光が全てを呑み込み風が髪を煽る。
思わず目を閉じた。音が止み静寂が降り注ぐ。
恐る恐る目を開けると……青があった。
瑠璃色と群青色の空。
無窮の星屑。
白銀に青を纏った青い月。
その景観を背に一人の少女がいた。
腰まである白銀に青を纏った髪が風に煽られ、それは天の川のように月の光を燐光していた。
黒のローブから見える絹のような白く艶やかな白肌は雪化粧のよう。瑠璃色の瞳は宝玉のようで宇宙で生きるリゲルのよう。誰もの目を奪う美貌はどこまでも女神のよう。
そして、少女の瑠璃色の瞳と星蓮の闇夜の瞳は見つめ合っていた。
まるで、月のような少女だった。