一話 異端の少女
――『英雄』
古来より英雄とは半神半人であり、運命を覆す力を持つ勇敢な者とされてきた。
神々の子孫、精霊の一族、魔女の血縁、英雄、神の生まれ変わり。
あらゆる可能性の果てに半神半人としてこの世に生を受けた者。
その者たちは、勇気をもち恐怖に立ち向かい人々を救う偉大なる力ある英姿たち。
成し得た偉業を讃え、我らは呼ぶのだ。
『英雄』――と。
しかし、そんな中どの時代にも確かに存在する未格の可能性がいる。
その者たちは半神でもなければ、神を欺き、天を夥し、地をひっくり返すような力もなく無能に近しい存在。
それでもなお、英雄たちと共に輝いた愚者極まりない異端の無能。
英雄よりも劣る存在にして、英雄たちの誰もが瞳を輝かし憧憬を抱き奮い立たされその背中を追い求めた。
――英雄たちが憧れた英雄たちの英雄。
その者たちを神々はこう呼んだ。
『異端者』――と。
*
「はあぁ、はあぁ……」
森林をもたれる足を叱咤して走り続ける。
枝木が皮膚をかすめて赤い血が流れる。
動物の鳴き声が遠くから響き渡っていた。
「どこだァ!どこに行きやがったッ!」
屈強な男の悍しい怒声が森林を轟かせる。その数十をゆうに超えている。
男たちに見つからないように彼女は体を隠しながら遠ざかろうとする。しかし、火の明かりが彼女を照らし出した。
「いたぞォォォォ——ッ!」
けたたましい怒声が彼女を顰蹙させる。
——見つかった!
彼女は身体に鞭を打って走る……走る。
風が星屑のような黒髪を拐い、冷気が頬を凍てつかせる。
「逃がすな!追えええええ——ッ!殺せせせせせ——ッ‼」
嵐のような殺気の声音が森林を震わす。
男たちから殺意に憎悪、嫌悪が溢れ出している。
まるで彼女はこの世界に存在することすら許さないかのようだ。
鳥が一斉に羽ばたき立ち、樹々がざわめく。
「はあっはぁっ……」
——辛い苦しい、しんどい怖い。
——私はまだ死にたくない。死ぬわけにはいかない。
ただ、走る。
風を切って、土を蹴り、枝を払って、果てに走る。
男が放った風魔法が彼女の脚をかすめる。
「——っッ!」
それは彼女の動きを止めるには十分だった。疲労が限界まで溜まっている彼女の心も動きも殺す。
それでも、彼女は痛みに耐えて走るのをやめない。
「殺せ殺せ殺せええええぇぇぇぇ————ッ‼」
男たち、それはもう蛮人。そこにいるのはもはや人間とは言い難い存在のように醜い。
次々と彼女を消し去ろうと魔法を放つ。
風に氷に土の魔法。
風は疾風のように彼女を刺し、氷は氷棘で彼女を貫かんとする。土は岩に変化し彼女を潰そうと空から落ちてくる。
複雑な樹々を左へ右へとにかく走る。風は木を裸にし、氷棘は樹々を貫通して彼女を頬をかすめる。岩の振動が彼女の行く先を塞ぐ。八方塞がりで急死しかねぬ状態。
そして一人の男が放った火魔法が大地を爆ぜさせた。
爆発の衝撃によって彼女は一気に飛ばされる。
「きゃああああ——っ⁉」
体は宙を舞い、木に背中を思いっきりぶつけて地面に叩きつけられる。
「うっ……!」
あばら骨が折れた感覚が激痛になって体を走る。
「けほ……けほっ……」
口から血を吐く。それはあまりにも生々しく生きた心地がまるでしない。
体が痛い。
熱い。
焼けてしまいそうなほど、思考が回らない。
目元が熱い。
どうにか顔を上げた時、一面の木々が焼き晴れ、そこは正しく火の海になっていた。黒煙に酸素を奪われる。
息が苦しい。立ち上がろうとしても体が動かない。力が一向に入らず、死に逝くかのようだ。
——でも、私はまだ死ねない。
——死ぬわけにはいかない。
力の入らない体を根性でもち上げる。
そして……ふと、娘の声が聞こえた。
愛した夫の励ましがこだました。
言葉はわからない。彼女たちはここにはいない。幻聴、幻覚だってわかっている。
いや違う。
——これは私の記憶。
楽しかった時の辛かった時の様々な想い出。
幾千の過去が想い出が記憶が私の心に響く。
それは除夜の鐘のような綺麗な歌声。
それは夕焼けに見る海のようなさざめきの歌。
彼女は力を振り絞る。
限界を超えて、走り出す。
覚束ない足取りで先を目指す。
爆発で遠くまで飛ばされたのか、男たちの声は微かに聴こえんばかり。
樹々を目隠しに右へ左へとにかく走る。
足ががくりと折れそうになる。視界がぼやけて今にも目を瞑ってしまいそう。
だけど、彼女は走る。遠く遠くへ。
しだいに、明かりは遠ざかり、声は闇に呑まれていく。それはいつしか無言の夜闇が広がるばかり。樹々に覆われて月の光は届かず、獣の鳴き声がこの身を震えて上がらせる。
無我夢中でとにかく走った。光も明かりも道もない。この先に何があるのかもわからない。それでも走る。生きるために。
やがて、月の光が森林を縫うように刺す。光に導かれるまま走る。もう走るには足らず、歩くのもやっとの足取りで森林を抜ける。
そこは、月の光が眩く広がり、月の花が咲き誇る白き世界だった。
白銀の花は一面に綻び月光を浴びて、それはまるで銀河のよう。風が颯爽と吹き、眼を閉じた刹那、花たちが道を開けた。それはまるで私を誘っているかのように。怪しく摩訶不思議で幻想の類。これが夢なのか現実か私にはもうわからない。進むべきか否か……後ろから風に乗ってけたたましい男たちの声が聞こえる。ここにいては殺されるのも時間の問題。
——私には選択枠がない。私には生きる理由がある。私には地を蹴る意志がある。私には……私は生きる!
彼女は駆け出した。夢かも知れない。幻の方が信憑性がある。
その先が安全とも限らない。違う道を行くべきかも知れない。選択を間違えたのかも知れない。
それでも、彼女は賭けた。己の命も運命も使命も宿命も。
今この時、すべては定められた。彼女の未来が、少年と少女の未来が。
眩い白い光が広がっていく。花々は白く発光し、月は私に向けて光を導く。それはまるで光の柱。
月は白銀に青を纏い、彼女は光と共に姿を消した。
永遠の彼方へ。世界の果てへ。誰も知らない世界へ。
後に残るのは青い月と白い花々。
やがて、幻となり揺蕩う無象となり消えていった。