107 油断
腹にぽっかりと空いた風穴。
熱いと思っていた刺激は痛みへと変わり、思考速度は急激に落ち込んだ。
きっとこれが俺一人の戦いだったならば、エリクサーをまともに使うこともなくここでゲームオーバーだったはずだ。
世界は救えず、そしてセラたちと再会することもできず、俺は永遠に意識を取り戻すことはなかっただろう。
だが、いまこの場所には俺とベノム――それ以外にもう一人が確かに存在していた。いや、『一人』といっていいのかもわからないけど。
吐血し、膝から崩れ落ちる俺の頭に、パシャと液体が降り注いできた。
『すぐに態勢を整えてっ! 10秒は僕が時間を稼ぐからっ!!』
腹に穴を空けられた人に対して『10秒でなんとかしろ』とは……なんて鬼畜な神なんだろうか。
「……了解」
口の中の血を地面に吐き出し、小さく返事をする。
視線の先にいるベノムは、いつの間にか戦闘前に見たものと同じような結界に覆われていた。しかしその結界はゆらゆらと不安定で――薄い。
10秒というベノムを拘束する時間も、きっとかなり無理をして捻り出しているのだろうということがわかる。
腹の傷跡は光に包まれて絶賛治療されている最中だったが、念の為ということで俺はインベントリからエリクサーを取り出し、口の中に溢れている血と共に喉へと勢いよく流し込んだ。
これで回復が不十分になる部位はないと思う。
服の袖で口元の血を拭いながら、俺はベノムを睨みつけた。
「…………座標で攻撃場所を指定してるのか? それとも不可視のレーザーみたいな感じか?」
深く考えている時間はない。
10秒という時間はあっという間に過ぎ、ベノムは容易く結界を打ち破った。
苦しげなノアの声が頭に響くが、それを心配してやれるほど今の俺に余裕はなかった。仮にこいつに何かあったとしても、俺はなにもしてやれないし。
俺が成すべき事は、ベノムを倒す――それだけだ。
素早くインベントリから3本の上級ポーションを取り出して、親指以外の指の間にそれぞれを挟み込む。
「初見の攻撃とはいえ、全く対応できないとはな」
まずは解析だ。
敵の攻撃を正しく理解することが勝利を掴むには不可欠である。
ベノムが再び瞼を下ろし始めたのを確認した俺は、横に向かって全力疾走。そして瓶の中に入った液体を散らしながら、ベノムが目を開くタイミングを予測して、斜め上に跳んだ。
すると、ちょうど俺が跳ぶために脚を踏み切った位置の液体がぽっかりと消失した。
新たにインベントリからポーションの入った瓶を取り出しながら着地。再びベノムを中心として円を描くように走る。
「瞼を閉じ始めた時にいた場所のポーションが消えてくれたら随分と楽だったんだがな。さすがにそんな簡単なわけないか」
次は身体を地面に這いつくばらせて回避。確認したのは、この攻撃がベノムの視線の延長線全てに影響するのか、それともピンポイントで指定されているのか――ということだ。
これに関しては、後者。
つまり新たなベノムの攻撃範囲は、だいたい自分と同じ体積を持っているということだ。これならばまだ、色々とやりようはある。
この攻撃が発動するまでは結構隙ができているし、ベノムに俺の動きを完全に予測されることがなければ大丈夫。同じ動きを二度しなければ問題ないだろう。
「短期で決めなきゃな」
とはいえ、回避行動の選択肢は無限にあるわけではない。
俺の中で選択肢が底を付いた時、残りは運との戦いになってしまう。俺の回避先を、ベノムが当てることができるか。100通りの回避行動の種類があったとしても、それを出し切ってしまえばベノムが攻撃をするたびに1パーセントで死ぬのだから。
というわけで、
「攻め、あるのみっ!」
グッ――と地面を勢いよく踏み、全力で前へ。
ベノムから放たれる十を超える火の弾丸をすんでのところで躱しつつ、懐へと潜り込む。半月を描くように、俺は全力で白蓮を振るった。
――が、
「――っち、まじかよ」
俺の攻撃がベノムにダメージを与えることは無かった。
ガラスのような六角形の障壁が、ヴン――という音と共にベノムの前に出現し、俺の攻撃を阻む。
幸い、一撃でその障壁は破壊できたものの、完全に攻撃の勢いは殺されてしまっていた。白蓮の全力でギリギリ破壊できるということは、魔法での破壊は難しいだろう。
ベノムから距離を取り、敵に狙いを定められないように再び走る。
あの攻撃が当たらないとなると、敵の予測できない攻撃をするか――もしくは強烈な攻撃を二連続で繰り出すか。
両者ともに成功すれば、白蓮の効果である『白煌』をいかんなく発揮できるが。
そんなことを考えていると、ベノムの身体がブレ始めた。
俺の視界に映る他のモノは普通に見えているのに、ベノムだけがブレて見える――つまりコレは、
「ここで幻覚かよ……キッついな」
ブレは徐々に大きくなり、そしてやがて完全に二つの個体ができあがった。片方のベノムは身体がやや透けている――幻覚魔法とはいうが、事実上は分身だ。
幻覚のほうのベノムが、ゆっくりと瞼を下ろしはじめる。
俺はそれを確認してすぐに方向転換。逆回りに走り始めた。
すると、ズン――っと急に身体が重くなる。
「重力魔法とコンボとか、やめて、ほしいんだがっ!!」
再び走る方向を変更。ベノムが目を見開いたと同時、左耳の上部に痛みが襲ってきた。痛みを感じた場所を手で確認したところ、見事に無くなっている。ドロっとした切り口の感触が手に残った。
「――つぅ……クソ痛ぇ……」
痛いが、この耳はしばらくの間放置するしかない。エリクサーは時間制限で使えないし、そもそもこれしきの傷でポーションを使っていては、キリがない。
アドレナリンを頼りにして、本体に向かって駆け出す。
あの身体を削り取る魔法がある以上、どちらのベノムからも一瞬たりとも目を逸らせない。動き始めを確認しておかないと、こちらの対応が遅れてしまうからだ。
両者から放たれる数々の魔法、そして時折重力魔法を加えてくるが、これぐらいならばゲームの中で何度も経験した。
俺は走りながらインベントリから赤刀を取り出し、左手で握る。
接近し、そして赤刀をベノムに向かって振るうと――想定通り障壁を破壊することもできずに弾かれた。
「こっちはどうだっ!?」
正面から放たれる岩の弾丸を紙一重で回避し、ノータイムで障壁が展開されていない場所を狙い、白蓮を振るう。
たとえ障壁が複数展開できたとしても、間に合うまい。俺の攻撃はしっかりとベノムの眼球に切り傷を与えた。
眼球だけの身体をしているが、ベノムは確かに怯んでいることがわかる。
ここが勝負どころだろっ!
「うぉおおあああああっ!!」
切る、切る、切る、切る、切る――!
抗う敵の攻撃を交わしながら、両方の腕を限界の力で振るう、そして叫ぶ。この勝負にさえ耐えてくれたら、あとはちぎれてしまっても構わない。それぐらいの気持ちで赤と白の刀を振り続けた。
勝ちたい――負けたくない――!
「終われっ!」
身体が小さくなった影響の一つなのか、ベノムは少し打たれ弱くなっているように感じた。体積に対する傷口の大きさが、ゲームの中と段違いだからだろうか。
なんにせよ、願ってもない好機である。
「――終われっ!!」
幻覚のほうのベノムが重力魔法を仕掛けてくるが、無視。
俺は陥没する地面を気にもとめずに、ただ目の前の本体を切りつけ続ける。この勝負が、この痛みが、この壊れた世界が早く終わるようにと願いながら。
攻撃の最中、脇腹の肉を抉られるがそれも歯を食いしばって耐える。ここで引くわけにはいかない。
どれだけ身体を壊されようと、もう下がることはできなくなった。きっとこの身体では、持久戦に持ち込むことはできない。
いま、この時に勝負を終わらせなければならないっ!!
「負けて、たまるかぁあああああっ!!」
歯を食いしばった時に出た血なのか、脇腹の傷が影響しているのかはわからないが、口の中には鉄の味が広がっている。
口の端から血を流しながら、俺はまるで壊れた人形のように刀をひたすらに振るい続けた。
そして――。
ゴロゴロ、とベノムの目玉が地面に転がる。
それと同時に、幻覚のもう一体は霧となって空気の中に溶けていった。
ベノムの視点は合っておらず、俺とは全く別の方向を向いて転がっている。少し離れたところから、放出魔法、そして重力魔法を使用してみるが、完全に無抵抗だった。
ゆっくりとベノムの瞼が下りていく。
「……終わった――か?」
肩で息をしながら呟き、俺はインベントリから上級ポーションを取り出して傷ついた部位に振りかけ、最後に胃にも流し込む。
もちろん、まだ油断はしていない。
ゲームだと地に転がった時点で消滅していたが、今のこいつはまだ姿形を保っている。
「ノア、お前は生きてるか?」
視線をベノムに向けたまま空に向かって問いかけると、瞼を下ろしたベノムの前にすぅっとノアが姿を現した。
身体の半分ぐらいが変色してしまっていた彼女だが、現在は八割ほどにまで及んでいる。かなり無理をしたらしい。
「……大丈夫だよ。ちょっと休めば、徐々に回復すると思うから」
「じゃあ寝とけ寝とけ。どうせ新しく世界を創るのに、めいいっぱい力が必要なんだろ?」
「まぁね。それにしても、君はやっぱりすごいよ。人の身でありながら破壊神を倒してしまうなんて」
黒ずんだ顔で、はにかみながらノアが言う。
「俺が人間じゃないみたいな言い方するなよ」
「ふふっ、褒めてるだけだよ。君は本当にすごい――間違いなく、君はこの世界の頂点だ」
「そりゃどうも」
嬉しいことを言ってくれる。
といってもベノムを倒した今、この世界には俺とノアしかいないんだがな。
そう思いながら地面に転がるベノムに再び視線を向けると、本当に僅かに、ピクリと瞼が動いた。ベノムの身体は、ノアがいるほうを向いている。
油断した。
ずっとソロでベノムと戦ってきた記憶が――そしてベノムの身体が別方向に向いていることが――自分に危険はないと判断を下してしまっていた。
たとえまだベノムが生きており、動き出し、攻撃をしかけてきたとしても、自分の身は守ることができると確信してしまっていた。
「――っ!? 逃げろっ!!」
焦って声を上げる。気づけば俺は地面を蹴っていた。
冷静になって考えたら、ベノムのあの攻撃ぐらいならばノアは耐えることができただろう。ホログラムのように、実はノアは実体を持っていなかったという可能性だってある。神様だし。
そうでなくとも、俺がベノムをサッカーボールのように蹴り飛ばしでもすれば、なんとかなっていたはずだ。
だがパニックになった俺は白蓮と赤刀を投げ捨てて、彼女を突き飛ばすことを選択していた。彼女を助けることを、無意識に選んでいた。
伸ばした右手が彼女の左肩を強く押す。
吹き飛ばされながら、目を見開き、驚いた表情でこちらを見るノア。
全ての景色が、スローモーションのように見える。
俺は地に足を付けていない状態で、顔を横に向けた。
するとそこには、目を開ききる直前のベノムの姿があった。