地下深くに
人類は大いに進歩を遂げた。
昔と比べて様々なことが早く、そして確実に行えるようになっている。
遠くの人物と意思疎通が取れる。
呟いた一言が全世界の人間に閲覧される。
宇宙にある人工衛星から地表のほぼすべてを確認できる。
神が創りしこの世界に、もはや神は不必要なものとなった。
それは八百万の神がいるとされる、この日本でも同様だ。
しかし、不要になったからと言って、消えてなくなる訳ではない。
神、および神と同一視される怪異は、今もなお陰ながら存在し続けている。
そして、それに対抗するために存在する魔術師もまた、現代に息づいていた。
互いに忘れ去られた者同士。
それでも人類史の陰で何度もぶつかり合い、命を散らしている。
そんな折、勃発したのが怪異大戦と呼ばれる戦争だ。
怪異が自らの存在を誇示するように、幾千幾万の軍勢となって押し寄せた。
魔術師は受けて立ち、夥しい犠牲を払いながら、これになんとか勝利する。
その決着がついたのが、数ヶ月前のこと。
そして、この日付は俺が――魔術師の勝利を決定づけた功労者であるはずの音間帳が、地下深くの牢獄に幽閉された日でもあった。
「とても牢獄とは思えませんね」
日の光の届かない、じめじめとした牢獄のまえに一人の少女が現れる。
そう歳の変わらない、少女。
両肩をすこし過ぎる程度の長めな髪を揺らして、鉄格子のまえにやってくる。
「洋菓子。テーブル。ソファー。テレビ。ラジオ。絵画。絨毯に、シャンデリア。いったい何処から持ち込んだんですか?」
「答えるまでもなく、知ってるんだろ? こんな所にくるってことはさ」
彼女の質問にそう返して、食べかけのショートケーキを平らげる。
「……唯識。事実を改竄する、神殺しの魔術」
「ご名答」
手をかるく叩いて、カップを手に取る。
湯気の立つ紅茶を飲み干し、空になったそれをテーブルにおいた。
「それで? 俺になんの用だ?」
だいたいの予想を浮かべつつ、そう訪ねる。
「貴方をこの牢獄から連れ出しに来ました」
返答は、想定の範囲内にあるものだった。
「へぇー」
そう気のない返事をしつつ、足下の箱に入った砂を握る。
「そいつはまた、どうして?」
握り込んだ砂を、空になったカップに流し込む。
そして縁をかるく指で叩くと、砂は湯気のたつ紅茶へと改竄された。
「その魔術が必要だからです」
「そいつは知ってる」
そう言って、紅茶を一息に煽った。
「ふぅ……自慢じゃないが、今まで何人もの魔術師が、同じ目的で秘密裏に会いに来てるんだ。ここから出してやる。名誉をやる。将来を約束する。そんな言葉を添えてな」
捨てる神あれば拾う神あり。
唯識魔術を恐れて投獄する者もいれば、利用しようと牢獄から出そうとする者もいる。
魔術師も一枚岩ではない。
「だが俺は一度、魔術師たちに裏切られている。この唯識魔術を恐れるが故に、無実の罪を着せられて、こんな穴蔵に押し込められた。そんな魔術師の口から出た甘言なんて、素直に信じられる訳がないよな?」
魔術師は魔術師だ。
俺を裏切った連中と同類であることに変わりはない。
だから、すべて断った。
追い返した。
今回もそうなるだろう。
「どうせ裏切るなら。裏切られるなら。ずっとこの穴蔵にいたほうがマシだ。幸い、不自由はないからな、ここでも」
必要なものは、その辺にある砂を改竄すれば調達できる。
砂がなくなったら壁でも削るとしよう。
この唯識魔術でもゼロから一は創れない。
「貴方の境遇は理解しています。ですが、それでも私たちには貴方が必要なんです」
遠回しに帰れと言ったつもりだったが、どうやら伝わらなかったらしい。
いや、伝わった上で、それを無視しているのか。
「そう言えば、用途をまだ聞いてなかったな。言ってみなよ、聞くだけ聞くぜ。暇つぶしに」
その言葉に彼女は眉をひそめたが、深く息を吐いて、それから話し始める。
「先日、私の妹が目を覚まさなくなりました」
「ほー、ずっと眠っているってことか? それとも――」
「その通りです」
死んだのか。
そう言おうとして、だがそれよりも先に彼女が言葉をかぶせた。
まるで、否定でもするように。
「妹は怪異によって、夢の世界に捕らわれてしまいました」
夢の世界に捕らわれた、か。
人が睡眠時にみる、文字通りの夢。
明晰夢をずっと見ている、と言ったところか。
「なるほど。その症状を見るに、怪異の正体は夢魔ってところか」
人に悪夢を見せることで生じる負の感情。
それを喰らって生きる偏食家の怪異だ。
「夢魔は夢魔ですが。ただの夢魔ではありません。その変異種です」
「変異種……ね」
突然変異による、既存の怪異よりも数段ほど複雑化した怪異。
強さも、耐久も、跳ね上がる厄介な奴ら。
先の怪異大戦でも、何度か戦った相手だ。
「その夢魔は捕らえた人間の夢を繋ぎ合わせて、一つの世界を創り出しました。妹はその世界に行ってから、もう数日帰ってきていません。恐らく……」
そこで、彼女は言いよどむ。
口にしたくないと、心が拒んだように。
「恐らく?」
そう促す。
「……恐らく、妹はすでに――」
彼女は告げる。
決して口にしたくはない言葉を。
「――死亡、しています」
死亡している。
死んでいる。
夢の世界で殺された。
だから、現実に帰ってこない。
「たしかか?」
「生きていれば生還しているはずです。夢の世界にいられる時間は限られていますから。生き残ることさえ出来れば、毎朝かならず目覚めているはずです」
「なるほどな」
夢魔の変異種。
夢と夢を繋げて一つの世界を創り出した、いわば創造主。
その夢の世界に限れば、その夢魔は神にも等しい存在だ。
神が創りし世界。
だから、神殺しと呼ばれた俺を必要とした。
「事情はわかった。不運だったな。同情するよ」
心の底から、そう思う。
「だが、俺には関係ない」
見ず知らずの誰かの妹のことなんて知ったことじゃあない。
気の毒には思うが、手を貸してやる気には、とてもならない。
「……なにをすれば、協力してくれますか?」
「なにをしても協力はしない。あんたは魔術師だ。魔術師は信用ならない。信じられない。どうせまた裏切られるなら、最初から関わらないほうがいい」
「私は貴方を裏切りません」
「言葉でなら、どうとでも言える。その場しのぎの言葉で俺が頷くと思うな」
もう裏切られるのは、うんざりだ。
反吐が出る。
あんな思いをするくらいなら、誰とも関わらなくていい。
俺は一生一人で十分だ。
「……そうですか。わかりました」
ようやく理解したのかと、そう思った。
だが、彼女は諦めてなどいなかった。
「なにを、してる?」
彼女は鉄格子のまえで跪く。
頭を垂れる。
「我が身を授け――」
それは、自らを貶める行為。
「我が術を授け――」
それは、人としての尊厳を捨てる愚行。
「すべてを捧げる」
それは、一切を擲つ隷属の魔術。
「自分が、なにをしているのか。わかっているのか?」
この魔術が成立すれば、奴隷に成り下がるも同然だ。
自分の意思では何も望めず、何も出来ない。
すべての行為に許可が必要になる。
それは、そんな最悪の魔術だ。
「これで私は貴方を裏切りません。裏切れません」
「そんなことの証明のために……自分の人生を棒に振るのか」
「それで妹が助かるなら」
その決意は、本物だった。
嘘偽りが存在する余地はない。
今現在、俺の意思一つで彼女は人間から、それ以下に墜ちる。
それほどの覚悟が、彼女にはある。
「さぁ、その紋章に魔力を流してください」
俺の正面に、隷属の紋章が現れる。
これに魔力を憶えさせれば、それはそのまま彼女を縛る烙印となる。
「――はっ、はははっ、あははははははっ!」
紋章をまえに、思わず笑ってしまう。
あまりに予想外で、あまりに想定外で、あまりに馬鹿げている。
まさか、ここまでする奴が現れるなんて思いもしなかった。
だから、気に入った。
「いいぜ。あんたに協力する。ただし――」
俺は手の甲で払うように、紋章をかき消した。
「その覚悟だけで十分だ。俺に奴隷は必要ない」
立ち上がり、テーブルを迂回して、鉄格子のまえに立つ。
「あんた、名前は?」
「……織辺凜です」
「そうか」
鉄格子に手を伸ばし、掴み、ただの砂へと改竄する。
牢獄を仕切るものは何もなくなり、砂山となった敷居を跨ぐ。
俺は自分の意思で、この牢を出た。
「それじゃあ行こうか、凜。その妹を助けに」
そう言ってやると、戸惑ったように凜は口を開く。
「協力、してくれるんですか?」
その言葉に、また笑いそうになる。
「あぁ、そう言ったつもりだ」
今度はうまく伝わらなかったらしい。
「――はい! 行きましょう」
ここに来て、はじめて凜の表情が明るくなった。
それは幼い子供のようで、先ほどまでの落ち着いた雰囲気とは違っている。
大人びているように見えたが、案外、子供っぽいところが垣間見えた。
とにもかくにも、こうして俺は牢獄を出る。
凜の覚悟を知って、もう一度、魔術師を信じてみることにした。
この判断は正解だ。
そう思える未来を望みながら、俺たちは地上へと続く階段を駆け上った。
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