鈴村さん
私は鈴村さんが嫌いだった。
鈴村さんは恋愛に関して見境のない人らしかった。気になった男子がいれば、恋人がいようがいまいが、いきなり告白をして、その男子とキスをするまでは絶対にあきらめない、という噂だった。
そんな噂が立っているのを、鈴村さん本人すらも知っていた。知っていて、否定をすることもなければ、優しくしてくれる男子と一緒に、どこかへ消えていくこともよくあった。だから、たぶん噂は本当なのだと、クラスの女子の注目を集める人だった。
鈴村さんは、カワイイではなくて、かわいらしいというのが似合う、とても端正な顔立ちをした女子だった。そんな女の子にキスをされるかもしれないとなれば、付き合っている女子のいる男子でもどぎまぎしてしまうんだ、と、私の彼氏から聞いた。それなら、鈴村さんに迫られたらあなたもキスするの、と聞いてみたら、もちろんする、と答えたから、思いきり平手打ちをしておいた。その時から、私は鈴村さんが嫌いになった。鈴村さんだけでなく、私より美人だと思える女子全員が嫌いになったけど、鈴村さんはその中でも別格で嫌いだった。
鈴村さんに向かって、私の彼氏のことを好きにならないでほしい、と、毎日呪うように念じた。あんまり毎日呪うものだから、そのうち呪いの文句が少しずつ変わっていった。一度だけ、死んでしまえばいいと呪ったことがあって、その時はさすがに反省した。鈴村さんの話はあくまで噂で、実際に彼氏を取られたという女子や、キスをされたと吹聴する男子は、一人もいないのが現状だった。それなのに、鈴村さんに酷いことが起きればいいと呪った自分が恥ずかしかった。
反省はしたけれど、それで鈴村さんのことを好きになることはなかった。鈴村さんと授業の班になることがあっても無視した。悲しそうに顔を歪ませる鈴村さんを、いい気味だと思った。
たぶん、クラスの女子全員が同じようなことを考えて、同じように鈴村さんのことを無視した。鈴村さんは男子と話すことが多くなった。そして、男子と一緒にどこかへ消える回数も増えた。
いよいよ、鈴村さんはキス魔だと、男子すらも噂をし始めた。鈴村さんに優しくすれば、お礼にキスをしてもらえるという噂だ。そんな噂が流れれば、当然男子は鈴村さんを放っておかない。彼女のいない男子はもちろん、付き合っている人がいるはずの男子まで、掃除当番を変わったり、購買部まで使いっ走りをしたり、いろいろな手段で鈴村さんに尽くしはじめた。男子が鼻息を荒くして話しかけると、鈴村さんがいっそう曇った表情になるのを、クラス中で気づかないふりをしていた。
そんな日は、長くは続かない。
意外なことに、このクラスの担任は、女子からは無視されて、男子からは奉仕される、という鈴村さんの異常な境遇を、見て見ぬふりをする先生ではなかった。ある日の放課後、異例のロングホームルームが開かれた。
今日、先生は少しお前たちに話がある。部活に行きたいやつも予定が入っているやつも、ちょっと帰るのを待ってくれ。
いつもにこやかな担任がうつむいているのを見て、クラスの誰もが、鈴村さんに関しての話だとうすうす気づいた。全員が鈴村さんの方を見た。鈴村さんは顔を真っ赤にしていた。
きっと、今日、話があることを、鈴村さんだけは先に知っていたのだ。担任が鈴村さんに先に伝えていたのか、それとも鈴村さんが担任に相談をしたからなのかはわからない。重要なのは、鈴村さんが先に知っていながら、会が開かれることを止めなかったということだった。それはつまり、鈴村さんが今の状況を好ましく思っていないという証拠だった。
その時になって、はじめて私の心の中に、いじめ、の三文字が浮かんだ。そうか、私は鈴村さんをいじめていたんだ。
残忍な喜びが私の中にあふれた。
はっきりと理解した。嫌いだからいじめた。いじめられた鈴村さんは苦しんだ。嫌いな人を苦しめることが出来た。だから嬉しいのだった。もっと鈴村さんが苦しめばいいと、今度こそ恥ずかしげもなく思った。
鈴村さんは担任に呼ばれて、教卓の横に立った。恥ずかしさに紅潮している顔は、どこまでも守ってあげたくなるような愛くるしさがある。それでいて、表情は苦痛と恐怖に歪んでいる。泣き出してほしいと思った。惨めたらしく涙をこぼして、いじめないでください、と嘆願してほしいと切実に思った。それを、思いきりクラス中で嘲ってやりたかった。隣に座っている女子をちらりとみると、目を爛々と燃やしていた。その向こうの女子は拳を握りしめていた。みんな、同じことを思っているのだと、はっきりとわかった。
担任がなにか言っていた。きっと、鈴村さんを取り巻く状況が正確にどういうものなのかを知りたい、などと、浮ついたことを言っているに違いなかった。何度も何度も問い返し、次第に語気が荒くなっていっても、案の定、誰も発言などしなかった。恥ずかしい思いをするのは鈴村さんだけでいいのだ。鈴村さんが自分のいじめのことを自分で担任に説明する、そのやるせない姿が見たかった。担任が黒板を叩いても、教卓を蹴りあげても、一番前の生徒の胸ぐらをつかんでも、状況は全く変わらなかった。
どうして男子すらも発言をしないのか、はっきりとした理由は分からなかった。きっと、かわいらしい鈴村さんがみんなの前で立たされて、細かく震えながら紅顔を歪ませる姿は、男子にとっても見続けていたいものだったのだと思った。もともと、鈴村さんのことが好きでキスをされたかった男子など、一人もいなかったのだ。
担任だけが怒鳴り散らす時間が三十分ほども続いて、ついに息切れした先生が、どうしようもなくなって鈴村さんを見た。鈴村さんはこくんとうつむいて、先生の手を引いて教室を出ていった。教室の扉を閉める音はあくまで静かだった。鈴村さんがいなくなった教室は、突然空気が抜けたように緊張感がなくなった。クラスメイト全員がへらへらと薄ら笑いを浮かべて、隣の席の人と目配せしていた。
なあ、鈴村やばかったな。あれはえろい。俺鈴村のこと好きになったわ。キスされてえー。はっはは、うける。男子の下品なつぶやきが聞こえる。女子が周りで下卑た笑い声を上げる。鈴村さん震えてたね。顔真っ赤だった。今度は先生とキスしに行ったのかな。なにそれやばい。
鈴村さんへの同情や悔恨の言葉なんて一言もなかった。私だってそんな思いは欠片も浮かばなかった。もう私たちは知ってしまったのだ。鈴村さんをいじめることで味わえるどす黒い甘さ。鈴村さんが苦しむことで奏でられる悪魔の音楽。鈴村さんがどこまで堕ちれば、私たちの心にもっと汚れた色が塗りたくられるのか、早く知りたくて仕方がなかった。
誰かが、鈴村さんのさ、と口火を切った。
鈴村さんの髪の毛をさ、一度、鞄に引っかけて、引っ張っちゃったことあるんだよね。すごく小さい声で、痛い、って言うの。でも、無視したら、痛いよ、って言うの。引っかかったまま、歩き出そうとしたら、待って、って言うの。それで、絡まった髪の毛をほどこうとして、ついてくるの。待って、って言うの。ふふ、とても、かわいらしい声で、待って。痛い。待って。って言うの。
声ははじめは小さく、だんだん大きくなって、最後にはクラス中に聞こえた。クラスの誰もが、待って。痛い。待って。と言う鈴村さんを想像した。痛みをこらえる鈴村さんの顔は、どのように歪むのだろう。さっきの歪み方と、どう違うのだろう。各々想像した鈴村さんは、なべて等しくかわいらしい鈴村さんのままだった。クラス全員が興奮に身を焦がした。鈴村さんにどんな酷いことをしたいか、ぶつぶつとつぶやき始める女子がいれば、それをすぐにでも実行したいとばかりに手を蠢かせる男子がいた。その男子は、そのまま前の女子の頭を両手で鷲づかみにして、無理矢理向きを変えさせると、唇から眉間にかけてべろりと舌で舐めた。舐められた女子が出した奇声は、悲鳴というより甲高い笑いだった。けたたましい笑い声が尾を引いて続くと、まるでその愉快さが伝染したかのように、私の腹の底からも笑いがこみ上げてきた。我慢しようと思ったが、そのうち抑えつけようとしても無理だと悟った。ただ、喉の力を緩めると、口から飛びだしてきたのは笑い声ではなくて吐瀉物だった。机にべっとりと広がった薄黄色のそれを、横から伸びてきた手がかき集めてすくう。手は、そのままそれを私の制服になすりつけて、ついでに胸を揉みはじめた。こそばゆさに恍惚となって、お腹の方からもう一度こみ上げてきたものを、今度は拒もうなんて考えられなかった。
嬌声を上げたのは、この私だったろうか、それとも他の女子だったろうか。私はベトベトの床にいつの間にか座りこんでいて、男子のベルトをゆるめながら涎を垂らしている。手に持ったベルトのバックルが震えてカチカチと音を立てる。その男子は、私がゆるめたベルトをズボンから引き抜いて、両手に持つと私の首に巻きつける。息が出来なくなる。視界の色が赤と黒しかなくなる。鈴村、鈴村、とつぶやく声が聞こえる。首を絞められているのは鈴村さんなのか、と思う。もっと絞めて、と鈴村さんに言ってほしいな、と思ったら、私の口が、もっと絞めて、と動いた。巻きついたベルトのバックルが震えてカチカチと音を立てる。目の前で男子のズボンがずり落ちる。誰かが私の髪を引きずる。首を絞めている男子もろとも後ろに引きずられてゆく。ふと、息が吸えることに気づく。ベルトを緩めるなんて。もうこの男子はいらない。足を振りあげる。ちょうど爪先が鳩尾に当たる。男子が血を吐く。教室中に笑い声が爆発する。首にかかったままのベルトのバックルが震えてカチカチと音を立てる。
教室のドアが開け放たれて、全員が動きを止めた。うつろな目で見上げる。担任がクラスの現状を目の当たりにして、蒼白になっているのが見えた。
その脇を、鈴村さんがすり抜けて教室に入ってきた。制服を裂かれた女子を見ても、教卓にはりつけにされた男子を見ても、鈴村さんは表情一つ変えない。
教室を出ていった時と同じ、紅潮して歪んだ顔で。
「楽しいでしょ」
鈴村さんが言った。