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鉄パイプ屍食冒険記  作者: 美凪
死と始まりのコンテクスト
5/7

ユーカティリスの場合#2

 時間を少々遡る。

 午後十一時すぎ。ヴィオールが自室で報告書と格闘を繰り広げている最中のことである。


 ユーカはいよいよ自身の研究の成果を試す時が来た、と心を踊らせていた。

 それと同時に彼女を極度の興奮状態へと上り詰めさせていたのは、ルーシュテルの「家宝」を無断で拝借していることへの背徳心であった。

 ユーカは変わり者だが、非常識な女ではない。

 普段の彼女ならば家宝を勝手に持ちだそうなどとは考えもしなかっただろうが、この時ばかりは別だった。

 なにしろ、彼女が尊敬してやまない曽祖父のヴィットリヨさえ届かなかった未知の領域に足を踏み入れようとしているのだ。

 飽くなき研究心が。好奇心が。

 麻薬と化してユーカの脳を満たす。ありていに言って、彼女の精神は普通ではなかった。

 その日以前から父や家令、その他の使用人の動向をつぶさに調べあげて隙を見出すまでの周到さを発揮し、ようやく手にしたその家宝。誰もが寝静まった夜半すぎの地下室にて、ユーカは真紅の輝きに恍惚とした笑みを浮かべていた。

 火にかざせば、透明度は低いことがわかる。何も知らなければ、誰もが無価値な宝石の出来損ないだと思うことだろう。だが、それは正当な評価ではない。むしろ年頃の子女が喜んでむしゃぶりつく宝石の類など、その"石"に比べればいかにも取るに足らない卑近なものであると言えた。


「ふ、ふふ……」


 自然と怪しげな笑みが溢れる。

 ――賢者の(エリクシール)


 錬金術は「退廃」、「再生」、「成熟」の三つの行程によって物質を変化させ、霊威を高める、あるいは意図的に下げてあらゆる物質の作成を試みる極意である。

 理論上あらゆる物質の錬成が可能な錬金術であるが、実際にはそう単純でもない。物質にはカテゴリが存在し、霊威のほかに素材にする物質の種類によって作成できるものは異なる等、一筋縄ではいかない要素は枚挙するにも余りある。


 しかし、賢者の石はそういった錬金術の「常識」から外れた、まさに至高と呼ぶべき物質である。

 秘めた霊威はあらゆる物質を凌ぎ、あまたのカテゴリの要素を内包している。――つまり、賢者の石を用いれば意のままにあらゆる物質をセオリーを無視して作り出すことができるというのだ。

 金であろうが白金(プラチナ)であろうが、黄金銅(オーリキャルク)であろうが思いのままだ。

 もっとも、賢者の石でもって錬金術士が私欲を満たした、という話は伝えられていない。

 賢者の石は唯一にして至高。そもそもそれを作り出すことのできる腕があるのなら、それ以外の物質を作り出すことに関してはそう難しくもないはず。錬金術士にとって賢者の石は目指すべき頂そのものであり、その先には何も存在しないのである――。


 閑話休題。


 その伝説的至宝である賢者の石が、なぜユーカの手に握られているのか。

 話は至極単純である。歴史上数名存在するとされる賢者の石の作成者の中に、初代ルーシュテルもまた含まれていたからだ。

 初代によって錬成された賢者の石は長らくその存在を秘匿され、代々家宝として伝えられてきた。実のところ、ルーシュテル家が賢者の石を隠し受け継いでいるという事実は、主筋たる王家にすら伏せられている。

 平和を尊ぶ現王の治世を思えばあり得べからぬことであろうが、賢者の石は戦乱を呼ぶ災禍の種ともなりうる。錬金術士にとっては極めるべき「頂点」でしかない賢者の石も、悪意と野望を秘めた連中にとっては己の欲望を満たすための協力な一助となりうる道具。それが世の平和を乱す起因にならない保証など存在しないのだ。

 悪しき者に利用されることを恐れた初代のもと、賢者の石は今日この時を迎えるまでルーシュテル家の隠し金庫の中で眠っていたのだ。――それを見つけ出して無断で持ち出し、我欲を満たさんとしている今のユーカの姿を思えば、初代の危惧は「考えすぎ」ではなかったと改めて思い知らされる。しかし彼もまさか、自ら定めた禁が身内によって破られる日が来ようとは夢にも思っていなかったことだろう。


 賢者の石は人を狂わせる。

 過去に賢者の石をつくりだした錬金術士たちも、自らの「夢」が人を狂わせることを恐れた。

 だからこそ賢者の石は「伝説」なのだ。初代ルーシュテルは「例外」ではない。彼と同じく賢者の石をつくりだした者達は、夢から醒めた瞬間に恐ろしさに駆られ、石の存在を秘匿したのである。

 歴史に名を残す錬金術士たちはあくまでも「賢者の石をつくったと"される"」人間であり、石が本当に存在した事実はほんの一握りの人間にしか知らされなかった。その数少ない人々が秘密を守りぬいているからこそ、賢者の石で世が乱されるようなことが起こっていない。これはほとんど奇跡のようなものだ。

 ――だから、この危うい禁忌が侵されるのは、時間の問題だったのだ。


「フフ、さてと、準備を始めようかしらぁ」


 自分の成功を信じて疑わないユーカは、誰に聞かせるでもなくひとり呟くと、ひとつひとつ確かめるかのように慎重に準備を行った。

 彼女が今宵行おうとしているのは人形操作術(ゴーレマンシー)だった。

 死霊術にはいくつかのカテゴリがあるが、人形操作術はそのうちのひとつ。これは簡単に言ってしまえば、「召喚した死霊を無生物の体に宿らせ、使役する」というものである。

 この場合に依代として使用される器が無生物でなければならない理由は、死霊が生物の肉体と拒絶反応を起こすからだ。生者に死霊を取り憑かせるようなことは出来ないし、別の死体に宿らせるということも出来ない。

 これは原則として、同じ肉体にふたつの魂が入り込むことが出来ないためだ。生者はともかく死体でも拒絶反応が起こるのは、それはたとえ死して魂が潰えたとしても、その残滓が器であった肉体に残されているからである。事実、死霊術の中にはこの残滓を利用し、動死体(ゾンビ)として操る類の術も含まれている。


 ――さて、死霊術には「絶対に到達不可能である」と言われ続けてきた領域が存在する。それは「死霊を完全な姿でこの世に蘇らせる」ことであり、それこそがユーカが挑まんとしている領域だ。

 ユーカは死霊術の中でもとりわけ人形操作術に長けているが、やはり人体と無生物の体ではワケが違う。魂の残りカスを利用して生み出した動死体は、むろん知性や技術などは有していない。ただある程度自動化された木偶人形に過ぎないのである。

 どちらも本来死する前の「生物」が有していたスペックを十分に発揮することは出来ない。ユーカはそのことが不満で仕方がなかった。だから、死霊が十全にその力を発揮するための術を求め、研究を行ってきたのだ。

 第一に死霊を「本人の肉体」に戻そうと試みたが、うまくいかなかった。

 そもそも、それがうまくいっていれば、ユーカがそれなりに長い時間をかけて今宵の「結論」に至ることはなかったはずである。

 苦労して呼び出した「特定個人」の死霊は、元の体に戻ることは出来なかった。それどころか、別の肉体に宿らせようとした時以上の拒絶反応を見せた。その様子を観察していたユーカは、その反応が「理屈」によって起こったものではないと判断した。そこにはどうやっても越えることの出来ない「壁」が存在していたのである。

 それが死霊術における「禁忌」。神が人間に許さなかった行為である。人間が人間であるかぎり、越えることの出来ない絶対的なライン。

 世の中には人体の欠損すら直してしまう薬や魔術や法術が存在しているが、どの魔術のカテゴリでさえも等しく「生命の創造」、および「死者の蘇生」といった行為について、「禁忌」が設定されている。

 つまるところ、「完全な状態の死霊を作り出す」ことは「擬似的な死者の蘇生」として判断されたのだ。こうなってしまえば、ユーカにはどうすることも出来ない。技術如何でどうにか出来るレベルの話ではないからだ。


 ならば、どうするか。

 第一の実験で躓いたユーカは貴族の令嬢としての春―― 社交界デビュー等を丸ごと棒に振り、ついにその発想へと辿り着く。


 人体がダメならば、限りなくホンモノに近い「偽物」を作ればいいじゃなーい、と。


 ここで再び人形操作術について触れようと思う。

 これがどういう術であるかは先に触れたとおりであるが、人形操作術は術者の腕前以上に依代とする物質にその機能を左右されやすい。

 ここで述べる依代はふたつに分けられる。

 一つ目は「骨格(ボディ)」。「体構造」とも呼び習わされるこれは、つまるところ人形としての体のことである。無生物であれば限定条件は少なく、極端に言えば紙や土などで作られていても構わないし、ヒトの形を模していなくとも構わない。むろん、しっかりとしたつくりであればあるほどヒトとしての動きが再現しやすいので、元々人間である死霊には都合が良いことになる。

 二つ目は「(コア)」。核は人間で言う心臓にあたり、また同時に脳にもあたる。実際に死霊が宿るのはこの核であり、万が一これが破壊されるようなことがあった場合、たとえ骨格が無傷でも人形の機能は失われることになる。

 死霊は核を通して無生物の体に命令を下している。核が命令を下し、実際に体が動くというプロセスにはラグが伴い、そのラグは核に使われた素材に左右される。一般的には霊威が高い物質のほうが伝達力が高いとされがちだが、一部の例外はある。

 二つ挙げた素材は用途によって適切なものを選び分けるのが基本であるが、ユーカが目指すところの「アタシが考えたさいきょーの死霊」を作り出すには、それぞれ考え得る中でも最高峰のものを用意する必要があった。

 元人間としての機能を十全に発揮し得る、精緻な作りの骨格。それとこれまでにない高い伝達力を持つ核。

 前者の用意は、それほど難しくはなかった。

 本人も忘れがちではあるが、ユーカは名家のお嬢様である。腕の良い人形師を雇い、さらにはルーシュテル家時期当主として修行中の兄・ヴィクトルまでも巻き込み、三日三晩の徹夜を経て「コレ以上にはない」と言えるような骨格が完成した。――大きな犠牲(さんざい)のため、ヴィオールが頭を抱える結果となったが。

 問題となったのは、後者。核のほうである。

 こちらも出来うる限り高価で霊威の高い材料を集め、あらゆる核を試してみたが、ついぞユーカが求めるものが完成することはなかった。限りなく近づきこそすれど、人体(かんぜん)には程遠い。どこか動きはぎくしゃくとしてしまい、機敏な動きは再現するに至らなかった。


 この核の開発にかかった果てしない時間こそが、ユーカを凶行へと走らせたのかもしれない。

 彼女が妙案を思いついたのは、悪夢の夜より一週間前のことであった。ふとした瞬間に浮かんできた、自らの家に伝わる家宝の話。

 ユーカにとって幸か不幸か、セベルスタにおいて一人前と認められる十五歳の誕生日の日に、賢者の石が秘匿されて受け継がれているという事実がヴィオールによって語られていた。

 ――間違っても外部に知られてはならない。持ちだしてはならない。それを使って何かをなそうと考えてはならない。

 なんだかんだと言って娘には大甘なヴィオールの怖い顔はあの時以外に見たことがない、とユーカは振り返る。


(賢者の石、ねェ)


 考え出したら止まらなくなっていた。

 この世において並ぶべきものなし、と言われるほどの霊威を有する奇跡の結晶。そんなものを核として使ったら、どうなるか。

 悪魔が耳元で囁いた気がした。

 ユーカは年を経てヘンクツでふてぶてしい少女へと変貌を遂げていたが、元々の彼女が完全に失われたわけではない。情のある相手に対しては優しくもあったし、人としてやってはならぬことはきちんとわかった上で行動しているという自負もあった。

 ――ただ、それらは「死霊術やそれに関する研究ごとにかかわらない部分で」という限りがあった。まことに遺憾なことであるが、ユーカの根幹は死霊術への探究心に染まりきってしまっていたのである。

 弁護しようもない。ユーカは殊その部分に関して、他を省みず何よりも優先してしまう悪癖があった。何より、理想の物へと今一歩という状態にあったのが災いしたのだろう。


 ユーカの行動は迅速で、準備は入念だった。

 なまじ自分が背徳行動をしていることを自覚していたために、家人の誰にも協力を求めず、ひとりですべてをやりきった。

 その結果が現状だ。ユーカの手には、勝利の証として賢者の石が収まっている。

 彼女の脳裏はすでに成功のビジョンで満たされている。その後のことなど一切合切頭に入っておらず、あとで賢者の石が消失したことに関してどう言い訳するかも考えられていなかった。

 すべてはこの瞬間のために。

 第三者が見れば震え上がるであろう悪女めいた笑みを浮かべたユーカは、賢者の石のつるりとした表面に呪印を描いていく。自分の血を混ぜた特殊な塗料で施されるそれもまた、ユーカが研究の末に編み出した独自のものである。皮肉なことに、人形操作術にかけてのユーカの技倆や造詣の深さは、すでに曽祖父のそれを凌駕していた。

 呪印が施されて晴れて人形の「核」となった賢者の石を、強靭かつしなやかで軽い、ミスリル銀で作られた骨格へと埋め込む。――あとは人形を中心とし、死霊を召喚するための魔法陣を描いて術を行使するだけだ。ここまで来てしまえば憂うことなどひとつもない。研究のため、幾千と繰り返されてきたプロセスである。失敗する可能性は考えられなかった。

 準備を終えると、死霊に自分が主だと認識させるため、ナイフで浅く傷つけた指先から血液を滴らせる。

 血液色の核―― 賢者の石の表面を、同色のユーカの血が滑り落ちる。その様子はさながら賢者の石の一部が融けだしたふうであった。


「さあ―― いでよ、アタシのさいきょーの死霊ッ……!」


 魔法陣の外へと歩み出たユーカは、愛用の杖を手に地下室の無機質な床を穿つ。杖の先からほとばしった魔力と放った言霊が鍵となり、魔法陣が毒々しい色の光を放ち始めた。

 成功だ。ユーカは確信したが、しかし事態は思わぬ方向へと進展していく。

 通常ならば、魔法陣から放たれた光は徐々に収束し、核へと残らず吸収されて人形(ゴーレム)としての死霊が生まれる。ユーカにとっては見慣れた光景だったが、光が核へと吸収されていく段階で問題が起こった。

 ピシ、っと。

 何やら甲高い音が聞こえたかと思えば、核に使った賢者の石が砕け散ったのである。


「は?」


 思わぬ事態に硬直するユーカを尻目に、展開はさらなる局面を迎えようとしている。

 砕けた賢者の石、それが埋め込まれていた骨格の胸部から粘性の高い血液のような液体が溢れ出てきたかと思えば、行き場を失って荒れ狂う光の最中、ソレは意思を持った生物の触手のように四方八方へと伸び、壁や天井を這って拡散した。

 無数の触手と化した赤い液体は、研究のために魔術で防腐処理を施し、保存してあった魔物や野生動物の死骸に取り付くと、元々の質量を無視して膨れ上がり、まるごとそれらを飲み込まんとした。

 その様子はさながら捕食である。肉と見るや飛びつき、貪る。壁を床を汚しながら這いずる未知の物質が頬のすぐ横を掠めていった。生理的な恐怖を感じたユーカは悲鳴を上げることすらままならずに頭部を庇い、その場へとしゃがみ込む。

 響き渡るのは咀嚼音か。ボキリボキリと骨を折り曲げへし折るような音が断続的に響き渡り、ユーカはそのたびに自身もあの得体のしれないものに飲み込まれるのではないかと恐怖し、体を震わせた。


 ――やがて訪れる静謐。

 不自然なほど静まり返った地下室の雰囲気に、ユーカは不穏なものを感じずにはいられなかった。

 恐る恐る俯いていた顔を上げ、そして、見た。


「え―― 何、アンタ……」


 自ら描いた魔法陣の中心。

 本来ならミスリル銀製の人形が立っていたはずであろうその場所に、完全な人間のシルエットが在った。


 ソレは全裸の男であった。

 黒髪の、男。ただ棒立ちでユーカを見据えるその者の胸部には、木の"うろ"のような穴が空いている。そこに覗くのは、なにものをも飲み込んでしまいかねないような虚無の闇。

 瞳は赤い。その(くら)い輝きは、さきほど目にした賢者の石の輝きと同じものだ。青白い肌や端正な顔立ちと相まって、風貌だけならいにしえの昔に滅び去って伝承と化した、吸血族と呼ばれる魔族の特徴に酷似している。


 意味がわからなかった。少なくとも、目の前の男はユーカの術によって生まれるはずだったものとは明らかに異質な存在である。

 人形は所詮人形。それ以外の姿を取ることはあり得ない。人形操作術で呼び出した死霊がこのように受肉するケースなど、今まで一度たりとも見たことはないし、過去にこういう事例があったわけでもない。

 そもそも、死者が完全な肉体を得て蘇ることは世の中の理に反することではないか。ユーカは自身で積み上げた研究の成果で、それを厭というほど実感していた。

 それがどうだ。目の前には、完全な肉体を得て蘇った死者が居る。肌色は悪いし胸に穴は空いているが、少なくとも見目にはその肉体は完全なものとして映っていた。

 それはユーカが求めてやまなかったものだ。諦めていたはずの理想だった。

 それを目の前に、ユーカは動けない。声も上げられない。

 喜びから、ではない。恐怖か、畏怖か。それに近いもの。ソレと視線が合ってしまってから、がんじがらめにされて動けない。

 男のユーカを見つめる目。そこに敵意はない。悪意もない。かといって動死体のように意思のない濁った目をしているわけでもなく、その視線には明確な意思が宿っていた。

 ユーカはその目を知っている。幾度も見たことのある目だ。


 ――そう、例えるなら、この城下町の裏手の森に住むオオカミ型の魔物の目。

 森にはいくらかの種類の魔物が存在しており、彼らは常に生存競争を行っている。自身の縄張りの中でも確実に獲物にありつけるわけではない彼らは、森の探索に訪れた人間を見ると襲い掛かってくるのだ。――あの目をして。自分の生命を長らえるために。


 飢餓。

 その瞳を支配しているのは飢餓だ。純粋な飢えの瞳。

 そこに宿るのは、確かに敵意や害意ではない。しかし、ユーカにとってはそれらよりもなお残酷なものであった。


 すでに室内に保存してあった「肉」はすべて食いつくされている。残るタンパク源はユーカただ一人のみ。

 仄暗い地下の一室。捕食者と被捕食者が一対一。訪れるであろう結末を夢想して、ユーカの顔がさっと青ざめる。


「ちょっと、ウソ、冗談でしょ……」


 そんな言葉が漏れでていく。

 しかしながら、これから起ころうとしている出来事は冗談でもなければ夢でも幻でもない。

 捕食者は何も応えない。ただ生命を維持せんとギラつく視線をユーカへと差し向けながら、とうとう悪夢の一歩を踏み出した。

 ヒタリ、と素足が石材の床を捉える音。それにわずかに加わる粘着音は、食い荒らされて散らばった死体の数々の残滓を踏みつけにしたためだろうか。厭に耳にこびりついて離れない。

 耳鳴りがする。立ち上がって逃げようにも、唯一の出口は捕食者の背の向う側にある。ユーカにはどうしても、ソレに向かって走って行く勇気が持てなかった。


「待って、来ないで。……こっちに、来ないで…… って……!」


 緊張から掠れる声で、懇願する。

 捕食者の歩みは止まらない。

 五メートルはあった距離はじわじわと詰められていく。

 尻餅をついたユーカ、手足を使ってどうにか後退を試みるが、すぐに壁際へと追い詰められた。


「アン、タ…… いったい、なんなのよ、ほんと、もう」


 苦し紛れに放たれた問いかけに、それまで徹底的にノーリアクションを通していた捕食者の唇が戦慄いた。

 その動きは拙い。そしてそれは問いかけに対する回答ですらなかった。


 タ、リ、ナ、イ。


 たった四つの音のカタチに動く唇。不思議とユーカにはそう聞こえた気がした。



 ――捕食の瞬間、それは見た目の上でもヒト型をとってはいなかった。

 今の今まで端正な顔立ちの男をかたどっていたはずのソレ。口周りが花開くように裂け、舌が無数の触手となってユーカに襲いかかる。

 とっさに急所である首を左腕で庇い、身を捩った行為が最後の最後でユーカの命運を現世へとつなぎとめた。おそらくユーカの首筋を狙っていたであろう触手はユーカの左二の腕をがんじがらめにし―― なんの躊躇いもなく、強力な圧力を加えて骨をへし折り、全身が軋りかねないすさまじい力で筋組織をもぎり切った。


「っぎ、あ、が、あ、ギャアアアアアアアッ!!!!!! アァァァーッ」


 ユーカはあらん限り叫んだ。彼女がそれまで経験した痛みなどは、その瞬間に脳裏を焼きつくしたものと比べるべくもない。そもそも、痛みに慣れていない良家の生まれであるユーカにとっては、与えられた刺激はあまりに苛烈すぎた。

 度を超えた痛みは迅速な気絶を許してくれなかった。支えを失って倒れ伏したユーカは自分が垂れ流した体液にまみれながら、もはや熱と判別がつかなくなった痛みにひたすら犯された。

 無慈悲な責め苦は、悲鳴を聞き遂げた父親が駆けつけてくるほんのすこし前まで続いていた。次第に赤から黒へと塗りつぶされていく意識の最中、ユーカは再びヒト型へと戻った捕食者が、指先から自らの腕を食いちぎっている様を見た。


 ――一体どうしてこんなことに。

 最後に浮かんだ後悔を孕んだ問は、ユーカの意識とともに闇へと溶けた。




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