ユーカティリスの場合#1
地球とは遠くて近い。決して交わることのない世界。
人々は互いに存在を認識しあうことはなく、「別世界の人々」のことはしばしばおとぎ話として語られる。
誰も本気で存在を信じていない「異世界」は、しかし本当に存在する。
――そう、例えば。地球にとっての異世界、【ウルディグナ】。
常であったならば、この世界と地球はなんの関連も持たない。隣り合っているかもしれないし、互いに限りなく遠い場所に存在しているかもしれない。いずれにしろ、干渉しあうことはないはずだった。――その日、その瞬間までは。
ウルディグナに五つ存在する大陸のうちのひとつ、【アルカジム】と呼ばれる土地がある。
アルカジムは純粋な人間種が最も多く住まう土地だ。五つの大陸の中ではもっとも小さいが、それでも広大な土地にいくつかの人間種の国家が存在している。
アルカジムの東側では現在でも国同士の紛争が絶え間なく続いており、小国が大国に統合されたり、逆に分裂したり、小国同士が同盟を結んで大国に挑んだり―― と、とにかく落ち着くことがない。
互いに争うことが好きであると言われる獣人族ですら呆れる人間同士の諍い…… はともかくとして。
荒れに荒れる東側の事情とは裏腹に、西側に位置する国家同士には争い事などなく、ほどよい距離感を保った平穏な治世が続いていた。
東側の人間からは「辺境」などと蔑まれているこの土地。確かに技術的には後れを取っているものの、豊かな森林と肥沃な大地の恵みによって何不自由なく存続している小国が、これより始まる物語の舞台となる。
田舎国家【セベルスタ】。
成立してより戦争の経験はなく、統治者を含め、国民ほぼ全員が「平和ボケをしている」と言われるほど穏やかな国家で、ある日「とんでもない事件」が起きてしまった。
田舎の小国を噂が駆け巡るのは早い。
人口三千と幾ばくかの王都に、激震が走った。
曰く――。
【ルーシュテル家が令嬢ユーカティリス、突如現れた怪物に腕をもがれる】
◆
ルーシュテル家はセベルスタに存在する貴族の一門である。
領地こそ持たないが、初代王の側近として活躍した伝説的錬金術士を祖とする、開国当初から続く由緒正しき血統だ。
……さて、代々錬金術を生業として発展してきた同家であるが、二度ほど異端児を排出している。
一人目が現当主の祖父、つまりは先々代当主であるところのヴィットリヨという男だ。
ヴィットリヨはルーシュテルの家の嫡子として生を受けたにも関わらず、どういうわけか錬金術の才能を持たなかった。しかし、代わりに死霊術に関して稀代とも呼べるような才能を持っていたのである。
殊純粋な人間族の中で、死霊術をまともに扱える人間は少ない。ヴィットリヨの才能はたちまち人々の好奇にさらされることとなったが、同時に大いに恐れられもした。
そもそも、死霊術を編み出したのは魔族である。
大方の印象とは違い、魔族はひっそりと閉ざされた環境で暮らすことを好む。間違っても積極的に人間を含めた他の種族を脅かすことはしないが、それでも彼らが強力な力を秘めた種族であることには変わりがない。
人間は本能的にみずからよりも強い力を持つものを恐れる傾向にある。人々が魔族を恐れるのと同じように、魔族と同じような力を持つヴィットリヨもまた、恐れられたのだ。
自らの力を伸ばすべく、純粋に研究に打ち込むヴィットリヨ本人の勤勉さも、人々の目には不気味に映っていた。もっとも、分野が分野である。わざわざ誂えた家の地下室に、死体にまみれて引きこもる彼の姿はおぞましいものであった。厭な噂のひとつやふたつ立つのは当然である。
ただ、おどろどろしい噂とは裏腹に、ヴィットリヨには自らの研究を完成させること以外に対する欲望はなかった。そんなふうであったから、彼はその生涯を閉じるまで様々な憶測で語られつつも、ついぞ目立った行動を起こすことはなかった。
認めた著書や編纂した資料は数多いが、それを読み下して理解できるものは皆無であり、そもそも死霊術などというものに興味をもつ者自体が少ない。研究成果からして彼の功績は多大なものだが、それを正しく評価する者は、彼が生きているうちには現れなかったのである。
――しかし。
そんなヴィットリヨに憧れを抱く存在が誕生した。
その人物こそが、名門ルーシュテルから排出された二人目の異端児。ヴィットリヨからしてひ孫にあたるところの少女、ユーカティリス・ミサ・ルーシュテルである。
ユーカティリス―― 通称ユーカは、曽祖父のヴィットリヨと同じく、錬金術の才能を全く持たずに生まれてきた。しかしながら、その魔力総量はセベルスタ領内はおろか、アルカジム大陸内を探しても比べる者が見つかるかどうかというほどに多く、実に常人の数百倍を誇っていた。
錬金術には魔力はほとんど必要ない。実際、ルーシュテル家代々の魔術師としての実力は凡用であり、彼のヴィットリヨもその中では「多少マシ」程度の存在でしかなかったのだ。
そのような家系から突然変異が如く生まれた、魔力の塊のような少女。
現当主―― ヴィオール・アカイ・ルーシュテルは、奇妙な命運を背負ったこの少女の誕生を心から喜んだ。彼女に錬金術士としての才能が殆ど無いとわかっても、それを少しも責めようとせず、自分が目指すものになれば良いと励ました。ユーカはそんな父の厚意を受け取り、一心に「自分の目指すところ」へ向けて研鑽の日々を送り―― 盛大に道を踏み外した。
誰が予想しただろうか。
魔術師としてこれ以上にないほどの才能を有した少女が、死霊術などというはぐれ魔導に手を染めることになるなどということを。
実父であるヴィオールも予想だにしていなかったに違いない。
しかし、環境は皮肉にも整えられていたのだ。
ルーシュテル家の書庫には、誰一人として受け継ぐ者が居なかった研究資料その他が死蔵されていた。
きっかけは一握りの好奇心。本人でさえも、それらに手を付けるまではむしろ尋常な魔術の方面に興味が向いていた。
運命とはかくも残忍なものである。
幼い少女は曽祖父の研究資料を読み漁るうち、その怪しげな魅力に取りつかれ、ヴィットリヨが死んでのち手付かずで放置されていた地下室にも出入りするようになり…… いつの間にか立派なへんくつオカルト少女へと変貌を遂げていた。
趣味に性格もろもろも影響されてしまったらしい。
元々健気で引っ込み思案だったはずが、研究対象および自身の興味を惹かれるモノ以外への対応がおざなりのふてぶてしい性格となり、連日の徹夜が祟って目元からはクマが消えることなくクッキリと残ってしまっている始末。大きな黄玉のようなきらめく瞳も、今では胡乱な雰囲気をたたえている。
どうしてこうなった。
彼女の過去を知る者は程度の差こそあれ、例外なくそう思っている。
最初こそ正道に戻そうと努力したヴィオールであったが、へんくつと化した少女は頑なであった。
ついぞまっとうな魔術の道へと戻ることはなく、やがて誰もが口出しすることを諦めてはや十余年。十八歳となり結婚適齢期となったユーカであるが、浮いた話は一向に囁かれることがない。
天は二物を―― とは言うが、ユーカは有り余る魔力の他にたぐいまれな美貌をも授かっている。これがまっとうな道を歩んでいればまさに引く手あまたであったろうが、こともあろうに彼女が志したのは邪道。
それこそ魂を抜かれてしまいそうなほどの美女とはいえ、年がら死体や死霊と戯れているような女である。いつかほんとうに魂を抜かれてしまいかねないということで、近づく男は皆無であった。そもそも、輝かしい美貌は不精な生活態度のおかげですっかりくたびれてしまっているのだ。それでも見るに耐えないレベルにまで落ちこまない現状は、皮肉にも彼女の本来の美しさの証明となっている。
そんな状態なものだから、ヴィオールが縁談を持ちかけてもさり気なく断られる。本人には秘密でそれなりの努力を繰り返してきたヴィオールであったが、その成果は一向に出なかった。
自身の「信じた道を志ざせ」という言葉を撤回できず、かといってそのままのユーカを放っておくことも出来ず。
いよいよ深まるヴィオールの悩みを加速させたのは、自宅での執務中に聞こえてきた愛娘の悲鳴であった。
その日、午前零時。
ルーシュテルの当主であると共に宮廷錬金術士のまとめ役でもあるヴィオールは、普段はしない夜更かしをして、提出されたばかりの定期報告書に目を通していた。
主に付き合って夜更かしをしているメイドの用意した茶を飲みながら、疲れた目を休ませていたその時である。
「ギャアアアアアアアッ!!!!!! アァァァーッ」
突然の悲鳴。
さながら獣の断末魔のようなその声は、聞き間違えようもない。愛娘のユーカのものであった。
「な、なんだ今のはッ」
若いころは錬金術で扱う素材を求め、各地を自身で行脚したヴィオール。
数多くの死線をも掻い潜り、未だに肉体的にも精神的にも衰えを知らない豪傑である彼も、これには肝をつぶした。そばに控えていたメイドのメリッサも、普段ののんびりとした雰囲気はどこへやら、うろたえた様子で廊下へと飛び出していった。
ヴィオールも掛けていた椅子を蹴飛ばし、それに続く。灯りの消えた廊下を見渡し、声の発生源を探る。ほどなくして戻ってきたメリッサにユーカの自室がもぬけの殻であったことを聞くと、血相を変えて叫んだ。
「メリッサ、灯りを持て! 私に続くんだ!」
「は、はい、旦那様!」
慌てて執務室に戻ってランプを持ち出してきたメリッサを伴い、ヴィオールは一路地下室を目指した。
ユーカの行動範囲は限られている。時折外にも出るが、基本的には私室と地下にある研究施設を行ったり来たりする生活だ。部屋にないとなれば、もう居場所は地下室以外に考えられない。
先ほどの悲鳴を受けて使用人達が起きだし、慌ただしくなる屋敷内をヴィオールは走る。地下へ続く木製の扉を文字通り踏み開けると、闇に沈む階段の向こう側、地下室のわずかに開いた扉の隙間から仄かな光が漏れているのを見つけた。
――やはりここに居たか!
転げ落ちるようにして階段を駆け下り、扉に手をかける。
今日この時ほど、扉というものに忌々しさを覚えたことはない。乱暴に突き飛ばすように扉を押し開けると―― そこには想像だにもしなかった光景があった。
「な、な、な――」
言葉が続かない。
冷たい石造りの部屋の中は、血で染まっていた。
壁際や天井まで何かが這いずりまわったかのようにまんべんなく地で汚されている。そんな凄惨な光景の中、ひときわ大きな血だまりを形成し、壁の間際に倒れている人影があった。――ユーカである。
彼女は肩口からそっくり左腕を失っていた。その傷跡は強引にもぎ取られたかのようにぐしゃぐしゃで、延々と血を吐き出し続けている。
頭に血が昇っていたせいでまったく気にならなかったが、そこでようやく血生臭さが鼻腔を満たした。
主人の後を追ってきたメリッサは、ヴィオールの巨体が扉の前で立ち尽くしているせいで部屋の状況が見えないようだ。ただにおいに顔をしかめて、主人の動向をうかがっている。
ユーカは小刻みに痙攣していた。仰向けに倒れ、白目を向き、小便を漏らしながら震えている。出血量からして、このまま放っておけば遠からず死に至ることは想像に難くない。
娘が死ぬかもしれないという状況を前に、しかしヴィオールは動けない。
なぜなら、娘とは別の存在が地下室の隅で、静かにヴィオールを睨めつけていたからだ。
赤い瞳。
錬金術における「至高」を顕すその色に染まった瞳には、敵意は感じられなかった。
ただ、見ている。見られている。
それだけの話であるのに、途方も無い圧力を感じた。
神か悪魔か。自分よりもはるかな「高み」に存在するモノに睥睨されている。そんな感触。
冗談のように手足が動かない。一刻を争う事態だというのにもかかわらず。
「おまえは、いったい」
ようやく絞り出したのは、そんな言葉だった。
ソレは当然応えない。ただヴィオールを見、何かを"咀嚼"している。
ぐしゃぐしゃと下品な音を立てて噛み砕かれ、ソレに嚥下されていく物体。口元から垂れてきているのは、血の入り混じった唾液。吐出された布切れには見覚えがあった。あれはユーカの――。
「旦那様?」
メリッサの問いかけにより、ヴィオールはようやく現実へと引き戻された。
――ダメだ、呆けていては。行動しなくては。
「……メリッサ。治癒術師を呼びなさい。今すぐにだ。それと、人を呼んでありったけの魔法薬をここに持ってこさせるんだ」
「は……?」
「早くッ、今は何も聞くな。言う通りにしないかッ」
「は、はい、承知いたしました!」
普段朗らかなヴィオールの怒声に、メリッサは泡を食って階段を駆け上がっていく。
それでいい。きっと彼女がこれを目にしていたら、気を失ってしまっていたことだろう。
「……さて」
額を汗が伝う。
改めて対峙してみても、ソレはヴィオールに敵意を示さない。さきほどよりはマシになったと言えるが、相変わらずヴィオールの体は極度の緊張状態にあった。
それでも動かなければ、ユーカが死ぬ。
じりじりと室内へと入り込み、相手の動きがないと見るや、一気にユーカへと近づく。
ソレに動きはない。第一の関門は突破したようだ。だが、安堵などしていられる状況ではない。
「ユーカ、ユーカ! しっかりしなさい、ユーカ!」
呼びかけても返事はない。
ヴィオールは自分の衣服を破ると、患部を縛り付けて失血を防いだ。
「だ、旦那様。魔法薬をお持ちしまし―― ヒッ」
思いつく限りの応急処置を施していると、メリッサに魔法薬の配達を頼まれたらしい、年若い男性の使用人が地下室へと顔を出した。彼は地下室の惨状を目にするや、小さな悲鳴を上げて魔法薬入りの木箱をその場に取り落とした。音からして、数本の瓶が割れたようだ。特有の薬臭さが血のにおいと交じり合い、部屋の空気は一層不快なものと化す。
「馬鹿者!」
ヴィオールは一喝すると、木箱の中から無事な数本を抜き取り、半分を患部へ直接ふりかけ、残りをユーカの口へと流し込んだ。焦りすぎても喉を閊えさせる恐れがある。怖いもの知らずと言われたヴィオールの手が震えた。
人間の作り出すことのできる魔法薬には、即時性はない。無論失われた腕がもう一度生えてくることもない。それでも瀕死のユーカの命をつなぎとめるくらいの効果は見込めるはずだった。傷口を消毒し、失血を防ぎ、一時的ではあるが失われた血の代わりに体内の機能を維持する。
ヴィオールの必死の作業を見守る使用人の顔は青い。苛立ったヴィオールは、茫然自失状態の彼を叱り飛ばした。
「これで全部ではないだろう! 早く、次だ! 次を持ってくるんだ!」
「わ、わわ、わかりましたっ」
躓きながらも駆け出していく使用人を尻目に、ヴィオールはついに動かなくなった娘へと必死の呼びかけを再開するのであった。
その必死な姿を、赤い瞳はただ黙って見つめている。
何の感慨もなく、ただ、じっと――。
そうして、ルーシュテル家を襲った悪夢の一夜は更けていく。
それこそが珍妙な物語の幕開けであるとは、誰も知らずに。
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