四季王寺巧の場合 #2
人間の死後には何も残らない。
天国? 地獄? 馬鹿馬鹿しい。死んだらそれまでだ。
自意識など虚無に呑まれて消える。生まれ変わることもなければ、霊魂として現世に留まることもない。
それは完全な終わりだ。だからこそ、今に意味がなくとも生きなければならない。
――タクミという青年は、常々そういった考え方で生きながらえてきた。
イマイチ生きる意欲にかけており、何事にも消極的で悲観的である。しかしそんな彼であっても、「死にたい」と思ったことは一度としてなかった。
なぜなら、死ぬのが単純に恐ろしいからである。
タクミにとっての死は、生きているということに対する「価値」とはまったく別のところにあった。
失うものは多くはないし、目下やりたいことがあるわけでもない。死んでも差し支えはないが、だからと言って死ぬのは御免被る。ただそれだけだ。タクミは自分が人間ではなくなることを恐れていたのだ。
そんなふうだから、「死」が目前に迫ってきた時、一瞬だけ彼は本気になった。
本気になった―― と言っても、出来ることはほとんどなかった。ただ「死にたくない」と強く念じ、降りかかってくる暴力の雨をどうにか避けようと試みたにすぎない。
結果は惨敗だった。
最初に脳天を砕かれて意識を刈り取られたことが幸いし、苦しまずには済んだ。それから一本のパイプがタクミの胸を貫き、続いて数本のパイプが内臓から筋組織から、何もかもに穴を穿ち、ぐしゃぐしゃに押しつぶして破壊した。
駆けつけた救急隊員は、見た瞬間に処置を諦めた。――すでに死んでいたのである。致命傷は言わずもがな、最初に突き刺さったパイプであった。
こうして理不尽な死を迎えたタクミは、彼にとっては信じがたいことに、魂だけの存在となって生まれ変わるための準備を始めた。
それまで生きてきた時間の精算をし、純粋な魂という名のエネルギーに還元され、別の魂へ。
彼に走りえない世界のルールに従い、彼もまた転生を果たすはずであった―― はずだったのだが。
「はあー、キミすごいねえ。引く手あまたじゃないか。羨ましいなあ、憧れちゃうなあ」
「…………」
絶賛閉口中。
事故で死んだはずのタクミは、椅子に座った姿勢のまま目覚めた。
場所は…… どう名状したものか。
ともかく言えることは、ひどくおぞましい。ただその一言であった。
タクミが目覚めた小部屋―― といって良いものかは不明だが―― は、五畳半かその程度の狭苦しいもので、窓もなければ出入口もない。壁は暗いピンク色で、内臓の壁面のようにぬらぬらと気味の悪い光沢を放っている。しかも気のせいでなければ時折部屋全体が震えるようにして脈打っており、同時に心臓の鼓動のような音も聞こえてくる。
足元は床の代わりに赤黒い触手がうごめいており、タクミがわずかに身動ぎをするたびにうじゅると気色の悪い感触を与えながらのたうち回る。なんども靴の裏を舐められた。心底靴を履いていてよかったと思った。
タクミは同年代の中ではとりわけ落ち着いており肝も据わっているほうではあったが、さすがに趣味の悪いB級映画のような光景が三百六十度パノラマ展開、という現状には参りつつあった。
先程から口の端が引きつっており、体は硬直したまま動かない。
唯一救いであったのは、座椅子が普通のパイプ椅子であったことだろう。これまでグロテスクなオブジェの姿をとっていたら、もう少し露骨に取り乱していた可能性もある。
「今、すごい議論になってるよ。ホラ、見てごらん。ハハハ、キミの故郷の【地球】だけじゃなく、いろんな世界のカミサマが君のこと欲しがってるよ。僕ァこの仕事はじめて長いけど、こんなに転生候補先が多いヒトは久しぶり―― いや、初めてかもしれないなあ、すごいすごい」
それと、目の前の「これ」。
これは救いなのかどうか、微妙なところではある。
現在進行形で黙りこむタクミに気さくに話しかけているのは、ありていに言ってしまえば触手のバケモノであった。形状を表現するのなら、タコやイカのような軟体生物を頭からかぶった人型に、床を覆うものと同じ色の触手が無数に巻き付いたようなもの、とでも言えばよいか。
目と思しき器官は五つ。それらはすべて、体に巻きついた触手のうちのひとつが取り上げた、小型の端末のようなものに向いている。瞳は濁った黄金色のゲル状物質で、傷口から吹き出す膿を思わせた。――何から何まで気持ちの悪い存在である。ちょうど某創作神話の邪神のような存在が目の前でうごめき、おぞましい姿とは裏腹に気さくに話しかけてくるというシュール極まりない展開は、混乱をさらに助長させた。
すでにバケモノの口からは気にかかるワードがいくつかこぼれてきているが、ソレに対して深く突っ込んでみる気にもならない。悪夢なら早く覚めろ、と本気で願った。
「まぁ、もう一度地球生まれって線は薄いかなー、このままだと。あそこは他に比べればまだ平和だし、資源豊富だもんね。有力候補は資源不足にあえいでるココかココかな? 大穴でココってこともあるかもしれないけど―― ま、キミならどこに生まれてもそれなりの未来が約束されるだろうから、安心していいよ。ハハハ」
怪物は端末を示しながら話をしているようだが、あいにくと五つの視線の先に割り込んで、端末を覗きこんでみる気にはなれなかった。あの体の一部にでも間違って触れようものなら、なんとか保っている一握の理性も死出の旅に出てしまうだろう。
「……そういえば、さっきから黙ってるけど大丈夫? 僕の説明したこと覚えてるかな? 今自分がどうなってるかとか理解してるよね?」
ようやくタクミの不自然さに気づいたのか、バケモノが小首(?)を傾げながら問いかけてくる。
「……一応は」
タクミは頬をひきつらせたまま、短く答えた。
一応、自分がどのような状況に立たせられているかは承知しているつもりだった。もっともそれは、バケモノが"一方的に"喋ったことをタクミなりに統合して導き出した憶測でしかなく、自分で導き出した仮説ながら、それに対して半信半疑であった。
自分がまずあり得ないと思っていた事―― よもや死後、転生待ちをしているなどとは。
少なくとも、バケモノはそうであると言う。
いまいち信用する気にはなれないのは当然のことだが、かといって全部バケモノの嘘であるとも言い切れない。覚えている限りの状況からして自身が死んだという事実には納得がいったし―― 第一、信じられないような光景が目の前にこうして繰り広げられているのだ。
息を深く吐き出し、調子を取り戻そうと試みる。
それまではバケモノが喋るに任せてきたが、これは好機だ。どうせ逃げ道もなく、対話の対象は触手の異形に限られている。今の状況をしっかりとたしかめてやろうではないか。……それでまだ自分が納得しないようなら、その時はその時である。どうせ全部失ったのだから。
そう少しだけ気が向いてきたのが災いした。
「オレは、死んだんだろう?」
「そうだねえ。鉄パイプが頭にバコーンとぶつかって気を失った後、いっぱいグサーっとなって死んだね。――あ、しまった。これ言っちゃいけなかったんだ。ごめんよ」
タクミは事故当初に頭に直撃した鉄パイプのせいで早々に意識を失っていたので、自分がどのようにして死んだのかは覚えていない。改めて聞かされると気分が悪い―― どころの騒ぎではなかった。
突如激しい動悸がタクミの体を襲い、脂汗が吹き出した。
事故以前の身ぎれいなままだったタクミの衣服は瞬く間に赤黒く染まっていき、額から垂れてきた血で視界が真っ赤に塗りつぶされる。
苦しさと痛み、チカつく視界。喘ぐタクミは気付くはずもないことであったが、彼の体は他に例えようもなくスプラッタなものへと姿を変えようとしていた。
「ああっ、待ったストップストップ―― って言ってもしょうがないな、クソ。まったく魂だけの存在ってのは扱い難くてしょうがないね!」
激しい幻痛と共に胸部に大きな風穴が開き始めたところで、バケモノが無数の触手を空中であたふたと振り乱しながら叫んでいるのが、狭まり始めた視界の端にひっかかった。その姿はひどく滑稽であったが、それを嗤う余裕はタクミにはない。
それから何があったかは、わからない。再び意識を失ったタクミが目を覚ますと、部屋の様子はすっかり一転していた。
「やあ、ごきげんよう。気分はどうだい?」
部屋の広さは変わらない。相変わらずの五畳半程度の広さで窓も出入口もなく、圧迫感があった。
しかしさながらバケモノの体内を模したようだった室内は、見慣れた大学の研究室に近いものに様変わりしていた。
清潔感のある白い壁紙と、磨きぬかれたタイル状の床。天井には大きめの蛍光灯。変わらないのはタクミ自身が座っていたパイプ椅子だけ。強いてさらに挙げるならば、大学の研究室は使い込まれていてもう少し小汚い印象だったが、今どうでもいいことのように思えた。
「最悪の気分だ」
「だろうね、いやあ、申し訳なかった、許してくれよ。不用意なことを言っちゃった。……でも、さっきよりはマシになったでしょ?」
「それは確かに」
一番劇的な変化を見せたのは、さきほどまで目の前にいた触手のバケモノであった。言うまでもなくゲテモノであった彼の姿は、現代風の青年のものへと変化している。
短く刈り込んだ黒い髪。特徴のないリクルートスーツに、ちょっとばかり趣味の悪いカラーリングのネクタイ。見るに耐えないほど特徴的だったバケモノは、ありふれた親しみのある青年へ。――ただしバケモノの頃の名残であるのか、その瞳だけは黄金色の光を湛えたままであった。日本人めいた容貌にはそぐわないが、嫌悪感を抱くほどでもない。これならたしかに彼の言う通り、マシになったと言えるだろう。
「最初から手を打っておけばよかったんだけどねえ、キミがそんなにまで"死を恐れていた"なんて思わなかったからさ」
「誰だって死は怖いものじゃないのか」
「そりゃそうだけどさ。……なんつーか、キミの"アレ"は異常だよね。いくら"こっち"の影響があったとはいえ、ぷりちーあんどせくしーな僕もあんなふうに見られていただなんて、軽くショックだったよ。道理でキミが僕を見る目がヘンなワケだ」
「…………」
ここに来てからタクミにとっては理解し難いことをぺらぺらとしゃべり続ける触手のバケモノ―― あらため不審な青年は、人懐っこい笑みを浮かべながら、冗談めかして肩を竦めている。
「オレに何かしたのか?」
「ちょっと細工をね。別に悪いことはしてないよ、ホラ。キミにとって親しみやすいものに見えるように"弄った"だけさ。見えるっていったら語弊があるけれどねえ。どちらかと言えば「感じる」かな? ――ま、細かいことは説明するだけ長くなって無駄だから、この際気にしないでくれるとありがたい。急いでいるんでね」
「説明されても、あんたの説明じゃオレが理解出来なさそうだ」
「話が早くて助かるけど、ちょっとひっかかる物言いだよね…… 別にいいけどさ」
さて、と手を打つ青年。どうやら本題はこれからのようであるらしい。
「さっきとおなじ質問をしようか。キミは今、自分がどういう立場か理解しているだろうか?」
見た目が「ああ」でなければ、気分はずっと軽くなる。
本来の調子を取り戻したタクミは、「へ」の字に引き結んだ唇を動かして答えた。
「死んで、転生待ちをしている。……あんたが言っていることが全て本当なら」
「そうそう、その通り。いやー、こっちの不手際とはいえ、あんなもの見ながらもちゃんと話だけは聞いていただなんて、感心しちゃうなあ。――あ、いやバカにしているわけじゃないよ。ほんとうに感心してるんだって。だからそういう目はやめてほしいな。僕ってばソッチの趣味はないし、"どえむ"でもないんだよね」
「無駄話が多い。時間が惜しいといったのはそっちだろうが。要点だけまとめてくれないか」
「わー、まともに接するようになったと思ったらこれだよ。キミなかなかいい性格してるね。――おーけー、おーけー。じゃ、話を進めるからこれを見てくれるかな」
そう言って青年がタクミへと差し出してきたのは、触手状態の時にも手にしていた、タブレット型携帯端末だった。今度こそ躊躇いも見せず受け取って画面を覗きこんでみると、何かごちゃごちゃしたグラフの数々が表示されていた。
「見てもあんまり理解できないだろうから、とりあえず右側のリストだけ見てくれるかな?」
言われたとおりに右側に目をやると、見慣れない固有名詞のようなものが縦にずらりと並んでいる。
「何かのリストか、これは」
「いえーす。ちょっとスクロールしてみて」
現世で使い慣れたものを扱うように、画面に指で触れてなぞる。思い通りに下へとスクロールする画面。謎の固有名詞の羅列は存外長い。そのほとんどがカタカナ表記であるために目が滑るが、タクミはそのリストの中に見慣れた「名」をようやく一つだけ発見した。
「……【地球】」
「お、よく見つけたね。それでわかったと思うけど、それキミの転生先候補地のリストだから」
「ずいぶんと多いんだな」
「うん。かなり多いね。本当なら死んで転生することになった魂は、無難に故郷に転生するか、よっぽどひどい資源不足のところに割り振られることになってるんだけど、キミはちょっと特別だからね。気分を悪くしたら申し訳ないんだけど、世界を司るカミサマたちの間で、キミの魂は「競売」に掛けられているんだよ」
「競売?」
「すごい嫌そうな顔だなあ。無理もないとは思うけどね。あ、でもその視線すごいね。刃物みたいだ。"どえむ"の人には堪えられないだろうね。垂涎モノだよきっとハハハ ――嘘、嘘、冗談だって!」
射殺すようなものへと変化し始めたタクミの視線を茶化しながら、青年はへらへらと笑う。
「ただ、競売っていうのには語弊があるかもね。別に金とか、現実に即したモノがかかっているわけじゃないし、転生先は主に話し合いで決まるわけだから。単純にキミの魂の取り合いだよ。たくさんのカミサマがキミの魂にゾッコンというわけだ。そう思えば悪い気にはならないんじゃない?」
「いや、別に」
「あ、そう…… キミってば相当ハンサムだもんね。前世でそういうのは経験済みってことか。……ま、まぁ、そ、それはとりあえず置いておくとして」
再び険しくなりだしたタクミの視線から逃れるように青年は視線をそらし、話を続ける。
「キミの魂はそんなに多くの世界からお呼びがかかってるんだよ。これってどういうことだと思う?」
「知らん」
「少しはさー、考えるフリとかさー、あるじゃん?」
「いいから続きを話せ。おまえと話していると、大学でいつもオレにちょっかいを出してきてた阿呆のことを思い出して腹が立ってくる」
「うわっ、ついに『あんた』が『おまえ』に格下げになっちゃったよ! これだったらゲテモノ状態のほうが話を進めやすかったかもしんないね、僕の心情的には!」
それはない、と心のなかでツッコミを入れつつ、タクミは無言で先を促す。
青年は観念したようにかぶりを振ると、
「……有り体にいって、キミの魂は「高品質」なんだよね。わかりやすいように数値的な言い方をすれば、そういう魂が世界に紛れ込む可能性は、だいたい十億分の一くらいかな。キミはそういうとっても稀有な魂の持ち主だったわけね」
「ふん、それで?」
「あんまり驚かないんだね」
「いや、驚いてはいるが、実感がわかない。そんなことを突然言われてもオレにはなんと言って良いものかわからん。……ただ、オレの知らないところでオレの扱いがどうだとか、そういう話をされるのは気分が悪い。それだけはハッキリと言っておく」
「いやぁ、気位が高いんだねえ。そういうところが品質の高い魂の持ち主っぽいけど」
青年は気だるげに苦笑すると、端末を返して寄越すようにゼスチュアをした。
タクミがそれに応じて無造作に端末を放り投げると、青年はさして慌てる様子もなくそれを宙空でキャッチし、懐へと仕舞いこんだ。
「ま、そういう反応はある意味、僕にとってはありがたいんだけどね」
「どういうことだ?」
「……あれ、気づいてなかったのかい。今のところ、僕が「こんな話」をキミに話して聞かせる理由が出てきてないでしょ?」
「そんなことはわかっている。要求があるならさっさと言えばいい」
「ハハハ、いいね、そういう態度。こっちもラクでいいや。……そうだよ。個人的にキミにお願いがあってね。絶賛会議中のカミサマたちには内緒で、キミの魂を目覚めさせたんだ」
どうやら、本来自分はここでこうしているべきではないらしい、と。
そう気づいたタクミのなかで、目の前の青年に対する警戒心が一気に強まった。
そんなタクミの視線の変化の意味を悟ったのか、青年は今度は視線を逸らすでもなく、うっすらと得体のしれない笑みを浮かべた。
「お願いと言っても、別にキミが何かをする必要はないんだ。ただ―― 僕が望む世界へ行く。ただそれだけでいいんだよ」