料理の手際はいいけど女の子には手が遅い
「はいどなた……って亜季ちゃん!? どうしてここに……」
「バカバカ! 心配したんだよ!」
安藤さんの顔を見るなり私は抱きついた。不安と緊張が解けて、目に涙が溢れ出した。
「ごめんごめん、言うのすっかり忘れてた。立ち話もなんだから、とりあえず……どうぞ」
安藤さんは私を部屋へ入れてくれた。和室の狭い部屋は、散らかっているわけでも、きちんと片付けられているわけでもない。たくさんのCDが収められている棚が目に付いた。床には読みかけの音楽雑誌が何冊か落ちていた。
「メールも電話も全然繋がらないし……ヒック」
「お金なくってさ、今、携帯止められてて」
「お店にも来ないから……ヒック、安藤さんもう死んじゃったのかなって……」
「こらこら勝手に殺すな」
「でも何で辞めちゃったの? もう私に会いたくないから?」
「……そう」
「! そ、そうなんだ……」
「何てね、うそうそ。あ、でもある意味本当かな」
「どういうこと?」
「実はさ、亜季ちゃんに手紙渡そうと思った時点でもう辞めるつもりだったんだ。だってさ、亜季ちゃんがメールくれなかったら凄く気まずいし。まあ、結果的には会ってくれたから良かったんだけど」
「そうだよ、辞めちゃったらすぐに会いに行けないよ」
「ん~それでも今の状況で仕事中に来られても、やっぱり恥ずかしいな」
照れくさそうにそう言った安藤さんが可愛い。私はそれを見て少し笑った。
「手紙貰ったときも思ったんだけど、安藤さんて」
「何?」
「顔の割りにシャイなんだね」
「顔の割り? オレってどんな顔?」
「いいのいいの! でも良かった、また会えて」
涙は過ぎ去り、私の頭の中の霧はすっかり晴れたのだ。そして気が付いた。安藤さんに対して敬語を使っていない自分に。
「亜季ちゃん、会いに来てくれたお礼にご馳走しようか」
「ホントに!? 何食べに行くの?」
「ん~~じゃなくって何か作るよ。オレの手料理でよければ」
「ええ!? 安藤さん料理するの!? スッゴイ意外!」
「そう? だって外食ばっかりじゃお金かかってしょうがないでしょ。何がいい?」
「何でもいいよ! 安藤さんの得意料理で」
「オッケー。じゃあちょっと買い物してくるから待ってて」
「あ、あ、私も行く」
既にスニーカーを履き終えて玄関を開けた安藤さんの後を急いで追いかけた。向かった先は駅前のイトーヨーカドーだった。
「わあ! スーパーなんて久しぶりだな」
「亜季ちゃん料理は?」
「しようしようと思ってるんだけど、お母さんがいるとどうしてもね」
「分かる分かる。親がいると結局頼っちゃうよね」
「でも作れないってわけじゃないからね。念のため」
「はいはい、じゃそういうことにしておこうか」
「あ~信じてないな~! で、何作ってくれるの?」
「亜季ちゃん嫌いなものとかある?」
「ん~特にないかな」
「いいね、好き嫌いなく何でも食べるってのはいいことだ」
「ふふ、安藤さんてお父さんみたい……あ、この魚可愛い!」
「え? どれどれ……これ? これ、鯵だよ」
「へえ、これが鯵か~目がぱっちりしてるんだね」
「結構大きいし、しかも安いな。よし、じゃあ今日は鯵のたたき丼にしよう!」
男の人と二人でスーパーに買い物なんて初めての経験だった。淳とはもちろん行った事ないし。ちょっとした新婚気分。新鮮な野菜と新鮮な魚に囲まれて気持ちも新鮮で、浮かれてはしゃぎ回る子供の気持ちが良く分かった。
部屋に戻ると安藤さんは台所に立ち、手際よく鯵を捌いていく。あっという間に三枚に分かれた。皮を剥かれた身は、ぴかぴか銀色に光ってとても綺麗だった。残った背骨は唐揚げとなった。手馴れた動作で出汁を取り、味噌汁を作る。胡瓜で浅漬けを作る。
本当は家で包丁すら握らない私にとって、その光景は驚きの連続だった。家の中で、母親以外の、しかも自分と大して歳の変わらない若い男の人が料理をする姿。それほど手が込んでいるわけではないけれど、そのどれもが美味しくて、ただただ感動した。
「ご馳走さまでした! ああ美味しかった」
「どういたしまして」
「まさか安藤さんの手料理が食べられるとは思わなかったな」
「オレだって、こんなに早く亜季ちゃんにゴハン作ることになるなんて予想外だった」
「こんなに早く? ってことはいずれ作る予定だったの?」
「ま、そういう状況になったらいいなってね。未来日記に書いてある」
「あはははな~に~未来日記って。でも……もうなっちゃったね。そういう状況に」
あ、まずいぞこれは。この感覚は……落ちる一歩手前だ。しかも自分から飛び込もうとしている。でももう止められないかも。
「そ、そうだね……あ~っとさ~て、あ、ほら亜季ちゃんそろそろ帰らないと」
「ええ~もうちょっと……」
といいながらも引き止めてくれた安藤さんに感謝しつつ、しかしこの状況で一緒に飛び込んでくれないことに不満も抱きつつ。
「ダメダメ! 電車なくなっちゃうよ! 明日も学校だろ? ほらほら駅まで送るから」
亮介のバカ……初めて下の名前を呟いた。
四月も中旬に差し掛かり、桜はすっかり散ってしまったが、夜ともなるとまだ肌寒い日が続く。隣をくっついて歩きたいし、手も握りたい。でも我慢。でも繋ぎたい……と思っているうちに駅に着いてしまった。この勝負、お預け。
「じゃあ、ご馳走様でした」
「いえいえ、こちらこそわざわざ来てくれてありがとう。嬉しかった」
挨拶がよそよそしく聞こえて、ちょっとムっとしたので意地悪する事にした。
「安藤さん」
「ん?」
「あの、あのね……」
伏し目がちに、いじらしい顔で俯いてみる。
「な、何?」
やった、思った通り、動揺してる顔だ。
「早く……」
ここで額を安藤さんの胸に触れるか触れないくらいまで近付ける。で、上目遣いにじっと見詰めて。
「早く携帯のお金払ってね!」
「あ? あああ、う、うん、明日……明日払うよ」
私を抱きしめようと、上げかけた両腕が行き場を失って、安藤さんは、やる気のないヒップホッパーみたいな変なポーズになっている。
「じゃあおやすみなさい!」
「おやすみ」
電車に乗って腰を下ろす。安藤さんのちょっとびっくりした顔で思い出し笑い。まさかあんな顔で携帯のお金のこと言われるなんて思わなかっただろうな。でも。自分で仕掛けといてなんだけど、いっそのことキスして欲しかったな……つーかしちゃえばよかった。手も繋いじゃえばよかった。
あ~でもホント凄いな~あんなに料理が上手だったとは。それにしても部屋で二人っきりなのにあっさり帰されてしまった。料理の手際はいいけど女の子には手が遅い……か。早く携帯繋がるといいな。あ、そういえば携帯……電池切れてる。