じゃあね淳、今までそれなりに楽しかったよ!
「どうしたの? そんなに驚いて」
「いきなり後ろから声かけるからでしょ!」
「それよりさ、今誰にメールしてたの?」
「あ~お前ってヤツは~! また盗み見たな!」
「そんな、内容までは分からないよ。バイトがどうとかって」
「やっぱり見てるんじゃない! もう許さん!」
「ご、ごめん、そんなつもりじゃなかったんだけど……」
「淳」
「ハイ」
「そういえば五分遅刻だよね」
「え」
「遅刻した上にメールを盗み見た。これはかなりの重罪だな」
「亜季、誤解だ」
「弁解の余地なし! さて、どうしてくれようか……お、淳、あそこにさ、一人で立ってる女の人がいるでしょ」
「う、うん。凄く綺麗な人だね」
私の本能は考えるよりも先に平手打ちの指令を下した。
「いって~そんないきなり殴らなくても……」
長いストレートの黒髪に、涼しげで整った顔立ちの、立ち姿も美しいその人は、薄い黒のストッキングに包まれた長くほっそりとした脚を短めのタイトスカートから惜しげもなくさらけ出し、チャコールグレーのスーツが良く似合う、三百六十度隙の無い美人だった。
しかしいくらイイオンナが近くにいたとしても、男は愛する自分の彼女の前であからさまに別の女を褒めてはいけない。これ基本。
「おっとその前に、そこのコンビニでエロ本買ってきて」
「ええまた!?」
「今度は普通に買ってきていいから。早く早く!」
「普通だって恥ずかしいのに……あ! あの店員、この前の女の子だよ!」
「淳の事なんて覚えてるわけないでしょ! さっさと行け!」
私はグズる淳の背中を蹴り飛ばす。その背中に追加注文。
「あ、なるべくエグいヤツね! できればSMとかの!」
ちょっと声が大きかったか。私の発言に通行人が振り返った。
「買ってきました。やっぱり凄い変な目で見られたよ……絶対覚えてるって」
落ち込む淳を無視し、私はページをめくる。
「どれどれ……うわあスッゴ~イやらしーよくこんなの平気な顔して買えるね。信じらんないドヘンタ~イ。まあいいや。じゃあこれにサイン貰ってきて」
「はい?」
「そうだな……あ、ここここ! このページがいい! この両手両足縛られて有り得ないポーズしてる写真。ここに書いて貰って」
「サインて、誰に?」
「だ~か~ら、あの綺麗な人に」
「はぃい!? ちょちょっと待ってよ、あの人、本人じゃないよね?」
「うん違うよ。全然関係ない。そんなの見れば分かるじゃん」
「本人ならまだしも、無関係の人にそれはちょっと……」
「淳バッカじゃないの? こういうのはね、自信たっぷりにやればいいの! いい? 『ボクずっと前からあなたの大ファンなんです! いつも慰めてくれてありがとうございます! ああ、まさかこんな場所で憧れの人に出会えるなんて……神様って本当にいるんですね、夢みたいです! あ、そうだ、これ……このページ、ボクの一番のお気に入りのこの写真にサインして下さい! お願いします! これからも頑張って下さい!』ってやるの。オ ワ カ リ?」
「そんなの無茶だって……」
「ふうんできないんだ。デートに遅刻して私のメールを盗み見ることはできてもサインは貰ってこれないんだ。そうなんだ……分かった。もういいや」
「え、いいの?」
「うん、淳とはサヨナラするから」
私はくるりと踵を返し、淳から遠ざかる。三歩歩いて振り返り、
「じゃあね淳、今までそれなりに楽しかったよ! サヨナラ~!」
と投げキッス。すると駆け寄る淳に腕を掴まれた。
「まままま待って待ってよ亜季! やるやるやるから、お願いだからサヨナラなんて言わないで」
「ホント!? さ~すが淳!」
「ううう何でこんなことばっかり……」
「ほら、泣くな! 自業自得でしょ! 憧れのSMクイーンに会えたんだから、もっと歓喜の表情して!」
三分後。
「あ~~っはっはっはっはバッカじゃないの!? わら、わら、笑い死にする……あっはっはっはっはっはっは」
「いって~~バッグの角で思いっ切り殴られた」
「あ、淳あんた何やってんの!? か、軽~く犯罪だよそれ?」
「ああ、せっかくのエロ本がびりびりに……高かったのに」
「あっはっはっはうっ……げほげほっ、う~あ~まじで死ぬかと思った」
「ヒドいよ亜季……」
「あ~あ、今までで一番面白かった」
「もうこれで許してくれる?」
「うんうん許す許す。淳ってホント面白いね~。ん、どうしたの? おーい、淳く~ん」
両拳を握り締め、俯いたまま淳は眉間に皺を寄せている。
「あのさ亜季、オレのこと本当に好き?」
「どしたのいきなり」
「だってさ、いっつもこんなことばっかりさせて……」
キタキタキタ超ド級のヘコみ顔! 堪ら~~ん! キュン死にノックアウト寸前の私は両手で淳の顔を挟み、背伸びをする。
「え、うわ、亜季ちょ……」
「淳のこと大好きだよ! 分かった?」
「分かったけど……みんな見てるよ」
「何よ~せっかくキスしてあげたのに不満なの!?」
「不満じゃないです! 不満じゃないからもう一回!」
「あ、こら、調子に乗るな!」
淳とは相変わらずの日々を送っているが、安藤さんからの連絡はまだない。コンビニにも現れない。電話も繋がらない。さすがに心配なので私は意を決してお店の人に聞いてみることにした。レジにいた白髪交じりで背が低く、縁なし眼鏡のおじさんに声をかけた。店長だった。
「安藤? ああ、彼なら辞めたよ。一週間くらい前に」
ええ!? 辞めたってそんな……
「あ、あの連絡つかないですか? メールも電話も繋がらないんです」
「う~ん特に用はないから連絡はしてないけど。君、友達?」
「はい、そうです」
「だったら直接家に行ってみれば?」
「住所知らないんです。あの、教えて頂けませんか?」
「でもなあ、辞めたとはいえ知らない人に従業員の住所教えるってのもなあ。昨今は個人情報に厳しいからねえ。赤の他人に教えたことが分かったら……」
「お願いします! 私、安藤さんがいないと困るんです!」
私は見ず知らずのおじさん相手に懇願した。中学生の頃お母さんにお小遣いアップをお願いするよりも、高校に入って携帯持たせてくれるようにお父さんに拝み倒したときよりも真剣に人にものを頼んだ瞬間だった。
私のあまりの勢いに店長さんは、渋々ながら「全く安藤のヤツ、こんな可愛い彼女放ったらかしにして……」と呟き、住所を書いたメモをくれた。
私は浦和駅へ急ぐと改札を走り抜けるように通過し、階段を二つ飛ばしで駆け上がり、ジャストタイミングでホームに滑り込んできた京浜東北線大宮行きに乗り込んだ。安藤さんの家は、さいたま新都心駅から歩いて十分くらい行ったところにあった。
コーポサンクチュアリ。神聖な名前とは裏腹に、錆びて赤茶けた鉄の外階段を持つ、木造二階建ての古いアパートだ。ここの201号室が安藤さんの部屋らしい。階段を上り扉の前に立つ。表札に名前はない。
いるかな……緊張でチャイムがなかなか押せない。好きな男の子の家にバレンタインのチョコを渡しに来た女子中学生の気分だ。振り返り、通りを見下ろすと散歩中のビーグルと目が合った。そしてワン! という声に背中を押されて私はようやくチャイムを鳴らした。
目を閉じて待つ。深呼吸を一つ。やっぱり留守かな、と帰ろうとしたとき扉が開いた。