本能と理性、それと欲望
どうやら彼女には、自分の首に手を当てる癖があるらしかった。
例えば授業中(俺は彼女の後ろの席の為彼女がよく見える)、眠くなるような教師の話を聞きながら。休み時間に本を読みながら。お昼休みに昼食を食べながら。
まるでそれが使命だとでもいうかのように、彼女は極々自然に首に手を当てる。
「なんでいっつも首に手あててんの?」
ある晴れた日の、夕方のことだった。最終コマが終わった講義室にて。
まるで彼女は今初めてその癖に気づいたかのように目をパチクリとさせた。
「え…、もしかして、気づいてなかった?」
「いや、自覚はあったけど指摘されたのは各務くんがはじめて」
そう言いながら、彼女は首を傾げる。今更ながらにその癖の意味を考えているらしかった。
「…脈、計ってるのかも、無意識のうちに」
「脈なら手首でも計れるじゃん」
「首の方が分かりやすくない?」
そう言われて、俺は改めて首と手首に交互に左手をあてる。確かに、脈打ちは首の方が分かりやすかった。
「確かに。首の方が生きてるって実感するかもね」
「でしょ?」
窓から差し込む夕日が彼女の首を赤く照らす。吃驚するくらい綺麗き透き通った首だった。
*******
「7回」
「え?」
「さっきの授業そんなに退屈だったの?」
あの会話以来、俺と彼女の会話する回数は自然に増えていった。
一度指摘し彼女が肯定してしまった以上、後は嫌でも目につく。…彼女が、俺の好みドストライクだったのもきっと理由の1つ。彼女は、悔しいくらいに俺が過去に関係を持った誰よりも美しく、儚かった。
「各務くんサークル活動とかしてる?」
「将棋部。鷹無さんは?」
「弓道部。高校からやってるの」
「へぇ…、カッコいいね。あれって、やっぱり中心に近い方が得点高かったりするの?」
「弓道はアーチェリーと違って、当たった本数で勝敗を決めるから、的に点数とかないの」
「それは知らなかった」
…春が終わり、夏が過ぎ、秋が深まる。
よくも悪くも、俺達の仲はゆっくりと発展していって、雪が降る頃には俗にいう“恋人”になっていた。
「久弥ー、ココア飲んでいい?」
「どーぞ」
俺の部屋で同棲を始めて1週間。お互いを名前で呼び始めたのも丁度その頃。
「そしたらねー」
…首に手を当てる癖は相変わらず。
俺は彼女の手を握るようにして、そっと首に手を当てた。
「久、弥…?」
「莉緒」
トクリトクリと、彼女の生きる音が、手を伝って俺へと繋がる。
ゆるりゆるりと、上下するように撫でて、もう片方の手で彼女の手をゆっくり引き剥がす。
驚きと戸惑いと、それとほんのちょっとの怯えで揺れる彼女の瞳。
「怖い?」
「え…?」
「怖い?俺が」
手はそのままに、顔だけあげて彼女に問う。
優しい声音に安心したのか、怯えを否定するかのように彼女は口を開く。
「怖く、ないよっ…!」
「本当?」
「うん」
そうか、ならばとほんの少しだけ力を入れる。
握っている手が硬直して、眉根に深く皺が刻まれる。
「あー…、やべぇ」
「ひさ…や」
殺してぇ、という呟きは直ぐ様空気中に霧散する。彼女に届いたかどうかは定かではない…が、彼女はいつもと違う俺にやっと警鐘を鳴らしたらしい。
「久弥っ…、離して!」
「やだ」
「おねがっ…い」
ぎち、と力を段々加えていく。ぴくぴくと体が小刻みに震えて、泣きそうな…否泣きながら俺を見る。
ぱたぱた、と彼女の涙は重力に従って床へ、そして俺の腕へ。
苦痛に歪む彼女の顔、絞める力は収まりそうにもなかった。