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順番をまちがえた夫へ

三年の白い結婚で持参金を愛人に貢いだ夫へ——あなたが縛るために書かせた目録、離縁の日に耳を揃えてお返しいただきます

作者: 真神 慧
掲載日:2026/07/24

あと一本、背中の縫い糸が切れたら、私は社交界ではなく仕立て屋の端切れ籠へ直行である。最後の一張羅には、最後まで一張羅らしく踏ん張っていただきたい。主人より先に服へ祈る妻というのも、三年も白い結婚を続ければ珍しくないはずだ。


 扉の前で肩を引き、私は淑女の微笑を装着した。無料で何度でも使える、我が家でもっとも費用対効果のよい装身具である。


「まあ、エステル様。いらっしゃるとは思いませんでしたわ」


 長椅子の中央で、ロザリー様がギルベルトの腕に手を添えていた。ご自分の茶会で夫人の席へ愛人を座らせるとは、わが夫ながら配置に品がない。椅子は上等、座る人間で大幅減価。家具が気の毒でならない。


「お招きいただき、ありがとうございます」


「招いてはいない」


 ギルベルトは私を見ずに言った。妻一人へ向けるときだけ、この男の命令形はよく肥える。


「帰れ。ここはお前が来る場所ではない」


「まあ、あなた。せっかく参りましたのに」


 銀の砂糖挟みは縁が擦れて少々目減り。茶器は揃いだが、受け皿の一枚に細い亀裂。焼き菓子は二十四枚、客は十二人。一人二枚、予備なし。主催者の懐事情は、皿の上ほど正直である。


 とりあえず一枚は死守しよう。離縁は空腹でもできるが、空腹でする離縁は語尾が荒れる。


「奥様がお見えになるなら、もっとお菓子を用意しましたのに」


 ロザリー様は気遣わしげに首を傾けた。奥様には菓子も席も用意していないけれど、心配だけはしております。なんとお安い善意だろう。砂糖より安い。


 その髪で、赤いものが揺れた。


 珊瑚を五つ。小さな実のようにまとめた細工。金の枝は一本だけわずかに左へ流れ、留め金の付け根に、磨いても消えない針先ほどの傷がある。


 品代を数える指が止まった。


 母のものだ。


 あれだけは、値札にならなかった。


 ロザリー様が顎を上げると、珊瑚がまた光った。私に見せる角度をよくご存じだ。ギルベルトの袖へ絡めた腕も、珊瑚の赤を隠さない位置にある。


「素敵でしょう? ギルベルト様からいただきましたの」


 奥方たちの笑い声が重なった。贈り物を褒める声はあるのに、私へ菓子を勧める手は一本も伸びない。夫婦のことへ口は出せない方々ほど、夫の愛人が妻の形見を着ける席では口がよく開くらしい。


 私は爪が掌へ触れる前に指をほどいた。


 簪を取り戻す。店もだ。


 今日の私は、追い出されに来た妻ではない。返品の確認に来たのである。返品物がずいぶん楽しそうに腕を組んでいる点だけが、少々気に入らない。


 三年前も、ギルベルトは同じ声で私へ命じた。


 婚礼衣装を脱いだ翌朝、夫婦の朝食より先に用意されていたのは、長机と二通の書類だった。新妻へ花を贈る代わりに財産を数えさせる。枯れないし、水も要らない。なるほど、夫らしい。


「お前が家へ持ち込む物は、ここにある分だけだ」


 ギルベルトは椅子へ深く座り、私を立たせたまま紙面を指で叩いた。


「後になって、これは自分の物だった、あれも母親の物だったなどと言い出されては困る。品名を読み上げろ。俺が受領した物には署名する」


「かしこまりました」


「宝石は重さまでだ。店育ちなら、それくらいできるだろう」


 できるとも。金の純度も、石の瑕も、夫の底値も見分けられる。最後の一つだけは婚礼前から分かっていたので、口には出さなかった。


 私は上から順に品名を読み、ギルベルトは各行の末尾へ署名した。銀食器も反物も全件並べれば、婚礼より長くなる。あの日、私の舌へ残ったのは二項だけだった。


「珊瑚簪 一、母より」


「現物を確認した。署名する」


 羽根ペンが紙を擦った。癖の強いGの頭文字が、珊瑚簪の行へ収まった。


「異存はないな」


「目録に、ございます」


 次の行では、声を平らにするのに少し時間が要った。


「母の店の沽券 一」


「それもお前の持参物として受け取る。経営は家の管理下へ置くが、勝手には触れさせん」


 いま思えば、泥棒に倉の鍵を預けながら「盗難防止」と札を貼るような読み合わせだった。だが当時の私は、彼が署名する指だけを見ていた。一本、一署名。よろしい。書くがいい。念入りに、逃げ道まで塞ぐように。


 二通への記入が終わると、戸口で待っていたオスカーが一通を受け取った。母の店で長く番頭を務めた彼は、紙を折らず、革張りの書類箱へ納めた。


「店へ持ち帰り、保管いたします」


「紛失するな。これは妻が余計な物を要求しないための証文だ」


「承知いたしました」


 オスカーはギルベルトへ頭を下げ、私には何も言わなかった。ただ、箱の留め具を二度確かめた。


 あれから三年間、ギルベルトは私の食費を一斤のパンまで数えさせた。礼装を新調したいと言えば、去年の布がまだ身体を覆うだろうと退けた。その一方で、ロザリー様には私の持参物を箱ごと開かせ、「好きな物を選べ」と言った。


 廊下の向こうから、その声を一度だけ聞いたことがある。私は扉を開けなかった。開ければ、この淑女の微笑を修理に出す必要があったからだ。


 そして現在、修理代のいらない微笑をつけたまま、私は茶会の中央まで歩いた。


「本日は、お返しいただきたい物があって参りました」


「何の話だ」


「わたくしたちの離縁と、あなたがお預かりになった持参物についてです」


 焼き菓子へ伸びかけていた手が幾つも止まった。よい判断である。離縁話を聞きながら菓子を噛むと、むせたときに品位を落とす。


 ギルベルトはようやく私を正面から見た。


「離縁だと? お前が決められることではない」


「三年間、寝室も食卓も別でしたもの。夫婦として使われていない契約を、棚卸しするだけですわ」


「口を慎め。お前は俺の妻だ」


「その妻の珊瑚簪が、どうしてロザリー様の髪にございますの?」


 ロザリー様の指が耳元へ上がった。珊瑚を隠すのかと思えば、髪を払っていっそう見せる。取り巻きの笑いがまだ味方についているうちは、強気もよくお似合いだ。


「いただいた物ですもの」


「どなたから?」


「ギルベルト様に決まっているでしょう? 奥様はもうお使いにならないからと」


「妻が使わない品は愛人へ移る。便利な家計簿ですこと」


「人聞きの悪い言い方はよせ」


 ギルベルトが立ち上がった。私一人なら、ここで声を重ねれば押し切れると思っている。三年間の成功実績つき。ずいぶん古い相場をご覧だ。


「持参金など家へ入れば同じだ。あれは家の品で、俺には処分する権利がある」


「では、婚礼の翌朝に作らせた書類は?」


「あんなものは、お前の持ち物を限定するための紙切れだ」


「その紙切れに、一点ずつ受領のご署名をなさいましたね」


「もうない。処分した」


 ロザリー様が唇へ指を当てて笑った。


「追い出される奥様が、昔の紙一枚を頼りになさるなんて。お気の毒ですわ。ギルベルト様がないとおっしゃるなら、ないのでしょう?」


 奥方たちも小さく笑った。ロザリー様と目を合わせ、ギルベルトの機嫌を確かめてからの合唱。皆様、連帯保証人の顔つきがよくお似合いだ。


「そうですわね」


 私は菓子皿へ手を伸ばし、残り二枚になっていた焼き菓子を一枚確保した。ここまで来て食いっぱぐれては、三年間の節食に対して申し訳が立たない。


「その前に、控えを拝見しましょう。オスカー」


 扉が開いた。


 黒い上着を着たオスカーが、革張りの書類箱を抱えて入ってきた。三年前と同じ箱だった。留め具の傷まで同じ。人の顔より帳面を信用する男は、こういうとき頼もしい。顔は老けるが、受領署名は老けない。


 ロザリー様の笑いが、まず薄くなった。ギルベルトは腰を浮かせたまま、座ることも立ち切ることもできない。中途半端な姿勢は脚へ来る。どうぞそのまま。


「なぜお前がここにいる」


「品と勘定の確認を求められました」


 オスカーは机の端へ箱を置き、二本の鍵を順に回した。中から取り出した紙には幾つもの折り目がついていたが、破れも染みもない。彼は角へ指を添え、折り目をゆっくり伸ばした。


「店に納めた控えです」


「そんなものは無効だ!」


「こちらを」


 オスカーはギルベルトの前へ書類を開いた。右端には、品名ごとに並ぶ署名。珊瑚簪の行にも、店の沽券の行にも、癖の強い文字が収まっている。


「一文も違いません」


 ギルベルトの指が、署名欄の上へ滑った。隠したところで文字が消えるなら、世の債務者は皆、手袋だけで生きていける。


「これは……受け取ったという確認にすぎん」


「ええ。あなたが、わたくしの持参物を一点ずつ受け取った確認です」


 贈与ではなく預かり物だと、彼自身の署名が決めている。それだけで十分だった。


「家へ入った以上は俺の物だと言っている!」


「それでしたら、なぜわたくしの所有を限定するため、これほど念入りに品名を記したのです?」


「家の財産を守るためだ!」


「素人の紙切れにしては、あなたのご署名がずいぶん念入りですこと」


 奥方たちの口元から笑いが消えた。先ほどまでギルベルトの言葉へ頷いていた首が、今度は紙面の署名を追って少しずつ下がる。


 ギルベルトは手の下へ署名を隠したまま、私を睨んだ。


「離縁など認めん。今すぐ退席しろ」


「その前に、全品の返還を」


「ない物は返せん!」


 語尾だけが大きく、声の芯は細かった。なるほど。本日の査定、外見良好、中身に空洞あり。


「宝石も銀器も、使った物はある。売った物もある。家のために必要だった」


「ロザリー様の首飾りも、家のため?」


「彼女は客人だ。体面を整える必要があった」


「わたくしの礼装代は?」


「妻が家計を食い潰すのは許されん!」


 同じ口で言い切れる胆力だけは高く買いたい。買わないけれど。置き場所がない。


 そのとき、戸口に立っていた男が一礼した。茶会客ではない。書類袋を持ち、外套も脱いでいなかった。


「お話の途中、失礼いたします。お預かりする証書を」


「待たせたな」


 ギルベルトはオスカーの控えを押し退け、脇の書類鞄を開いた。取り出した一枚を見て、私の胃が焼き菓子どころではなくなった。


 母の店の沽券だった。


「それを、どちらへ?」


「お前には関係ない」


「わたくしの持参物です」


「ロザリーの実家へ一時的に貸すだけだ。先方の借り入れが片づけば戻る」


 戻る。なんと便利な言葉だろう。出ていく金、品、夫は、皆そう言われる。戻ってきた試しはない。


 使者がギルベルトから沽券を受け取り、書類袋へ差し入れた。踵が扉へ向く。あと六歩で廊下、七歩で母の店が他人の借金へ沈む。


「お待ちなさい」


「動くな」


 私とギルベルトの声が重なった。使者は足を止めたものの、書類袋を抱き直した。


「エステル、これは家の判断だ。女が商いへ口を出すな」


「その女の母が残した店です」


「死んだ者の看板にいつまでしがみつく。店など、借金の穴を塞げるうちに使えばいい」


 数を数える癖が消えた。


 銀器も、布地も、菓子も見えない。書類袋の角だけが、使者の腕の内側へ沈んでいく。


「返してください」


「断る」


「あなたへは申し上げておりません」


 私は使者を見た。彼はギルベルトと私を見比べ、袋を差し出すことも運び出すこともできずにいる。


「その沽券は、受領署名つきの目録に記載されています。所有者が異議を述べた後も運び出すのでしたら、あなたもこの場でお名前を控えに加えてくださいませ」


 使者の腕が止まった。ギルベルトは彼から袋を奪い戻したが、今度は戸口へ近づけなかった。


「脅すつもりか」


「確認ですわ。あなたがお好きな」


 ロザリー様が立ち上がった。両手は珊瑚簪へ重ねられている。


「店のことは知りません。でも、この簪はわたくしの物です。いただいた物ですもの」


「ロザリー、座っていろ。俺が話す」


「だって、ギルベルト様がお贈りくださったのでしょう? 奥様には必要ないと。そうおっしゃったわ」


 絡んでいた腕が、するりとほどけた。代わりにロザリー様はギルベルトの背を押し、私との間へ立たせる。甘い声の盾とは、なかなか新しい。ただし盾にされた本人の顔色が悪い。


「お前が欲しがったんだろう。箱から自分で選んだ」


「ギルベルト様が選んでいいとおっしゃったのよ!」


「だからといって、何でも持っていく女があるか!」


 夫婦ではないお二人の台所事情が、たいへんよく煮立ってきた。だが今は、蓋をしておこう。


「ロザリー様」


「近寄らないで。これはわたくしがいただいた物よ」


「拝見しても?」


「なぜ?」


「お母様の物だとおっしゃるなら証明なされば、と先ほど笑っていらしたでしょう」


 誰かが息をのみ、ロザリー様の背後で椅子が軋んだ。味方の笑いが消えると、彼女の顎は先ほどよりわずかに下がった。


「見るだけよ」


 ロザリー様は留め金を外した。結い上げた髪が少し崩れ、珊瑚簪が抜かれる。両手で握ったまま、彼女は柄の端だけを私へ差し出した。


 私は珊瑚の枝へ指を添えた。いつものように裏返す。


 金の根元。留め金の脇。


 母の店の刻印があった。


 小さな楕円と、その中に重なる二本の線。幼いころ、母の膝へ顎を載せて、打刻のたびに跳ねる槌を見ていた。曲がったら売り物にならないのよ、と母は言った。


 私の指は、刻印の上で止まった。


「その簪だけは、値を申しません。母のものですから」


 オスカーが深く頭を下げた。


 ロザリー様の唇が開いたが、声は出なかった。珊瑚を押さえる爪だけが白くなる。


「母の店の印です」


 ギルベルトが、署名を隠していた手をどけた。


「そんな古い簪一つで騒ぐな。似た物などいくらでも——」


「目録に、ございます」


 婚礼の日と同じ一句を、今度は夫へ返した。


 ロザリー様の指が一本、また一本とゆるんだ。最後まで留め金へ引っかかっていた小指が離れ、簪の重みがすべて私の掌へ移る。


 返す側の顔とは、こうなるのか。


 三年分の値をつけるなら、とてもお支払いできまい。だからこの一品だけで、勘定は私の勝ちにして差し上げる。


「わたくし、盗んだのではありませんわ。ギルベルト様が勝手に——」


 ロザリー様は彼の隣から一歩離れた。先ほどまで絡めていた腕を背へ回し、髪の崩れを隠す。


「お前も知っていただろう!」


「奥様には不要な物だと聞いただけですもの!」


 奥方たちは互いの顔を見た。最初の一脚がロザリー様から離れ、次の一脚がギルベルトの隣から引かれる。床を擦る音が続き、二人の周りだけ、不自然に広い空間ができた。


「夫婦のことへ、口は出せませんもの」


 先ほどとは別の意味で、同じ建前が使われた。たいへん便利である。私なら中古品としても扱わない。


「沽券を」


 私はギルベルトへ手を差し出した。


「これは俺が管理してきた」


「三年間、母の店を閉め、ロザリー様のご実家の借金へ差し出すことを管理とは申しません」


「家の体面が——」


「もう、あなたの隣に守ってくださる方はいらっしゃらないようですけれど」


 ギルベルトが周囲を見た。奥方たちは誰も目を合わせず、使者も書類袋を閉じて一歩退いている。


 彼は沽券を握りしめた。紙が曲がる。オスカーの眉がほんの少し動いた。勘定の合わないこと以上に、書類を乱暴に扱うことも嫌いなのだ。


「離縁すれば、お前は何者でもなくなるぞ」


「いいえ」


 私は片手に簪を載せ、もう片方の手を差し出したまま答えた。


「店主になります」


 ギルベルトの指から、沽券が離れた。


 紙の端が私の掌へ触れ、重みが移る。オスカーがすぐに両手を添え、折れかけた角を伸ばした。簪と店。母の手からこぼれた二つが、ようやく同じ側へ戻った。


「残りもすべて、お返しいただきます。現物がなければ同額で。三年分、耳を揃えて」


「そんな金がどこにある!」


「ロザリー様へ贈った首飾りや礼装を売れば、いくらかにはなるでしょう」


「わたくしの物よ!」


「持参物でなければ、どうぞお二人でご相談を。わたくしの勘定からは外します」


 ああ、なんという解放感。夫と愛人の痴話喧嘩を、自分の損失として数えなくてよい日が来るとは!


 離縁の書面へ署名するときも、ギルベルトは家の体面を口にした。だが、茶会の客が一人ずつ席を立つたび、その声は細くなった。最後には羽根ペンの音だけが残り、婚礼の日と同じ癖のある署名が、今度は夫婦関係の終わりを受領した。


 ロザリー様は髪を押さえたまま、誰にも見送られず別の扉から出ていった。ギルベルトは呼び止めなかった。呼び止めても戻ったかどうかは、私の帳簿へ記す必要がない。


 残る持参物は、控えに沿って返還された。失われた宝石と銀器は代金で、反物と調度品は現物で。ギルベルトが売却額をごまかそうとするたび、オスカーが一行だけ数字を読み上げたので、最後には全額が揃った。


 三年間の白い結婚は、それで終わった。


 ◇


 母の店の扉を開ける朝、私は新しい服を着た。


 豪華ではない。けれど背中の縫い糸を気にせず腕を上げられる。それだけで踊り出したい。店主が開店前から踊ると棚が揺れるので、今日は自重した。今日だけは。


 磨き直した飾り棚の中央へ、珊瑚簪を据えた。ほかの品には値札をつけたが、そこだけは空けてある。売り物ではない。店の名前を、私の名前へつなぐ印だ。


 オスカーは帳場へ新しい帳面を置き、無言で菓子皿を足した。私が一皿に盛った焼き菓子では足りないと見抜いたらしい。さすが元番頭。店主の食い意地まで帳尻を合わせてくる。


「多すぎませんこと?」


「開店祝いです」


「売り上げが出る前から、この量は贅沢では?」


「三年分です」


 それなら仕方がない。たいへん正しい勘定である。


 開店祝いの菓子は倍にした。三年分となれば、まだ慎ましいくらいだ。


 扉の鈴が鳴った。


 最初の客は、祖母に手を引かれた小さな女の子だった。飾り棚の珊瑚簪を見つけ、値札がないと不思議そうに首を傾げる。


「これは、いくらですか?」


 私は簪を裏返さなかった。刻印の場所なら、もう指が覚えている。


「こちらはお売りできない品なのです」


「いちばんきれいなのに?」


「ええ。ですから、ここに飾っておりますの」


 女の子が納得したように頷き、その祖母が細い銀の首飾りを見せてほしいと言った。私は鍵を取り、飾り棚を開く。


 値段を気にせず焼き菓子を勧め、自分の店で、自分の品を、自分の名で売る朝だ。


「いらっしゃいませ」

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。

作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。

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