虫喰い
ジージーっと鳴く蝉の声と共に、爽やかな風がサーっと蒸し暑い部屋を通り過ぎた。
市民プールでひと泳ぎしてきた僕は、親友のタケルと一緒に僕の家でアイスを咥え、ダラダラしていた。
パンッ!
唐突に、皮膚同士がぶつかり合い弾けるような高い音が部屋に響いた。
「おいっ、蚊ぁいたぞ!ぜってぇ食われた!」
タケルのキレ気味な声とともに、不愉快な弱々しい羽音が耳を掠めた。
「僕にも聞こえた!殺虫剤あったかなぁ…」
僕は棚を漁り、奥の方から殺虫剤を見つけた。
部屋全体に殺虫剤を撒き、これで大丈夫だろうとため息をついた。
「あっ!居たぞ!」
タケルは床を指さし、息絶えた蚊を嬉しそうに見つめていた。
武尊は意気揚々と目を輝かせ、殺虫剤の威力に驚嘆していた。
「もっと別の虫にかけてみようぜ!他の虫はどんな死に方すんのかな!」
僕は乗り気ではなかったが、タケルの勢いに押されて一緒に庭に出た。
「この殺虫剤、外で使う時は射程距離が2mだって。あんま近くで虫見たくないし僕嫌だよぉ」
僕が乗り気でないのを見てタケルは墓をビビりと言いながら殺虫剤のスプレーを奪い取った。
「お!虫みっけ!」
タケルの興奮した声と共に殺虫剤のシューッという音が聞こえてきた。
タケルは次々と虫を見つけては殺虫剤をかけていき、虫を殺して回った。
ひと通り庭の虫を殺したタケルは庭を出て、家の外の虫まで手にかけた。
「あんまり殺しちゃダメだよ…お母さん言ってたよ、無意味に殺すとバチが当たるって…」
タケルは元々、一度興味が出たらそれを飽きるまで続けるタイプだった。
そんな彼が熱中している最中に声をかけても届くわけがなく、またもやビビりと罵って虫殺しを続けた。
そして、タケルの持っていた殺虫剤が底を尽き、軽快なシューッという音はどんどんと弱々しくなった。
タケルは無くなった殺虫剤のスプレーを縦に振りながら、
「ちぇっ、無くなったのかよ!まぁいいや、飽きたし帰ろーぜ!」
と、スプレーの空き缶を僕に押付けながら大股で帰っていった。
その夜、この出来事をお母さんに話した。
「タケルくんねぇ…いい子なんだけど、ちょっと乱暴なのよね…昔からここの土着信仰で虫は大事にしてるし、何事もないといいんだけれど…」
お母さんが眉を八の字にしながらボソッと呟いた。
次の日もタケルと市民プールへ向かった。
外プールが解放してあり、泳ぎが得意な僕たちは大人たちが使うような50mプールへ飛び込んだ。
2時間後、ひと通り遊んだ僕たちは更衣室に戻った。
「やべ!めっちゃ蚊に食われてる!かいー!」
タケルの方を見ると、脚には軽く20箇所を超える赤い虫刺されの跡があった。
「流石に、多過ぎじゃない?僕でもせいぜい、いち…に…さん…4箇所なのに!」
驚いた僕はらしくもなく声を大きくした。
「まぁ、俺昔から蚊に食われやすいタイプだからなぁ…」
脚をボリボリと掻きながらニシシとタケルは笑った。
そうして僕たちは次の日また次の日と市民プールに赴いた。
しかし、タケルの虫刺されが日に日に増えていった。大量に赤くなるタケルの体を見て、殺虫剤を撒いて回ったあの日の母の言葉を思い出し、少し怖くなった。
「やっぱりバチ当たったんだよ…神社とかに行ってお祓いとかしなよ…」
恐る恐る声をかけたが、タケルはそんなものと相手にしなかった。
次の日、電話で毎朝来るタケルからのハツラツとした遊びの誘いは聞けなかった。
どうしても不安になった僕は、タケルの家に電話をかけた。
プルルルルルル…ガチャ…
「もしもし…どなたでしょうか…?」
電話からはタケルではなく、今にも消えそうな武尊の母親の声が聞こえた。
「もしもし、タケルくんいますか?」
「あぁ…いつも遊んでくれてありがとうね…タケルは今宿題してて遊べないの…また遊んでくれるかしら…?」
そう言うとタケルの母親は電話をすぐに切った。
僕は電話が切れた瞬間、最悪な事を想像してしまった。
タケルは、宿題を前の日の夜に絶対に終わらせる。
あんな性格だけど、自分のやりたいことには滅法ムキになるから、宿題をやり忘れたことはほとんどない…。
それに、あのタケルの母親の声。
タケルは非常に母親に似ており、外見もそうだが性格も似ている。
いつも元気なタケルの母親が普段であんな声は出さない。
次の日、僕の想像は当たってしまった。
タケルが死んだ。
葬式に参列した僕とお母さんは、悲しみに震えた。
しかし、葬式の中で一度もタケルの棺は開けられることがなかった。
葬式が終わったあと、タケルの母親からお母さんに聞かされたことをお母さんは教えてくれた。
タケルが晩御飯の時間で呼ばれても部屋から一切降りてこなかったので、タケルの母親が見に行った所、窓が空いていてベッドの上に人型のモゾモゾと動く黒い塊があった。
その黒い塊はもはやうるさい程の羽音を立てた大量の蚊だった。
そうして、タケルの母親が悲鳴をあげた瞬間にその蚊達は見つかったと言わんばかりに一斉に飛び立ち、逃げるように窓から出ていった。
そして、全身に掻き毟るような爪痕を残し、タケルは苦悶の表情を浮かべながら、ベッドでぶくぶくに腫れ上がって死んでいたそうだ。
あの時、タケルをしっかり止められていたらこんなことにはならなかったのかと僕は今でも酷く後悔している。