転移
気がつけば、足先に硬い石畳の感触がある。頭を上げると、そこは見たことのない路地裏だった。薄暗い石の壁、かすかに灯るランタンのような明かり。ウタカミで見かける電柱やコンクリートの建物ではない。パニックになりそうな呼吸をこらえ、あたりを伺う。足音が近づいてきて、見慣れぬ洋風の服を着た誰かが声をあげた。
「大丈夫ですか? 倒れて……けがをしてるみたい……」
日本語のように聞こえるその声に、私は頭が真っ白になる。どうして言葉が通じるのか、ここはどこなのか。力が入らないまま、相手の女性に支えられて、私は細い路地を抜けた。すると、そこには異色な景色が広がっていた。馬のひづめが鳴り、石畳の道を人々が行き交っている。見慣れぬ建物や露店がずらりと並び、甲冑らしきものを着た人たちもちらほら見える。
「歩けそうですか? 痛むところがあったら言ってくださいね」
女性はそんなことを言いながら、私の腕をそっと支えてくれる。その落ち着いた声が妙に心強くて、私は少しだけ深呼吸をする。すると彼女が私の顔をのぞき込み、安心させるように微笑んだ。
「私、レナーテといいます。ここからあまり遠くないところで薬屋をやっているんです。まずはそこに行きましょう。手当てをしないと」
私の国では考えられないほどの洋風の町並み。けれど、彼女の口から出る言葉はしっかりと頭に入り、意味がわかる。不思議を感じる余裕すらないまま、私はレナーテに案内されるがまま、どこか懐かしいようなハーブの香りが漂う店へ足を踏み入れた。
女性はレナーテと名乗り、私を薬屋らしき所に連れていき、傷の手当てをしてくれた。寝台に横になると、不思議なくらい静かな空気が耳に届く。けれど私の胸の奥は鼓動が激しく、じっとしていられない。彼女は優しく微笑み、「ゆっくり休んでいい」と言ってくれる。私は震える声で感謝を伝えるのが精一杯だった。
何もわからないまま、どうにか息を整える。するとレナーテが椅子を引き寄せ、私のそばに腰を下ろした。
「急にごめんなさいね。見ず知らずの人を店に連れてくるなんて……でも、あなた倒れていて、とても放っておけなくて。話せるなら、お名前を聞いてもいいですか?」
「……鶯蘭って、いいます」
彼女がその名を繰り返すようにそっと口ずさんだ。「オウラン、か……珍しい響きね。どこか遠い地方の名前なのかな?」そう言いながらも、深くは聞いてこないらしい。
「難しかったら、無理に言わなくてもいいですよ。私は治療するだけ。ゆっくり休んでください」
言葉に甘えてまぶたを閉じると、遠くで誰かが小声で話している気配がした。どうやらレナーテの父親らしき人が帰宅したらしいけれど、その会話はほとんど聞き取れない。異国めいた響きの言葉が混じっているようにも感じるのに、なぜか断片的に理解できる気がして、私はますます困惑した。
それから何日か、私は彼女の薬屋の奥で横になりながら、ぼんやりと店先の様子を眺める生活を送る。瓶に詰められた草薬やスパイス、ローブを着た人がちらりと見せる魔術のような光。ここがウタカミではないことを、いやというほど思い知らされる。訪れた客の話を盗み聞きすれば、この国はローゼンバイルと呼ばれるらしい。どうやら中世の封建制度を思わせる仕組みがあるようで、騎士や貴族がそれぞれの領地を治めているという。
ある昼下がり、レナーテが店の掃除を終えて戻ってくる。私に気づくと、笑顔を向けてこちらへ来た。
「具合はどう? まだ痛むようならもう少し横になってても構わないわ」
「だいぶ楽になりました。……その、いろいろありがとうございました」
礼を言うと、レナーテは首を振って、ふわりとしたスカートの裾を揺らした。
「私でできることなら何でも。最近は兵士たちが増えて街が落ち着かないし、私も不安なの。だから余計に、放っておけなかったのよ。大丈夫そうでよかった」
彼女はそこで少し言葉を切り、私の表情をうかがうように視線を下げた。
「でも、もし聞いていいなら……あなた、本当はどこから来たの? 言葉が通じるのに、見たことのない服装で、それに傷だらけだったから……」
「……私……」
言葉が出ない。ウタカミという名を出していいのかもわからないし、自分でも何がどうなっているのか理解していない。レナーテはそんな私を焦らすことなく、そっと肩に手を置いた。
「無理に言わせようとするつもりはないよ。父にも言っておいたし、ここで落ち着けるならそれでいい。でも、困ったことがあったら言ってね。私、助けになりたいから」
その言葉に胸が熱くなる。ウタカミでは、こんなふうに親切にしてくれた人もいたっけ――女将さんが頭に浮かぶ。私はうっかり涙が出そうになるのをこらえ、「ありがとう」とだけ呟いた。
だけど、なぜ言語が通じるのか。なぜ私はここにいるのか。考えるだけで混乱して、頭が割れそうだ。レナーテもそれ以上は追及しようとせず、「大変な目に遭ったのね」とだけ言う。もし私が「東の国」ウタカミから来たと明かしたら、彼女はどう反応するだろう。向こうの国の人間を恐れるような空気は感じないが、何とも言えない。とにかく今は、体を休ませるほかない。
やがて足の痛みがひいてくると、レナーテに連れられて少し街を歩くようになった。石畳の広場や古めかしい教会、大通りには露店が並んでいて活気にあふれている。けれど、甲冑姿の兵士も多く、いかにも物騒な空気が漂っていた。通りの角で立ち止まると、レナーテが小声で言う。
「近頃、領主が兵士を増やしてるの。あなたも見たでしょう? 変に刺激しないように気をつけてね。戦が近いって、みんな噂してるのよ」
「戦……?」
私がぎこちなく反応すると、彼女は人目をはばかるようにちらりとあたりを見回し、声を低くした。
「詳しいことはわからない。ただ、騎士団が急に訓練を強化しているし、どこかの領主が“海の向こう”を警戒しているとか。私たち庶民には何も情報が降りてこないの」
私の国でも軍拡が進んでいる。こっちの国でも騎士や魔術師が訓練をしている。凪の海を隔てて互いが互いを知らないまま、何か大きな衝突が近づいているんじゃないか――私の胸は苦しくなる。ここには普通の人が普通に暮らしているのに、戦争が奪うのはそういう穏やかな時間だ。誰もが察していながら、それを声高に叫ばない。ウタカミでもそうだったし、ローゼンバイルも同じらしい。
「オウラン、どうかした?」
レナーテが私の顔をのぞき込む。私はどう返せばいいのかわからない。自分の不安を正直に打ち明けるべきか、黙ってやり過ごすべきか。
「……ちょっと、考えごとをしてた。大丈夫、ありがとう」
「あんまり思いつめないでね。私も何もわかってないけど、何とかなるって信じるしかないから」
レナーテはそう言って微笑んだが、横顔には不安がにじんでいた。
ある夜、薬屋の裏部屋で一人、月を見つめた。昔、ウタカミで古本屋から借りた本に、世界樹の伝承が載っていたのを思い出す。あの巨大な樹と、結界。もしあの結界が壊れたら、両国はどうなるのだろう。ウタカミの兵器と、こちらの国の魔術がぶつかるのか。そんな恐ろしい未来を考えるたび、息が詰まる。
そのとき、部屋の戸が軽く叩かれた。
「オウラン、まだ起きてる? お茶を持ってきたの」
レナーテが木のトレーにティーポットとカップをのせて入ってくる。部屋の小さな卓上にそれを置き、笑顔で勧めてくれた。
「ラベンダーを少し混ぜてあるから、香りが落ち着くと思う。夜に考えごとしすぎると眠れなくなっちゃうでしょう?」
「……ありがとう」
湯気の上がるカップを両手で包むと、ハーブの柔らかな香りが鼻をくすぐる。私は小さく息を吐いてから、ぬるめになったハーブティーを口に含んだ。
レナーテは相変わらず私の正体を問いただそうとしない。優しさからか、あるいは詮索するのが怖いのか。私も黙ってカップを飲み干す。
「……少しは落ち着いた?」
「うん、ありがとう。変な時間にごめんね」
「何を言ってるの。私も夜更かしの癖があるから平気よ」
そう言うと彼女はくすっと微笑み、ランプの光の中で私の顔をじっと見つめた。
「ねぇ、オウラン。もし何かあったら、絶対にひとりで抱え込まないで。私、あなたがふと寂しそうな目をするの、見てて辛いの……」
「……レナーテ……」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。私は一瞬、東の国での暮らしや下宿屋の女将さんのことを口にしそうになる。でも、今はまだうまく説明できない。ただ「ありがとう」と言うのが精一杯だ。彼女はそれで察したように、静かにうなずいてから部屋を出ていった。
私はどうしたらいいのだろう。帰り方はわからない。もし帰れたとしても、ウタカミでは私が行方不明になったまま、軍の実験が続いているかもしれない。結局、どこに行っても私は流されるしかないのか。レナーテの気遣いが痛いほど身にしみる。こんな私に、いったい何ができるのか。
窓を少し開けると、薬草の香りが漂う店内から、かすかに聞こえてくるのは兵士たちの足音だ。街を巡回しているようで、金属の擦れる音がひどく冷ややかに響く。背筋に寒気が走ると同時に、なぜか下宿屋の女将さんの顔が脳裏に浮かんだ。彼女はちゃんと寝ているだろうか。ウタカミでは爆発事故の後、さらに厳しい統制が敷かれているかもしれない。誰も真実を話さず、表向きは「何も問題ない」と言い張る社会に、彼女が息苦しさを感じていなければいいのだけど。
翌朝、店に立ち寄った旅の商人が「領主の騎士団が大勢集合している」と教えてくれた。どうやら、結界の崩れだか、世界樹にまつわる不吉な情報だかが流れているらしい。みんな薄々「海の向こう」を意識しているのに、大っぴらには口にしない。私はレナーテに軽く質問してみるが、彼女も首を振るばかり。
「うちのお客さんも『戦が近い』なんて話はしてるけど、理由は口をつぐんでしまうの。領主様や上の人たちが何を隠してるのか、誰にもわからないのよ」
日暮れ、薬屋の前で空を見上げると、夕陽が街並みをオレンジ色に染めていた。遠くにそびえる城壁の向こうに、一瞬だけ大きな鳥か何かが飛んだように見える。まるで、未知の世界がすぐそばまで迫っているような錯覚を覚える。私は自分の胸に手を当て、鼓動が速くなっていることに気づく。
どこかで戦が起きそうだ。でも、私みたいな小さな存在に何ができる? それでも、黙って見ているだけはいやだった。ウタカミにも、ローゼンバイルにも、それぞれ当たり前のように生活している人がいる。名も知らぬ誰かが「敵国」であるはずがない。ただ、それを誰も大きな声で言えないまま、軍の思惑だけが膨れ上がっていく。私は何度も深呼吸をして、腹の底に沈んでいく不安をこらえた。
夜、薬屋の狭い寝台に横たわりながら、私は決めた。この国で見聞きしたことを、いつか何らかの形でウタカミに伝えたい。逆に、ウタカミが決して化け物の住む国じゃないことを、ローゼンバイルの人たちにも知らせたい。そんな当たり前の気持ちがどれほど通じるかはわからない。けれど、何もしなければ後悔だけが残る。
窓の外には丸い月が浮かんでいる。私の国でも、きっと同じ月が見えているはずだ。距離にして一万キロメートルもある凪の海の、その中央には世界樹が立ち、結界が陽炎のように揺らめいているのだろうか。もしその結界が綻べば、両国は否応なく接触することになる。私は想像だけで息苦しくなって目を閉じた。
どこかの路地で兵士たちが叫んでいるような声がする。鞘のぶつかる甲高い音が一瞬だけ響いて、すぐに静かになる。そんな光景を思い描きたくはないのに、まぶたの裏に浮かんで消えない。
明日から何をすればいいのか、具体的には何も見えてこない。それでも、私は小さく息を吐きだして決める。流されるだけのままじゃいやだ。どんなに小さい一歩でも踏み出さなきゃいけない、と。
朝になれば、レナーテの薬屋の棚を拭き、掃除をしながら彼女やその父に話を聞こう。ローゼンバイルにはほかにどんな地域があるのか。海岸近くから世界樹は見えるのか。騎士団や魔術師たちはどう動くのか。聞き出せることは全部、頭に叩き込む。私がここにいる限り、誰かの力になりたい。
窓を閉めると、夜の闇が濃くなっていく。ウタカミでもきっと、こうして夜が更けているのだろう。女将さんがあの下宿屋で、「あの子はいったいどこへ」と枕元で小さく嘆いているかもしれない。その姿を思うと、申し訳なさに涙が出そうになる。だけど、今は戻れない。戻りたくても、この国が私を引き留めているように感じる。もしかしたら、何か理由があるのかもしれない。
「大丈夫、私は生きてる」
誰にでもなく、そう呟く。声は枕に吸い込まれ、静かな部屋に淡い灯りだけが残った。私の鼓動と呼吸だけが聞こえる。心のどこかで、遠くの雷鳴のような予感を感じながら、私は再び目を閉じる。
夜は長く、世界樹はまだ見えない。けれど、目を逸らさずにいたい。いつかあの海と樹の先に、本当に見知らぬ国があるのなら、どちらの人々も無事でいられますように――そう祈りながら、寝台に身を沈める。私は鶯蘭。東の国から飛ばされてきた、たった一人の小さな声。
明日はどんな朝が来るのか、まだわからない。けれど、呼吸を整えて眠るしかないのだ。私の願いは、きっと誰かに届くはずだと信じて。