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予感

私はいつも、朝の薄暗い廊下で雑巾を握っている。壁に指先をついて、床板を一枚ずつ拭っていく。住み込みの女将さんが「あんたは猫みたいに静かだね」と笑うたび、何も言い返せないまま、ただ苦笑いする。私には派手な夢もなければ、行くあてもない。けれど、それで十分だと思っていた。ここは、今の私を受け入れてくれる場所だから。


一階の奥から、ラジオをひそめた声で聞くのが女将さんの日課らしい。今日は軍の車列がまた町の中心を通る、とか。誰も表立って口にしないけれど、皆わかっている。大昔はこの国は州や藩と呼ばれるような複数の地域に分かれていたが、血なまぐさい統一戦争を経て生まれたのが今のウタカミ。それ以来、軍事産業がこの国の基盤として根を張っているのは誰もが知るところだけれど、どうして急に武器だの戦車だのを作るペースが上がったのか、その理由を口にしようとする人は滅多にいない。


外に出ると、表の通りに軍のトラックが何台も並んでいた。荷台には迷彩服の兵隊が腰かけ、銃らしき長い影が見える。皆、正面を向いて無表情だ。彼らが行進するたびに、町の人々はどこかよそよそしく目をそらす。何かが近づいていると感じているのに、誰もはっきり口に出さない。それでいて、夜の居酒屋では「やっぱり海の向こう側の噂かね」なんて囁きが交わされると聞いたことがあるが、確かめようもない。


私――鶯蘭(おうらん)は、この下宿屋の住み込みだ。育ての親がわりだった祖父母を早くに亡くし、行く場所を失った私を、女将さんが拾ってくれた。二階には物置を少し広げて作った私の部屋がある。狭いし古いけれど、穏やかに過ごすには十分だった。朝は水仕事、昼は布団を干したり客の食事を用意したり。夜は控えめな照明のもと、日記を書くくらいが唯一の息抜き。そんな暮らしが、私にはちょうどよかった。


でも、あの噂が少しずつ現実味を帯びてくるにつれ、私も落ち着かなくなっていった。なぎと呼ばれる果てしない海の先に、何かがあるらしい。どうやら一万キロメートルも続く浅い海の中央に、“世界樹”と呼ばれる巨大な樹がそびえ立っていて、そこから先はどんな船も飛行機も行けないのだとか。視界が霞むほど遠方にあるらしいけれど、晴れた日には海岸の高い岬から、その樹の形がかすかに見えるとも聞く。


「鶯蘭! ぼんやりしてないで、そこの廊下をもう一度拭いておくれ」 女将さんの声で我に返る。私は慌てて雑巾をすすぎ、再び床をこする。木の板がひんやりしていて、気持ちが落ち着く。考えてみれば、この国には昔から軍事工場が多かった。何十年も前まではいくつもの国や藩に分かれていて、領地争いを繰り返していたと古い本で読んだ。でもそれが一度に統一された結果、巨大な軍組織ができ上がり、街に工場が乱立したという話だ。けれど、近頃の騒ぎはそれとは別のにおいがする。次の相手が、どこか別の土地なのかもしれない――そう思うだけで、胸がざわつく。


昼過ぎ、女将さんに頼まれて近所の市場へ買い出しに行く。通りにはどこか不穏な空気が漂っていた。服の端を引っ張って声をかけてきたのは、町内会の世話役らしいおばさんだった。 「鶯蘭ちゃん、軍の車列を見たかい? ほんと物騒だよね。こんなに大勢、何があるんだろう」 声をひそめて、言葉の最後は濁していた。私が問いかけようとしたら、すぐに背後から警戒するような視線を感じ、口をつぐんでしまう。おばさんも「あ、悪い悪い。こんな話はよそでするもんじゃないね」と笑いながら去っていった。


市場を回って野菜や味噌を買い、荷物を抱えながら町の外れにある古本屋に寄るのが、私の日課でもある。冬木書店というその店には、埃まみれの本が山積みになっていて、ときどき店主の冬木さんから文献の整理を頼まれる。下宿屋だけでは心許ないので、こうやってわずかなお金でも稼げるのはありがたい。きょうも店を覗くと、冬木さんがちょうど奥から顔を出した。


「おうらん、いいところに。ちょっと読めない字があってね」 そう言って見せられたのは、“凪の海”とか“世界樹”と書かれた古文書の切れ端だった。内容はぼんやりした伝承のようで、「海の向こうには、人ならざる者が住む地がある」とか、不穏な言葉がちらほら見える。こういう文献は軍や研究所が集めているらしく、冬木さんはこっそり小金をもらって資料をまとめているのだという。


「なんで軍がそんな古い話を調べてるんでしょうね」 「さあな。噂は噂さ。でも近頃、やけに熱心だ。お上も何か狙いがあるんだろうね」 そう言って冬木さんは眼鏡をクイッと押し上げる。わかっていても言わないのかもしれない。私も深入りする気はなかったし、大した意味も知らない。ただ、この国の雰囲気が変わりつつあるのは確かだ。


文献を読み終えたころには夕方が近くなっていた。店を出て、下宿屋へ戻る道すがら、軍のトラックが目の前を塞ぐように停まる。降りてきた兵士の一人がじろりと私を見た。戦前を知るはずもないのに、その鋭い視線からは、一昔前の恐怖政治でも思わせるような圧が伝わってくる。私は何も言わず、道を迂回して脇を通る。後ろから「変なところに入り込むんじゃないぞ」と誰かが吐き捨てるように言った。胸が冷たくなる。


下宿屋に戻ると、女将さんが急ぎ足で階段を降りてきた。 「あんた、どこほっつき歩いてるんだい。町が慌ただしいときは、家にいたほうがいいよ」 そう言う声には優しさも混じっていて、私は「はい、すみません」と答える。夕飯の支度を手伝いながら、遠くでまた軍の車列が走り去る音を聞いた。男たちがみな、あの重苦しい統制の空気に呑まれていく。それでも「まただね、物々しいね」で終わらせようとする雰囲気がこの町に染みついている。変なことを大声で言おうものなら、どこで誰に聞かれるかわからない。そうやって私たちは黙っている。黙りつつ、うすうす何かを感じ取っている。


その夜、布団に横になっても眠れなかった。窓をわずかに開ければ、風の音が染み込んでくる。裏通りで誰かが話している声が聞こえ、「凪の海」という言葉が一瞬だけ耳に飛び込む。だけど、すぐにかき消されてしまう。少しの好奇心を抱いて、そっと部屋を出ようとしたら、女将さんが廊下で待っていた。 「あんた、一体何を探ってるの。やめておきな。まずいことになるかもしれないよ」 声は冷たいというより、不安で震えているように聞こえた。私は口を開けずに俯く。彼女にこれ以上心配をかけたくないから黙ってうなずくしかなかった。


数日後、町外れの研究施設で爆発事故があったと耳にした。建物の一部が吹き飛んだらしく、大勢の軍人や研究員が駆けつけたと噂されている。詳しいことは伏せられているが、みんな察している。凪の海や結界について何か実験をしていたんじゃないか、と。けれど、こうした類いの話題は誰も表立ってしない。そっと囁いて、すぐに話を打ち切る。そうするうちに、かすかな違和感を抱えつつも日常が続いていくのが、ウタカミという国の空気なのだと思えてくる。


その夜、私はついに研究施設の方角へ足を向けてしまった。女将さんに言われたとおりやめておくべきだとわかっていたのに、どうしても気になった。町外れのフェンス越しには兵隊が警戒に立ち、あたりを睨みつけている。けれど、塀の裏のほうに回ると、瓦礫の散らばった場所が見えた。中から火花のような光がちらつく。近づきかけた瞬間、警備兵らしき人影が通りかかる。私はとっさに身を伏せるようにして隠れようとした。だが、次の瞬間、建物の奥で大きな閃光が弾け、足もとがぐらりと揺れた。


思わず叫び声を上げる。爆風みたいな風圧が私を押し返し、ゴトゴトと音を立てて塀が崩れる。逃げようと必死で手を伸ばすが、瓦礫が邪魔してうまく動けない。恐怖で心臓がどうにかなりそうだった。けれど、それより前に何か紫色の光が視界を覆う。息が詰まるような圧迫感に襲われ、私はあっという間に闇へと落ちた。

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