第9話
童子山は机の上にはさみを置き。感情の見えない声でゆっくりと話し始めた。
「言われたからやってるんだ。こうするしかないんだ」
ひとは話が見えないといった表情で、童子山に手を差し出したり引っ込めたりしながら、様子を窺っている。
俺は「やれやれ」と口に出して言いながら(どうしても一度言ってみたかった。微妙にタイミングを間違っている気もする)、
「誰に何を言われたんだよ」
と、続けた。
「いきなり現れて、会話のイニシアチブを取ろうとする君は誰だ」
「さっき面と向かって告白されたばかりだろ! 忘れたのかよ! ニッタだよ! 違うよ! 俺は誰だよ!」
意図せずノリツッコミを決めてしまったが、童子山は肩をすくめ、淡々と答えた。
「イルカの尾びれを切り取るように言われた。誰に言われてるのかは知らない」
童子山の言葉に、ひとが震え上がっている。俺もぞっとした。イルカのぬいぐるみの中身はチーさんだ。
いやでも、チーさんはぬいぐるみを依り代に使っているだけだから、別にチーさんの心配をする必要はないのか?
それでも尾びれが切り取られたら、今まで通り器用に立つことができなくなってしまう。
「ていうか、さっきまで『誰でもいいから彼氏を作れ』じゃなかったか? 別のクエスト受けてるじゃねえかよ」
「私には知らない男子に話し掛けるなんて無理だと判断されたんだ」
俺にはあんな、ラブからもコメからもほど遠い口調で告白してきたのに。
しかしこれで、童子山は二度命令に失敗したことになる。次はどんな命令をされるかわからない。
オペレーターが何者かはわからないが、ここは先輩に相談して童子山を保護してもらうのが賢明だろう。
「そういうわけで、童子山。俺は今からお前を連れて……ほあ?」
振り返ると童子山の姿が消えていた。廊下を走る彼女の足音だけを残して、教室の後ろの扉が開いていた。
「逃げやがった!」
「ちょっと待ってよ」
慌てて追い掛けようとしたが、ひとが怪訝な表情を浮かべながら俺の前に立ち塞がった。
「一体何が起こってるの?」
「いや、俺もよくわからない。童子山——あいつは転移者だぞ。今急いでるから、またな」
ひとはまだ何か言いたそうだったが、俺は教室の外へ飛び出した。
とはいえ、あいつがどこに行ったのか、どこを探せばいいのか、皆目見当もつかない。
開放されている教室を、一つ一つ回る。だが、童子山はどこにもいない。
廊下を駆け抜けて、校舎の外に出た。
校庭を横切り、普段は訪れることのない旧校舎の裏手へと向かった。息を切らしつつ視線を巡らせ、旧校舎の角を曲がると、途端に辺りが暗くなった。
最初は建物が原因で日陰になっているのかと思ったが、そうではなかった——
——目の前のすぐ先は、まるで世界が存在していないかのように真っ暗だった。
ゲームの未解放エリア——立ち入り禁止空間のようになっている。あまりの現実感の薄さに、思わず立ち止まった。
——これは考え過ぎるとまずい。
真っ暗闇の壁の手前、ちょうど境目のような場所に童子山がいた。見つけられたのは幸運と言えよう。しかし童子山は跪き、空間の、裂け目の下の方に手を伸ばしている。崖下に手を伸ばすように——
俺はゆっくりと歩み寄り、童子山を刺激しないように慎重に近づく。足音を忍ばせながら童子山のそばまで来ると、低い落ち着いた声で問いかけた。
「童子山……何をしているんだ?」
童子山は闇の下の方に手を伸ばしながら、振り返ることなく答えた。
「花を摘むんだ」
俺はおそるおそる、童子山の視線の先を追う。真下にどこまでも続く漆黒の崖、童子山の伸ばした手の少し先に、花が突き出ているのが見えた。
それは特に珍しくもない、見慣れた花だった。パンジーとかビオラとかそういう名の花だということは、植物に詳しくない俺でもわかる。
「なんで……花なんて摘むんだ?」
俺は童子山の横顔を見ながら訊いた。童子山の表情が少し曇った。
「……命令されたから。……命令を聞かないと、妹を返してもらえない」
「妹? 人質に……取られてるのか?」
童子山は黙って頷く。
「私はもうこれ以上失敗できないんだ。花を摘まないと妹は戻ってこない」
納得できない点はいくらでも浮かぶ。だが、今はそれを追求する時ではない。
「なんにしてもお前じゃ届かないだろ? 俺が代わりに取るんじゃだめなのか?」
「今初めて会った君に、それはお願いできない」
「俺ってそんなに影薄いの!? ニッタだよ! 違うよ! 俺は誰だよ!」
俺はわざとらしく「えーんえーん」と泣いた。童子山はそんな俺を無視して、
「私が受けた命令だから、私がやらないと意味がないんだよ。物朗くん」
と、真顔で答えた。
——あれ? こいつ今、俺の名前を言ったよな。
童子山は再び手を伸ばし、花を摘もうとしている。
童子山の手が震えバランスを崩すたびに、俺の心臓は飛び出そうになる。このままでは童子山が転落しかねない。
——せめて体を支えてやるべきか。
しかし、親しくもない女子の体に気軽に触れるのはためらわれる。あとでフォローの効く、ひとが相手ならともかく。
幼馴染みならともかく——