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匣庭高校オルタナティ部  作者: 水本グミ
001 イルカ
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第5話

 しかし、誰かが俺の名を呼んだ。「もの」と。世界から空気がなくなったのではなく、俺個人が苦しんでいるだけなのだと認識できた。

 あの俺の名前を呼ぶ声は、誰だったんだろう。俺のことを()()と呼ぶのは、十一歳上の姉と、あと——


「もの、大丈夫?」


 心配そうな顔で俺を(のぞ)き込むのは、隣の席でため息をついていたあの子だった。

 俺の頭の上で、さらさらの黒髪が揺れる。前髪にイルカのイラストの描かれたヘアピンを付けている。


 どうやら、ここは保健室だ。俺は倒れた後に、ここに運ばれてきたのだろう。誰が運んだにしても、クラスに迷惑をかけてしまった。


「ごめんな。()()のこと忘れてて」

「ふあああ!? もの、記憶戻ったの?」


 俺のことを()()と呼ぶのは、姉と、あとはイルカを抱いた幼馴染(なじ)み、()()こと瀬加(せか)一図(ひとえ)に他ならない。


「なんでだろうなぁ。なんで、ひとのこと思い出せなかったんだろうなぁ。そりゃ、ひとのこと忘れてるんだったら、誰のことも覚えてるわけないよなぁ」


 あろうことか俺は、物心ついた頃から一緒にいた、きょうだいのようなひとのことを、たまたま隣の席になった知らない誰かだと思い込んでいた。


「あのね、もの。もう、あたしの知ってるものには会えないんじゃないかって思ってた……怖かったよ……すごく怖かった……」


 ああ、そんな泣きそうな顔するなよ。俺ならもう大丈夫だよ。ちゃんとお前のこと思い出したから。


 一緒に転移しているはずの俺が、自分のことをまったく知らないような態度を取ってきたら、そりゃ怖かっただろう。

 俺に向けてため息を吐いていたのは、なんのことはない、ひとのことがわからない俺に対する不安感の(あらわ)れだったのだ。それを俺は勝手に、明確明瞭な不快感の表明などと思い込んでいた。


 それも含めて、ひとに申し訳ないことをした。


「あのね、もの。あたしのこと、ちゃんと思い出せたか質問してもいい?」

「ああ、いいよ」

「あたしが小学校の遠足の時、必ず三つ買って持って行ってたおやつは何でしょう?」

「丸長製菓のマジックドーナツこしょう味!」


 よく覚えている。駄菓子のドーナツにスパイスのかかったやつだ。どういうわけかひとが一時期はまって、遠足のおやつの時間になるたびに一気食いし、苦しそうにむせていた。

 食べなきゃいいのにと、毎度のように思っていた。


「正解! あとね。あたしがイルカのチーさんと、このヘアピンと出会った場所は何処(どこ)でしょう?」

旭塚(あさひづか)水族館だろ」


 イルカのチーさんは、今まさにひとの腕に巻き付くように乗っかっている。旭塚水族館に行った時、土産物屋で見つけた。


「正解! じゃあ、その旭塚水族館は誰と誰と行ったでしょう?」


 あれは中学一年生の時、ひとのお兄さんが俺らを誘って連れて行ってくれた。つまり、他はひとと、俺。


「うーん。三問中二問正解かぁ。でも、あたしのことはだいたい思い出したみたいだから、それは安心だよ」


 え? どういうことだ?


 ひとと、ひとのお兄さんと、俺以外にも、一緒に行ったやつなんていたのか。

 陰キャ人生十五年——確かに仲の良い幼馴染(なじ)みはいるものの、この俺に、他に遊びに行くようなやつがいたのだろうか。


 まだまだ、俺の記憶にはブラックボックスが存在するらしい。


「あのね、もの。さっき市島先輩が保健室に来て、言づてを頼まれたの。『一度に全部思い出そうとしなくても、そのうち記憶は安定する』って。それを伝えてくれって」


 どうやら、あの実は失われた記憶を呼び戻す力があるのだろう。

 だが、大きな副作用も伴うことになる。

 市島先輩はつまり、無理に実に頼らなくても、時間とともに記憶は(よみがえ)ると言いたかったのだろう。


 ここぞという時のために取っておけ、ということだろうか。ここぞ、なんて瞬間があるのかどうか。

 しかし、さっきの実の影響か、まだ頭の一部がぼんやりする。


「だから、やべえブツはさっさと吐き出せって言ってただろ?」


 ひとの腕の上で直立したイルカが、(あき)れたように言った。


「まったく、モノは抜けてやがるぜ」


 フィルターがかかったようなファニーな声。いや、ぬいぐるみが実際に(しゃべ)っているわけではない。俺とひとの頭の中に話し掛けているのだ。


 俺のことを()()と呼ぶもう一人——イルカのチーさんである。


 チーさんは尾びれを足のように使い、横になった前腕の上に絶妙なバランスで立っている。


「チーさん、久しぶり」

「お、オレのことも思い出したか。あんまりお嬢に心配かけるんじゃねえぜ」


 俺たちとチーさんとの物語は、説明すると長くなるので割愛するが、俺はひととも、チーさんとも久しぶりの再会ということになる。

 もっとも——ひととは入学初日から会っていたので、俺が覚えていなかっただけなのだが。


「まあ、オレの見立てだとたいしたブツじゃないぜ。体に影響も残らないだろ。いきなり食らってバッドトリップしただけだな。トーシロにはよくあることだ」


 なんの素人なのかはさておき。

 かくして。


 おしなべて目立つことのない、地味な陰キャ眼鏡野郎で——

 特段特筆に値しない、ごく平均的で普通のパーソナリティを持ち合わせた男——である、俺の転移生活はやっと、ほんの少しだけ前に進み始めた——のだろう。


 心配性の幼馴染(なじ)みと、口(やかま)しいイルカを引き連れて——


(了)

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― 新着の感想 ―
異世界転生の学園もの、初めて読ませていただきました。 タイトルも学園っぽくてずっと気になってたんですがやっぱり学園ものいいですね〜 ていうかイルカのチーさん何者⁉︎ それに陰キャって自負してるけど真実…
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