第5話
しかし、誰かが俺の名を呼んだ。「もの」と。世界から空気がなくなったのではなく、俺個人が苦しんでいるだけなのだと認識できた。
あの俺の名前を呼ぶ声は、誰だったんだろう。俺のことをものと呼ぶのは、十一歳上の姉と、あと——
「もの、大丈夫?」
心配そうな顔で俺を覗き込むのは、隣の席でため息をついていたあの子だった。
俺の頭の上で、さらさらの黒髪が揺れる。前髪にイルカのイラストの描かれたヘアピンを付けている。
どうやら、ここは保健室だ。俺は倒れた後に、ここに運ばれてきたのだろう。誰が運んだにしても、クラスに迷惑をかけてしまった。
「ごめんな。ひとのこと忘れてて」
「ふあああ!? もの、記憶戻ったの?」
俺のことをものと呼ぶのは、姉と、あとはイルカを抱いた幼馴染み、ひとこと瀬加一図に他ならない。
「なんでだろうなぁ。なんで、ひとのこと思い出せなかったんだろうなぁ。そりゃ、ひとのこと忘れてるんだったら、誰のことも覚えてるわけないよなぁ」
あろうことか俺は、物心ついた頃から一緒にいた、きょうだいのようなひとのことを、たまたま隣の席になった知らない誰かだと思い込んでいた。
「あのね、もの。もう、あたしの知ってるものには会えないんじゃないかって思ってた……怖かったよ……すごく怖かった……」
ああ、そんな泣きそうな顔するなよ。俺ならもう大丈夫だよ。ちゃんとお前のこと思い出したから。
一緒に転移しているはずの俺が、自分のことをまったく知らないような態度を取ってきたら、そりゃ怖かっただろう。
俺に向けてため息を吐いていたのは、なんのことはない、ひとのことがわからない俺に対する不安感の顕れだったのだ。それを俺は勝手に、明確明瞭な不快感の表明などと思い込んでいた。
それも含めて、ひとに申し訳ないことをした。
「あのね、もの。あたしのこと、ちゃんと思い出せたか質問してもいい?」
「ああ、いいよ」
「あたしが小学校の遠足の時、必ず三つ買って持って行ってたおやつは何でしょう?」
「丸長製菓のマジックドーナツこしょう味!」
よく覚えている。駄菓子のドーナツにスパイスのかかったやつだ。どういうわけかひとが一時期はまって、遠足のおやつの時間になるたびに一気食いし、苦しそうにむせていた。
食べなきゃいいのにと、毎度のように思っていた。
「正解! あとね。あたしがイルカのチーさんと、このヘアピンと出会った場所は何処でしょう?」
「旭塚水族館だろ」
イルカのチーさんは、今まさにひとの腕に巻き付くように乗っかっている。旭塚水族館に行った時、土産物屋で見つけた。
「正解! じゃあ、その旭塚水族館は誰と誰と行ったでしょう?」
あれは中学一年生の時、ひとのお兄さんが俺らを誘って連れて行ってくれた。つまり、他はひとと、俺。
「うーん。三問中二問正解かぁ。でも、あたしのことはだいたい思い出したみたいだから、それは安心だよ」
え? どういうことだ?
ひとと、ひとのお兄さんと、俺以外にも、一緒に行ったやつなんていたのか。
陰キャ人生十五年——確かに仲の良い幼馴染みはいるものの、この俺に、他に遊びに行くようなやつがいたのだろうか。
まだまだ、俺の記憶にはブラックボックスが存在するらしい。
「あのね、もの。さっき市島先輩が保健室に来て、言づてを頼まれたの。『一度に全部思い出そうとしなくても、そのうち記憶は安定する』って。それを伝えてくれって」
どうやら、あの実は失われた記憶を呼び戻す力があるのだろう。
だが、大きな副作用も伴うことになる。
市島先輩はつまり、無理に実に頼らなくても、時間とともに記憶は蘇ると言いたかったのだろう。
ここぞという時のために取っておけ、ということだろうか。ここぞ、なんて瞬間があるのかどうか。
しかし、さっきの実の影響か、まだ頭の一部がぼんやりする。
「だから、やべえブツはさっさと吐き出せって言ってただろ?」
ひとの腕の上で直立したイルカが、呆れたように言った。
「まったく、モノは抜けてやがるぜ」
フィルターがかかったようなファニーな声。いや、ぬいぐるみが実際に喋っているわけではない。俺とひとの頭の中に話し掛けているのだ。
俺のことをものと呼ぶもう一人——イルカのチーさんである。
チーさんは尾びれを足のように使い、横になった前腕の上に絶妙なバランスで立っている。
「チーさん、久しぶり」
「お、オレのことも思い出したか。あんまりお嬢に心配かけるんじゃねえぜ」
俺たちとチーさんとの物語は、説明すると長くなるので割愛するが、俺はひととも、チーさんとも久しぶりの再会ということになる。
もっとも——ひととは入学初日から会っていたので、俺が覚えていなかっただけなのだが。
「まあ、オレの見立てだとたいしたブツじゃないぜ。体に影響も残らないだろ。いきなり食らってバッドトリップしただけだな。トーシロにはよくあることだ」
なんの素人なのかはさておき。
かくして。
おしなべて目立つことのない、地味な陰キャ眼鏡野郎で——
特段特筆に値しない、ごく平均的で普通のパーソナリティを持ち合わせた男——である、俺の転移生活はやっと、ほんの少しだけ前に進み始めた——のだろう。
心配性の幼馴染みと、口喧しいイルカを引き連れて——
(了)