第42話
「先輩、その花は何の花ですか?」
——本日のオルタナティ部部室。八木先輩が白いプラスチック製の植木鉢を持って、窓際の棚の前に佇んでいる。
「これはネモフィラよ」
「ネモフィラ」
間抜けにも復唱してしまったのは、ネモフィラという語に耳馴染みがなかったからだ。初めて聞く単語だった。
鉢植えから、小ぶりで愛らしい青い花がいくつか、顔を覗かせている。
「バ先でもらったんだけど、せっかくだから部室に置こうと思ってね」
「バ先」という略語の意味はもちろん伝わっているが、いつも丁寧で上品な話し方をする八木先輩には、どこか不似合いな表現に聞こえた。
「先輩のバイト先って、花屋なんですか?」
「違う違う。たまたま咲いてたから、分けてもらったのよ。私の誕生花の一つでもあるし、好きな花だしね」
「誕生花」
またもや言葉を反復してしまった。これで二度目だ。我ながら情けない。花に関する知識が皆無な俺には、こうして話題についていくのが精一杯だった。
だが、ネモフィラの淡い青色と控えめな美しさは、八木先輩の優雅で落ち着いた雰囲気とよく調和しているような気がした。
「その花、先輩みたいな綺麗な人にぴったりですね」
そう口にした途端、妙な沈黙が場を支配した。見れば、近くにいた市島部長とひとが、まるで何か酸っぱいものでも食べたかのような微妙な表情で俺を見つめていた。
「うええ、物朗くん。平気でそういうこと言うタイプだったの? うええええ」
姫姫部長が顔をしかめ、舌を出して吐きそうな顔をして言う。そういうことって何だよ。意味がわからない。
「先輩に平気で綺麗とか言うタイプの後輩だったの? 物朗くんにはがっかりだよ!」
「いや、だって。世の中には綺麗な人と格好いい人と可愛い人しかいないじゃないですか。三元素じゃないですか」
「それにしたって、面と向かって言われるとちょっと照れるわね……」
八木先輩は視線を逸らしながら、少し困ったような表情でそう呟いた。
「なんだよなんだよ、三元素って。そんな全ての人に当てはまるわけないだろ!」
部長が両手両足をじたばたと動かしながら、口を挟む。
「いや、当てはまるでしょ。たとえば部長は可愛いベースのカワベで」
「イエベとかブルベみたいな言い方するな!」
イエベ、ブルベという単語が何を指しているのか、俺には全く見当がつかない。それにしても、部長の顔があんなに赤くなっているのはどうしたんだろう。
「適当なこと言って。そうやって普段から女子を口説いてるんだろ!」
「そんなわけないでしょう。男子だって綺麗、格好いい、可愛いの三元素しかないじゃないですか。みんなそれぞれバランスが違うだけで」
「ぐぬぬ」
ついに部長が「ぐぬぬ」と言った。前から部長には「ぐぬぬ」が似合うと思っていたんだよな。
「助けてよ一図ちゃん。なんなのこの子、天然でこんななの?」
姫姫部長がひとに甘えるように抱きつき、助けを求めるような口調で言った。
「残念ながら……ものはずっとこうです。褒めて伸ばすタイプの上司になったら、みんな出世すると思います。だけど勘違いする子も続出するでしょう……」
「一図ちゃんとるるちゃんの苦労が偲ばれるよ……」
先ほどから俺に対する批判めいた話が続いているが、一体何が問題なのか全くわからない。俺、そんなに変なこと言ってるか?
——いつしか会話の輪から距離を置いていた八木先輩は、ネモフィラの鉢の設置場所を決め終えたらしく、少し後ろに下がってその配置を確認し、納得したように「うん」と頷いた。
「そう言えば、青いネモフィラの花言葉って知ってる?」
「花言葉」
八木先輩が急に俺に向かって話しかけてきたので、またまた反射的に復唱してしまった。「花言葉」という言葉は知っている。青いネモフィラの花言葉なんて知っているはずもない。
花の色によって花言葉が違うことも、今初めて知った。
「青いネモフィラの花言葉はね。『あなたを許す』よ」
「あなたを許す」
またまたまたの復唱に、八木先輩は明らかに呆れた表情を浮かべて俺を見ている。
「オウム返しが癖になってるんじゃない?」
まるで何も考えずに反応している人間のようで、申し訳なさが込み上げてきた。
「まあいいわ。『あなたを許す』だからね。寛容にならないとね」
「物朗くんは、他に許してもらわなくちゃいけない女の子がたくさんいるんじゃないの?」
部長が拗ねたような顔で言う。ひとは苦笑い。だから俺が一体、何をしたって言うんだよ。
許して欲しい女子なら——いるよ。
もし、もう一度彼女に会って、話すことがあったら。俺が彼女の気持ちを汲んでやれなかったことを、謝罪したい。
そして俺があの時、世界が崩壊した日——俺と君が別れた日——もし俺が君のことを追いかけていれば、君は今、ここにいたんじゃないだろうか。
てみ。
君に謝りたい。許してくれるかは、わからないけど。
ここにいない君に、謝りたい。




