第40話
「校長から何を聞いてん」
「電話がかかってきてさ。玻璃さんを支えてあげてくださいね、って」
「あーあーあーもー手回し手回し」
両手で頭を抱え込んだ玻璃は、その場で右往左往した。
一事が万事その調子で、ヨスミには出会ってからずっと翻弄され続けている。
養護教諭としての本業に加えて担任の仕事が押しつけられ、さらにはオルタナティ部の顧問という役職まで任され、そして今度はみのり園という謎の施設への視察まで命じられる始末だ。
それでも反抗的になりながらも、最終的にヨスミに押し切られてしまうのは、彼女の憎めないパーソナリティがあるからだ。
ガラス戸を横に滑らせてベランダに出た玻璃は、小さなため息と共に電子タバコを手にした。
室内では子どもたちが大柳の周りをはしゃぎながら回る様子が、薄いガラス越しに見えている。
玻璃と大柳は中学の同級生で、二年前に再会した。
中学時代はほとんど接点がなかったが、何故か大人になって意気投合し、今では互いの人生に欠かせない存在となっている。
彼は玻璃が三人の子どもを育てる上での重要な支えとなり、家族の生活を守るパートナーとして全力を尽くしていた。
——だが、一家揃っての転移後、彼の勤めていた事務所はどこにも存在していなかった。
幸いにして当面の蓄えはあり——転移しても貯蓄は消えなかった——玻璃の就職のタイミングもあって、大柳は在宅でできる仕事を選び、家族の暮らしを支える役割を担っている。
しかしそうした経済状況が、玻璃が「特別手当」という名目で校長の無理難題を受け入れてしまう弱みにもなっていた。
室内に戻った玻璃がリビングを見渡すと、長男の姿が見えない。
「草平は?」
玻璃が尋ねると、大柳は湯気の立つ料理を中華鍋から大皿に移しながら答えた。
「飲み物の買い出しだよ」
程なくして、飲み物の袋を手に草平が帰ってきた。
丸みを帯びた体型と親しみやすい風貌が、まるで子ども向けアニメの動物キャラクターのような草平は、まだ学生服を身につけたままだった。
「草平、まだ制服着替えてへんの?」
草平は玻璃の問いかけには答えず、無言でテーブルの上にペットボトルを並べ始めた。千歩と理も椅子の上に立ち、兄の作業を手伝おうと身を乗り出している。
「真面目やな。私なんて下校途中でさっさと私服に着替えてたのに」
三人の子どもたちの姿を眺め、玻璃は我が子の愛らしさに、にやつきながら言った。
「玻璃ちゃんと一緒にされたくない」
ペットボトルを黙々と並べ続けたまま、草平が素っ気なく応じる。
草平の辛辣な返しに、玻璃は急所を突かれたかのように「ぐう」と声を漏らした。
草平は玻璃が十四歳の時に出産した子だ。息子からそう言われては、返す言葉もない。
「だいたいさ」
と、草平が切り出す。
「おーやんが家に来た途端に仕事辞めて、絵本作家になるとか言い出してさ」
彼はさらに追い打ちをかける。
「絵の練習なんてしてるところ見たこともないのに」
玻璃は次々と急所を突かれたかのように「うぐぐ」と呻き声を上げた。
「でも」
と、草平が言葉を続け、少し照れ臭そうな様子を見せる。
「それよりはまあ……先生って格好いいから、いいよ」
玻璃は思わず草平に抱きついた。
「草平! 大好きや! 草平!」
「うっざ!」
草平は嫌がり、必死になって身をよじった。
☆★☆★☆
賑やかな食卓を後にし、玻璃は末っ子たちを風呂場まで誘導した。
風呂から上がるとリラックスできる部屋着に身を包み、冷蔵庫からごぼう茶のペットボトルを取り出す。
——ガシャン、とベランダの外で大きな衝突音が響いた。
玻璃がおそるおそるベランダから身を乗り出すと、向かいのマンションの、エントランス周辺の地面が、不自然な黒さで変色しているのが見えた。
暗がりで全体像は把握できないものの、黒い地面は液体のように揺らめき、不規則な波模様を描いているようだった。
唐突に、激しい轟音が鳴り響く。風のような——あるいは機械のような——学校の屋上で聞いたあの音と同じだ。
誰かが死んだのか——マンションの住人の誰かが死を選んだのか——
轟音が続く中、黒い地面から肉体の解体プロセスが始まった。街灯の明かりを受けた肉塊のキューブが、神秘的な輝きを放ちながら、次々と虚無へと溶け込んでいった。
玻璃は恐怖で全身の力が抜け、その場に膝をついた。物音を聞きつけて大柳がベランダに駆けつけると、玻璃は彼の足にしがみつき、堰を切ったように涙を流した。
「わた……私も……あんな風になるんかなぁ……。私にしてはすごく頑張ってるつもりやけど、私は私を守り切れるんかなぁ……」
恐怖と不安に押しつぶされた玻璃は、幼い子どものように泣き続けた。大柳はそっと彼女を抱き締め、その震える肩を支えながら、彼女の柔らかな髪を優しく何度も撫でた。
(了)




