第4話
「わたしのことはいいの! 記憶に関しては、そこまで焦る必要はないよ。二つの世界はほとんど同じだけれど、完全に同一ではないの。だから人によっては、二つの世界の記憶が大きく異なることだってあるし、似通い過ぎて気づかないことだってあり得る。そもそも、記憶が安定するまでの時間には個人差があるからね」
市島先輩の説明を、俺なりのイメージで解釈する。俺の中の二つの記憶は、まるで異なる川の支流が一つの河川に合流するように、ゆっくりと混ざり合っていくのだと理解した。転移先の世界にも既に別の人生があって、それが前の世界の記憶と溶け合うのを待つしかないのだと。
「場合によっては、まったくの別人に転移した、なんてことだってあるの。独立した二つの記憶を持つことから比べたら、新田くんが自分の記憶に馴染むのは早いと思うよ」
まったく正反対の人生を送っていた可能性を想像して、思わず苦笑する。もし転移先の世界の俺がクラスの人気者で、友達に囲まれるような陽キャだったとしたら。さすがにそれは、シミュレーション不可能な状況だった。
「新田くんにはこれを渡しておくよ」
制服のスカートのポケットから、市島先輩は小さな巾着袋を取り出した。それを高々と掲げ、まるで儀式のように俺へと差し出す。
先輩に促されるまま、中身を手のひらに広げる。
小さくて艶やかな赤い実のようなもの、お菓子のグミのような触感。
ぱっと見、幼児向けのお菓子についているおまけのようにも見える。食玩、ただし玩の方だ。決して美味そうではなかった。
「困った時にでも少し囓るといいよ。手助けぐらいにはなってくれるはず」
こんなものを口に入れるのは嫌だな、と素直に思った。
しかしツインテール地蔵先輩は、満面の笑みでこちらを見ている。とりあえず——
「はあ」
——と曖昧に返事をしておこう。
☆★☆★☆
午後の授業開始を前に、教室に戻った。いたたまれない状況の自席に着き、次の科目の用意をするべく机の中を弄る。
——俺は大きな失敗をした。
不注意の原因は、先輩と普通にコミュニケーションを取れたことで、浮き足立ったのではないかと思う。
とにかく俺は自分の不注意から、大きなミスをしてしまった。
隣の席のイルカ女子のイルカ本体に、俺の肘が当たってしまい、イルカ女子のイルカ腕が大きく浮き上がった。
「あ……ごめんなさい」
俺は申し訳なく思った。
思ったから即座に謝罪の言葉を述べた。しかし——
「はぁ……」
と、ハートとは真逆のご不快表明を受けた。
俺、いじめられてるんじゃないのか? 中学時代もこんな扱いを受けてたっけ。どうだったのか思い出そうとするが、まるで思い出せない。
俺はもう、横を向けなくなった。
——授業が始まっても気もそぞろで、なんの話も頭に入ってこない。右側からの圧——そして後ろの席からも、朝より圧が強くなっている。バン、バンと机を鳴らす音が、指の音から手のひらの音に変わっている。
ストレスとプレッシャー。
プレッシャーとストレス——俺はもう、溺れてしまいそうだった。
俺は、制服のポケットの中に手を突っ込んだ。掴めそうな藁はなかったが、先ほど市島先輩にもらった巾着袋が指先に当たる。
巾着袋にすがる。中に入っている実にすがる。
後ろから聞こえるバン、バンという音が、俺の躊躇いを消失させる。
誰にも見られないよう、素早く口の中に実を放り込む。奥歯を使い実を噛み砕いた。
苦味と——酸味。想像通り、美味しいといえるものではなかった。だがそれでも咀嚼し続ける。もはや他に頼るものなんてない。
もちろん、なんの気休めにもならないことはわかりきっている。先輩にからかわれただけだろう。
不味い実を後輩に食わせてやれ——と。それでも気休めにはならなくとも、気分転換にはなるかもしれない。
そもそも、これは実なのか。
妙な粉っぽさが口の中に残る。この苦味は粉薬——いや、錠剤を噛み砕いた時のような、そんな苦さだ。
『やばいもん口に入れたら、すぐに吐き出せよ』
誰が言ったのだろう。記憶の中の誰かの声。誰かの台詞に従って、俺は口の中に残る実を床に吐き出そうとする。
だが、口も体も上手く動かない。気がつけば、俺の体はもうコントロールが利かなくなっていた。
こめかみの血管が脈打ち、頭痛を覚える。
発汗、発熱——
息苦しい。呼吸を、自由にコントロールすることができない。心臓の鼓動が大きくなり、視界が霞む。
息苦しい。
息苦しい。
さらに、目が回り始める。
このままでは、椅子に座ったままどちらかの方向へ倒れてしまう。もはや、右横や後ろの席の圧を気にしている場合ではない。
俺は気を失うだろう——死ぬのかもしれない。
諦めようか。
——嫌だ。死にたくない。
息が苦しい。
息が苦しい。
俺の意識が途絶える最後の瞬間、誰かがはっきりと、大きな声で叫んだのを聞いた。
「もの!」
☆★☆★☆
——どれぐらいの時間が経過したのか。
俺は——まだ、真っ暗闇の中にいる。横たわっている。
俺は——また、世界が終わるのかと思った。
忘れていた記憶——あまりの苦痛で、世界の終焉の記憶を書き換えていた。
あの時、目に映るもののすべてが歪み、そして一点に吸収されていった。形あるものも、色彩も、音も何もかもが吸い込まれ、やがて世界は終了した。
だが、順番が違った。最初に吸い込まれていったのは、空気だった。俺は呼吸がままならない状態で、世界の変化を観察していた。
当然、俺は苦しさのあまりうずくまり、首を掻きむしった。世界がどうなることよりも、俺は、呼吸のできない苦しさにのたうち回ることしかできなかったのだ。
だから、これは二度目の終わりなのだと思った。