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匣庭高校オルタナティ部  作者: 水本グミ
001 イルカ
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第4話

「わたしのことはいいの! 記憶に関しては、そこまで焦る必要はないよ。二つの世界はほとんど同じだけれど、完全に同一ではないの。だから人によっては、二つの世界の記憶が大きく異なることだってあるし、似通い過ぎて気づかないことだってあり得る。そもそも、記憶が安定するまでの時間には個人差があるからね」


 市島先輩の説明を、俺なりのイメージで解釈する。俺の中の二つの記憶は、まるで異なる川の支流が一つの河川に合流するように、ゆっくりと混ざり合っていくのだと理解した。転移先の世界にも既に別の人生があって、それが前の世界の記憶と溶け合うのを待つしかないのだと。


「場合によっては、まったくの別人に転移した、なんてことだってあるの。独立した二つの記憶を持つことから比べたら、新田くんが自分の記憶に馴染(なじ)むのは早いと思うよ」


 まったく正反対の人生を送っていた可能性を想像して、思わず苦笑する。もし転移先の世界の俺がクラスの人気者で、友達に囲まれるような陽キャだったとしたら。さすがにそれは、シミュレーション不可能な状況だった。


「新田くんにはこれを渡しておくよ」


 制服のスカートのポケットから、市島先輩は小さな巾着袋を取り出した。それを高々と掲げ、まるで儀式のように俺へと差し出す。

 先輩に促されるまま、中身を手のひらに広げる。


 小さくて(つや)やかな赤い実のようなもの、お菓子のグミのような触感。

 ぱっと見、幼児向けのお菓子についているおまけのようにも見える。食玩、ただし玩の方だ。決して美味(うま)そうではなかった。


「困った時にでも少し(かじ)るといいよ。手助けぐらいにはなってくれるはず」


 こんなものを口に入れるのは嫌だな、と素直に思った。

 しかしツインテール地蔵先輩は、満面の笑みでこちらを見ている。とりあえず——


「はあ」


 ——と曖昧に返事をしておこう。


   ☆★☆★☆


 午後の授業開始を前に、教室に戻った。いたたまれない状況の自席に着き、次の科目の用意をするべく机の中を(まさぐ)る。


 ——俺は大きな失敗をした。

 不注意の原因は、先輩と普通にコミュニケーションを取れたことで、浮き足立ったのではないかと思う。

 とにかく俺は自分の不注意から、大きなミスをしてしまった。


 隣の席のイルカ女子のイルカ本体に、俺の肘が当たってしまい、イルカ女子のイルカ腕が大きく浮き上がった。


「あ……ごめんなさい」


 俺は申し訳なく思った。

 思ったから即座に謝罪の言葉を述べた。しかし——


「はぁ……」


 と、ハートとは真逆のご不快表明を受けた。


 俺、いじめられてるんじゃないのか? 中学時代もこんな扱いを受けてたっけ。どうだったのか思い出そうとするが、まるで思い出せない。

 俺はもう、横を向けなくなった。


 ——授業が始まっても気もそぞろで、なんの話も頭に入ってこない。右側からの圧——そして後ろの席からも、朝より圧が強くなっている。バン、バンと机を鳴らす音が、指の音から手のひらの音に変わっている。


 ストレスとプレッシャー。

 プレッシャーとストレス——俺はもう、溺れてしまいそうだった。


 俺は、制服のポケットの中に手を突っ込んだ。(つか)めそうな(わら)はなかったが、先ほど市島先輩にもらった巾着袋が指先に当たる。

 巾着袋にすがる。中に入っている実にすがる。


 後ろから聞こえるバン、バンという音が、俺の躊躇(ためら)いを消失させる。


 誰にも見られないよう、素早く口の中に実を放り込む。奥歯を使い実を()み砕いた。


 苦味と——酸味。想像通り、美味(おい)しいといえるものではなかった。だがそれでも咀嚼(そしゃく)し続ける。もはや他に頼るものなんてない。


 もちろん、なんの気休めにもならないことはわかりきっている。先輩にからかわれただけだろう。

 不味(まず)い実を後輩に食わせてやれ——と。それでも気休めにはならなくとも、気分転換にはなるかもしれない。


 そもそも、これは実なのか。


 妙な粉っぽさが口の中に残る。この苦味は粉薬——いや、錠剤を()み砕いた時のような、そんな苦さだ。


『やばいもん口に入れたら、すぐに吐き出せよ』


 誰が言ったのだろう。記憶の中の誰かの声。誰かの台詞(せりふ)に従って、俺は口の中に残る実を床に吐き出そうとする。


 だが、口も体も上手(うま)く動かない。気がつけば、俺の体はもうコントロールが利かなくなっていた。


 こめかみの血管が脈打ち、頭痛を覚える。

 発汗、発熱——


 息苦しい。呼吸を、自由にコントロールすることができない。心臓の鼓動が大きくなり、視界が(かす)む。


 息苦しい。

 息苦しい。


 さらに、目が回り始める。


 このままでは、椅子に座ったままどちらかの方向へ倒れてしまう。もはや、右横や後ろの席の圧を気にしている場合ではない。


 俺は気を失うだろう——死ぬのかもしれない。

 諦めようか。


 ——嫌だ。死にたくない。


 息が苦しい。

 息が苦しい。


 俺の意識が途絶える最後の瞬間、誰かがはっきりと、大きな声で叫んだのを聞いた。


「もの!」


   ☆★☆★☆


 ——どれぐらいの時間が経過したのか。


 俺は——まだ、真っ暗闇の中にいる。横たわっている。

 俺は——また、世界が終わるのかと思った。


 忘れていた記憶——あまりの苦痛で、世界の終焉(しゅうえん)の記憶を書き換えていた。


 あの時、目に映るもののすべてが(ひず)み、そして一点に吸収されていった。形あるものも、色彩も、音も何もかもが吸い込まれ、やがて世界は終了した。

 だが、順番が違った。最初に吸い込まれていったのは、空気だった。俺は呼吸がままならない状態で、世界の変化を観察していた。

 当然、俺は苦しさのあまりうずくまり、首を()きむしった。世界がどうなることよりも、俺は、呼吸のできない苦しさにのたうち回ることしかできなかったのだ。


 だから、これは二度目の終わりなのだと思った。


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