第32話
「物朗、姉は先生と少し話してから行く。先に車に乗っててくれ」
沙綾さんが、小さな革のキーケースを投げるように俺に渡してきた。それを手に取って、まだふらつく足取りながらも保健室を後にする。
廊下を抜け、校舎の出口まで壁に手をつきながら歩く。外に出ると、駐車場に停められた沙綾さんのブルーの軽自動車をすぐに見つけることができた。
車に入り込み、助手席に体を沈め、レバーを引いてシートを大きく後ろに倒す。
何はともあれ——ひととるるに早退することを伝えなければ。
ポケットからスマホを取り出し、三人のグループチャットに早退することを知らせた。
ほどなく、ひとからは心配顔のイルカのスタンプ、るるからは鬼の子が頷いているスタンプが届く。
二人からの、何の捻りもないスタンプを眺めていると、安心感に包まれる。
世界が変わっても、いつだってひととるるは俺のことを見守り続けてくれていたのだろう。
あの赤い実を齧って混乱してしまった時も——記憶がまだまだ、安定していないことも。
それで精神状態が不安定になってしまっていることも当然、あの二人にはお見通しだったことだろう。
どんな時も俺のことを心配し続けてくれる気持ち——それこそが、彼女たちのラブだったのだ。なのに、それを茶化すような真似をしてしまった。
——しばらく考え込んでいると、車のロックが外れる音がして、沙綾さんが運転席側のドアを開けて乗り込んできた。
「物朗、待たせた。……どうした、辛気臭い顔をして」
「え、俺そんなに辛気臭い顔してるかな」
「そんなだから、姉がいつもと違うことにも気づかないんだよ。見ろ、姉は今日、左足に運動靴、右足にスリッパを履いている」
「どんなうっかりさんだよ! せめて、色違いぐらいにしてくれよ」
「出掛ける前にトイレに入ったんだ。考え事をしていて、そのまま家の外に出てしまった」
「トイレのスリッパで外に出るやつなんていねえよ! しかも片方だけ!」
「姉のファッションをバカにするのか」
「ファッションでやってんのかよ! なら何も言えねえよ」
などと。姉弟の楽しい会話がひと段落すると、沙綾さんはエンジンを掛けてゆっくりと車を発進させた。
「沙綾さん、曽我井先生と知り合いなの?」
「ああ。彼女は中学の同級生だ」
そういや曽我井先生の年齢をまるで知らなかった。沙綾さんと同い年ってことは、二十七歳か。
思っていたより若い——のか? どうだろう。
沙綾さんを基準に考えると曽我井先生は大人っぽく見えるが、そもそも沙綾さんと比べるのは間違っている気がする。
俺の姉は外見もかなりの童顔だが、行動や言動の一つ一つがとても子供っぽい。
性格は違うが、市島先輩の系統と言えるかもしれない。もっとも——先輩は沙綾さんより十も年下だが。
幼く見られがちなことは当人も昔からコンプレックスを感じていて、今の風変わりな喋り方はそれで生まれたものだ。
俺が実の姉に対して「姉さん」でも「お姉ちゃん」でもなく、「沙綾さん」と名前で呼ぶのも、俺が幼い頃に彼女がそう望んだからだ。
「中学の時は、曽我井先生と仲良かったの?」
「いや、彼女とはグループが違った。彼女はいつもキラキラした一軍のグループにいた」
「へえ。沙綾さんは違ったの?」
「私はヌラヌラした一群にいた」
「なんだよ、ヌラヌラした一群って! 教室に群生してるのかよ!」
「彼女はいつも輝いていたが、私もいつも発光していた」
「それはもう違う生き物だろ!」
沙綾さんのでたらめな話に対応しているうちに、さっきまで辛気臭く沈んでいた気持ちが軽くなっていくのを感じる。
「しかし物朗、曽我井ちゃんが担任でラッキーだったな」
「どうしてだよ」
「信頼できる転移者の大人が近くにいる方がいい」
転移者——この言葉を沙綾さんが使うのを聞いたのは今が初めてだ。
あの夜、管理者・九の姿を撮影していた姉の行動から何かを感じていたが、これまでお互いに口に出して確認することはなかった。
「やっぱり、沙綾さんも転移者だったんだね」
「ああそうだ。姉は物朗と同じ転移者だ。前の世界ではモデル体型と言われて男を手玉に取ってた私も、この世界ではちんちくりんになった」
何を言えばいいのか分からず、黙り込んでしまった。
「冗談だ」
「冗談なのかよ! てっきり、俺が知ってる世界とは別の世界の沙綾さんなのかと思ったよ」
「それは有り得ない。我々転移者は皆、同じ世界から来ている。例外は存在しない」
市島先輩も同じようなことを言っていた。箸荷さんや比延さんを含め、俺たちは同一の世界から来た——と。
でもどうして——沙綾さんが、転移についてそこまで詳しく知っているのか。
「物朗、体調は大丈夫か?」
「うん。平気」
「そうか。帰ったら話をしよう。まだ話していないことがある。物朗の学校の話も聞きたい。私たちに足りないのは対話だった。姉はな、物朗。何を伝えるべきかずっと迷っていたんだ。でも、ちゃんと話をすべきだったと今は思う」




