第2話
教室に辿り着く間も、当然のことながらなんのイベントも発生しなかった。
俺は誰と声を掛け合うこともなく、窓際の一番前の席へと座る。「おはよう」すら言わないのはさすがに気が引けるので、座る時に小声で「よぅ」と語尾だけ漏らしておく。
誰も聞き取れないような声量で。
隣席は風変わりな女子で、彼女もまたクラスで浮いたタイプなようで、言葉を掛ける必要がないのが気楽だった。
いつも、三十センチほどのイルカのぬいぐるみを守り神のように左手で抱きかかえている。授業中であれ手放すことはない。
校則的にどうなんだ? と思わなくもないが、俺としてはこのぐらい不器用な同級生の方が安心感が持てる。
とはいえ、ほとんど会話らしい会話をしたことがない相手なので、俺の方から親しく話し掛けることはない。
——そんな彼女が机の上に頰杖をつき、今、こちらを見ている。
最初は、俺の勘違いか? と考えた。目を合わせるわけにもいかないので、俺は前を向き続けた。黒板の脇に掲示してある、興味のないプリントを眺めているふりをした。
だが、俺の視界ぎりぎりのところで、彼女がまだこちらを向いていることを察した。
え? なんなん?
彼女が見ている物を、俺の体が遮っているだけか? と、俺はなるべくさりげに体を後ろに倒し、体の位置を動かした。
しかし、それでも彼女は俺の方を向いたままだった。
さすがに、このまま無視し続けるのは不自然だ。俺が意を決して、彼女の方に向き直り「え? 何?」と言おうとした瞬間——
「はあぁ………」
と、彼女が大きなため息を吐き、すぐに顔を逸らした。
このイルカ女子、よりにもよって俺の目の前で、俺に対してため息をつきやがった——明確明瞭な不快感の表明である。
確かに俺は、あまり他人から好かれる人間じゃない。
好人物とは言えない。
だからって、露骨に嫌悪感を示されてまったく傷つかないわけではない。転移先の新しい学校で、どうしてこんな目に遭わなければならないのだろう。
そもそも、人に向かってため息を吐くシチュエーションってなんだ。あなたの存在が不快——あなたが隣の席に座っていることが不快——どこかに行ってくれないかな——そんな感じか。
俺だって何も、好き好んでこの場所に座っているわけではない。席替えによって与えられた場所に存在しているだけだ。ならば、席を変わるべきはそちらではないのか。
俺は、ここに居座るぞ。
ため息を吐かれようが知ったこっちゃない。だいたい、その左手のぬいぐるみ、たまに俺の右手にぶつかりそうになるんだよ。
俺はどかないぞ。俺はここで授業を受け、弁当だって食ってやる。
なんなら食い散らかしてやる。
ふと。背中に突き刺さるような視線を感じる。俺が叫んでいたのは心の中の声であって、決して声を出して騒いでいたのではない。
なのに、俺の後ろの席の生徒は、俺を睨み付けている。怒りの視線で背中が熱くなるほどだ。
机の上に指を叩きつけて鳴らしている音が聞こえる。カタカタカタ。明らかに苛ついているご様子だ。俺が何をしたってんだよ。
俺はクラス内どころか、自分の席の一角でさえうまくいっていない。悲しいけれどそれが現実である。
☆★☆★☆
昼休み、食べ終わった弁当箱を鞄に押し込んで、俺は一人教室を出た。
居場所のないクラスに、これ以上自分の身を置くことが耐え難くなってきた。だから、少しでも早くこの場所から遠くへ離れたかった。
俺の居るべき場所はここではない。
ならば何処だろう。
足は自然と、転移してからお世話になっている先輩が居る場所へと向いていた。明確な答えはないかもしれないが、先輩から何か気休めになりそうなアドバイスを貰えるかもしれない。
向かった先——目の前に生徒会室の扉がそびえ立つ。
この数日間で何度目の訪問だろう。中学時代の俺にはまるで縁のなかった場所に、高校に入って足繁く通うことになるとは思わなかった。
ふと入り口を見ると、扉の前に、小さな番人のように木の棒が置かれている。
高さ十五センチほどの円柱状の棒で、上部が斜めに切り取られ、断面に12という数字が書き記されている。
入室の妨げとなるその棒を、俺は何気なく手に取った。不思議な形状の棒を左手で持ち上げながら、もう片方の手で扉を開く。
「ああー、それ持って来ちゃったの?」
木の棒を無造作に手にした俺を見て、中にいた市島姫姫先輩の声が響き渡った。
部屋の奥では八木先輩、日吉先輩の姿があり、まるで俺の行動を予期していたかのように満足げな笑みを浮かべている。
どうやら三人揃っての昼休みだったようだ。
「それ、人避けなんだ。入り口に置いとけば、転移者以外は入って来れないんだよ」
「なんですか……この棒」
「モルックで使うスキットルだよ。モルックとはフィンランド発祥のスポーツで、モルックと呼ばれる棒を投げて、スキットルを倒してスコアを競う競技なんだ」
なんでこの一学年上の先輩は、自分が発明したかのような自信に満ちた表情で解説を始めるのだろう。他人の国の、他人が考案した競技について、何故そこまで誇らしげなのか理解に苦しむ。