第10話
俺は制服のポケットに手を突っ込み、市島先輩からもらった巾着袋を取り出す。中に入っていた小さな赤い実を手に取り、慎重にひとかけら分だけ囓る。
たちまち——全身が発熱し、心臓の鼓動が激しさを増す。
しかし控えめな分量のおかげで症状は一時的なものに留まり、意識の深層から記憶の断片が浮かび上がり始めた。
俺は童子山に向かって、
「るる!」
と呼び掛け、迷いなく彼女の元へ駆け寄った。そして腰の後ろから腹に手を回し、るるの体を落ちないように固定する。
童子山るるは俺と目を合わせて小さく頷くと、再び身を乗り出して手を伸ばし、ついに花に指を掛けた。そしてそのまま花を掴み取り、安全な位置まで体を引き戻すと、肩の力を抜くように大きな息を吐いた。
「合格だよー。もうちょっと遊びたかったんだけどねー」
突然、目の前の空間が立方体に切り取られ、その隙間から男が顔を出した。
「約束通り、妹ちゃんは元の場所に戻しとくよー。怒られたくないから僕は逃げるよー。じゃあねー」
軽薄な口調の男は、もうどこかへ消えてしまった。どこへ?
俺とるるは顔を見合わせた。男の言う元の場所について尋ねると、いなくなったのは家だから、たぶん家の中に戻っているのだろう、ということだった。怪しい男の怪しい言葉でしかないとは言え、るるは一安心したようだった。
「物朗くん、私のこと思い出すの遅いよ」
るるが呆れたように言った。
あまりに遅いから、ずっといらいらしていたじゃないか、と。なるほど、幼馴染みで、俺とひとの共通の友達、そんな存在を俺が忘れていたんだ。そりゃ腹も立つよな。
あれ? でも、ひとは知っていたのか?
「ひとちゃんには、口止めして黙っていてもらったんだ。物朗くんに、自分で思い出してもらいたかったんだよ」
「でも、チーさんを襲ったのは本気だったのか?」
「チーさんの本体は別にイルカのぬいぐるみってわけじゃないから、尾びれぐらいなくなっても平気だと思ったんだ。また縫い付ければいいだけの話だし」
それはそうだけど……。教室にいた手前、チーさんが顔を出すことはなかったし、もしかしたら眠っていたのかもしれないけれど、はさみを突きつけられるのはなかなかの恐怖だぜ?
気づけば、周りに日が射していた。漆黒の壁も、闇の断崖絶壁もいつの間にか消えていて、旧校舎の裏側は元通りになっていた。
——遠くから足音が聞こえる。息を切らしてこちらに駆け寄ってくる、三人の先輩の姿が目に入った。遅れて、ひともやって来た。
「るるちゃん、大丈夫?」
るるはひとに事情を話し、やがて二人で抱き合って無事を喜び合っている。
「あいつは?……逃げられたか」
辺りを見回しながら、市島先輩が悔しそうに言う。
「童子山さん、あいつ自分のこと、なんて名乗ってた?」
「名前は聞いてないですけど……僕はこの世界ではなんだってできるんだよ……とか言ってました」
「神様気取りか、あいつ」
市島先輩は憎々しそうに、怒りのこもった言葉を投げ捨てる。
「あれは一体、誰なんですか?」
「九、管理者の一人……たぶんね。わたしも詳しくは知らないんだ」
只者ではないことは、もちろん俺にだって理解できる。オペレーターの目的はなんなんだろう。本人が言っていた通り、遊んでいただけなのか。
「まあまあ、いいじゃない。三人とも無事だったんだから」
連れ立って校舎へ移動しながら、八木先輩が笑顔を浮かべて言った。三人というのは、るるの妹も含めて、か。あれ? 妹の名前ってなんだっけ。
例の実のおかげで、るるのことを思い出せたとは言え、どうやら俺の記憶は未だ完全とは言えないらしい。
校舎の中に入り、一階奥の生徒会室の前まで連れ立って来た時、八木先輩が思い出したかのように告げた。
「わたし、もうそろそろバイトに行かなくちゃ。悪いけど、ここでさよならするわね」
「え? そうなの?」
「俺も、家の用事があるからそろそろ」
日吉先輩の言葉に、市島先輩が不快感をあらわにする。
「わたしひとりに押しつけてばっかりじゃん!」
市島先輩は、まるで子どものようにバタバタと地団駄を踏んだ。
「もう、キキちゃん、拗ねないでよ。後は童子山さんの聞き取りだけでしょ。キキちゃん、ひとりでできると思うもん」
八木先輩が、からかうように言った。その言葉に、市島先輩はさらに不機嫌になったようだ。
「なんだよなんだよ、わたしのことバカにして!」
俺とひととるるは、ぷくーっと頰を膨らませる市島先輩から距離を置いた。なんだか、上手く言えないが、見ていられない。痛々しい。
「いいよもう、今日はみんな帰って。童子山さんも、早く妹さんのいる家に帰ってあげて」
市島先輩の言葉が解散の合図となり、俺とひととるるは三人で校門をくぐった。
ああ、女子二人と下校イベントだなんて——陰キャ眼鏡ボーイの俺にはできすぎた展開だな——などと考えつつ、俺ははたと気がついた。
いや、この二人とは小学校の頃からずっと一緒で、こんなことは当たり前の日常だったはずだ。事実、ひとのことも、るるのことも思い出した今、三人で遊んだり、出掛けたりした記憶は明瞭に思い出すことができる。水族館にも行ったよな。
だとしたら、俺のこの陰キャ眼鏡ボーイとしてのアイデンティティは、どこから生まれてきたものなんだ?
「もの、変わったよね」
ひとがぽつりと呟いた。
「急に眼鏡なんて掛け出したから驚いたよ。最初誰かと思った。髪型も」
るるが続ける。
え? 俺、中学の時、眼鏡掛けてなかったのか? 髪型?
俺はそっと眼鏡を外し、レンズを確かめてみる。レンズ越しに周りを映してみるが、明らかに度が入っていなかった。——伊達眼鏡だった。
言われてみれば、俺を構成する何もかもが違っている気さえする。
——俺は、俺の記憶の中で、一番不完全なのは俺に関する記憶だと悟った。
——俺は新田物朗。ニッタじゃない。でも、俺は誰だよ。
(了)




