悪について 5 ーサンテネリの女ー
日頃と違う行動。たとえば、ただ座る席を変えただけで世界は一変する。
ゾフィはその変容を軽い驚きをもって受け止めた。
王の馬車に同乗する際、彼女は王の隣に座るのを常としていた。それはもう何年も前、まだ少女だった頃から続く一種の癖だった。
男の気を惹くため。もちろんそれは理由の一つだ。だが、同時に、彼女は男の側で安心を得ていた。あるいは暖かさと表現することも可能だろう。
父以外の異性が彼女に与えてくれる最上のものだ。
少女から見た王は大人の男だった。
交際する男女の年齢差が10を超えるのも当たり前のサンテネリにおいて、6歳の違いはむしろ小さい。だが、彼はともすれば父に近いほどに成熟していた。そう見えた。
肉体的には父よりも格段若く、精神においては父と同じ程度の落ち着きを持つ。父親から多分に影響を受けた少女にとって、それはまさに理想の存在に限りなく近い男の姿だ。
その上、付属品として王冠までついてくる。
王の傍らで数年を過ごすなかで彼女は徐々に気づいた。
王は大人である。あるいはそれを装うことに長けている。他者への威圧もなく、粗野もなく、虚勢もなく、思いやりのようなものがある。
だが、その芯の部分において未熟な部分が垣間見える。
一時期そこが鼻についたこともあった。しかし、この世に完璧な人間など存在しない。自身もまた不完全である。それを理解する年齢に達した今、彼女は王の瑕瑾に目を瞑れるようになった。
無論その変化は心内の話。
表出する態度は14の頃から変わらない。可愛らしく闊達。そんな誰しもが好む女の一類型を見せ続けてきた。
この日、ゾフィが王の対面に腰を下ろしたのは深い考えゆえにではない。
ただ、なんとなく。なんとなくそうしたいと思っただけだ。
いつものように彼女が座る空間を確保するために長椅子の奥につめた男は、一向に埋まらぬ隣の空間と、目の前に優雅に腰掛ける妻の姿を見て一瞬目を丸くした。
だが何も言わなかった。
「ゾフィ殿、今日の式典はいかがであった。楽しめただろうか」
彼は普段と変わらぬ調子で女に語りかける。
今日は隣に座らないのか、などと聞きはしない。
「はい! グロワス様。とても刺激的な”お話”でした」
女は屈託ない笑顔とともに、夫の問いかけに明るく応えた。
「ならば良かった。確かに刺激的だった。多少複雑な箇所もあった。私には理解が難しいところも」
王が落胆や困惑を示したいときの仕草。目尻が寂しげに下がる仕草。
王はそういうことにしたいのだと彼女はすぐに気づく。となれば真相は逆。彼はレスパンという学生の演説を完全に理解したのだろう。
「私も難しいところがいくつもあって、ちょっと混乱してしまいました。でも、やっぱり面白い”お話”」
「ああ、そうだね。面白い”お話”だ」
少しつついてみれば夫は比較的簡単に地金を見せてくれる。それは関係の近しさの表れだ。男が作り出した境界線の内側にいる者だけがそれを見ることができる。
今、王は”面白い”と言いながら、全く面白そうではない。
その表情を適切に表現するならば、苦悶という言葉が最も近いだろう。
ゾフィは迷った。
この話題を続けるべきか。それとも、今日着ている服の感想でも聞いてみようか。夫は言うだろう。”臙脂の色合いがとてもよいね。深いが鮮烈だ”などと。
しばし迷った末、結局彼女は自身の好奇心に従うことにした。服の感想は後でいい。
「グロワス様、一つお聞きしたいことがあるんです」
「なんだろうか」
「先ほどの献辞であの方がしきりに言っていた”全ての人が平等な権利を持つ世界”など存在するのでしょうか」
「それは、レスパン氏の言う”魔力の不在”という仮定の上での話かな」
「はい」
王は即答しなかった。数瞬の逡巡があった。
「——ならば存在するだろうね。魔力が無い以上、人は”本質的に”同じ存在だ。もし人間に何らかの権利が生まれながらに認められるとすれば、それは全ての人に与えられるべきだろう」
王の重々しい口調をゾフィは面白く感じた。
馬車の中での密談である。何を言ったところで誰に知られることもない。にもかかわらず他者の目を気にしているのか。だが、ゾフィが興味を抱いたのはそんな王の過剰な心配に対してではない。
”見落としている”ものの存在に王は気づいていない。おそらく。
「でも、現実には身分秩序があります。それをレスパン殿は”不当”——”不正”と呼んだんですね。それは暴力で無理矢理作り出されたものだから」
「そのようだね」
彼は頷き簡潔に返す。
「私が”お話”を聞いていてよく分からなかったのはそこなんです。だって、人は”本質的に”同じ存在ではありませんから。その後の展開も意味がないと感じました」
ゾフィは顔に掛かる長い栗色の髪を払い、じっと夫の瞳を見つめた。彼女は自分でも不思議だった。
自分は今から、言う必要がないことを言おうとしている。
あるいは秘めた嗜虐心なのか。夫を困らせたいのか。
かわいい悪戯ではありえない。もっと重く、心の最奥に淀んだもの。
「ああ、ゾフィ殿、あくまであれは魔力の不在を仮定した話だから…」
「ちがいます、グロワス様。私が言いたいのは、魔力が無かったとしても人は同じ存在ではないということです」
「個人差のことだろうか」
話の先が見えず、困惑混じりに聞き返す王にゾフィは柔らかく、しかし重く、断言する。
「いいえ、陛下。——殿方はお忘れです。いつも。人には男と女がいます」
「もちろん。男と女も共に同じ存在なのではないかな」
「そうでしょうか。魔力の量は人の価値を決めます。それが本質的な違いなのですよね。そして、本質的な違いってつまり、戦えるかどうかです。魔力量が高い者は戦うことができます。だから力で人を支配できるんです」
そこまで聞いて何かを悟った王は目を閉じた。そして両の手で瞼を強く押した。
「なるほど。ゾフィ殿、あなたは素晴らしい。——私とレスパン殿は二人並んであなた方に懺悔しなければならないな」
「いいえ、不満ではありません。ただ不思議に思ったのです。魔力がなかったとしても、男と女の間には本質的な差があります。女は男と戦えません。身体が違うのですから。それなのになぜ、同じ権利を持つと思われたのか」
ゾフィにとって、王とレスパンが深刻そうに語らう”思想”はただの”お話”に過ぎなかった。
なぜなら、彼らが忘れているものがあり、それは論理の根幹に存在する。ようするに最初から破綻しているのだ。
魔力が存在しなければ、万人は平等の権利を持つ。にもかかわらず力による支配が行われ、身分秩序が生まれる。それは正当性を持たない「不正」である。
彼らはそう言う。
だが、魔力がなかろうと男女の差があるではないか。
彼らの言に従うならば男女の間には肉体という本質的な差があるのだから、支配・被支配の関係性は不正ではないことになる。
支配者たる男と被支配者たる女。
それはこの中央大陸において厳然たる”事実”だ。
それでいいとゾフィは考えていた。
社会は今あるところのものでしかありえない。
例えば男系の血統を残すために男が四人の妻を娶るような不均衡も、それが社会なのであれば仕方がない。——仕方がない。
女は聞き分けよく、一人の男を共有する他はない。
だが、”全ての人間が平等に権利を持つ”と主張するのならば話は別だ。
なぜ自分は目の前の男を独占できないのか。
なぜ男は自分以外の女と、子を作るのか。それも二人の女と。
「私は酷く傲慢だった。恐らくレスパン殿も」
王のつぶやきは真の悔悟を含んでいる。
深く沈み込んだ夫の姿を目にして幾ばくかの喜びを感じている自分に、ゾフィは心底驚いた。
一体何がしたかったのか。
分かったような顔をした彼を凹ませてやりたかったのか。尊大な犬を躾けてやりたかったのか。
恐らくそうではない。そんな密やかな嗜虐心であればどれほどよいことか。
彼女は見たくないものを見つめなければならなかった。
自身の腹の中、その奥の奥に潜むものを。
ブラウネやメアリはそれを決して見せないだろう。それは王の宮廷で生きる上での最適解だ。
しかし秘めてはいるはず。確実に。
「深い意味はないです! ”お話”の感想ですよ。——グロワス様はサンテネリ王国の国王陛下で、私は陛下の妻です。それが”事実”なんですから」
彼女はうっかり踏み込んでしまった水たまりから飛び跳ねて抜け出すように、つとめて明るく訴えた。
王は小さく笑った。
「そのようだ。考えすぎはよくないな。”お話”の話は終わりにしよう」
彼もまた、区切りを付けて覇気のある声を返す。
数ヶ月前であれば決してできなかった会話である。
しかし今、王は平静を保っている。
ゾフィはそれを無上の喜びとともに眺めた。ゾフィは夫のことが好きなのだ。好きな人が健康なのはよいことだ。
今、王はサンテネリの男だった。
彼女がサンテネリの女であるように。
◆
正教新暦1716年9月、宮中は新たな喜びに沸いた。
グロワス13世側妃ブラウネ・エン・ルロワに懐妊の兆し。
男も女も、それぞれに与えられた”仕事”を成し遂げつつある。
それは社会という”事実”から与えられた使命である。何をさておいても完遂しなければならない。
”善の象徴たる王の御代が、末永く続きますように”