表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
汝、暗君を愛せよ  作者: 本条謙太郞
第2部「分別ざかり」 最終章 『評伝 グロワス13世』抄
109/110

王の死とその後の世界(1735〜)後編

<新大陸独立戦争>


 二重戦争の戦費回収に加えて、新たに始まった祖国戦争の諸経費を担うことを余儀なくされたアングランの新大陸植民地は、1743年、ついにアングランからの独立を求めて反乱を起こした。新大陸独立戦争である。

 より正確には新大陸人が求めたものは独立だけではない。彼らは王も欲した。

 第18期の世界において王を持たない政治体制はレムル半島の一部都市国家を除き存在しなかった。当時最新の実例としてサンテネリ共和国があるが、ジェント大公ロベルの政治中枢への参画もあり、その存在はいわば”つなぎ”と考えられていた。状況が落ち着けばやがて王国に戻る。その見通しは人々の間で半ば常識として共有されていた。つまり、祖国戦争はアングランにとってもプロザンにとってもエストビルグにとっても、自国の国体を揺るがしかねない邪悪な国家との全面的対決などでは()()()()。実態はサンテネリ国内の政治的混乱に乗じた軍事介入に過ぎない。

 第21期を生きる我々には分かりづらいところだが、第18期の人々にとって王の不在はある種の「不安」あるいは「恐怖」を引き起こす異常事であった。その事情は新大陸においても変わらない。彼らは王を欲した。できることならば由緒ある”偉大な”血を持つ王を求めた。偉大な血を持つ王の存在は国家の格式にも関わる。

 よって、二重戦争によってアングラン領に併合された旧サンテネリ領諸州がグロワス14世を欲したのは当然の帰結といえよう。旧アングラン領諸州にとっては少々複雑な状況だが、日々命がけで蓄えた富を紙切れ一枚で収奪していく相手の親玉——アングラン王——の名よりも、ルロワのそれは幾分か()()であったのだろう。


 グロワス14世側の事情もある。エストビルグ王国でサンテネリ国王として遇されながら、自身の名が祖国に対する侵略の旗頭になることを彼は許容しえなかった。皇帝に要望された「王位復帰宣言」への署名を拒否したのである。


「確かに、軒先をお借りしている分の家賃は支払わねばならないな。母と二人で時計職人になって稼ぎましょう。昔から憧れの職業だ」


 夜会で帝国貴族に面と向かって”居候”を非難された彼は堂々とそう返したという。そこには陰湿な情感も負け犬の卑屈も一切感じられなかったと、場面を目撃したある選帝侯が手記に残している。


「雌獅子の息子はやはり獅子。誇り高い(たてがみ)を持つ」


 第19期中盤に大当たりを取った小説『流浪王』の着想源となったグロワス14世のエストビルグ王国脱出だが、実態としてはごく呆気ないものだった。

 王は狩りを口実に遠出したまま帰らなかった。側仕えを数人連れたのみで、ヴェノン郊外で落ち合わせた連邦共和国(当時は暫定の存在に過ぎなかったが、国家承認を求める外交工作のために中央大陸主要国に公使を派遣している)公使の一行に守られてレムル半島に到着。ジェーヌの港から中海を抜け、西海を越えて新大陸にたどり着いた。

 数ヶ月に及ぶ逃避行が平穏なものであったとは言いがたい。しかし『流浪王』の描く冒険譚ほどでなかったことは確かだろう。帝国が放つ追っ手を(実在しない)配下の三騎士と共に(剣で!)撃退しながらレムル半島の諸都市を旅する青年——持ち前の覇気と正義感、そして卓越した剣の腕で悪党共を叩きのめし、各地の美姫を虜にする流浪の英雄——の姿はそこにはない。実際の王は覇気と正義感はともかく、少なくとも剣術の心得は持たなかった。帝国内小公国の姫に匿われることもなければレムル半島の都市国家を牛耳る大商人を成敗した形跡もない。物語の終わり、彼を追いお忍びでやってきたサンテネリの大公女に自身の腕時計を託し新大陸行きの船に乗る、歌劇版最大の見せ所「別れの歌」の場面も現実にはありえない。

 つまるところ『流浪王』という作品はサンテネリ人の悔悟の産物なのだ。自分たちが石以て追い悲惨な末路を与えた一人の青年に対する後ろめたさは、”大改革”の熱から冷めた民衆の間にある種の願望を生んだ。王は幸せに生きた、と。そして”偉大なこと”を為したのだと人々は考えた。()()()()()()()()()と願った。


 1745年、新大陸に上陸したグロワス14世は旧サンテネリ植民諸州で熱狂的な歓迎を受けた。一方で、旧アングラン諸州からは期待と猜疑の入り交じった視線を受けていたこともまた事実である。

 二重戦争終結からまだ12年を経たに過ぎない植民諸州において融和への取り組みは始まったばかりである。アングランという共通の敵が存在するからこそ辛うじて和を保っているが、状況が変わればそれも危うい。独立という極めて危険な選択を為した旧植民地人たちは、分裂が内戦をもたらし最終的にアングランによる各個撃破を招くであろうことをよく理解していた。ゆえに離散を食い止める象徴の存在は必須のものであった。しかし、こと旧アングラン諸州にとってグロワス王の招聘は新大陸における主導権を”新入り”に奪われる可能性を秘めた明らかな賭けであった。彼らは賭けの上に賭けを重ねていた。


 1745年8月、連邦共和国の暫定首都フィーリアスにおいて、諸州代表団を一堂に集めた連邦会議が開催される。アングラン軍との戦闘が沿岸部で続く中での強行であった。その目的はただ一つ、連邦共和国の改称——連邦王国への——つまりグロワス14世の即位承認であった。

 新大陸東岸南部に位置する旧サンテネリ5州と、同じく東岸北部から中部を占める旧アングラン10州。計15州がそれぞれ一票を持つ。誕生間もない脆弱な国家にとって全会一致は必須であった。サンテネリ5州は当然として、アングラン7州も当初より推戴を望んだ。残る3州に対しては幾多の説得が為されたが、最終的に状況を決したのはグロワス王——身一つで海を渡ってきた27歳の青年の演説であった。

 中央大陸随一の歴史ある王国を追われた敗残の、惨めな男。にもかかわらず、王と接した諸州代表団の人々はその多くが彼に魅了された。青年の若者らしい快活さと精気が好感を引き出したことは明らかだが、それは決定打とはならなかった。新大陸の人々が王を受け入れるに至った最大の要因は、王の姿勢——在り方——そのものにある。

 グロワス14世は植民地人を()()()()()()()

 広大な農場を持ち富裕な生活を送りながら、”本国人”たちの優雅な侮蔑を日常的に受けて育った植民地の指導者達は、この哀れな、何も持たぬ青年に一つの希望を見た。

 旧アングラン中核州の一つアルバニス代表議員、後の連邦共和国第二代枢密院主催者グレイスが手記に残した文章は当時連邦共和国の政治家達がグロワス王に対して覚えた印象を物語る典型である。


「”偉大なるルロワの主”は我らを友人と呼ぶ。長く”追放者”の汚名とともに生きた我々は”友人”の語が含む微かな侮蔑を嗅ぎ分ける鋭敏な嗅覚を持つ。隠された獲物を鼻で探し当てる猟犬のようなものだ。我々は嗅ぎ回った。誇れるものは血統以外持たぬ、哀れな逃亡者を。幾度も、幾度も。そして嗅ぎつけた。——青年の真心を。数百の軍船も数万の陸軍も青年は連れてきてくれないだろう。だが、それは些細なことだ。我らの国を打ち立てるに足る勇敢な市民は我らの土地に溢れているのだから。中央大陸から恵んでいただく必要はない。我らが欲するものはただ一つだ。我らの友人である。我らはそれを得た。我らは彼を望む。彼はもはや哀れな逃亡者ではない。連邦”王国”国王グロワス1世である」


 会う者すべてを引きつけたと伝わるグロワス14世の絶大な魅力は、恐らく彼の矛盾に満ちた性格にその根源を持つ。「王」という中央大陸に深く根付いた”古史的”身分制度の頂点にありながら、足下の人々を同胞と心から呼ぶその心性である。歴史上、貴種の間に時折流行る「開明性を印象づける素振り」ではありえない。真心のもの。その生まれからは決して生まれてこないはずのものを、王は確かに備えていた。


()はこの大地にこの上ない馴染みを覚える。あなた方は平等な市民である。ある者は大地を耕し、ある者は馬を育て、ある者は布を織る。皆同じ市民だ。——私はあなた方に招かれて異邦人としてここにやってきた。かつて故国でそうであったように。さて、ここで私は何をしようか。私は王冠を被ろう! あなたがたが大地を耕すごとく、馬を育てるごとく、布を織るごとく。同じ市民として!」


 連邦会議における演説の中でグロワス14世はこう述べている。機能としての王、職業としての王でありたいと彼は望んだ。連邦共和国の人々はその在り方を好ましく思った。


 1745年9月20日、奇しくも父グロワス13世の死からちょうど10年後、その息子は歴史上極めて稀な2度目の即位をなした。連邦王国初代国王——そして最後の国王でもある——グロワス1世である。

 しかし、グロワスが連邦王国国王を称することはその短い生涯において一度もなかった。彼は自身が保持するもう一つの肩書きのみを使用した。枢密院主催者という。この肩書きは王の死後も連邦共和国に痕跡を残し続ける。

 第21期現在、他に並ぶもののない超大国となってなお、連邦共和国はその政府を枢密院と称し、元首は枢密院主催者を名乗る。



<グロワス1世(サンテネリ国王グロワス14世)の死>


 連邦王国におけるグロワス1世の「仕事」は政務ではなかった。彼は多分に象徴的な存在である。見知らぬ土地にやってきてすぐさま取りかかれるほど、統治は簡単な仕事ではない。

 彼が実際行ったことは各州の巡回、特に市民軍の鼓舞激励と、場合によっては戦闘参加である。

 現代の我々からすればこれは明らかに信じられない行動であり、いかに18期といえども中央大陸であればそれは常軌を逸した動きと見なされたことだろう。だが、国家の体をなしていたかも疑わしい、現代でいえば紛争地帯の武装組織の長としては、それは為さねばならぬことであった。ことに後ろ盾を持たぬ「よそ者」であれば。


 1747年10月3日、極北部のアングラン領から南下した植民地軍約10000——うち3000をプロザンからの()()が占めた——を、連邦王国軍15000の兵が、北部中核都市フィーリアスへの交通路を抑える要衝サラスの地で迎え撃つ。

 両軍、平野を大きく移動しながら続いた激戦は三日に及んだが、連邦王国軍北部方面司令官グレイスは多大な犠牲を払いつつ、最終的にアングラン軍を包囲することに成功した。ここで連邦王国軍が示したまことに18期的な寛大さは、後に連邦()()()と中央大陸各国との国交樹立交渉に大きな影響を与えることとなった。彼らは寛大にもアングラン軍の無血降伏を許したのである。()()()()()()()()

 戦闘の二日目、4日午前、激戦となった左翼の兵を鼓舞すべく最前線を訪れたグロワス1世はアングラン兵の見事な狙撃に腹部を撃ち抜かれた。中央後方の本陣でその報を受けたグレイス将軍は、即席の木板担架で後送されてきた王を見た。

 王の最後の言葉は膨大な血とともに吐き出されたと彼は手記に伝える。


「皆を割らないでくれ。——俺たちは同胞だ。王冠はなくとも」


 自身の死がもたらすであろう旧サンテネリ諸州と旧アングラン諸州の分裂を戒める言葉は、奇しくもブラウネ妃が記した父グロワス13世末期(まつご)の言葉と似通ったものとなった。


 サラスの戦いは新大陸独立戦争の画期となった。アングラン正規軍のこれ以上ないほどの敗北は、いかに二重戦争時代の現地将兵が核となったとはいえ大部分を民兵に頼る連邦王国軍が意外にも”まとも”であることを内外に印象づけた。

 同時に、国家が国家として成立する上で欠かすことのできないもの——神話が創出された。

 事実は定かではない。崩壊寸前の左翼を維持し逆襲に転じるために、ある”偉大な男”が命を賭けたという、何ともありふれた話だ。根無し草のその男は縁もゆかりもない新大陸の人々のために戦闘に参加し、倒れたという。


 グロワス14世の死は一個人の死が歴史上及ぼしうる影響のうち最大のものを中央大陸と新大陸の両者にもたらした。

 サンテネリにその報が届いたのは王の死から約半月後のことである。国民会はやっかいな問題に直面した。グロワス14世は自分たちが半ば成り行きで、しかし意図を持って追い出した男である。サンテネリ共和国を事実上支配した改革派領袖レスパンは、議会演説の中で王の死を巧みにこう表現した。


()()()()()()()の末に祖国を後にして、遠く新大陸でその生を終えられた市民グロワス・ルロワ氏に哀悼の意を捧げたい。そして、かの市民を温かく迎え入れてくれた連邦共和国は偉大な”国家”であると、我が国はこの議場において確認したい」


 グロワス14世を王に戴く連邦()()をサンテネリ共和国は承認しえない。しかし連邦()()()となれば話は別である。かくしてサンテネリは”田舎の薄汚れたごろつき共”を国家として承認した。

 同時に、まさにこの時、サンテネリ政界は後の復古王制に続く道に足を踏み入れた。貴族議員ロベル・ルロワはレスパンの後で演台に立ち、議員達にこう述べた。驚くほどに、その顔には一切の表情が存在しなかったという。


「グロワス14世陛下が身罷られた。我らの王が。ただ一人となろうとも、皆さんの罵声を受けようとも、私は敢えてここで祈る。それを諸君は許してくれるだろうか。人倫の名において。諸君と、そして私も署名した”人間の自然に関する宣言”の名において。宣言が高らかに謳う”人の自然”が必然的に惹起する”自然の行為”を。——弟のために、兄が祈るという」


 共和国議員ロベル・ルロワ氏はここに一つの政治勢力を手に入れた。彼の元に集うことはある種の免罪符として機能した。”王殺し”に手を貸したことに対する。明確な核を持った新しい王党派の誕生である。


 サンテネリ国外にも余波は広がった。

 最も顕著なそれはプロザンであろう。病の床に伏せるフライシュ=ヴォーダン王に代わり摂政の座にあったフライシュ王太子(後のフライシュ4世)は、兄の死に打ちひしがれる最愛の妻が訥々と零す言葉を耳朶に残した。


「フライシュ様。私は”サンテネリの娘”として、殿下の妻として、その立場ゆえの特権的な復讐など望みません。兵士は戦って死ぬものです。兄は兵士として死にました。ですから殿下、せめてお許しくださいませ。一兵士の妹が兄を弔うことを。そして兄を殺した者を憎むことを。町娘のように」


 プロザン王太子正妃マルグリテは大げさな悲嘆も狂乱も見せなかった。夫に復讐を迫ることもなかった。ただ慎み深い悲しみを見せた。そして兄を殺された一女性の純粋な恨みを。それは誠に夫の庇護欲をそそる風情であった。マルグリテ妃は目的のためにどう行動すべきかをよく理解していた。

 摂政フライシュ王太子はその日のうちに新大陸プロザン軍の撤兵を決定した。

 知らせを受けて大急ぎで参内し抗議するアングラン大使に、この”同盟国”の摂政は極めて冷淡な態度を示した。


義兄(あに)を手にかけた者と私欲のために友人であり続ける人間を、我が国では卑劣漢と呼ぶ。御国でどう称するかは知らないが」


 翌1748年、父王の死とともに即位したフライシュ王太子——フライシュ4世が為した最初の政務はサンテネリ共和国との講和を臣下に命ずることであった。

 フライシュ4世は中央大陸の王としては非常に稀なことに側妃を一人も持たなかった。正妃マルグリテが3男2女を産んだがゆえでもあるが、たとえ子に恵まれずとも一途を貫き通した可能性さえあるほどに、王は妻を愛した。

 母后となったマルグリテは子ども達にさり気なく、しかし決して忘れられぬような巧妙さで執拗に教えた。自身の兄が——つまり王子達の伯父——が誰に殺されたかを。


 アングランにとってこの偶発事は迷惑の極みと言えた。国を追われたとはいえ形式上は未だ正統なサンテネリ王位を保持するグロワス14世が、よりにもよって”ごろつき共”の親玉に収まり、その上戦場で一兵士として死ぬなどと誰が想像しえようか。サラスの敗北は局地的な失点に過ぎなかったが、サンテネリ国王を手にかけたことは国家の存亡に関わる致命的な失態であった。焦った政府はサンテネリの”簒奪者どもの首魁”と自分たちが呼んだ存在——共和国行政委員長——に釈明の使者を出すまでした。王兄たるジェント大公ロベルにも同様に弔問の使者を出した。そして異口同音の返答を得た。両者ともに謝罪も弔意も受け入れなかったのである。


 行政委員長レスパンはこう述べた。

「御国のことを誤解していたようです。アングランがサンテネリ共和国の真の友人であられたとは。不正の象徴たる王を殺してくださったのだから。一方でサンテネリの民はこの仕打ちに対する怒りを未来永劫語り継ぐでしょう。同胞を殺されたのだから」


 ジェント大公ロベルは次の言葉を残した。

「いつかあなた方と和解がなされる日が訪れることを心から願う。人は時折、決して叶わぬことを願うという、まことにやっかいな習性を持つがゆえに」


 グロワス14世の歴史的な評価は非常に難しい。

 まず、これといった政治的業績がない。次に、サンテネリを捨てて帝国に逃げた。さらに中央大陸を捨てて新大陸に到り、形式的とはいえ王位についた。最後に、常軌を逸した時代錯誤的な英雄願望の末に頓死した。事実のみを並べるときその行動に賞賛に値するものは一つもない。愚かな男というべきである。

 一方で彼は、仇敵エストビルグの風下に立たず、新大陸に渡っては連邦共和国の瓦解を防ぐ「王冠」の役割を自ら買って出た。彼が残した連邦共和国建国の偉人達との交友、そして人々から勝ち得た敬意は、サンテネリと連邦共和国の100年以上に渡る強固な友好関係の基礎となった。面白いことに今日、連邦共和国の国民の多くは初代枢密院主催者ルロワがサンテネリ王であったことはおろか、サンテネリ人であったことすら知らない。歴史の授業で学んでいるはずなのに、人々の多くがルロワ氏を連邦共和国人であると認識している。建国の父の一人であると。



<レスパンの死と”大改革”の終わり。復古王制>


 1748年11月、プロザン、エストビルグと続いた講和会議は、アングランとのそれを以て終了した。アングランの連邦共和国承認、サンテネリ共和国承認、サンテネリによる低地諸国南部都市の完全な併合の承認を含むこの条約——第二次シュトロワ条約は二重戦争の屈辱を晴らすに足るものであった。この条約には”サンテネリの娘”フローリア・ルロワとアングラン王の婚姻も含まれている。人質として贈られたマルグリテの場合と異なり、フローリアのそれはサンテネリがアングランに打ち込んだ楔であった。


 この絶頂は歴史が常にそうあるように、次の破局に向かう序章となった。”共通の敵”が消えた今、サンテネリは国内の亀裂と向き合わなければならなくなったのである。

 共和国は緩やかに、しかし明らかに分裂の傾向を示した。レスパンを中心とする改革派とジェント大公ロベルを核とする王党派である。共和国成立に伴い貴族特権は廃止されていたため、ジェント大公は正式には市民ロベル・ルロワであった。だが、彼をそう呼ぶ者は一人もいなかった。気の早い者はこう呼んだ。ロベル3世、と。


 行政委員会を占める改革派にとってロベルの排除を行うことは理論的に可能ではあった。だがそれはあくまでも理論上に過ぎない。現実には不可能である。

 祖国戦争の全期間を通して共和国東の国境を転戦した国家親衛軍の司令官メアリ・アンヌ・ルロワは軍を辞し、王国の島(イレン・サンテネリ)州バロワ県選出の国民会議員となっていた。サンテネリ共和国憲法は選挙権・被選挙権ともに性別に関する規定を持たなかったが、それは進歩的であることを全く意味しない。むしろ逆に、女性にその権利が存在しないことは自明であり、わざわざ条文とする必要すらないと考えられていたがゆえである。

 しかし、バロワ県——旧バロワ領——から”我らの姫”が出馬するとなったとき、選挙などもはや無意味であった。彼女は当選し国民会に議席を得た。余りにも扱いの難しい存在として。

 市民メリアの愛称で知られる美貌の将軍——当時から既に”共和国の守護女神”という仇名すら流布している——が軍と強い関係を維持していることは誰の目にも明らかであった。国家親衛軍を支えた幕僚達の一部は国立軍学校の同窓生である。国軍の高級将校もまた同様。青年層とは同窓の絆を持つ一方で、年長の将軍達との関係は”古史”的色彩を色濃く残していた。メリアの”上司”たちにとって、彼女は偉大なるルロワの王女であり、我らがバロワの姫であった。

 メアリ・アンヌ・ルロワ議員は改革派には属さないが敵対もしなかった。一方で王党派に与することもなかった。自身の存在が両者の力関係を「物理的に」崩してしまう可能性を理解するがゆえに、彼女は孤高であり続けた。彼女の存在は一種の錨、一種の重石であった。

 行政委員会が王党派の排除を強行した場合、メアリ・アンヌ議員と彼女に同調する一部議員は明確に改革派と敵対することとなっただろう。議場で数には劣れども、背後に巨大な暴力装置の姿を覗かせて。

 第21期の我々はこの歪な状況を国民主体制——民による統治——の未熟とみるだろう。軍閥を率いる個人がその無言の圧力を以て正当な議会運営を妨げているに等しい。だが、第18期当時、国民主体制と国民会は御年8歳の幼児である。全てが手探りであった。

 王党派は改革派の中にあって比較的近しいアキアヌ閥の取り込みを図る。改革派は王党派の土台の一つをなすデルロワズ、ガイユール州の富裕な平民階層と関係を深めながら、改革派よりもさらに過激な一派の()()な者達をも引き込もうと励んだ。

 グロワス13世についてのあからさまな、度を超した中傷が盛んに行われるようになるのはまさにこの時期である。改革派の中枢を占めるレスパンやブルノー議員とその同僚にとって、グロワス13世の名誉毀損は取り込んだ改革極派に対するぎりぎりの妥協点であった。かつて放逐した先王グロワス14世は大衆の移ろいやすい気分の中でいつしか悲劇の英雄化していたし、メアリ・アンヌは現在進行形の英雄である。ロベルの”人気”は姉弟に比してそれほど高くないものの、王党派の中心人物に対する直接の中傷は政争に直結する。よって彼らの父を貶める以外に道はない。極派の一部議員が中心となって行うグロワス13世への中傷をレスパンがどのように受け止めたのか。残念ながら彼の心内を表すものは一つも存在しない。

 この状況において、”うまくやった”のは明らかに改革派、レスパンであった。彼は自身の派閥を統御することに成功していた。グロワス13世を目も覆いたくなるほどにねつ造された醜聞で貶める()()で済ませたのだから。

 失敗したのは明らかに王党派ロベル・ルロワの方である。


 祖国戦争終結から2年後の1750年、昼過ぎに同僚の議員達と会堂を出たジュール・レスパンは入口脇に聳える柱の陰から飛び出した青年に銃撃された。発射された三発の銃弾は見事腹部に命中した。

 傍らの盟友ブルノーに上半身を抱き支えられながら、絶命に至る数瞬の間に残した最後の言葉を知らぬ者はいない。


「私の罪は私が。誰の責とも為さぬ。——私はあなたに約束した。私は果たす」


 ここで発せられた「あなた」が誰を指すのかについて19期以降のレスパン研究者はおよそ考え得る限りの多様な候補を挙げてきたが、レスパン遺稿により問題はあっけなく解決された。あなたが誰か、現代においてそれは自明である。


 レスパン暗殺の実行犯は王党極派の青年であった。

 政敵暗殺の報を受けたとき、ロベルはシュトロワの私邸で姉と久しぶりの夕食を取るところだった。

 知らせを受けた二人はしばし無言だった。最初に口を開いたのはメアリ・アンヌである。


「あなたが?」


 ロベルは首を二度、横に振り答えた。


「ああ、メリア姉さん(エネ・メリア)メリア姉さん(エネ・メリア)。私はあなたに問わねばならない。問わねばならなくなってしまった。——私に”王の器”はあるだろうか」


 改革派の首領が殺された以上、サンテネリに残された道は二つしかなかった。王を戴くか、あるいは内戦か。ロベルもメアリ・アンヌも状況を理解していた。


 レスパン暗殺についてロベル主犯説を否定する証拠はない。一方で肯定の証拠も存在しない。実行犯の青年とロベルは直接的な面識を持たなかったが、それは極めて弱い傍証に過ぎない。面識などどうとでもなるからだ。本書はレスパン暗殺を主題とするものではないため、ここで山ほど積上げられた推論を紹介することは控える。ただ事実だけ述べよう。


 事件の翌日、8月21日、昼に国民会の演説を控えた早朝にロベルはボスカルと三時間に及ぶ会談を持った。双方引き連れた手勢を遠巻きに待たせ、新市川べりの小さな店の露天席で会話は行われた。

 内容の記録は残されていない。

 ただ、会談の後、ボスカルはロベルの行動に消極的ながら支持を示すようになる。学生時代からレスパンの親友であり長じては一心同体の盟友であったブルノー・ボスカルがロベルと敵対しなかったのは、この”ロワ河岸の会話”の中でロベルが自身の潔白を証明したがゆえであるとの説がある。レスパン亡き後改革派一の大物となったブルノー・ボスカルの動きこそがロベル潔白の証拠というわけだ。しかし前述した面識の問題と同様、これもまた傍証である。


 レスパン遺稿を手にした我々はボスカルが知っていたこと、つまりジュール・レスパンがグロワス13世に対してある種の極めて深い感情を抱いており、王もまた同様のそれを持っていたという事実を把握している。そしてロベルはグロワス13世の息子である。彼が父の手ほどきの元、レスパンの著書を教科書として読んで育ったことも、ブラウネ妃の手記を介して我々は知っている。

 状況を総合したとき、レスパンとロベルがグロワス13世を媒介とした思想的な関係性——ある共通認識——を有していたという事実をボスカルが理解し、納得した可能性は大いにある。

 あるいはロベルは直截に語ったのかもしれない。彼の()()を。

 いずれにせよ、ボスカルは納得した。


 21日午後、ロベルが演台に立ちレスパン追悼の演説を行った。彼は誰の目にも明らかであった政敵レスパンに対して真情の籠もった弔辞を捧げた。ロベルはレスパンをこう呼んだ。

 大指導者(コントゥール・グロー)と。

 この演説が終わった後、改革派内に大きな混乱が起こらなかったという事実は歴史上著名なもう一つの仇名をある人物に冠することとなった。

 大組織者(オルガトゥールグロー)である。

 この二つ名は、本来であれば憤激と報復に沸き立つのが当然の改革派を抑え込んだ手腕に対する畏怖を込めてボスカルに捧げられたものである。


 ◆


 レスパンの死後サンテネリ政界は様変わりした。行政委員会の委員長に就任したロベルは1年後組織の名を改め、自身の立場を変更する法案を国民会で通した。王党派と改革派の多数賛同の元に。

 行政委員会は枢密院と名を変え、行政委員長は枢密院主催者と改称された。

 ただしグロワス13世代の枢密院と異なり、ロベル議員の元の各卿は国民会議員によって構成され、国民会に対して責任を負うものであった。

 枢密院首相には今や改革派の首魁となったブルノー・ボスカルが選出され、彼の元で各卿が任命されていく。

 そんな中、ただ一人枢密院主催者だけが国民会から切り離されて存在した。

 もはや誰の目にも、何が起ころうとしているのかは明らかであった。


 1752年、枢密院の発議によりサンテネリ共和国は共和国憲法の改正を決議。サンテネリ国王ロベル3世が登極、その名を再びサンテネリ王国と改めることとなる。世に言う復古王制時代の始まりである。



<王権の委譲と第2共和国>


 ロベル3世の治世は20年に渡った。治世といいながら枢密院主催者が国政に口を挟むことはほとんどなかった。枢密院会議の席上、王は常に遠くを——部屋の隅や天井を眺めている。あるいは腕に巻いた時計をじっと眺めている。

 諸卿の間で交わされる議論が結論に到ると、王はそれを承認する。


「皆の意見は尽くされただろうか。ならばそれを為そう。サンテネリ国王ロベルは枢密院の発議に賛意を示したい」


 そして政策が決定される。王が賛意を()()()()ことは一度もなかった。ただし、枢密院会議に到る前の段階で、見えないところで、様々な示唆と交渉が行われていたことが記録に残されている。


 ロベル3世の()()は治世の10年を過ぎたあたりから本格的な討議の段階に進んだ。年月を経て国民会はある程度の落ち着きを持ち始めた。枢密院首相の選出も穏便に行われることが日常となった。少々の不幸な肉体的接触は日常茶飯事だが、存在の物理的な抹消に至ることはなくなった。

 国民会議員選挙も比較的平和裏に進むようになった。少なくとも暴動に到らない程度には。票の買収や投票妨害といったごく()()()問題は日常茶飯事だが、なにはともあれ殺し合いには発展していない。


 王が示した案は中央大陸においておよそ前例のないものであった。ルロワ王家が1000年以上に渡って保持してきたサンテネリの統治権を国民会に()()する。王に代わり選挙で選ばれた統領職が元首の職責を担う。統領の元、国民会から選出された首相が行政の責任者となる。実質的な権力は首相が保持し統領職は象徴としての王を代替する存在となる。


 これら一連の案が国民会に提出されサンテネリ王国憲法の再改正が決議された。


 そして1770年2月15日、グロワス13世治下に行われた最初の枢密院会議から54年後の同日、サンテネリ王国における最後の枢密院会議が実施された。


 53歳の王ロベル3世は会の最後、散会の挨拶を残している。


「諸君。今日この場においては私に一言挨拶させてほしい」


 飾り気のない単純な台詞から演説は始まった。


「50余年前のある日、貴族会の演台で()()()()がこんな言葉を残している。”百年後のサンテネリには再び日が昇る”と。——そのときから半期が過ぎたが、残念なことに私たちの頭上には未だ太陽は昇らない。相変わらず財政は酷い有様だ。外交は多少落ち着いたものの、新産業の育成には後れを取り経済的な戦いでは劣勢を強いられている。”古史”的身分こそ取り払ったものの、私たちの社会には依然酷い不平等が至る所に残されている。だが諸君。我が国は幸運なことに素晴らしい力を手にする。明日から。我々は、我々の未来を自分の手で選び取る権利を手に入れる。一人の愚かな王の手を、それは離れる。我々は真の意味で同胞となる。皆で生き、皆で歩み、皆で死んでいく。それは素晴らしいことではないか? サンテネリ人はもはや、他者の手に自身の運命を委ねない。それは偉大なことではないか? 私はルロワ朝最後の王として、”古史”の時代に幕を下ろす役を担ったことを光栄に思う。それを望んだ幾多の人々の裔として、この偉大な瞬間に立ち会ったことを。…諸君、サンテネリの”昔話”はこれで終わりだ」


 1770年3月1日、国民会は最後の枢密院令、通称「サンテネリ共和国令」を賛成多数で可決。ここに新たな国家が誕生した。

 サンテネリ共和国。紆余曲折を経ながらも現代に至るまで続く我が国、偉大なる共和国の始まりである。


 このとき国民会がなした決議はもう一つ存在する。共和国設立が枢密院令によってなされた一方で、こちらは国民会発議のものである。

 サンテネリ共和国が存在する限りにおいて、ルロワ家の直系当主に対し「枢密院主催者」の称号を独占的に使用する権限を与える、という。

 サンテネリ共和国はその政府を枢密院と呼称しない。よってサンテネリにおける「枢密院主催者」とは、主催する対象が存在しない純粋な名誉称号である。

 王権の()()という自身の決断に対して与えられたこのちっぽけな褒美に対してロベル3世、今やロベル・ルロワとなった一人の老サンテネリ市民は、父親譲りの薄い笑みを浮かべて謝意を述べた。


「ああ皆さん、申し訳ないな。愚かな王()()()この私に、かくも光輝ある名誉を下さるとは。この称号が真に名誉()()を示すがゆえに、私はこの上なくそれを愛する」



<グロワス13世が遺したもの>


 さて、グロワス13世死後の歴史を駆け足で振り返った後、読者の皆さんはどのような感想を抱かれるであろうか。

 現代サンテネリ共和国の在り方から逆算する限り、全ての出来事が一つの思惑を持ってまことに精妙に配置された”都合の良い物語”と映るかもしれない。歴史は常にそのような()()を持つ。

 だが、その感想は因果の逆転がもたらす錯覚である。全ての出来事には他の可能性があり得た。大改革が始まらなかった可能性もある。グロワス14世が光の宮殿で暴徒になぶり殺される可能性もある。逃げおおせた彼が帝国の尖兵と化し、サンテネリに骨肉の争いを招いた可能性もあった。メアリ・アンヌはシュトロワ砲撃を命じたかもしれず、レスパンは凶暴化した市民たちを抑えるに過剰な暴力と恐怖をもってする他なかったかもしれない。ロベルは玉座に復した後、”生意気な平民共”を一掃することもできただろう。

 それらの可能性が全て「選択されなかった」がゆえの世界を我々は生きている。つまり、我々の世界は”物語に定められた結末”ではありえなかった。当時を生きた全ての人々の主体的な選択がもたらした偶発的な結末である。


 だが、歴史を研究する者は問わねばならない。人々の選択がなされた理由を、である。無論理由は単一のものではありえない。”雪の王”や”大改革の雨”のごとき気候変動、中央大陸と新大陸における商工業の爆発的な発展、人口の急激な増加。このような巨視的な分析を歴史に施すことは重要だろう。

 ただ、人知が及ばぬ巨大なうねりの中にあって、そこに生きた人々の意志——選択もまた一つの事実である。一見取るに足らぬように感じられる個人の選択は、決して軽んじられるべきではない。我々の意志がちっぽけな、無意味なものと貶められるとき、歴史は決定論的にしか理解しえぬ、いにしえの「物語」に堕してしまう。

 我々は歴史の主体——少なくともその一部——であるべきだ。


 その見地からサンテネリの近期史を眺めたとき、当時の人々がなした選択の根源を探る営みはこの上ない価値を持つ。グロワス14世はなぜエストビルグ王と轡を並べて祖国に攻め入らなかったのか。レスパンはなぜ”過剰な”粛正による独裁を志向しなかったのか。メアリ・アンヌはなぜ”不逞な平民ども”に砲と銃弾を浴びせなかったのか。改革派と王党派はなぜ(比較的)平穏に共存できたのか。なぜロベル3世は自身の王権を手放し得たのか。

 彼らの行動の理由を考察することには意味がある。筆者はそう考える。


 18期、大改革と祖国戦争、復古王制、第2共和国の成立。我々が生きる現代サンテネリの全ての始まりがそこにある。強烈な郷愁をそそる、我々の神話がそこにある。それは天を衝く大木である。大きく枝葉を広げ、満開の華麗な花を纏った見事な、神々しい巨木である。

 そこで私は読者諸氏に最後の問いを投げかけたい。

 偉大な木の元、地面の下に何があるか、ご存じだろうか。


 そこには根が存在する。巨木であればあるほど、その根もまた巨大であり逞しいものであるはずだ。しかし我々はそれを見ることが叶わない。

 地下深く、人目の届かぬ暗闇の中にそれは息づいている。


 この小著の終わりに、冒頭に掲げた用語集の記事を再び引こう。



 グロワス13世 1695〜1735

 サンテネリ国王(在位1714〜1735)。父グロワス12世の死去に伴い即位。アキアヌ大公を首班とする枢密院の主催者として二重戦争を開始。在位中に顕著となった王権の失墜は、のちの大改革レフォルマシオン・グローの一因となった。



 この男が何者であったか。

 読者諸氏はどう思われるだろうか。


 願わくば、読者諸氏がこの男に幾ばくかの興味を抱かれんことを。

 我らがその元で憩う巨木の、大地に隠された偉大な根に。


 歴史の暗闇に生きた、この君主に。

次回が全編通しての最終話となります。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
書籍で知って、続きが気になってここまで読んでしまいました。サンテネリにはロペスピエールもナポレオンも現れなかったんですね。 残された人たちはまさに「うまくやった」ということでしょう。読者として心が救わ…
14世…… 主人公、13世の死より胸が痛みます 甥っ子を喪ったような気持ちです 彼らが互いを憎み合わなかったのが、どれほど救われる心地か
2025/07/16 04:29 通りすがり
アングランかわいそw ってそれはさておき、14世が「そりゃあ人気出るわ!」って人生でしたね。そして13世がその後の大木を支えて大きく育てた「根」に例えられたのにはじーんときました。 読んでいてふと思…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ