王の死とその後の世界(1735〜)前編
王の死
1735年9月10日、シュトロワ近郊の大僧卿座”王国の島”聖堂においてグロワス13世の葬儀が執り行われた。
夏の高温による損傷を避けるため入念に防腐処理を施された遺体は最初聖堂内に安置される。堂内に座する正規の参列者達を前に大僧卿の説教が行われた後、棺は野外に運び出される。
”送りの場”と称される野天火葬場は通常人目につかぬ郊外の荒野に備えられるものだが、”王国の島”聖堂のそれは群衆の自発的な参列を予定した巨大な施設である。そこがルロワ歴代の王を見送る場であるがゆえに。
広大な広場の中央には白木で組み上げられた低層の櫓が設えられている。その頂上部に、丁寧に、王の棺は安置された。
”送り”に集った参列者達は手に枯れ枝を持ち、櫓に寄り、下の地面にそれを置く。
そして火が点される。
グロワス13世の葬儀にはルロワ王家を構成するおよそ全ての人々に加え、枢密院閣僚と各地方の有力貴族たちが参列した。王の葬儀が常にそうであるように、義務として。儀式の中核を為すこれら貴人達のあとには富裕な平民達が続く。そして最後に庶民が遠巻きに見守る。
王はサンテネリ王国の父である。父の死を子が見届けるのだ。
王の葬儀が比較的質素——正確に言えば貧相——なものであったことは当時の人々にも少々意外であったようで、参列者たちの記録に同様の感想が多く残されている。
日常に刺激の少ない第18期当時にあっては王の葬送は一種の壮大な出し物であった。通常シュトロワから”王国の島”聖堂へと続く街道には葬儀見物に向かう庶民相手の出店が軒を連ね、人々は物見遊山を思い思いに楽しむ。街道を離れた野辺には即席の見世物小屋が建ち、浮きたった観光客たちを吸い込んでいく。花火と喧噪と酒。精一杯の派手な外出着が織りなす極彩色の群れ。
しかしグロワス13世のそれはただの葬式に過ぎなかった。故人の親族と関係者を中心に営まれる小規模なもの。王の葬儀は祭りだが、グロワスという取るに足らぬ一人の男の送りは祭りではない。グロワス12世時は”送りの場”に収まりきらず、離れた本堂まで埋め尽くした群衆だが、今回は十分収容可能な規模に収まった。
ここに我々はまたしても”神話”を見るだろう。
棺を包む盛大な炎を眺めながら、後の大組織者ブルノー・ボスカルは参列者の少なさを見て、傍らに立つ盟友にこう呟いたという。
「なんとも惨めな送りじゃないか。偉大なるルロワの王が」
我らが大指導者は険しい表情で返した。
「——まだこれだけ残っている。”古史”の残滓が」
上記の会話が実際になされたことを証明する記録はない。ただ、当時の人々がいかにもありそうなことと感じた場面なのだろう。よってそれは神話なのだ。
ジュール・レスパンの心中を我々が知ることはもはや叶わない。亡命の地よりサンテネリに舞い戻った彼は、その後自身の心内を吐露する日記の執筆を止めてしまったのだから。現代の我々が見ることができるのは、公的に残された書簡と演説、簡素な行動の覚書のみである。
◆
グロワス13世薨去の瞬間を目撃したものはいない。王の死を最初に発見したのはブラウネ妃である。21日の早朝、王の寝所から出た彼女は外の戸口に控える召使にそれを伝えた。
「陛下が御裾の下に旅立たれました」
その声は落ち着いたものだった。あるいは喜びすら感じさせるものであったと当時の侍従長の記録に残っている。ただし、その証言は侍従長直接の目撃ではなく召使からの伝聞である点には留意したい。王の死は様々な憶測と場合によっては思惑を産むものだからだ。よって、王の死を”独占”したブラウネ妃に疑いの視線が投げかけられるのも避けられない。いかに衰弱を極め、残された時間はごく短いと皆が理解していたとしても、王は前日まで確かに生きていたのだから。
しかし、ブラウネ妃は事実以上のことを何も告げなかった。今際の際の唐突な遺言を語り出すことはなかった。例えば”王が「ロベルに王位を譲る」と言った”などとは。
彼女が語ったことはただ一つである。王は自身の胸の内に抱かれて身罷られた、と。彼女にとってそれこそが最も重要であった。他は全て些事であった。残されたブラウネ妃の手記がその心境を明確に示しているし、本来であれば猜疑の目を向けてもおかしくはない他の妃達、あるいは子ども達が、彼女の行動を全く問題視しなかったことも傍証となるだろう。
グロワス王太子——グロワス14世——は父の亡骸を前にしてこう述べたという。
「父上…おれは、怖い…」
後年の楽天的で陽気な印象に反して、若き新王の第一声は恐怖を訴えるものだった。彼は何を恐れたのか。第21期の我々が真意を知る手がかりは新王の兄ロベルがかけた一言にある。
「グロワス14世陛下。父上が一人で背負われたものを陛下は我らと共に担うことができます」
メアリ・アンヌ王女は何も言わなかった。ただ、弟の頭を静かに二度、撫でた。
マルグリテとフローリアは、兄の両の手をそれぞれ握った。
侍従長が記したこの場面は図らずも読者の胸を打つ。グロワス13世という人間が何を残したのか。答えを端的に示す挿話であるからだ。中央大陸随一の玉座を間近にした有資格者たちが、それでもなお家族として存在しうること。これは一種の偉業である。
しかし、個人の心内を無視してその後の歴史は大きなうねりを描き、王の子ども達を翻弄することとなる。
◆
グロワス13世以降の世界
本書の主題はグロワス13世の知られざる生涯を読者諸氏に紹介することにある。よって、主役の死後の出来事は本来の趣旨から外れた、いわば余録である。
”大改革”から現サンテネリ共和国の成立に至るまで、新たな資料も新たな解釈も存在しない。よってここでは高等学校の授業を復習するように、簡潔に事の推移を見返すに留めよう。
<グロワス14世の時代>
1735年、サンテネリ国王として即位したグロワス14世は同時に枢密院主催者の名も父から受け継ぐこととなった。17歳の新王は、13世死去の直前に首相に返り咲いたアキアヌ大公が主導する枢密院において、その後3年間ある種の修業時代を送ることになる。
成人を迎えたグロワス14世は、引退するアキアヌ大公の代わりにフロイスブル侯爵バルデルを首相に指名する。王兄ジェント大公ロベルを旗頭とするルロワ譜代首魁の登用は、兄弟の関係が安定していたことを示す証左であった。ただし、性急な改革を志向する王と保守的な首相の確執は時間の経過と共に深刻なものとなり、最終的には破綻を来すことになる。
枢密院の実権を得て二年後の1740年、王は「国民の会議に関する枢密院令」を発する。旧来の貴族会に平民階級の議員を加え”国民会議”と改称するものである。母体となった貴族会がほぼ実権を持たぬ形式的な存在に堕して久しいこともあり、この改組は王の開明性を示す”素振り”と当初見なされていた。
だが、いかに空疎な存在とはいえ、ついに平民階級は国政に携わる公的な場を得たのである。サンテネリ全土の地方長官の下に設置された諮問会——地方の有力な平民人士が選挙によって選ばれる会議——を母体として、記念すべき第一回の国民会議議員選挙が実施されることとなった。現代の選挙とは異なり、被選挙権も選挙権も大きく制限された、いわば”名士の互選会”であったが、何はともあれ選挙である。サンテネリ史上初の。
後に国民会議で圧倒的な多数派を形成することとなる「改革派」の母体となる組織の形成はグロワス13世死去の1735年から、あるいはより遡り二重戦争敗北の直後から始まっていた。大組織者ブルノー・ボスカルは実家の縁を辿りシュトロワやリーユの商業資本家達を取りまとめるとともに、巧妙に人の縁をたぐり寄せ都市の労働者階層にも影響力を保持するまでになっていた。
グロワス13世の死後すぐにサンテネリに舞い戻った大指導者ジュール・レスパンは、アキアヌ首相時代の潜伏を経て、王の事実上の親政が始まる1738年になると大っぴらに活動を開始した。彼は自身の貴族籍を巧みに使用し、政権の主流から外れることが決定的になりつつあったアキアヌ派閥と渡りをつけた。
そして1741年、初の国民会議においてシュトロワ選出議員として公的な地位を手に入れた。
前述のように国民会議は実権を持たなかった。会議で何らかの決議が為されたとして、それが国政に反映されることはない。母体となった貴族会は枢密院の翼賛機関、あるいは枢密院が吸い上げるべき人材の”待機所”に過ぎなかった。
だが、制度に変化はなくとも、そこに集う人々の意識は大きな変貌を遂げていた。二重戦争敗北以降、サンテネリ王国が何らかの変化を必要としていることは誰の目にも明らかであった。より正確に述べれば、そのような空気が存在した。かつて強大な”魔力”を背景に正当な支配者たることを誇った貴族議員達は、今や平民階層出身の議員達を「同僚」と呼ぶようになった。古くは貴族達の足下に震えながら膝を屈した平民達は、議場で支配者の裔と国家の行末を対等に議論するようになった。
賞味期限を過ぎたサンテネリを変革するための模範と見なされたのはアングランであった。立法議会とその信任を受けた政府。明文化された諸権利。程度の差はあれ、サンテネリが向かうべき道について大まかな共通認識が存在した。
何よりも王がそれを求めた。グロワス14世は国民会議を「真面目に」捉えていたのだ。枢密院会議と並行して国民会議の議場にも頻繁に顔を出し、有力な議員達と政策について語り合う。枢密院が計画する様々な施策に対しても国民会議に意見を求めた。あくまでも”参考に”ではあるが。
歴史家の立場を一時離れて空想の羽を伸ばすとき、筆者はこう考えざるを得ない。もしも何事もなく事態が推移したならば、あるいは父王の下にあったものと同程度に有能な枢密院を彼が率いていたならば、大改革は始まらなかったのではないか、と。
<大改革>
1742年6月、記録的な大雨がサンテネリ北部を襲う。1716年2月にグロワス13世治下に起こった”雪の王”と同じく、それはまさに試練であった。
一週間に渡り降り続いた猛雨は全土からシュトロワに向かう道という道を寸断した。当時の道路は現代のような舗装など一切為されていない。剥き出しの地面である。馬車の轍が固めたはずの大地はたちまち泥濘と化した。
サンテネリ随一の大都市であるシュトロワは、もう遙か以前から食糧を自弁できる体制にはない。その膨大な人口を支えるためには、まさにサンテネリ全土からの供給が必須であった。よって流通の途絶は50万人の緩慢な、しかし壮絶な死を意味する。
1742年7月、旧市において暴動が発生する。”雪の王”災害に際しグロワス13世と彼の枢密院が明確な意図をもってシュトロワを死守——つまり地方の犠牲と同義だが——した一方で、グロワス14世の政府はその決断を下しえなかった。歴史の皮肉がそこにある。グロワス14世が頼りとした国民会議は父王がかつて為したような決断を許容できなかったのだ。それは当然のこと。国民会議はサンテネリ全土から選出された議員によって構成されている。貴族議員は地方に領地を持ち、平民議員もまた地方から選出されている。王は多種多様な人々の利害関係を無視することはできなかったし、枢密院もまた、王の背中を蹴飛ばす人材を持たなかった。
旧市の暴徒——国民史観的に表現すれば”自由を求める民衆”は新市に乱入した。食料品を扱う商店を標的とした略奪が始まる。少々冷たい言い方をするならば、彼らは自由を求めなかった。食い物を求めたのだ。
レスパンとボスカルはこの暴動を扇動しなかった。少なくとも火を着けたのは彼らではない。火は勝手に着いたのだ。だが、その火を「使った」のは事実である。旧市会堂を取り囲む民衆にレスパンは”大義”を与えた。ボスカルはその裏で、これまで積上げてきた幾多の伝手を駆使して暴徒を”組織化”した。
「諸君は盗人であろうか? 諸君は強盗か? 諸君は殺人鬼か? 皆がそうだと言うのならば私は従おう。しかし賢明なるシュトロワ市民諸君! 諸君がそのような悪鬼の輩であろうはずがない。中央大陸にその名を知られた”世界の中心”に住まう諸君! あなたがたが求めるものは何だ? あなた方の手が握りしめる粗末な木の棒きれは、卑劣な盗みの道具となるか? あるいは——あるいは人の光輝を示す偉大な聖杖となるか。シュトロワ市民諸君、私に教えてくれ! あなた方は何を求める?」
サンテネリ人が小等学校で必ず習うレスパンのこの演説——会堂広場の演説——は即興でなされた。当時事態は一刻ごとに変化し、彼とボスカルを中心とした”改革派”の集団はそれに適応せざるをえなかった。能動的な準備の余裕などなかったはずだ。
ゆえに筆者は彼の言葉の中にある祖型を見出す。この演説はグロワス13世の「ガイユール館の演説」に酷似している。グロワス13世はその演説によって民衆の怒りの矛先をガイユール公領からアングランに逸らした。レスパンは民衆の獣欲——食糧と、場合によってはどさくさまぎれの金品強奪——に美しい名を与えた。
演説の最後、絶妙の機会を捉えて誰かが叫んだ。
「不正を糺すこと!」
おそらくは仕込みであろうこの絶叫は、暴徒の獣欲を歴史上の”偉大なこと”へと転化せしめた。
◆
群衆に包囲されつつあった光の宮殿から逃走することを、グロワス14世は最後まで厭うた。
「あれは私の同胞だ。俺は同胞と共に居る。王であることに俺は耐える!」
そう叫ぶ弟を諫めたのはジェント大公ロベルである。普段の穏やかな物腰も敬語もかなぐり捨てて、彼はグロワス14世の胸ぐらを掴み怒鳴りつけたという。
「君は彼らに烙印を与えるのか? 同胞を手にかけるという。王を弑するという!」
この会話が実際になされたかどうかは定かではない。後に長く玉座を占めたロベル3世を、その治世下において”悪者”扱いすることはいかに硬骨の歴史家であっても難事であろう。逆に多少の潤色は十分考えられる。
いずれにせよ、王の一家は光の宮殿を脱出した。それだけは明確な事実である。
兄弟姉妹の別れもこのときなされた。既にプロザンへ嫁いだマルグリテ王女、軍に勤務するメアリ・アンヌ王女を除く3人の。
王は母の実家であり自身の後ろ盾でもある帝国——エストビルグへ。ロベルとフローリアの兄妹は新婚の妻ヴァランティナの伝手を辿りデルロワズ公領へ。
このとき王が向かうべき場所の候補は二択であった。一つは帝国。もう一つはアキアヌ大公領である。何もなければ翌年になされるはずだったアキアヌ大公女アニェスとの婚姻があと1年早ければ、彼はアキアヌ行きを選んだかもしれない。だが、現実に二人は——ルロワとアキアヌの関係は——結ばれておらず、彼は母の縁を辿るより他なかった。この点においてグロワス14世は明確に貴族の思考様式を残している。政治的志向が近い他家よりも血縁を選んだ。それはまさに貴族の在り方である。
加えて母后アナリゼの身の安全確保も考えての決断であろう。アキアヌ大公領とて安全とは言い切れないからだ。”エストビルグ女”にとって。
◆
同年7月20日、王が不在となったシュトロワに一つの政体が誕生する。サンテネリ共和国(第1共和国)である。
サンテネリ共和国は正式な政府を持たない。立法機関たる国民会——国民会議より改称——のみを持ち、その一部門として立ち上げられた行政委員会が実際の運営を担う形式が取られた。レスパンは行政委員会の委員長に就任した。
生まれたばかりの共和国——領土といってシュトロワ近郊のみの——が対峙したのは、事態を察知してすぐに組織的な行動を取ることが出来た唯一の部隊。シュトロワの隣市バロワ領に軍営を構える国家親衛軍近衛連隊である。
約一月を経てシュトロワ近郊に達した同連隊はサンテネリ首都を攻略しようとはしなかった。城塞を元に発展した人口50万を超える都市を数千の兵で落とすことなど不可能である。例え相手の武装が旧式の銃と棍棒だけであったとしても。
近衛連隊が取り得る行動といえば緩やかな包囲のみだが、王都の巨大さゆえに兵数がとても足らない。
このときの連隊の行動にも数限りない「仮定」を立てうるだろう。例えば連隊の指揮官が、国民史観に依る歴史家達が表現するところの”頑迷な古史主義者”——頭の古い貴族——であったならば、迷うことなくシュトロワ市街に砲を撃ち込んだことだろう。貴種に楯突く不逞な平民共に。
サンテネリにとってまことに幸運なことに、この時の指揮官は”まとも”だった。実戦経験など皆無、半ばお飾りの存在に過ぎなかったが、少なくとも”国民”を”国民”と認識することができる頭を持っていた。
弱冠26歳の女性。両親から譲り受けた、緩やかに癖のついた金髪を肩口で揺らす女。国家親衛軍近衛連隊司令官メアリ・アンヌ・エン・ルロワ准将である。
シュトロワ城門外に設えられた天幕において、共和国の責任者と近衛連隊司令官の対面が実現したのはさらに半月が過ぎた頃のことである。
両者の邂逅は様々な偶然の上に為されたものだが、決定的な要因は王の無事が確認されたことである。グロワス14世が光の宮殿の中で骸となっていた場合、両者がまみえる場は戦場にしかなかったであろう。妥協も対話もありえないことは確実だった。だが、王は生きている。ゆえに話し合いの余地が存在した。
開口一番、なぜこのような暴挙を為したのかと詰るメアリ・アンヌに対し、大指導者レスパンは平然と、しかし柔らかく答えた。
「為したのではありません。ルロワ殿。こうなったのです。我々は歴史を操れない。ならば、ここから先は我々皆で知恵を絞り、少しでも”うまくやる”しかありません」
メアリ・アンヌは設えられた椅子に座したままのレスパンにこう返した。
「王の娘に対して無礼でしょう。レスパン殿。たとえシュトロワを手にしたとしても。お立ちなさいな」
「代わりにあなたがお座りなさい。それこそが、あなたのお父上が望まれたことだ」
グロワス13世再評価以前、レスパンのこの時の返答は痛烈な皮肉として解釈されてきた。父であるグロワス13世の失政ゆえに、ルロワの姫であるあなたと平民の自分が今こうして”対等”に語らざるをえなくなっているのだ、と。恨むならば無能な父親を恨め、と。しかし、レスパン遺稿を手にした我々は、この会話を全く異なった視座の元に理解することができる。
この会談の様子は政府と軍それぞれの随員によって記録されている。レスパンは今後の展開、つまりエストビルグによる介入の可能性をメアリ・アンヌに説いた。
「今は亡き友に、私は昔こう忠告されました。いつか事を成すときは内と外に気を配れ、と」
「随分とありふれた言葉ですね」
「ああ、そのようです。確かにありふれた言葉だ。しかし当たり前のことこそ、それを成せるものは少ない」
「当のお友達はそれを成し遂げられましたか?」
「どうでしょうか。それを判断できるのは歴史だけです。しかしね、ルロワ殿。我々の行動はまさに”その方”が残されたものの一部なのです。——我々は異なる存在だが、異なることは争いの理由にはならない。シュトロワの市民は敵ではありません。彼らはあなたと異なるが、あなたの”隣人”だ。それをあなたと私が理解すれば、少なくとも”内”は収まる」
メアリ・アンヌの沈黙はとても長いものであったと記録は伝える。彼女は”叛徒の親玉”の瞳をじっと見つめていた。そして口を開いた。
「——私はあなたがご著書で記すところの”悪の極み”の娘です。”不正”を根絶することを謳うあなたは”悪の娘”と隣人になれるのかしら」
「ああ、なるほど。——ルロワ殿、概念と人を別たれよ。別ちがたく思われても、あえて別たれよ。それは別の存在だ。王の概念は悪だが、人とは友人になれる」
「綺麗事を。その二つは別ちがたく結びついています。私の育ちをお忘れですか。間近で実例を見てきたのです」
「私も見ましたよ。間近で。——私とあなたは同じ人を見た。そのうえで言っている」
通常メアリ・アンヌは体験として、レスパンは伝聞による知識をもって「見た」と述べたと解釈される箇所だが、恐らくこの時彼女は父とレスパンの本当の関係性に気がついたのだろう。
「——父を、ご存じ?」
「ええ。とてもよく」
旧来この「シュトロワ城下の会談」は、大指導者レスパンが持つ偉大な知性と高邁な理想にまだ若く無知な市民メリアが感化される場面として描かれるが、その解釈は若干の偏見を含んでいる。それはつまり歴史家達が無意識に持つ父権制的構造への肯定だ。教え諭す大人の男とそれに従う若い女という、現代の性差論からは権力構造の典型として分析される構図である。
筆者はメアリ・アンヌ研究を専門とする者として、性差論が主張するこのような分析に大方賛同する。その年少期の記録から読み取る限り、メアリ・アンヌは決して”従順な娘”ではなかった。彼女は父親に対してもしっかりと批判の視点を持っていた。人々が思い浮かべる典型的な”18期の女”——男性の言に従うことが善である、自身は愚かな存在であると内面化された女——ではない。彼女がレスパンに何らかの共感を持ったことは確実であろうが、それは優越する男性性への盲目的な服従ではありえない。恐らくより根源的な感覚、いわば、父の友人に対する親しみ、といったところだろうか。赤の他人よりはまし、といった程度の。
実際に、この会談を終えた後もメアリ・アンヌはレスパンの操り人形とはならなかったし、部下にもならなかった。二人は緩やかな協力関係を築いた同盟者であった。
<祖国戦争>
1743年、アングラン、プロザン、エストビルグの3国は、王国の正統を糺しグロワス14世を復位させることを口実にサンテネリ共和国に宣戦を布告した。”祖国戦争”である。歴史が常に逆転の連続であるように、この戦争もまた、当初の目的が逆の方向に作用した典型例の一つである。
「今日ここに見られるサンテネリの偉大さは、かくも親切な隣人の皆様のおかげをもって生み出されたもの。なんと素晴らしいことでしょう」
1748年、祖国戦争の終結とサンテネリの勝利をもたらすアングランとの講和会議(第二次シュトロワ会議)の席上、レスパンが時のアングラン首相に放ったこの台詞は正鵠を射たものである。
”1742年決起”(王党史観では1742年暴動)から始まる”大改革”が当時瀕死の体とはいえ依然しぶとく残った地方分権構造を一新し、強力な中央集権とそれが生み出す巨大な力を手に入れることができた理由は、簡潔に述べれば外敵の存在に尽きる。シュトロワの新政権とアングランやプロザン、エストビルグの”ならず者”達を比べたとき、国軍が付くべきはどちらか、諸侯が付くべきはどちらか、迷うものはいなかった。偉大なる”世界の中心”に足を踏み入れた侵略者達は一人残らず畑の肥やしとせねばならない。本来であれば難渋を極める国内の意識統一、特に身分の壁によるそれが比較的——といってもかなりの”もめ事”があった——穏便に達成されたのは、二重戦争の敗北がサンテネリ国民に与えた強い屈辱と復讐心に負うところが大きい。
国内貴族の旗頭たりうる唯一の存在であるジェント大公ロベル(後のロベル3世)は共和国と敵対しなかった。それどころか貴族議員の一人として国政に参加さえしているのだ。国民会の主流を維持した”改革派”が左右の極派を時には説得し、時には断固たる態度を示し——つまり殺害し——とにかくも先鋭化を防いだがゆえに、ロベルの共和国参加は実現した。
グロワス13世の”政治的手法”を最も色濃く受け継いだのは、まさにこの復古王ロベル3世であった。彼は自身の血統を土台にルロワ譜代閥を抑え、同時に姻戚デルロワズ公家を使い軍を制御下に置いた。平民議員とアキアヌ閥貴族議員を中核とする”改革派”と彼が手を結ぶことで、いささか継ぎ接ぎめいた、だが不可分のサンテネリが維持されたのである。
戦局においては、一時は東部諸州とガイユール公領の一部を侵されたものの、開戦二年後には逆襲に転じ、三年目には国土の大半を回復するに至った。
この一連の反撃はサンテネリ国内の安定もさることながら敵国の事情にも大いに助けられた。アングランは新大陸独立戦争によって大きく力を削がれ、プロザンはフライシュ=ヴォーダン2世の死とフライシュ4世即位により急速に停戦に傾いた。後者は正妃マルグリテの意向が新王に強い影響を及ぼしたことも一因としてあげられる。
そして、本来であれば主役であるはずのエストビルグ王国は侵略の旗頭を失っていた。
グロワス14世に逃げられたのである。