枢密院体制後期(1728〜1735)
二重戦争
グロワス13世の23年に及ぶ治世において、サンテネリ王国が対外的に武力を行使した唯一の機会——新大陸の慢性化した抗争は抜きにして——が二重戦争である。治下ほとんど休むことなく各地の紛争に介入した先王グロワス12世の事例を引かずとも、グロワス13世はルロワ朝歴代の王たちの中で最も戦争を厭うた者の一人であることは間違いない。ただし、そのたった一回の戦争が政権に、あるいは王国にもたらした影響はまことに大きい。
本書はグロワス13世の言行を主題とするものであるため、二重戦争自体への深い言及は避け、これまで同様、出来事に対して王がどう関わったのかを中心に概説していきたい。二重戦争を主題とした研究については良書が多く刊行されている。興味をお持ちの読者諸氏は是非そちらを参照願いたい。巻末に参考文献を挙げておく。
さて、まずは”大改革”直後から19期半ばまでに形成された通説を確認しよう。それは単純なものだ。領土欲と名声に駆られたグロワス13世が、プロザン王フライシュ3世の死を切っ掛けにその欲望を顕在化させ、中央大陸と新大陸の両方で攻勢に出ることを決めた、というものである。
複雑極まる利害の果てに勃発する近期以降の致命的な多国間戦争を経験した現代の我々にとって、これは単純に過ぎた構図であり、単純に過ぎるがゆえに疑いすら抱くだろう。しかし第18期までの戦争は多かれ少なかれこのような属人的な性格を持っていた。ある日王が何かの欲望を抱く。そして始まる。あるいは他国王侯との書簡の中に気に入らない一文があった。それが開戦を決める理由にさえなる。当然のことながら、それまでの社会的、経済的問題の破綻形態として始まることもある。いずれにしても現代の我々と第18期の人々の間では「戦争」というものに対する感覚が致命的に異なるのだ。第18期の人々は一回の攻勢で呆気なく数万人が戦死する地獄を知らない。当時の数万人と言えば、それは国の全軍に等しい規模であった。
上述した通説についてはかなり早い段階から歴史学の世界では否定されている。開戦の切っ掛けを計るのにグロワス13世の内心を知る必要などないからだ。新大陸におけるアングラン植民諸都市軍の攻勢とプロザン王フライシュ=ヴォーダン2世のシュトゥヴィルグ王国侵攻により戦争は始まった。それだけの話である。
むしろ我々が問わねばならないのは、これほどに明白な事例が白日の下に確認されていたにも関わらず、なぜ通説にあるようなグロワス13世の責が作り出されたのか。それこそが問題なのだ。
二重戦争は一般的にサンテネリ史上まれに見る屈辱的な敗戦と理解されている。サンテネリは新大陸の植民都市群をグローヴィル(現在の連邦共和国都市グローベル)まで含めて放棄することを余儀なくされた。三王同盟は破綻し、シュトゥヴィルグ王国の権益を回収することも適わなかった。唯一手にした低地諸国南部都市群は実効支配にはほど遠い名目上のものに過ぎなかった。王国は”格下”のプロザン王国に人質——マルグリテ王女——を差し出して和を乞うた。これらは全て、第18期の人々から見れば「屈辱」という単語の完璧な具現化である。
ただし、その後の歴史を知る第21期の我々は少し異なった見方をすることができる。新大陸を手中に収めこの世の春を謳歌することとなったアングランは、後に起こる悪夢の新大陸独立戦争の火種を、まさにこのとき手にした。”サンテネリの娘”マルグリテを人質に取ったプロザンは、王妃となった彼女によって王フライシュ4世の政治姿勢を著しく左右されることとなる。
そして何よりも、サンテネリ自身がこの戦争によって変質を余儀なくされた。政に関わらぬ一般の市民達にとって、このときまで戦争は”この世で最も大規模な見世物”の域を出なかった。それは王たちが興ずる”高貴な遊戯”の一つである。つまり”自分たちには関係のないこと”であった。戦争を実際に戦う兵士達は食い詰め者やごろつきの類いであり、強盗団と区別が難しい傭兵である。善良な一市民にとって、いなくなってもらっても全く問題のない類いの人々だった。
しかし、グロワス13世治下に着実に進められた軍制改革は兵と市民を地続きにした。意図的に頻繁になされた広報は軍に対する市民の印象を向上させていた。従来は一部連隊に留まっていた組織的で比較的平等な「徴兵」はサンテネリ全土に広まっていた。つまり、市民達にとって戦争はもはや他人事ではない。自身の同僚、夫、父、兄、弟が赴き、死ぬ。第20期の国家総力戦体制とはほど遠いものの、そこには”偉大なる軍”の萌芽が見られる。
つまり、二重戦争の敗北とは、市民達にとって”自国の王が不運にも負けた遊戯”などではありえない。それは自身の敗北である。ならば、屈辱は晴らされねばならない。
また、これも第19期以降とは全く異なることだが、二重戦争においては戦闘による死傷者の数が圧倒的に少ない。サンテネリ本国軍が実際にアングラン、プロザン、低地諸国軍と戦闘を行った回数は意外にもそれほど多くはない。果てしない移動と果てしない都市包囲を、現代の視点で見れば非常に小規模な集団で繰り返したにすぎない。正確な統計調査が為されていないため怪しい概算の域を出ないものの、6年に渡る戦争を通じて中央大陸の国軍死者数は一万人を超えていない。つまり、経済、社会的な諸課題を無視すれば継戦は十分可能な状況にあった。グロワス11世、あるいは12世の時代であれば確実に後数年は続いたはずだ。ただし、11世、12世が頭を悩ませるべきは”ごろつき”の確保だけであった一方で、グロワス13世はそれ以上の大問題を抱えねばならなかった。二重戦争において国家が戦争のために拘束した市民——徴兵された人々——は、住所不定無職ではない。定職に就き経済、社会活動に従事する、まさに「市民」である。彼らの不在は長期化すれば国家運営に無視できない悪影響を及ぼすこととなる。
ともあれ、高所からの分析など望むべくもない同時代のサンテネリ人にとって、二重戦争とは「まだまだ戦える」にも関わらず早々に手を挙げ「屈辱的な講和」を”自分たちが”強いられた戦争であった。シュトロワ条約は人々にこの共通認識をもたらした。
これは神話の語り出しですらある。前節に触れたように、サンテネリ共和国はその建国の神話を”古史”の悪を打ち倒すという理念に依存する。”古史”の悪とはつまり、二重戦争で祖国を”貶めた”存在なのだ。
こうして見てみると、二重戦争の「二重」は、さらに二重の意味で解釈が可能である。新大陸と中央大陸で同時に戦われたという戦地の二重性とともに、国民意識の萌芽と”古史”的王権の崩壊が同時に起こったという二重性がそこには含意されている。
◆
二重戦争における王の戦争指導
このように、サンテネリ近期史最大の画期たる二重戦争において、王の戦争関与はどのようになされたのか。枢密院軍務卿であり王国元帥の地位を占めたデルロワズ公の手記を読むかぎり、王が戦争自体に介入した形跡はほぼ存在しない。報告を受けていたことは確実であるが、意志決定に関わったのは開戦と終戦の決断、そして二重戦争唯一の積極的攻勢である低地諸国攻略決定のみである。
まず、開戦は否応なく決定された。見てきたとおりサンテネリは攻撃を為した側ではなく受けた側である。
一方で、低地諸国侵攻と終戦は王の能動的な行為といってよい。
1731年晩秋、低地諸国侵攻が決定された日、枢密院会議終了後に王は首相アキアヌ大公、軍務卿デルロワズ公、財務卿ガイユール大公を執務室に招いた。すでに戦争は4年目に入っており、数ヶ月前にはアングランの無謀な上陸作戦を打ち砕いたところ。さらにプロザンとの和約交渉が進む最中のことであった。
サンテネリ優位で幕引きを図るには絶好の時期と言ってよい。にもかかわらず、王は明確に低地諸国侵攻を主張した。その生涯を俯瞰する限り、好戦的とはどう見ても言いがたく、一般的な名誉欲にも乏しかったと思われる王がなぜその決断を下したのか、理由は判然としない。
これまでの通説を援用するならば筋は通る。領土と名誉に駆られたグロワス13世が更なる果実を得ようと欲をかいた。それで説明は終わりだ。しかし、王が領土も名誉も欲しなかったとすれば、なぜこの攻勢を求めたのかは謎となる。
軍務卿デルロワズ公の手記は、軍事の責任者たる彼だけではなく、首相、財務卿ともに王の意向に賛意を示していたことを記録している。グロワス王は強大な政治力を持つが、首相、財務卿の意向を完全に無視することができるほどの絶対権力を保持してはいなかった。事実両者は比較的気軽に王と衝突してきた。よってこの時、枢密院中枢の人々が一致して攻勢を認めたとすれば、そこには何らかの共通認識があったはずである。
この王の動機については、レスパン遺稿発見以降のグロワス13世研究においても様々な説が存在する。有力な推測の一点目は、加熱する国内の好戦性に対するはけ口として、というものだ。現存する当時の市民の手記を見る限り、人々の戦意はかなり高い。アングランに本土を侵された記憶も生々しい時期であり、復讐を求める過激な文言が踊っている。このような市井の状況を枢密院は明らかに把握していた。さらに、この説はレスパン遺稿に含まれる「最後の対話」で実際に王が告げた継戦の理由をも根拠とすることができる。
二点目は貴族課税の実施により当時進展を続けた全国統一税制の完成を目指す思惑であろう。明らかに自家の利益を毀損するこの方策を、大貴族の代表たるアキアヌ大公、ガイユール大公がむしろ推進した理由はまことに分かりづらい。ただ、両家共に——少なくともアキアヌ当主ピエルとガイユール当主ザヴィエはいわゆる”古史”的な貴族権益に未来がないことを悟っていた節がある。一部大貴族家を例外として中小貴族家の財政悪化はグロワス12世代から顕在化しており、領地はもはや「重荷」に転化していた。免税という”古史”的特権の最大の物を切り崩すことで、貴族階級は名を残すも実を失う。彼らは当時既にそうだったように、国家を支える官僚、政治家層として国家に雇用される存在にならざるをえない。そうあったとしても両家のような大貴族は十分に生き残ることが可能である。ただし、理屈は分かっていても、1000年近い”古史”代の伝統はそう簡単に破却しうるものではない。だからこそ、片や王族、片や中央大陸有数の名門貴族家の当主であったピエルとザヴィエの姿勢はほとんど異常とさえいえるだろう。これは明確な根拠をほとんど持たない推測に過ぎないが、グロワス13世の政治的志向が両者に何らかの影響を与えた可能性もある。レスパン遺稿を見る限り、王は現在のサンテネリ共和国に近い政体を理想と見なしていた。そして、王が最も頻繁に政治議論を交わした相手はピエルとザヴィエという枢密院の大物である。そこでどのような会話を交わしたのか、詳細をうかがい知ることは不可能だが、アキアヌ大公ピエルの手記を見る限り、二人、あるいは三人での夜会——酒盛りという方が正確なようだが——は少なくとも月に一度の頻度で行われている。ことに、枢密院のもう一人の大物、宮廷大臣フロイスブル侯爵の死後、その回数は増加した。
そして最後に戦争の幕引きである。
1733年、一度は手中に収めた低地諸国中核都市ブルシールの失陥を受けて、枢密院はアングランとの講和を決した。会議自体は形式的なものだった。ただし、通常発言をすることがほとんどないところを、終戦——限りなく敗戦に近い——の決定という最も不名誉な場において王は饒舌だった。自身の戦争指導の不明を明確に示した。通説にある首相と軍務卿への罵倒の場面は議事録を見る限り存在しない。
二重戦争における王の行動の中で、旧来指摘されてこなかった一つの事実がある。宣戦布告の詔書とシュトロワ条約議定書における王の署名である。
グロワス13世は両者ともに、枢密院成立以来使用しなくなって久しい肩書きを使用している。
サンテネリ国王
グロワス
一方で、枢密院中期以降一貫して使用されてきた「枢密院主催者」の号はない。この事実は偶然とは思われない。王は二重戦争敗北の責任を意図的に自身に集中させたのだ。
◆
二重戦争以降の体制
シュトロワ会議以降、サンテネリ各都市で発行される新聞と市民の日記に、それまでにはなかった一つの特徴が顔を出すようになる。グロワス13世に対する批判と王太子グロワス(14世)への期待がそれである。その後約2期に渡って続くことになるグロワス13世への悪評の始まりは恐らくこの時期に端を発する。そしてそれは自然発生的なものではない可能性が高い。
言論と報道の自由が擁護されて久しい現代と異なり、当時の民意を主導した新聞は政府の検閲下に置かれていた。個人が隠れて発行する闇新聞——新聞というよりも落書きに近い——は当然存在したが、流通力を持った大手の新聞の力が圧倒的であり、それは庶民が簡単に手に入れることができるほぼ唯一の情報媒体であった。ただし、大手といっても現在の新聞社のような会社組織を持つところは稀であり、多くは匿名(筆名)の個人が発行主である。
人々はそれら新聞を「民間」のものと認識していた。しかし、実態は異なる。研究では、多くの発行主が何らかの形——年金支給の契約が最も多い——で内務卿傘下の秘密警察と関わりを持っていたことが明らかになっている。グロワス13世治下、誰の目にも分かる形での検閲や言行取締はほとんど行われていない。しかし、より洗練された形でそれらは為されていた。現代でいうならば政府による民間報道機関の買収、より柔らかくは癒着である。前者はともかく後者は21期の我々にもなじみ深いため、18期に為された事例を見ても特段驚きを抱かないだろう。しかし、18期における新聞は今の報道機関とはその社会的地位が全く異なる。彼らは社会の木鐸などではなかった。人の秘密を嗅ぎ回り、面白おかしくでたらめな娯楽に仕立て上げる下劣な輩。時を追って評価は多少上向くが、少なくとも「まともな人間」が就く職業と見なされるのはずっと後のことである。つまり、政府や貴族達が気にする相手でもなければ取引する相手でもないのである。にもかかわらず、枢密院政府はそこを握った。よって、新聞に王の悪評(初期のものはちょっとした強欲や怠惰の仄めかしが主だが、徐々に醜悪なものに変わっていく)が掲載されるためには、政府の容認が必要となる。では、王の(歪められた)醜聞を広めることを許した当時の政府とはどのようなものだったのか。
シュトロワ条約締結後、アキアヌ大公ピエルが首相を、デルロワズ公ジャンが軍務卿職を辞した。数ヶ月の空位の後に首相の座はフロイスブル侯爵バルデル(旧家宰マルセル次男)が占めた。軍務卿は空位のまま、副卿バロワ侯爵アンリ(メアリ妃同母兄)が実権を握ることとなった。時を同じくしてアキアヌ公子エラン(ピエル長子)が内務卿に就任している。
これらの人事は敗戦の後始末として分かりやすいものに見える。首相は敗戦の責任を引き受けて辞任した。それは長く枢密院で権勢を振るったアキアヌ閥の失脚を意味する。その座を引き継いだのがフロイスブル侯爵であることから、父マルセルと長兄ロジェの死去以降弱体化していたルロワ譜代閥の復権と読み取ることができる。この力点変動の背景に王妃ブラウネの存在があったであろうことも想像に難くない。
軍務卿の失脚は敗戦の当事者として当然である。副卿に留め置かれたとはいえバロワ侯爵が事実上の主導者となったのも背後にメアリ妃の影響力が見える。
つまり、王を神輿とする守旧勢力とアキアヌ大公が率いる革新派の政争に新たな局面が訪れたのだ。アキアヌ派のあからさまな排除が呼び起こすであろう混乱を考慮して、アキアヌ公子エランが枢密院に席を占めるが、与えられたのは格としては一段落ちると当時考えられていた内務卿職である。
こうして枢密院はルロワ譜代が実権を掌握することとなった。だが、巻き返しを図るアキアヌ派はアキアヌ公子が内務卿職を得たことを利用して世論工作を行うようになった。それがまさにグロワス13世への非難の風潮と王太子賛美が容認された由縁である。
さて、この一見理屈の通る説明には、幾つかの不可思議な点がある。一点目は、公職を退いたアキアヌ大公ピエルと王が相変わらず頻繁に顔を合わせていた事実である。一時期などは二重戦争中よりもその頻度が高い。ピエルは顔合わせ——大体は酒席——で交わされた会話を細かく書き留めてはいないためその内容は分からない。ただ険悪な関係でなかったことだけは確かである。というのも、この時期から彼の手記には王の体調を心配する記述が顔を出すのだ。王の顔色や挙動を細かく書き留め、腕利きの医者を紹介する段取りを立て、時には妃達——驚くべきことに、傍目には敵対派閥の中心人物と見えるブラウネ妃にも——に配慮と治療の口添えを要請する様は、面従腹背を糊塗する”振り”には到底思われない。
二点目は留任したガイユール大公ザヴィエの動向である。ルロワ譜代派閥とアキアヌ派閥の対立に対してザヴィエはアキアヌ派閥に肩入れした。王太子グロワスへの支持を明示することによって。娘であるグロワス13世側妃ゾフィが正妃アナリゼと良好な関係を築いているがゆえのこととも考えられるが、ルロワ譜代派が実権を握った以上、ロベル王子(ブラウネ妃子)が王位を継ぐことも十分可能性がある。そんな中でグロワス王太子を明確に支持することはある種の危険性を伴う行為であり、齢60を優に越えた熟練の政治家としては少々短慮といえるだろう。
そして最後に、これこそが最大の不思議であるが、王太子の交代はなされなかった。一般的な理解を受け入れるならば、ルロワ譜代閥が実権を握った以上、彼らの将来の神輿たるべきはサンテネリ王とサンテネリ女(ブラウネ妃)の間に生まれたロベル王子である。グロワス王太子の廃嫡はエストビルグとの間に緊張関係を生み出すこと明白であるが、二重戦争が浮き彫りにした同国の弱体を鑑みるに、プロザンとの関係をより重視する方向に舵を切る選択も非合理とは言いがたい。にもかかわらず、首相フロイスブル侯爵を筆頭にルロワ譜代閥を形成する集団がロベル王子擁立に向けて動いた形跡はない。ブラウネ妃の手記を見ると王が亡くなる数週間前に小さな動揺があったものの、それ以前には全く話題に上っていない。つまり、王の死が決定的なものとなる直前まで王位継承を巡る問題は存在しなかった。
これらの不可思議な動きを総合するに、二重戦争敗北を経てなお、依然グロワス13世が政治の実権を握り続けていたと仮定することも不可能ではない。しかし、この仮定はさらに物事をややこしくする。王が有力な政治主体であったとするならば、なぜ彼は自身の悪評を広めることを容認したのか。
この問いについて、アキアヌ大公の手記はこんな言葉を残している。
「陛下は奇術の名手であらせられる。とんでもない難物を、とんでもない美名の下に押しつける。私はいつも被害者だ。ああピエル! ピエルよ! 汝は常に重石を背負わされる。哀れな男よ」
「真のサンテネリ男は死を恐れない。名誉をこそ望む。しかしそれは個人のものではない。より偉大なもの、家、そして国家の名誉をこそ望む。グロワス王陛下は本物の男だ。本物の男と本物の仕事をすることこそ、我らサンテネリ男の本懐である」
歴史家としては失格といっても過言でないほどに空想の羽を広げてみよう。
グロワス13世は二重戦争終結時、既に自身の死を予感していた。よって彼の関心事は残される者達のことに集約される。グロワスとロベルという二人の王子の存在はそれぞれの後ろ盾まで考慮に入れたとき、内紛の可能性を常に孕んでいた。王は王太子の若年即位——つまり自身の間近な死——を予測し後見者としてアキアヌ大公を望んだ。同時に、二重戦争が国民に与えた枢密院政府と王権に対する負の印象を自身に引きつけることで、自身の死によってその汚名を裁ち切り、新王の治世が好意的に受け入れられる素地を作ろうと計画した。
このような推測である。再度述べるが決定的な根拠は一切ない。これまで本書で見てきた王の素顔とその性格、政治姿勢を鑑みたときに浮かび上がる可能性の一つである。
◆
フロイスブル侯爵マルセルの死
時系列が前後するが、二重戦争の最中に起こった出来事の内、グロワス13世に最も大きな影響を与えたものを一つ、ここで紹介しよう。
それは、親政期の家宰、枢密院創設後は宮廷大臣の座を占めたフロイスブル侯爵マルセルの死である。彼は”回心”後のグロワス13世の最側近といえる存在であり、かつ妻ブラウネの父、つまり義父でもあった。
この関係性ゆえに、再評価以前の18期初頭研究においては彼が王を操り国政を主導したと考えられてきた。グロワス12世代には様々な——時には悪辣な——手段を駆使して政敵を追い落とした経歴を持ち、家宰就任以降は役得をほどほどにむさぼり財を成した政治家である。王を操り実権を握ったとしても特段不思議ではない。政争や政商との関係は当時政権中枢を占める大物政治家であればごく普通の営みであったため、彼のそれが特段目立つ悪行であったとはいいがたいが、近年のグロワス13世再評価に伴う極端な美化が示すような清廉有能な忠臣であったかと言われれば、それもまた実像と異なるだろう。実際のフロイスブル侯爵は非常に常識的な”18期の政治家”であった。
1729年に後継者たる長男ロジェを流行病で失ったマルセルは、以降急激に気力を弱め、息子の後を追うかのごとく翌年に没する。
屋敷で病の床にあるマルセルを妻ブラウネ、ロベル王子、フローリア王女と共に見舞った行幸の折、王は彼にこう述べたとブラウネの手記は記す。
「見えるだろうか、家宰殿。あなたの視界に映る者は皆、あなたが育てた者達だ。そして、中でも一番出来の悪い者がね、快癒したあなたの復帰を切望している」
王の一家に囲まれた寝床の中でマルセルは微笑んだ。
「光栄にございます。偉大な王」
葬儀を経て一息ついた夫婦は王妃私室で故人の思い出を語りあった。王がその時零した慨嘆は、枢密院後期の彼を暗示するものだった。
「私はこれから、この世界のことを誰に教わればいい。——ああ、違うね。私が教えるのか。これからは」
◆
若年期の教育
二重戦争末期、王の子ども達のうち年長のものは10代半ばに差し掛かっていた。この時期の王は年長の三人——メアリ・アンヌ、ロベル、グロワス——を集め、週に一度講義を行っている。その内容は政治、経済、思想、宗教と多岐にわたり、受講した3者皆、授業の思い出を折に触れて述懐した記録が残されている。
その中でもサンテネリという国家の行く末に大きな影響を与えたものの一つに、ジュール・レスパンの小著『悪について』を課題本にした講義が挙げられる。王権の否定と市民による共同体設立の正義を説いたこの小論は、後の”人間の自然に関する宣言”に始まり現在の共和国憲法に至るまで、我々の歴史に陰に陽に様々な影響を残してきた。それはサンテネリ国内に留まらず、世界至る所に及んでいると言っても過言ではない。しかし、”古史”における『悪について』は純然たる体制批判の書であり、それを読むことは悪徳でさえあった。ブラウネ妃の手記には、”悪徳の源泉”を息子に与えた夫に対する怒りが延々綴られている。その怒りは最終的には男性全体に範囲を拡大する。
「殿方は皆、何か悪いことをするのが偉大なことだと勘違いされているようです。得意げになさって、それが勇気だと取り違えていらっしゃいます。中でも陛下は一番お行儀の悪い方です」
しかし、この件に関して筆者はブラウネ妃に同意しかねる。なぜならば、王が為したこの一連の授業は後にサンテネリを救うことになるのだ。
サンテネリ国民であれば誰しもが知っている市民メリアと大指導者の出会いも、新大陸でのグロワス14世の演説も、最後の枢密院会議におけるロベル3世の言葉も、程度の差はあれ皆この時の体験に端を発するものだ。王の死後、子ども達はそれぞれに異なった道を歩むことになるが、彼らのうちに共有された何かこそが関係の断絶を防いだのである。
父グロワス13世の悪評に比して、その子ども達が皆政治的な立ち位置の違いがあってなお”国民史観””王党史観”の両者から一様に高評価を得てきた理由はここにある。
一言でまとめるならば、彼らは”古史”の常識を抜け出した新世代の、つまり我々現代人と地続きの存在であると見なされうる。もしグロワス14世が読者諸氏の職場にいたとしたら彼はすぐに人気者になっただろう。ロベル3世がもし大学の同期にいたら? メリアがもし隣家の住人だったら? 18期を生きた存在であるにも関わらず、彼らはそのような想像が可能な人物なのである。
では、彼らの父はどうだろうか。
答えは明らかだ。年少期に与えられた『悪について』が王の子ども達に影響を与えたとすれば、その作品の著者であるジュール・レスパンに影響を与えたのは誰か。前節で示したとおり、その存在の名は当のレスパンによって明確に示されている。
◆
次節では王の死とその後の世界について概説する。