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汝、暗君を愛せよ  作者: 本条謙太郞
第2部「分別ざかり」 最終章 『評伝 グロワス13世』抄
106/110

枢密院体制中期(1722〜1728)

 枢密院体制発足より6年が過ぎ最後の子フローリアが誕生した1722年から、二重戦争が始まる1728年までの期間は、二十余年に渡るグロワス13世の治世の中で最も平穏な時期であったと言える。1724年に行われた三王会談が象徴するように、中央大陸の中心的な勢力の和合が——残念ながら一時的なものではあったが——なされ、サンテネリ、エストビルグ、プロザンの三国は程度の差はあれその果実を享受した。サンテネリにおいて、それは国内諸制度の改良に対して与えられた時間であった。

 このいわば()の時期、王の存在はほとんど表に現れない。王が人々の耳目を集めた出来事といえば、サンテネリ最東部、帝国との国境付近に位置する小村ストラーブを舞台に行われた三王会談のみといっても過言ですらないほどに、その存在は希薄なものであった。

 しかし、庶民の目に触れぬところ、光の宮殿(パール・ルミエ)の柵内において、王の行動は次代のサンテネリが辿る「物語」の種をまき続けた。本節では王とその子ども達の関わりを中心に概説していこう。


 ◆


 グロワス13世とユニウス思想


 王と王子達、王女達の関係性を理解するためには、まずは少し時間を巻き戻す必要がある。枢密院制発足初年の1716年9月10日、王は側妃ゾフィを伴いグロワス9世校の学位授与式典に臨席、学位取得者代表の献辞を受けた。この出来事は”大改革”以降の歴史書が揃って時代の画期として描く、大変人口に膾炙したものである。この年の献辞捧呈者は後の大指導者(コントゥール・グロー)ジュール・レスパンであった。

 前節で触れた通り、献辞捧呈の場で覚えた王とそれを支える体制への深い失望がレスパンをして一つの()()をなさしめた、という通説は、我々サンテネリ共和国に生きる国民の間にあって一つの神話にまで昇華されている。世界中の国家が持つ神話——建国神話——である。そして、グロワス13世にとって誠に不幸なことに、彼はその神話の敵役に据えられたのだ。偉大な知性に加え光輝を放つ若さを備え、人類の解放を願うレスパン。対するは、小人の欲望のままに獣欲にふけり、醜く肥え太った白痴の王。それは読むもの、聴くもの、見る者の全てに、どちらが正義であるかを瞬時に理解させる明瞭な対比であった。


 さて、我々が生きるのは21期である。そろそろ歴史から政治の覆いを取り去るべきだ。実際のところはどうだったのか。それを知るべき時期が来た。ある政治姿勢を擁護するためにのみ設置された照明の電源を落とすべき時期が来た。それはサンテネリの名誉を貶めはしない。むしろその栄光を倍加させる。

 まず単純な事実関係から始めよう。映像演劇において常にその時最高の人気を誇る美形若手俳優が演じるのが常であるジュール・レスパンであるが、実際の彼も類い希な容姿を誇ったことが各種資料に残っているため、誇張にはあたらない。一方で、敵役の容姿は”神話”とは大きく異なる。グロワス王は太っていなかった。むしろ痩せ型であり、それをもって体調を心配する表現が前述ブラウネ妃の手記にも侍従長のそれにも残されている。特に1716年は年初プロザン王との会談に始まり、貴族会演説、枢密院開設、雪害対処と重要な政治課題に追われ、その治世においても一、二を争う重荷を王が背負った時期である。よって、近年俄に脚光を浴びるようになった中年期の肖像画(正式名称は『グロワス13世』だが、一般に『荒野の王』として知られる)の姿よりも一段痩せていた可能性が高い。

 これは単なる体型の話ではない。見る者の主観に影響されるところが少ない物理的容姿についてさえこれほどの改変がなされていることが、献辞捧呈式の場面に割り振られた政治的役割の大きさを物語っているのだ。分かりやすく述べれば、やりすぎ、である。


 献辞捧呈式の内容についてはレスパン遺稿が実態をつまびらかにする。後年レスパンは自作『悪について』を「片翼をもがれた不完全なもの」と評した。直截な物言いが目立つ青年期に比して、暗示と隠喩を好むようになった中年以降の彼は、その評の真意を尋ねられてこう答えている。

「物の価値は見る者の偉大さに依存する」と。

 この言葉は旧来、『悪について』の真の内容を理解しない大衆への皮肉であると単純に受容されてきた。レスパンが持つ欠点、傲慢さの現れである、と。

 レスパン遺稿が示した事実は”見る者”とは誰か、つまり『悪について』を受け止めた者は誰かを明確に示した。そこには献辞捧呈に先立ちグロワス王が行った挨拶の全文が記録されている。余白に記された所感とともに。

「偉大なこと! 偉大な人!」。レスパンはそう述べた。さらに、日記の同日箇所にはこのような記述も残されている。


「私が何をするべきか、それが今日はっきりと分かった。私はグロワス・ルロワ氏の想いを受け継ぐ。彼がなし得ないことを私が行う。私は一人の思想家を持った。私は一人の師を持った。そして、一人の模範を得た。私は彼らを受け継ぐ。そして次代に渡すだろう」


「一人の思想家」、これはレスパン思想の根幹を成すユニウス思想の生みの親、第9期の思想家ユニウス・エン・デルロワズ(デルロワズ公子・王国大元帥)を指す。そして「一人の師」とは、彼がグロワス9世校で師事した人文学者エリクス・ポルタ(グロワス9世校人文学講座教授・主著『人文学の基礎としての理性の探究』)である。

 そして「一人の模範」とは、文脈から明らかにグロワス・ルロワ氏、つまりグロワス13世である。


 サンテネリ共和国(第1共和国)の成立に先立ち国民会により採択された「人の自然に関する宣言」、現共和国(第2共和国)憲法の祖型となった宣言の第一条を想起しよう。


 ”人を先天的に区分する要素は、およそ我らの生きる自然界には一切存在しない”。


 一般に「魔力否定条項」と呼ばれる一文である。「魔力」と呼ばれる不可思議な力——古代の人々が生み出した社会構造正当化の仮構——の否定はユニウス思想に端を発する。ポルタ教授は、中期の半ば伝説めいたお伽噺であるユニウスの『随想』を、巧妙な隠蔽と共に自身の思想の中に織り交ぜた。そしてレスパンは国家が発する条文の第一条に公然とそれを記した。

 では、レスパンが「模範」と呼んだ人物はユニウス思想(魔力の非在を起点とする極めて()()()な人権思想)を知っていたのだろうか。知っていたとすれば、それを肯定したのか、否定したのか。

 答えは明らかだろう。レスパンは「模範」を”受け継いだ”のだから。

 グロワス王が自身の政治信条を公言した記録は一切存在しない。よってここにおいても以上のような傍証を頼るのみである。

 つまり、王は自身の地位の根拠となる「魔力」の非在を肯定しており、そこから進んだユニウス思想、ひいてはレスパンが捧げた『悪について』を真の意味で理解、共感していたのである。

 読者諸氏もご存じの通り『悪について』は「もし魔力なかりせば」との仮定のもと、王権の不正と市民による共同体設立を説いた小冊子である。王への献辞という形式上、それらは全て仮定の話であり、実際は王の存在こそが善である、と結語される。旧説は、この誰の目にも明白な王権批判を見抜くことすらできず、自身が褒められたと勘違いして大いに喜んだその様を、グロワス王の貧弱な知性の根拠として挙げる。だが、王が『悪について』の意味するところを理解していたことは明らかである。そしてもう一方の当事者レスパンもまた、王が『悪について』を理解するであろうことを理解していた。そこから導き出される結論は、レスパンのグロワス王に対する絶大な信頼である。王の存在を正面から否定する献辞を捧げた上で、それが相手に伝わったのちも自身が無事でいられると彼は信じていた。つまり、グロワス13世は彼を「受け止める」と。


 王がユニウス思想を理解し、共感を示していたことが事実であるならば、彼が自身の子ども達に施した教育——第18期においてはまことに異例の——がどこに源泉を持つものであるかが判明する。ユニウスが残した『随想』には教育を主題とした記述が多い。彼は政治家であるよりも軍人であるよりも、まず教育者であった。

半人(デオン)」という半ば獣のように生きる人々の群れで育った彼は「半人」を「人」に変えるべく同胞に様々な教育を施した。人間社会から隔絶された被差別集団の中にあっては、当時の一般的な教育手法など望むべくもなかった。そのため彼は自身の心のままにそれを為した。自分とほぼ同年代の若者から生まれたばかりの子ども達に至るまで、10代の若者であった彼がすべて面倒を見なければならなかった。「大人の権威」はそこには存在しない。そして、彼を中心として比較的水平な関係が築かれることとなる。現代的に想像するならば、内戦で大人が死に絶えた村で生き残った若者達が一人の俊英を中心に集団を形成する様にそれは近い。

 そうして育った者達はやがて一つの戦闘集団を形成する。現共和国軍の師団名に痕跡を残す”黒針鼠(スール・ノワ)”である。”黒針鼠(スール・ノワ)”軍集団の中核をなしたのがまさにブラウネ妃の実家フロイスブル侯爵家とメアリ妃の実家バロワ侯爵家の始祖であることを考えるに、ユニウスが残した微かな痕跡が900年近い時を経てグロワス13世の宮廷に花開いたとさえいえるだろう。


 ◆


 グロワス13世の子女教育


 前節で述べた通り、グロワス13世は枢密院体制期初期に五人の子をもうけている。男児2名、女児3名である。子の教育に関して、光の宮殿(パール・ルミエ)に住まう一家のそれが中央大陸のおよそ全ての家庭の中で最も先進的なものであったことは間違いない。言い換えるならばそれは現代的である。

 まず、20期の半ばに至るまで身分財産を問わずほとんどの家庭で一般的に行われた、肉体的苦痛を中心とする教育法は一切が禁止された。

 アナリゼ妃が残した記録は18期という時代を考慮すると衝撃的ですらある。


「陛下は仰います。”他者からの暴力によって抑え込まれる獣欲は、その他者が居なくなれば枷を解かれる。だからこそ、他者の力を借りず自身の理性で抑え込まねばならない”と。不安がないとは言えません。ですが信じましょう。息子を。絶えず力で矯められた娘であった私は、息子を愛で導きます」


 アナリゼ妃の幼少期があまり幸せなものでなかったことは想像できる。当時文化的後進地域と密かに軽侮されることが多かった東の王国(エストビルグ)は、自分たちが野蛮であると見なされるのを極度に嫌った。その感覚は子弟教育にも影響を残している。子に完璧な礼法を仕込むことに過剰とも言える熱心さで取り組んだのだ。親子の関わりも努めて控えられ、親が子と触れあう機会すら厳しく制限されていた。後年のアナリゼ妃が母国や父母に対して妙に冷めた反応を示す一因は、恐らくこの教育にもあるのだろう。だからこそというべきだろうか、アナリゼ妃は開明的な発想を持つ夫グロワス13世に絶大な信頼を示した。”取り込まれた”といっても過言ではないほどに、王の行動を肯定する記述が目立つ。

 余談だが、アナリゼ妃の存在も夫グロワス王と並んで諸派の歴史家達が頭を悩ませるものだ。特に王党史観に立つ者達にとって、”エストビルグ女”たる彼女は悪役ともみえるが、一方で彼女は正当な王権の保持者たるグロワス14世の生母であり、14世が母を敬愛したという事実は重い。また、グロワス王存命中、”エストビルグ王女”としての振る舞いを一切しなかったその政治姿勢も判断を難しいものにさせる。結果、通俗的には「敵国の娘ではあるが心根は良い妃」程度に落ち着くこととなった。


 さて、体罰の禁止と並んで、あるいはその帰結として行われたのは「説得」「説諭」である。現代に生きる我々にとって、子どもに言葉で出来事の理非を諭し思考と改善を促す行為はごく普通の教育法である。しかし第18期においては全く事情が異なる。

 当時子どもは「子ども」と見なされていなかった。子どもとは「なり損ないの大人」「未完成の大人」であり、成人するまで子ども達は「親の所有物」であるとすら見なされていた。つまり、説得をするに足る相手ではなかったのだ。この感覚は程度の差はあれ時代の共通認識であり、身分によってがらりと変わる類いのものではない。王の子ども達が庶民の子よりも丁寧に扱われるのは無論のことだが、それは割れやすい陶器を扱う様と同様の心性によってなされるものであった。

 この常識はグロワス13世の元では否定されていた。王は常に子ども達と対話を図った。強く叱責する機会もあったが、子の考えに耳を貸さず一方的に行うことはなかったという。そして妃達も教育係もまた、王のこの行動と同様のものを()()()()()

 彼の方針にいち早く順応したのは自身も比較的現代的な教育を受けて育ったゾフィ妃である。妃達の中では最年少の彼女は自身の娘マルグリテのみならず、他の妃達の産んだ子ども達にとっても最も近しい存在、擬似的な姉の立場となった。特にメアリ・アンヌ(グロワス王長女)はよく懐き、ゾフィ姉様(エネ・ゾフィ)と呼びかけるのが常であった。

 逆に、順応が最も遅かったのはメアリ妃であろう。近衛軍の母体たる実家を持つ彼女にとって、教育とは言葉で行われるものではなかった。規律と責任感を重視する彼女はメアリ・アンヌにもそれを与えることを望んだ。メアリ・アンヌがゾフィを慕ったのは厳しい母からの逃避を含んでのものであったことだろう。


 第18期の常識において、子女の幼児期教育は母の手によってなされる。父親の関与はほとんどない。しかし、この点においてもグロワス王はある程度積極的に動いたようだ。子どもの行動に歯止めを掛け、矯正しなければならない局面において、王は自身の役割を厭わなかった。父性は子に社会的善悪の判断基準を与える。受け止める母性と峻別する父性。この二者が揃わぬまま現代的な教育を与えた場合、その結末は悲惨なものとなっていたことであろう。

 また、妃達のいわゆる()()にしっかりと耳を傾けた点も興味を惹く動きである。父権的性格が色濃い当時の風潮において、妻の悩みは「女の他愛もない話」に過ぎず、夫が受け止めるほどのものとは考えられなかった。いわば「くだらないこと」である。よって当時の母達は横の連帯——母同士——と縦の関係性——実母・義母——という同性間の交流を中心に生きた。より踏み込むならば、同性間の交流()()に生きた。しかし、家庭において王は「くだらないこと」を重視した。ブラウネ妃の手記には、息子の生気のない大人しさに対する不安を夫にぶつけるも夫が論理的な改善策ばかり提案してくることに対する怒りが記されている。


「陛下はいつも正しくていらっしゃいます。正しくて賢いお方!」


 母となってからの彼女の手記では、夫の言行が気に食わないときは「陛下」、夫との仲が良好な時は「グロワス様」と、王への表記が変動する傾向がある。よって、上記抜粋は明確な皮肉である。

 読者諸氏、特に子育てを経験された女性の方であれば、ブラウネ妃の発言に首肯を禁じえないところかもしれない。要するに「分かったような、しかし的外れなことを言う夫」の姿だ。しかし一つ留意を求めたい。第18期の男性に対して第21期を生きる女性が理解を示せるという事実は驚くべきことなのだと。当時の平均的な男性はそもそも妻の子育てに関する愚痴を聞くことはなかったし、妻もあえて夫に伝えることなどしなかった。


 王のこの型破りな子女教育と妻達への関わりが成功したと言えるかどうか、判断は難しい。ただ、事実として子ども達は国を()()()()()()。グロワスとロベルの兄弟は決して敵対せず、メアリ・アンヌは最後まで兄弟の”姉”であり続けた。マルグリテとフローリアもまた、他国に嫁いでなお、兄姉達との交流をしっかりと保ち続けた。

 ”大改革”、”祖国戦争”と続く大動乱の最中にあって、サンテネリが他国の蚕食を辛くも防ぎ、後には比較的安定した対外関係を成立し得た要因として、グロワス13世の子ども達が示したこの紐帯は重要な位置を占めるものである。


 これまで顧みられることがほとんどなかったグロワス13世の家庭をのぞき見た読者諸氏は、ここでどのような感想を持たれるだろうか。

 おそらく巷間に流布したグロワス13世像とのあまりの乖離に驚かれることだろう。

 実のところ、誠実に当時の文献を精査する限り、近年の小説や劇画、映像劇で描かれるようになった「美化された」「現代的な」グロワス王一家の姿の方が、過去の通俗的描写よりもよほど事実に近かった可能性が高い。

 父母と両手を繋ぎ宮殿の庭を散歩するマルグリテ王女。父の膝に乗りはしゃぐメアリ・アンヌ王女と、それを横から見守る母メアリ妃。父母の前で覚えた詩を得意げに暗唱するグロワス王太子。あるいは、母ブラウネ妃の手料理が並んだ食卓を囲むロベル王子とフローリア王女。ここ10年でお馴染みとなったこれらグロワス13世一家の()()()()()が第18期において現実に()()()()という推測を前に筆者は強い感興を覚えざるを得ない。


 ◆


 三王会談


 1724年5月、サンテネリ東部ストラーブの農村に設えられた仮設宮において、中央大陸における三大強国の王が直接顔を合わせた。王が諸侯の一員でしかなかった中期ならばいざしらず、巨大な国家の主として君臨して久しい近期において、各国の王たちが「王として」正式に会談を持つ機会は非常に稀である。さらに、その会談の参加者が三国を超えるものとなると、この三王会談以外に存在しない。

 この出来事は「滅び行くサンテネリ王国が放った最後の輝き」と位置づけられてきた。そして、会談を設定し成功に導いた首相アキアヌ大公、宮廷大臣フロイスブル侯爵の政治手腕を証明するものである、と。

 三王会談においてサンテネリは客を受け入れる「主人」の立場を得た。それは帝国内の争乱であるエストビルグとプロザンの争いを仲裁したサンテネリの立ち位置を示すものである。皇帝とプロザン王が遙々領地よりやってきたのである。いかに帝国と隣接するとはいえ、サンテネリ王国の領地に。


 5月の第二週から二週間かけて会談は行われた。ただし、王たちの間で具体的な協議はほとんどなされていない。面倒な問題についてのすりあわせはとうに終わっている。三国和約は会談に先立ち効力を発していたのだ。王たちが実際にストラーブで行った公務といえば、和約の宣言書に署名することくらいである。グロワス王はそこにこう署名している。


 枢密院主催者

 グロワス・エネ・エン・ルロワ


 よって、三王会談は実務会議というよりも中央大陸全体に向けた示威活動の一環と見なすことができる。具体的にはアングランに対する。

 プロザン国王フライシュ3世が没するまで、三国和約は少なくともある程度の実効力を発揮した。


 ◆


 数日おきに設けられた3者会談と非公式の2者会合、そして夜会と狩猟。随員が残した記録は王たちの関係性をある程度の新鮮さを以て留める。

 饒舌なフライシュ3世と寡黙なゲルギュ5世。プロザン王の過剰な一言がゲルギュ5世を苛立たせることもあったが、そこで割り込んで場を保ったのがグロワス13世であった。20歳以上年長の両王の不仲を取り持つ30代のグロワス13世は、象徴的な意味を超えて仲裁者を演じざるをえなかったようだ。


 1724年のグロワス13世がどのような存在であったのかを示す端的な例は意外なところに書き残されている。プロザン王太子フライシュ・ヴォーダン(後のフライシュ・ヴォーダン2世)の手記である。

 会談期間中に幾度か為されたフライシュ3世とグロワス13世の夕食会であるが、そのうちの一回、王太子も同席した会のこと。

 フライシュ3世はいつものように止めどなくしゃべり続けた。特に孫——息子フライシュ・ヴォーダンに生まれたフライシュ(後のフライシュ4世)——については饒舌になり、グロワス13世の娘をその妻にと何度も頼み込んだ。

 そして宴が進み酒が回り、ほろ酔い加減のフライシュ王は不意にグロワス13世に尋ねた。


「なぁグロワス殿、グロワス殿、私は不思議でならんよ。貴殿はよくも安眠できるものだ。怖くはないのかね。恐ろしくは。サンテネリ産の寝具が優秀なのか! 私も一式欲しいな。なぁヴォーダン!」


 手記の作者フライシュ・ヴォーダンは父のあまりにも踏み込んだ問いに目を剥いたと記している。この言葉は首相アキアヌ大公の立場と権限を揶揄するものである。あれほど強大な力を臣下に持たせて危険はないのかと、生涯政治の実務者であり続けた老王からすれば当然とも言える問いだ。しかし外交的には危うい。

 父王の不躾な問いに、グロワス13世は曖昧な、意味を読めぬ薄い笑みを浮かべながら答えたという。


「怖くはありません。フライシュ殿の頭上を飾る王冠が恐怖を感じないのと同様に。——私はサンテネリという国が頭に乗せた、物言わぬ王冠に過ぎませんので」


 宴を終えて宿泊所に戻る馬車の中、フライシュ3世は息子にこう告げたという。


「おまえは分かるな。臣下を恐れぬ王など底抜けの阿呆か、あるいは”本物の王”だけだ。ヴォーダン、ヴォーダン。グロワス殿はどうだ。どちらだ」

「少なくとも、底抜けの愚か者には思われません」

「そうだ。そうだぞ、ヴォーダン。私は”本物の王”だ。プロザンは私の手中にある。ではサンテネリはどうだ」


 王太子は答えに窮した。即答を避ける息子にフライシュ王は囁いた。


「分からんか。私もだ。軍を率いながら霧に包まれ敵の全容が分からぬとき、おまえはどうする。分かるな。ヴォーダン。そういうときは。——臆病なほどに、()()()()()


 サンテネリ王国の対手となったプロザンとエストビルグからは、三国和約と三王会談の交渉過程においてグロワス13世の存在はまことに希薄なものと映っていた。プロザン、エストビルグに交渉に赴いた首相アキアヌ大公は、自分こそが国政の全権を握っていると態度で示し、時には明言すらした。その言動は当然のことながら随員を通して国王グロワス13世にも伝わるはずである。それであってなお明言できるのであれば可能性は二つしかない。王がお飾りに過ぎない存在であるか、あるいは王との間に確固たる信頼関係が構築されているか。フライシュ3世の問いに対し、グロワス13世は前者だと明確に答えた。そして、フライシュ3世とフライシュ・ヴォーダン王太子はそれを()()()()()()()()


 手記を通してではあるが、研究対象と直接会話を交わした人物の感想を見る重要性はここにある。言葉からは読み取ることができない雰囲気を、直接面会した人間は感じ取っている。自身が傀儡に過ぎないと述べた王の言葉は、文字通り受け取れば誤解のしようがない。しかし、直に会話を交わした二人の人間——第18期を代表する英主たち——が揃って全く逆の印象を受けたという事実は、傍証でありながらグロワス13世の存在がどのようなものであったかを示唆してくれる。

 二重戦争に踏み切る前、フライシュ・ヴォーダン王が最後の最後までグロワス13世を恐れ悩んだという逸話と合わせると、プロザン国王父子がグロワス13世の中に何を見たのかを推測することができるだろう。


 ◆


 各種高等専門学校の設立


 枢密院体制初期から中期にかけて国内の制度改革は徐々に進展した。税制と軍制の改革がその二本柱であるが、これらを下支えするために必要な「人員」の育成もまた、枢密院期の重要な変化であろう。

 グロワス13世の治下「国立軍学校」「国立理工科学校」「国立行政学校」「国立土木学校」の4校が設立され、既にあった「グロワス9世校」と合わせて、国家運営に必要な高等官僚を安定的に供給することとなる。

 読者諸氏もご存じの通り、現在のサンテネリ共和国においてもこの5校は高等教育における最高位の存在として君臨しており、卒業生は各界の指導者として活躍著しい。近年ではあまりの偏重振り(サンテネリの政治家、高級官僚、大企業役員の9割以上が上記学校卒業生で占められている)が問題視され、改革の必要性を叫ぶ声も目立つが、設立当初これらの高等専門学校の前途は疑問視されていた。

 18期のサンテネリにおいて、教育とは国家の関与するところではなく個人に属する営みであった。だが、家職を親から学ぶのが当然の世界にあって、これら高等専門学校は広く全ての人に門戸を開いた。貴族平民の別なく。

 従来より「グロワス9世校」のような大学も同様に貴族平民の区別をしなかったが、こちらは設立の根幹を人文学の研究においており、ある種高踏的な教養を修める場、趣味の場と見なされた。時代が下ると卒業後法曹界に向かう者が増えるも、それでもやはりどこか浮世離れした立ち位置を保持していた。

 一方で新設4校はより具体的な職業人育成の場である。従来各家の家職として親族間でなされていた教育の場に国家が踏み込んできたのだ。伝統的な家内育成を重視する貴族たちはこの「侵略」を歓迎せず、平民の多くは働き手たる子どもを学校にやる余裕などない。よって、当初の進学者は富裕な平民層の子弟が中心となった。今となっては信じがたいことに、これら4校は「下々の者」が通うところだったのだ。

 この共通認識を打ち破るべく、グロワス13世は娘の一人メアリ・アンヌを国立軍学校に進学させる。軍事を家職とするバロワ家の母を持つとはいえ、メアリ・アンヌは歴とした王女である。彼女の進学は多分に象徴的なものであったが、専門4校の振るわぬ評判を払拭するために果たした役割は大きい。彼女の進学と前後して中規模以上の諸公家でも、子弟の一人をいずれかの学校に進学させる流れが出来上がることとなった。特に国立軍学校には、メアリ・アンヌ王女の「ご学友」としてデルロワズ、バロワ両家の主家子弟が数名送り込まれている。さらに陪臣家からも数多くの子ども達がその門を叩いた。「国立理工科学校」「国立土木学校」はガイユール大公家由来の子弟、「国立行政学院」はアキアヌ大公家の関係者と、政界を牛耳る各勢力が足並みを揃えて子ども達を送り込むこととなった。


 21期の視座にある我々は、これら高等専門学校の設立が税制・軍制の改革をも上回るほどの重大な影響を国家に及ぼしたことを知っている。そこで育成された若者達こそが”大改革”以降のサンテネリを支える背骨の役割を担ったのである。というのも、各高等専門学校は「国家の」施設であり「王の」施設ではなかった。ゆえに卒業生はルロワ朝の臣下を自認せず、サンテネリ国家の僕であることを意識するようになる。”大改革”による国制の変化を経てなおサンテネリが国家としての一体性を保持しえたのは、このような官僚層の意識変革あったればこそであろう。

 第18期中葉から末期にかけて起こるこれら現象を王が意図したかどうかは定かではない。4校設置の発案者は軍学校の必要性を日頃から痛感していた国軍元帥デルロワズ公であり、王の関与は不明である。

 よって、確認できる事実は一つしかない。グロワス王は慣例を無視し、新設4校に「王立」の名も「グロワス13世」の名も付けなかったという。

「グロワス9世校」の例からも分かるように、従来学校の設立は王が民に与える施しであった。王はその行為によって自身の名を歴史に刻む。これといった実績を持たないグロワス9世がその名を人々に広く知られているように。しかし、グロワス13世は王であれば誰もが備えたこの種の自己顕示欲——歴史に名を残すという——と全く無縁の存在であった。グロワス13世が設立した国家施設は、当初負傷兵の療養所として運営された勇者の宮殿(パール・クールール)とこの4高等専門学校であるが、施設内のどこを探してもグロワス13世の名は残されていない。「グロワス9世校」の校舎至る所に王の胸像が設置されている様を見れば、その異様なまでの”不在”がよく分かるだろう。


 ◆


 上記の事実をもってグロワス13世が慎み深い性格の持ち主であったと判断するのは早計だ。王の事績を丹念に追うと、そこには逆転した自己顕示欲すら伺える。グロワス13世は治世において、明らかにある一定の政治的主体性を備えた君主であった。よって、彼は名を()()()()()()のではない。むしろ、意図して()()()()()()のだ。枢密院中期以降王の隠棲傾向は顕著になる。三国和約の宣言署名に「サンテネリ国王」の肩書きを残さなかった事実などはその姿勢を象徴するものであろう。

 このようなグロワス王の複雑な精神は、枢密院体制後期と自身の死後を左右するいくつかの施策を生み出すこととなる。


 次節では二重戦争の失敗と余波、そして王の死について概観したい。

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― 新着の感想 ―
ある程度それらしい匂わせはあったけど、共和政体が21(世)期でも第2までしかカウントがない…… 革命帝政期が発生してしまっていたとしても、極端な混乱や敗戦はなく国も共和政体も命脈を繋げたんやなって
毎日更新を待ってるうちにいつの間にか3日経っている。
>>20歳以上年長の両王の不仲を取り持つ30代のグロワス13世 同業他社で利害も性格も合わない年上社長二人と連日宴会・ゴルフか……
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