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汝、暗君を愛せよ  作者: 本条謙太郞
第2部「分別ざかり」 最終章 『評伝 グロワス13世』抄
105/110

枢密院体制初期(1716〜1722)

 枢密院コンシー・エン・サンテネリ創設

 1716年2月10日、枢密院設置勅令——通称大回廊の勅令——が貴族会の承認を経て成立した。ルロワ朝王制末期に行われたこの施策は後のサンテネリ政治に非常に大きな影響を与えるものである。というのも、この時設置された枢密院は現在のサンテネリ共和国における”内閣(カビヌ)”の直系の先祖であると同時に、一部機構は貴族会と合流することで現代の”国会(オネ・コンシー)”を構成するに至るものだからだ。つまり、現在サンテネリ共和国が備える立法・行政機構の元祖と言うべき存在である。

 この制度はサンテネリという国家の性質が明確に変化したことを示す象徴的存在として理解できる。1716年以前、サンテネリ王国が持っていた”政府”——現代の一般的な意味とはかなり異なる——は名目上ルロワ家の家族会議だった。首相に擬する地位を占めた存在の呼称が”家宰”(ルロワ家の家人頭)であったことからもその位置づけが分かるだろう。一方で枢密院においてその建前は完全に消し去られ、政府は王ではなく国家のものであることが明文化される。依然王権の突出は甚だしく、現代的な政府からはほど遠いものの、いずれにせよ「箱」は出来上がったのだ。

 枢密院制度の仕組みは簡潔に言えば王を頂点とする集団指導体制であり、従前の国王顧問会(コンシーエンルロワ)と形式的には大きな変化はない。よって重要なのは形式ではなく構成員、つまり、これまで国政の中枢から遠ざけられてきた二大公領——アキアヌ大公領、ガイユール大公領——の主が、ついに国政に参加した点にある。ここに至りサンテネリの主要地域が全て名実ともに国政と直結することとなった。

 社会階層の視点からも枢密院は一個の画期である。”国の中の国”たる二大公領とならんで国政から排除されてきた集団、広くサンテネリ全土に生きる平民階層がついに国家と繋がることとなった。初期においては発言権のない”参与”という傍観者的役職しか与えられなかったとはいえ、王国開闢以来初めての変化であったことには変わりがない。後に大指導者レスパンは枢密院参与の地位を指してこう評している。

「まだ(オン)が通れるほどの大きさにはないが、とにかく穴は開いた」


 ◆


 さて、この枢密院創設が”誰”によって行われたのか。それこそが本書の論じたいところである。

 近期史の定説は明らかだ。

 グロワス13世の”不調”により機能不全に陥った政府を維持すべく、事実上の摂政である家宰フロイスブル侯爵とアキアヌ大公ピエル、ガイユール大公ザヴィエの間に成立した妥協の産物、というものである。

 ”心身を深く病んだ”グロワス13世には廃位の可能性があった。子のない王に代わる候補、アキアヌ大公ピエルは血統上最も玉座に近いルロワ王族であり、強大な政治力と富、そして民衆の支持を得た”次の王”として衆目一致するところである。

 自身の権力をグロワス13世の存在に依る家宰としては王朝の交代は避けたい。そこで、アキアヌ、ガイユール両大公への政権参画を持ちかけた。アキアヌ大公の目指すところは王朝の交代であったが、強行すればルロワ閥とガイユール大公閥を敵に回す可能性が高い。また、協調なき王朝交代はルロワ王家の藩屏を自認するデルロワズ公家——興りはルロワ王家の傍流庶子である——を刺激し、軍の大々的な介入を招くこともありうる。

 かくして妥協は成立した。文章には遺されていないが枢密院制下でいずれは平和的な”譲位”が行われることが水面下で合意されていた。


 以上の如き「定説」が成立した理由もまた明白である。

 枢密院創設の中心人物と目されていた二人の人物——フロイスブル侯爵とアキアヌ大公——のうち、片方は詳細な記録を一切残さず、もう片方の手記にはグロワス13世に触れた文章はほとんどない。描かれるのは専ら自身の心情と活躍のみである。アキアヌ大公の自己顕示欲を多分に含んだ性格を割り引いたとしても、個人的手記なのだから自分のことを書くのは当然であろう。それにしても、会話の対手としておよそ当時のサンテネリ政界を代表する全ての人物の名が頻繁に登場する中、グロワス13世についてはわずかに留まっているのは、後世様々な資料——特にレスパン遺稿——を手に入れた我々からは()()()()を感じさせるものだ。


 アキアヌ大公の手記はグロワス13世研究の進展を受けて、現在も批判的再検討がなされている。”暗愚な王グロワス13世”の前提を廃し、彼が政治的主体性を備えた王であったと仮定した場合、大公手記の記述は従来とは異なった顔を我々に見せることとなる。

 手記中、親政初期の王に関する文章はある種の慇懃さを伴った無関心である。

「若きグロワス13世陛下、意気高揚まことに喜ばしく。王国の繁栄揺るぎなし」

 賛辞と読めるが、これは一種の定型句に過ぎない。手記が後に誰かの目に触れた際のことを考えて形式的な賛辞を挿入するのは当時ごく普通のことであった。

 王への軽視と比して、家宰フロイスブル侯爵や内務卿プルヴィユ子爵、デルロワズ公などルロワ朝王権に近い大貴族達の動向は子細が書き留められていることから、当時のアキアヌ大公が”誰”を見ていたのかがよく分かる。


 このような状況が変化の兆しを見せるのは、1714年4月である。


「王の器を持つか?」


 旧城でグロワス13世との直接会談が行われた日の記録はこの一文のみ。これは従来、アキアヌ大公が自身の器を省みたものであり、いわば()()の文章であると考えられてきた。だが、王についての新説を踏まえたとき、()の持つ器であるかを特定するのはそう簡単ではない。これまで通りアキアヌ大公自身と考えることもできる。一方で主君グロワス13世であると読むことも可能となるのだ。

 この辺りの時期から徐々に、中央政界の要人達が記した覚書の中に新体制に向けた構想の話題が登場する。アキアヌ大公のものにもそれは現れている。枢密院体制創造を巡って交わされた議論の最中の記述で注目に値するのは以下のものだ。


「陛下の御心を分からぬは我が身の不明か。あるいは陛下ご自身もまた」


 これまでの解釈では、会話が成り立たぬ王に対する苛立ちと捉えられてきた文言である。

 ”大改革”の影響を脱した第20期の歴史家達はグロワス13世が過去に()()()()()()()()()()()()ことを理解していた。よってこの箇所は、日常会話は可能だが複雑な政治の話になるとついていけない王の貧弱な知性に対する諦念と失望を表明したものであると解釈された。


 そして1716年2月、勅令承認を求めて王が為した貴族会での演説の日、以下の有名な記述が現れる。


「王の御裾の元、私は王国の舵を取る」


 レスパン遺稿発見以前、重視されたのは当然のことながら主文「私は王国の舵を取る」である。状況を限定する語句「王の御裾の元」は「神の御裾の元」を改変した飾り文句にすぎないと考えられていた。


 旧説をまとめると以下のようになる。アキアヌ大公は元々、”回心”前からグロワス13世の王としての資質を疑問視していたが、旧城での直接会談を経てその疑問が確信に変わった。そこで家宰フロイスブル侯爵の提案に乗り、枢密院創設に動き出すこととなる。体制の構想段階で王の能力不足を改めて確認した彼は、枢密院創設が正式に承認された貴族会の後、自身が国政の主体となるとの自負をはっきりと示した。

 この説明は当時のサンテネリ政界の情勢を踏まえた妥当なものである。全文が書記によって記録された「弱者の演説」(グロワス13世の貴族会演説)の意外にも()()()()内容から、王の能力が過小評価されているのではないかとの異議もあったが、現代の政治家達が国会で披露するそれと同様、当時においても演説はつまるところ予め用意された原稿の読み上げである。よってそれは、原稿を書いた()()の知性を証明するものに過ぎない。


 さて、この説をレスパン遺稿の内容を元に再構成してみよう。まず、遺稿が語る二度の「王との対話」は、グロワス王がある種の非常に開明的な政治思想の持ち主であったことを我々に教えてくれる。王の晩年になされた二度目の——最後の——対話において、王は共和国の国会のような存在を仄めかしてさえいる。18期中葉、すでにアングランが議会制を採用していたため、その存在を参考にした可能性は十分にあるが、王のそれはさらに一歩進んだものだった。以下に抜粋を掲示しよう。


「私にはね、夢がある。一つだけ。いつか私の子孫とあなたの子孫が会堂(セアトル)で語らう。この国の未来を巡って、人々を代表して論戦を交わす。平等な立場で。そしてね、ジュール殿。会議が終われば彼らは二人で旧市に繰り出す。そこで酒を飲みながら趣味の話に花を咲かせる。——友として。そんな夢だよ」


 重要な点は「私の子孫とあなたの子孫」「平等な立場で」の二点である。グロワス13世が話者である以上、「私の子孫」は必然的に「王」なのだ。王と平民(厳密には当時レスパンはまだ貴族籍を保持していたが、自身を平民と認識しており、王もまたそれを理解していた)が「平等な立場で」論戦を交わすというのだ。アングランの議会制はあくまでも王の下の議会であり、王が存在しない現サンテネリの国会のような議会とは本質的に異なるものだ。つまり、王は明確に共和制を意識していたのである。

 また、レスパン遺稿にある最初の王との対話やガイユール館の演説、さらに官報記事の切り抜き(驚くべき事に、親政後期には王が実際に執筆していた)の文体を比較検討するに、貴族会演説の原稿を書いたのは、まさに王自身であることが明らかになっている。

 よって、旧説第2の文章「陛下の御心を分からぬは我が身の不明か。あるいは陛下ご自身もまた」解釈が切り崩される。グロワス王が複雑な政治の話についていけないことなど()()()()()のだから、アキアヌ大公が失望する理由も存在しない。むしろ、グロワス王の話にアキアヌ大公の方がついていけなかった可能性すらある。

 そして、王の知性に急激な変化がない以上、第1の文章「王の器を持つか」の意味も再検討が必要となる。ここは”グロワス王は、王の器を持つか”という問いかけとして読むことができるのだ。これまでは王の器を持たないと思っていたグロワス王だが、実はそれを備えているのではないか、との自問自答である。サンテネリ語としてはいささか不自然な受動態であえて書かれたこの文は意図的に主語を隠そうとしている。当然のことながら現王に王の器を問うとは最大の不敬である。よってそれを避ける言い回しを選んだのだろう。

 ここまで来ると、最後の「王の御裾の元、私は王国の舵を取る」は従来と全く異なる響きを帯びて我々の耳に響くだろう。アキアヌ大公が決意したのは”王の御裾の元で”なのだと。


 アキアヌ大公ピエルの手記を詳解した理由は、現段階においてこれが推論の限界であるからだ。”誰が”枢密院を作ったのか、という問いへの。

 残念ながら、枢密院構想の始まりを描いた資料は存在しない。全てが傍証に過ぎない。これまでフロイスブル侯爵の沈黙を補うために参照してきたブラウネ妃の手記もここでは使えない。というのも、この時期彼女は既に王宮の住人であり、父侯爵と頻繁に顔を合わせることがなくなっていたのだ。ただし、うっすらと枢密院の存在を示唆する記事は残されている。

 王に近侍するようになって以来定番となった王の深酒への愚痴と心配に混じって、所々彼女の所感が残されている。


「陛下が志向される世界は余りにも遠大で、(わたくし)には到底理解が及びません。ですが、陛下の天翔る偉大な知性が導き出されたものですから、絶対に素敵なものであろうと思います」


 グロワス王の下に暮らすようになって以降、彼女の手記からは批判者、観察者の視点が徐々に少なくなる。代わりに増えるのは一種の()()である。恋愛初期、相手の存在全てを許容する心象は微笑ましくはあるが、歴史研究者としては頭が痛いところなのだ。


 結論としてこう述べるに止めよう。

 王が枢密院創設に全く関与しなかったなどということは()()()()()


 ◆


 国内関税撤廃に向けた動き

 枢密院制度開始すぐにサンテネリ北部を襲った大災害は、古く諸侯領の集合体として始まったサンテネリ王国に対して、抜本的な制度改革——場合によっては国制自体の再構築——を促す最初の契機となった。急激な寒冷化と雪害は王国始まって以来経験したことのない規模であり、王権が強く維持を進めた王国の島(イレン・サンテネリ)地方や富裕な大公領以外の多くの地域で大量の犠牲者を出すこととなる。既に衰弱が進んでいた中小諸侯、特にルロワ家の軍伯由来の小諸侯にとって、この出来事は致命的ともいえた。

 王権とそれを支えるルロワ譜代諸侯、半独立大諸侯、軍の三者で均衡を保つサンテネリにとって、ルロワ派諸侯の急速な没落は大きな政治的変動を生み出しかねない。首相アキアヌ大公と財務卿ガイユール大公はこの機に乗じて各貴族領の流通を妨げる関税の撤廃を図った。雪害により不作、価格高騰が懸念される北部に、比較的被害が軽微であった中部・南部の穀物を流入させるための施策であるが、上記のように中央政界の勢力図を書き換える目論見とも考えられるだろう。

 この特大の問題に対処することを強いられた枢密院は、当然のごとく荒れた。当時の議事録は王とアキアヌ大公・ガイユール大公が言い争いに近い段階まで語気荒く討議を重ねた様を残している。発言自体がほとんどなくなる枢密院制度中期から後期に比して、この時期はまだグロワス王の肉声を聞くことができる。

 この対立の結果、旧来の地方行政区における穀物限定の国内関税停止が時限的に定められた。また、地方行政区に領主とは別の”統治者”地方長官職を設置し、枢密院が任命権を握ることとなった。地方長官は徴税の責任者であるが、後に各地の軍営運営も職域に組み込み、いつしかその名の通り地方の”長官”へと変貌を遂げていく。

 ”国民史観”に立つ史家には、この改革を推進した両大公を高く評価する一方で自身の権力基盤であるルロワ派諸侯を擁護し、改革の足を引っ張った王を批判する向きが少なくない。”国民史観”的立場、つまり共和国的立場からすれば、何の根拠もなく土地を占拠する貴族たちを一掃し、強力な中央政府の官僚組織を全土に張り巡らせる形態はまさに理想的なものだから、批判は当然のものだろう。

 ただし、18期初頭のこの段階、歴史的災害に打ちのめされ、10数万の死者を出したばかりのサンテネリがそのような大手術に耐え切れたかどうかは疑問が残る。枢密院発足初日の冒頭挨拶で王はこのように述べた。


「先頃貴族会で話したとおり我が王国には問題が山積みだ。ここで全てを列挙するのは止めよう。皆もそれを知っているはずだから。——私はそれらを解決することを望む。だが、抜本的な変革は求めない。なぜなら全ての根本は我々の”社会”それ自体にあるからだ」


「私は根治を求めない。それは人知を超える。日々の問題に、解決せぬと分かりながら黙々と対処しよう。つまりだ。今日を生き残ること。それだけだ。それを諸君の知恵に委ねたい」


「雪の王」と呼ばれる大災害が発生する、まさにその直前になされた挨拶であるが、その後の展開を予見したかのような台詞に後世の我々は驚きを隠せない。もちろんグロワス王は予測したわけではない。これは基本的な施政方針として理解するべきであろう。

 意地悪な見方をすれば現状維持をひたすら続けると述べたに等しい王の方針に対して、後の首相アキアヌ大公は批判の色を隠さない。王を「臆病」とまで表現する。面白いことに、枢密院体制発足後、大公の手記は徐々に()()()()なっていく。特に王に対するそれは顕著だ。政治の実権を握ったのだから遠慮は無用と考えたゆえの変化とかつては捉えられてきた。だが、新説に照らすとより人間味のある解釈も可能だろう。つまり、悪口を言えるほどに相手を信頼するようになったという。

 さて、王の現状維持方針について話を続けよう。これまで、王のこの方針はフロイスブル侯爵(枢密院宮廷大臣)の”作文”であると見なされてきた。首相の座こそ譲ったものの、未だ強大な権勢を誇るルロワ派の方針である、と。確かに筋の通る説明である。王が共和制すら視野に入るほどの開明性を備えていた事実を考慮した場合でも、そうであったならばなおさら王は改革に傾いたはずだ。では、グロワス王は宮廷大臣を御しきれなかったのだろうか。

 ここで先ほど触れた首相大公の手記が考察の材料を提供してくれる。面白いことに、首相の「悪口」の相手は全てグロワス13世なのだ。王が改革派に肩入れしていたのならば、悪口の相手は宮廷大臣になるはずである。

 また、レスパン遺稿にある王との最初の対話も参考とすることができる。アキアヌ邸で語り合った夜、心の赴くままに若い言葉をぶつけるレスパンに対して、王はこう返したという。


「貴殿の想いは恐らく善いものだ。だからそれを、()()()実現するよう努めてほしい。慎重に、平和的に」


 ”慎重に””平和的に”。この言葉は王が本来的に急激な変革を好まぬ性向を持っていたことを明らかにするものだ。

 これらの根拠を統合するに、グロワス王は恐らく主体的に現状維持を望んだと見なすことができるだろう。


 ◆


 ”大改革”以降の世界に生きる我々は「変化」に善い印象を持つ傾向を教育を通じて植え付けられている。一方「維持」は消極性の表れであり、保身であり、利己的なものであるとさえ感じるかもしれない。しかし、日々起こる予想外の問題をうまく処理しつつ現状を安定的に維持するというのは実は至難の業である。一個の政治的芸術(アルテ)とさえいってもよい。

 現代は当然として18期においても世界は十分に複雑であり、数え切れないほどの変数の連なりであった。何かを一つ変えると、その影響を受けて予想外のところで何かが変わる。つまり、何もしなければ世界は自動的に変化するものなのだ。そのような多分に不安定な世界に「安定」をもたらすためには想像以上の努力が必要となる。より具体的に言えば関係各者の利害調整を果てしなく繰り返す行為だ。しかもそれは国内に留まらず、国外の問題にすら手を入れねばならない。

 この知見をグロワス13世はおそらく、親政期の変革を体験することで学んだのだろう。よかれと思って実行した政策が思わぬ副産物を生み出す苦い経験は、枢密院創設直前の勅令承認拒否事件が引き起こした一連の問題から十分に体得したことだろう。貴族会の”造反”に対して王は近衛軍を動かしシュトロワに引き入れたが、貴族達を圧迫するはずのその行為はガイユール公を標的としたものと民に誤解され、結果自身の身を危険にさらすガイユール館の演説を行うはめになった。演説内容の過激さは対アングラン戦争の予感を広め、一時的なものではあるが穀物価格の急上昇を招いたのである。

 これらの出来事が王に与えた教訓は重いものだったのだろう。王が口癖とした「うまくやる」という言葉はある種象徴的な意味を含んでいるように思われる。


 第21期にすら通用するほどに急進的な理想を持ちながら、”慎重に””平和的に”物事をより良い方向に動かそうと望んだグロワス13世。この多分に好意的な仮定が成り立つならば、彼はサンテネリを代表する偉大な政治家の一人として数えられる資格を十分に備えている。


 ◆


 外交政策

 1716年1月に行われたプロザン王フライシュ3世との会談の後、約1年の間を置いて皇帝ゲルギュ5世との会談が行われた。プロザン王とのものと同様、非公式のお忍びである。

 ルロワ大公グロワスは妻アナリゼを伴い、シュトゥビルグ王国の都市アンクルトに赴いた。そこには偶然エストビルグ大公ゲルギュとその妻アウグステも滞在しており、貴族家同士の交流が発生したのである。偶然の邂逅にも関わらず、不思議なことにアンクルトの市庁舎が会場として提供された。


 この会見において新たに定められたことはそう多くはない。サンテネリ・エストビルグ・プロザンの3王同盟結成は確定事項となっており、そこに付帯する様々な条項の打ち合わせが随員達によってなされたのみである。

 グロワス王とゲルギュ5世の会談は二人きりで行われた。当人達は私的な会話ゆえ気楽だろうが、歴史家にとっては内容が記録に残らないところに臍をかむ。

 本書冒頭に述べたとおり、グロワス王は手記や覚書の類いを一切残していない。よって参考にできるのはゲルギュ5世のそれのみである。

 齢50を過ぎた皇帝にとって25歳のグロワス王は息子のようなもの。実際に義理の息子でもあった。だが、皇帝は()()()()()()印象を抱いた。


「ルロワ殿の風情、我が身と変わらず。厭うても世知に囚われた老人のもの。若獅子の稚気なし。(たてがみ)豊かにして、白髪さえ幻視するほどに」


 25歳の青年を評したとは思えぬ言葉である。容姿が歳相応であることは関係者たちの手記から確定しているので、皇帝の描写はその雰囲気に由来するものであろう。

 前年に直接顔を合わせたフライシュ3世が評した「一見貧弱な()()」という言葉との著しい乖離が面白い。1715年から16年にかけての一年間に王がこなさなければならなかった政治課題の重要性と難易度を考えると頷きたくもなるが、一方で、人の印象をそこまで変えてしまう「王の仕事」の過酷さを再認識させられる。


 一方で、グロワス王の妻アナリゼ(アナリース)にとっては両親と久々の再会であった。彼女の日記にはごく簡潔に「皇帝陛下、皇后陛下のご尊顔を拝す。ご健勝のこと」とあるのみ。

 一部残る日記を見るに、アナリゼ妃は普段から長い文章を書くことを好まなかった。とはいえ、後年子ども達や夫との生活、あるいは趣味の時計製作については妙に熱の入った描写が出てくることを考えると、この若きサンテネリ王妃にとって父母との再会は感情を大きく揺り動かすほどのものではなかったのだろう。ブラーグ指導の下に初めて自力で時計を組み上げたときの喜びのほうが大きかったとさえ見える。


 ◆


 子の誕生

 グロワス13世の()()の一つに子だくさんが挙げられる。

 正妃アナリゼとの間にはグロワス(14世)、側妃ブラウネとの間にロベル(3世)・フローリア(アングラン王正妃)、側妃ゾフィとの間にマルグリテ(プロザン王正妃)、側妃メアリとの間にメアリ・アンヌ(国家親衛軍近衛連隊司令官・共和国議員)と5人の子に恵まれている。また、メアリ妃、ゾフィ妃は他に男児を出産しているが、いずれも夭逝した。

 王の子ども達を生年順に並べると、メアリ・アンヌ(1716)、ロベル(1717)、グロワス(1718)、マルグリテ(1720)、フローリア(1722)となる。

 成長した王子、王女たちが後の中央大陸で果たした役割は非常に大きく、この節で詳説は避ける。本書最終節で概観したい。


 ◆


 先王グロワス12世の子がグロワス(13世)のみであった反省から、グロワス王は王太子時代から妃候補の少女達と知り合う機会を多く持った。にもかかわらず、即位後4年間子に恵まれる気配もなく、当時の世論は随分と気をもんだ様子である。庶民の日記を渉猟すると、世継ぎの誕生を巡る噂は比較的よくある話題の一つだったようで、複数人のそれから記述を確認することができる。

 余談になるが、意外なことに当時の平民達の間に王の知性への疑義は存在しない。むしろガイユール館の演説と旧城の負傷兵療養施設への転用から、父王の武断的な政治姿勢を受け継いだ若く溌剌とした新王の姿が浮かび上がってくる。本書冒頭で述べたとおり、グロワス13世の悪評のかなりの部分が”大改革”以降の産物であることの裏書きとなる事実であろう。


 人々が待ち望んだ初子の存在、つまりメアリ妃の懐妊が確認されたのは1716年2月のことであった。当事者たるメアリ妃の手記については、この時期のものが散逸しているため、皮肉にも彼女の最大の”競争相手”であった女性の手記をまたしても援用せねばならない。


「メアリさんご懐妊とのこと。誠に祝着に存じます」


 この一文である。ブラウネ妃がどのような思いで筆を執ったのかは想像する他にないが、通常一つの出来事に数行の感想を付け加える習慣を持つ彼女がこの出来事は一行で済ませていることから、そこに秘められた複雑な思いを感じられるだろう。

 一方で、自身の妊娠が判明した際の記述は紙面5頁を丸々埋め尽くした()()である。


 いずれにせよ、メアリ妃の妊娠により王統の継続可能性は飛躍的に高まった。グロワス王の子種に問題があるという最悪の予測は消えた。この事実がサンテネリ王国に与えた影響は存外に大きい。枢密院制度が平和的に定着した一因も実はここにあるのだ。

 王宮と距離のある貴族達にとって、枢密院制度への理解は建前と本音に分かれていた。建前は公式発表通りサンテネリ王国統合の象徴というもの。本音は、後嗣に恵まれぬまま死病に冒されたグロワス13世が、アキアヌ大公への譲位を円滑に行うために設置した機関というものだ。枢密院設置直前期、王の身体的変調は噂となって徐々に広がっていた。そのため人々は当然の推理をしたのである。

 だが、メアリ妃懐妊が全てを変えた。つまり譲位の線はなくなり、枢密院が実効性を持つ機関として機能する可能性が高まったのである。同時期に玉体の異変が落ち着きを見せたことと合わせて新体制は「適応すべき現実」として貴族達、あるいは富裕な平民達に認識されることとなった。


 ◆


 初子メアリ・アンヌ王女の誕生には様々な逸話が残されている。

 最も有名なものは以下の台詞にまつわるものだろう。


 後年、祖国戦争初期の対エストビルグ戦線膠着により、国民会(国会の前身)に召還されたメアリ・アンヌは、改革極派のある議員に「女が男装なぞ! 戦場で男あさりにいそしむ小道具か?」と下品な野次を飛ばされた。

 彼女は高名な金糸の髪を靡かせ、その青い軍服の胸元を指しながら述べた。傲然と。


「私は生まれた時から、()()()()()()()定められたのです」


 猥雑な議場の雰囲気は一瞬で静まり、沈黙がその場を支配した。

 彼女の弁明が終わり、次の弁士が名乗りを上げる。改革派を率いるジュール・レスパンである。彼は並み居る議員達に静かに語りかけた。


「あいにく私には子がいないので、親の気持ちは分からない。だが、()()()()ならばいる。擬似的な父子関係と言おうか。それは素晴らしいことではないか。まさに(オン)ならばこそ築きうる関係性だ。——ところで諸君に思い出してほしいことが一つある。先ほど登壇されたルロワ准将にもまた、擬似的な父がいるだろう。あるいは兄も、弟も。皆揃いの青い軍装で。恐らくバロワ地方の出の。彼らは自身の娘、あるいは妹、あるいは姉が受けた下劣な侮辱を決して許しはしないだろう。…ああ、もちろん私も許しはしない。()()()に加えられる軽侮を。決して」


 この一幕は、国内騒乱の最中、レスパン率いる改革派とメアリ・アンヌの近衛連隊がある種の信頼関係を維持していたことを示す有名な挿話だが、話の核心となったメアリ・アンヌの台詞は、父王グロワス13世が当時の常識を破り、生後すぐの女児たる彼女を抱きしめた出来事に由来する。


 メアリ・アンヌの例以外にも、グロワス王の子女教育には瞠目すべき様々な特徴がある。当時の社会通念と常識から外れたそれは子ども達の将来に強い影響を及ぼした。

 善きにつけ悪しきにつけ。


 ◆


 次節では、比較的平穏な時期であった枢密院体制中期を、王の子ども達との関わりを軸に概説していきたい。

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レスパン…
「…陛下の天翔る偉大な知性が導き出されたものですから、絶対に素敵…」 ”天翔る偉大な知性” ”素敵” ——もうだめだ。 これはだいぶおかしなことになっている。
時計のことを考えていました。 毎回ユーモラスな語り口で笑っていたのですが ブラーグさんに「200年後の時計の王となれ」と言ったこと アナリゼさんを銀座の時計店へ連れて行きたかったこと 改めて考えると…
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