6、最期の時間2
やがて馬車のスピードが落ちてきた。ナイル川沿いに比較的大きな建物があり、そこを目指しているようだ。
到着して門をくぐると、バラバラと人が集まってきた。中でも大柄な男が慌てて走り寄ってくる。ラムセスの名を叫びながら馬車にやってきた。
「ラムセス様! アメン神の儀式が控えているのではないのですか!」
「そうだ。緊急事態でな。帰宅せざるを得なくなった」
憮然としながら馬車を降りる。
「使いの者を出していないのに、どうしておわかりに?」
「? なんのことだ?」
「え……旦那様のことでお戻りになったのではないのですか?」
「父上がどうした?」
男は驚いたように目を剥いた。
「では、なにも知らずにお帰りになったのですか! この状況下で? なんてことだ! アメン神の御意思としか思えませんっ」
男の様子がおかしいと感じたのか、ラムセスの顔色が変わった。
「父上がどうしたのだ。さっさ話せ」
「昨日、突然お倒れになられたのです。意識も未だ戻らず……使いを出そうとしたのですが、アメン神の儀式が控えているからと、奥様が反対なさって――」
「バカモノ! それを最初に言わんか!」
怒鳴ると、ラムセスは走り出した。が、ふと立ち止まって振り返ると、男に向かって再び怒鳴った。
「お前はサーラを案内しろ! ホルエムヘブ、行くぞ!」
ラムセスはホルエムヘブとともに、そのまま館に向かって走り去っていった。
「そちらの方、どうぞ中へ」
「え……えぇ。あの」
「私はこのお屋敷に仕えるタヌードと申します」
「サヤ……サーラです。よろしく」
そう言って手を出すと、タヌードと名乗った男は困ったように沙良の手を見つめた。
「握手、知りませんか?」
「握手?」
「……いえ、いいんです。私の国では、挨拶の時に手を握り合って友好を深めるもので。ごめんなさい」
引っ込めようとした沙良の手をタヌードは両手で握った。
「よろしく、サーラ様。どうぞ、こちらに」
言いつつ、沙良を中へと案内した。
沙良がみなの集まる広い部屋に入った時には、すべてが終わっていた。ラムセスの父であるセティは、彼が見守る中で息を引き取った。
意識は戻らなかったので会えたとは言い難いが、それでも間一髪、最期の時には間に合ったといえよう。
暗く沈む部屋を眺め、沙良は約二か月前のことを思い出した。
栄治が亡くなった時、沙良はいかに自分たちが孤立した存在だったのかを痛感した。
出版社や編集社の知人は多く駆けつけてくれたし、父のファンからもメッセージが多数寄せられた。しかし身内から絶縁されている手前、葬儀は佐藤夫妻だけに来てもらい、密葬で済ませた。それが沙良には辛かった。メディアに乗って、ファンが悲しめば悲しむほど、沙良は現実の孤独感を深めたのだ。
(本当のお父さんをどれだけの人が知っているの? 血のつながりなんか気にしないけど、でもよくも知らないのに、泣けるほうが不思議。人間なんて、所詮一人なんだから)
そう思って過ごした二か月。しかし眼前の状況は、その二か月を否定するものだった。
家族だけではなく、使用人や奴隷たちまでワーワーと泣いて悲しんでいる。故人がいかに彼らと生活を共有しながら生きてきたのか思い知らされた。
(所詮人は一人、孤独だって思って避けてきたのは……私のほうだったのかもしれない。マスコミの報道に嫌気がさして家に閉じこもりっきりになったのは、お父さんのせいなのかもしれない。私たちは、自ら世間に背を向けていたのかもしれない)
沙良は自分に対して嫌な感じがして、身を翻した。
外に出てバルコニーからナイル川を眺める。風が心地いい。夕日がナイル川に落ちようとしている。辺りが赤い世界から闇の世界へ変わろうとしていた。
(私、こんなところでなにをしてるんだろう。いろんなことが一度に起きて、感覚が麻痺してるわ。どうして古代エジプトにきちゃったのか、それを突き止めないといけない。でも……やはり誰にも真実は話せない)
ふと、背後に気配を感じた。
「ラムセス」
「なぜ父上が倒れたって知っていたんだ? どこで知った?」
「…………」
「言えよ」
「信じてくれる?」
「内容によってはな」
沙良は俯き、呟くように言った。
「……あなたのお父さんのことは口から出まかせだった。私はただ、カルナック大神殿からあなたを連れ出したかっただけなの。あそこは危険だから」
「危険?」
「今度のアメン神の儀式って、危険なのよ」
「なにが危険なんだ?」
「悪いことが起こる。あなたに疑いがかからないように、連れ出したかっただけなの。だから親が倒れたって咄嗟にウソをついた。それが本当になるなんて――私」
沙良の瞳から急に涙が溢れ出した。その大粒の涙にラムセスがギョッとする。
「なにがどうなってるのか、全然わからない。なんでこんなところにいるのかも――教えてほしいのは私のほうなの! 自分の世界に帰りたい。佐藤さん夫婦くらいしか、私のことを心配してくれる人がいないこともわかってる。でも、帰りたいの!」
「サトウとは誰だ」
「お父さんの友人。私の身元後見人なの。自分の子どものように大事にしてくれてる人。エジプトなんて来なきゃよかった! お母さんの絵かもしれないなんて思ったけど、関係なかったのよ。エジプトなんかに来なかったら、池にも落ちなかったし、こんな世界に来ることもなかった! 不要なことに気づいて、こんな思いなんてしなくてもよかった!」
ワッと火がついたように泣き崩れた。不安と疲労が一気に噴出したのだ。そんな沙良をラムセスは驚いたように見つめ、それから優しく肩を抱いた。
「俺はお前を責めて追い詰める気はない。ただ、お前は不思議なことばかり言う。それが当たると恐ろしく感じることは事実だ。父上のことはいい。偶然だと信じよう。だが、アメン神の『祝いの儀』がなぜ危険なのか、それだけでも教えてくれ。頼む」
今までにない優しい口調に沙良はわずかな理性を取り戻した。
「……言えない。でも、あの大神官が、ファラオの座を狙っていることだけは事実だわ」
ラムセスは言葉を失い、大きく目を見開いて沙良を凝視した。