6. 気づいていない
公爵家はラズールの代になって以来、客人がめっきり少なくなっていた。
ラズールは邸に客を迎えるより訪問するほうを好む。そのため今や公爵家を訪れる客のほとんどは、主が不在でも勝手に押し掛けてくる数少ない友人だけになっているのだ。
作家仲間として知り合い、少々の紆余曲折がありつつも気のおけない友となったルーナ・シー女史もそのひとり ―― ラズールにとっては珍しくも貴重な、女性なのに恋愛がまったく絡まないただの友達である。
公爵家にふらりと訪れるときの恒例として、温室でお茶を飲みつつ待っていた彼女は、ラズールを見るなり、とんでもないひとことを発した。
「あら。やっぱり人でなしね、ユーベル先生」
「…… 新婚の奥さんを放っといて、ということなら筋違いだよ、シー先生」
ユーベル、はラズールの作家としての名前である。
割かし適当に決めたが、意味合いとしては 『超越した者』 といった感じであり ―― あとになってみるとちょっと恥ずかしい。
「シェーナに聞いたら別にかまわないと言っていたし、僕も少し早めに切り上げさせてもらうことにはするよ。そもそも、まだ結婚はしていないどころか、この婚約は暫定なのだから」
「まだそれ言ってるのね? リーゼロッテ様からみっともなくジタバタしてるって聞いたときには、まさかと思ったけれど…… 」
大きな紫の瞳が瞬間、冷たく澄む。
くるぞ、とかまえるラズールの耳に問答無用のひとことが突き刺さった。
「いいかげん、年貢を納めてもバチはあたらないと思うわよ? 」
「きみの異世界的比喩表現はいつも面白いよ」
「それはどうも。ちなみに意味は 『さっさと覚悟を決めてとっとと結婚しておしまい! 』 ですからね」
「…… ひとはなぜ、結婚すると未婚の友人の世話を焼きたがるようになるのだろうね」
「そうねえ、昔はわたくしもそう思っていたことがあったけれど…… 」
ふっとルーナ・シー女史は遠い目をした。
彼女は異世界から事故死転生してきたそうで、昔は隠していたはずだが、いつの間にいったいなにを開きなおったのか ―― 自分は異世界転生者、と公言してはばからない人になってしまったのである。
それが世の人々からすんなり受け入れられているのは、彼女自身がかなりの変わり者だからにほかならない。
だが、たまには普通のことも言う。
「言われたほうからすれば幸せマウントかもしれないけれど、言ったほうからすれば 『ずっと友達でいたい』 っていうことなんでしょうね。前世だと、結婚した子とは話が合わなくなってなんとなく疎遠になっていったものだから」
「では僕たちにはあたらないね」
「誰がユーベル先生とずっと友達でいたいなんて思うものですか。わたくしはただ 『ロティーナちゃんをそろそろ結婚させてあげて新しい境地を開拓すれば? 』 と思っているだけです。 『ネーニア・リィラティヌス』 、なんだか飽きてきてよ? 」
「いや、あれはあれでいいんだよ。彼女は永遠に年をとらないからね」
「………… それもそうね」
ロティーナちゃん、とはエロ小説家ユーベルの代表作 『ネーニア・リィラティヌス』 シリーズの永世ヒロインである。シリーズ初期はラズールがかつて失ったふたりの女性をミックスさせただけの存在であった。
しかし読者へのサービス精神で、新作を出すたび彼女にさまざまな要素を詰め込んでいった結果 ――
今やロティーナは、ルーナ王国全青少年の夢を具現化した理想の女神のようになってしまっている。
女性読者からすればヒーローに対して 『いったい何十年、結婚せずにやることだけやるつもり? 』 とイラつくのかもしれないが、理想の女神が結婚なんてすれば、主要読者層の男性諸氏は本を破り捨てるに違いないのだ。
(シー先生もそのへんは当然、わかっているだろうに…… 嘘が下手だね、相変わらず)
友人としてラズールの幸せを望んではいるが、彼がそれを拒絶していることをいつのまにか嗅ぎとっているから、素直に言わない ――
ちなみにシリーズの10作目で急についたヒロインのわかりやすいツンデレ属性は、ルーナ・シー女史を参考にしている。
「それに次回はじらしプレイだよ。意外と初めてだろう? 」
「ユーベル先生…… 」
ルーナ・シー女史はフッと鼻でわらうと、憎まれ口を叩いた。
「ガマンができるようになったのも、トシのおかげかしら? 」
「なにを言っているんだい? 僕は昔からガマン強いよ。がっついて見せるのはいいが、心底からがっつくのは女性に失礼だろう? 」
「あなたががっつけば、そうなるでしょうね。遊びとしてはルール違反」
「含みを持った言い方だね、シー先生。まさかとは思うが…… 『愛があればその限りではない』 などと興ざめなことを言い出すつもりかい? 」
ルーナ・シー女史が吹き出し、つられてラズールも笑った。
彼らはもともと似たところがあり、ふたりとも、性愛をテーマにした小説を書きながらも、現実の恋愛は心底どうでも良かったのだ。それがお互いにわかっているからこそ、長年ただの友人として続いてきたのでもある。
「…… でもね、そういうときのシドさんってとんでもなく可愛いのよ。おかげで原稿の文字が乱れて困るわ」
「きみはパートナーががっついてきてるときに、小説を書こうとするのかい」
「だってパセリのような都合良いだけの美形ヒーローに生命を吹き込むのに、ちょうど良いんだもの」
「そして小説にパートナーを利用しようというのかい」
「 当 然 で す と も 」
「…… まあたしかに、あのなんの工夫もない予定調和のストーリーが読めるのはキャラによるところが大きいがね」
「そうよね。ちなみに美形ヒーローの、耳が腐るような溺愛ゼリフはユーベル先生を参考にしているわ。嬉しい? 」
「…… たとえばこんな? 」
ラズールはテーブルの上に置かれた貴婦人の白い手に手を重ね、面白がっている瞳を意味深にのぞきこんでみせる。
「きれいだよ。月の光を紡いだ髪も、紫水晶の瞳も…… キミは誰よりも輝いている…… でも、オレが愛しているのはそれだけではない。なによりも、キミの心が好きなんだ。キミがなにに生まれ変わっても、オレはきっときみを見つけ出 「もう限界よ、ユーベル先生…… 」
ルーナ・シー女史がまたしても大爆笑した。ラズールの先ほどのセリフは、彼女の最新作の恋愛小説からとったものなのだ。
「あそこでヒロインに 『じゃあ◯◯◯に生まれ変わっても? 』 ってツッコミを入れさせなかったわたくし、偉いと思わない? 」
「それはそれで感動的になったんじゃないかな? 『じゃあ◯◯◯に生まれ変わっても?』 『もちろん! たとえキミが◯◯◯に生まれ変わっても、きっとキミを愛しぬくと誓うよ……! 』 『ああクリストフ様』 みたいな」
「たしかに感動的ですけど、◯◯◯が出た時点で夢見る恋愛もの読者にはウケないわね…… お色気とはそこが違うわ」
「まあ、お色気なら、そこからいくらでも愛ある交歓試合にもっていけるからね。メインが美味しければ前座は正統派恋愛でもギャグでもかまわないところはある。背徳感でよりエロくする線を狙うなら、とんでもない悲劇を下敷きにしても良いし」
「そうなのよ。そもそも 『愛してる』 って言ったら愛していることになるのが、どうにも受け付けないわ? 十代がっつき盛りの男子の愛なんて、大半が下半身に影響されてるに決まってるじゃない! 彼らの 『キミの心を愛してるんだ』 を信用してウットリしているヒロインとか、バカじゃないかとさえ思う! 彼らが愛しているのは心じゃなくて胸と尻よ! 人によっては足とか髪とか耳もあるわね」
読者が聞いてしまえば最大にアンチをくらいそうな爆弾発言をシャウトするルーナ・シー女史。
世の女性に大人気の恋愛小説を量産している裏で、ずいぶんとストレスをためこんでいるようである。
「いや、いちおう彼らだって、心や性格も重視しているはずだが。それに、肉体・顔・内面のどれに重きを置くかには、男性にも個人差があるんだよ」
「ちなみにユーベル先生は」
「女性には必ず美点が1つ以上ある。そして欠点もまたかわいらしい。肉体でいえば、豊満なものにも儚げなものにもそれぞれの良さがあり、一概にこれとは言えないのが悩ましい」
「顔は? 」
「こう、目を見つめるとね、どのような造形であろうと、ある瞬間に視線がふっと弱くなるのが女性。そこがとてもかわいいと思う」
「呆れた」
「そもそもどうしてシー先生は、それほど恋愛に夢見てないのにあんなものを書いているんだい? いくらジグムントさんに乗せられたといっても、つらいんじゃないかい? 」
ジグムントさん、とはルーナ王国最大手の出版社の編集長のことだ。
半端ない量の仕事をかかえていても常に笑顔を絶やさない、ほめ上手な超人である。
若きころ、労働者がエール片手に本を読む文化を目指してルーナ王国初の月刊誌を創刊。王国の大衆小説界を陰から支え育てあげてきた ――
散々に世話になった彼に頭が上がる小説家など、ルーナ王国のどこにもいない。今や大御所と呼ばれるユーベルやルーナ・シー女史でさえ、そうである。
ことに、人間不信ぎみながらなつく相手には徹底的になつく傾向のあるルーナ・シー女史などは、夫の伯爵が嫉妬しまくっていてもイヤがらせしたら女史に嫌われてしまうのでイヤがらせできないほどジグムントさんのことが大好きで……
つまり、頼まれたら断れないのではないか、と心配に近いことを考えていたラズールは、そこで意外な答えを聞くことになった。
「だって、愛って、ひとつひとつが奇跡だもの。腕が鳴るじゃない? 」
「…… 幸せなんだね、シー先生。実によかった」
「そうとも言うわね、おかげさまで」
ルーナ・シー女史と嫌み当てこすりにおふざけ混じりの小説談義を繰り広げているうちに、1時間があっというまに過ぎていった。
シェーナはアライダとメイドたちにエステをしてもらっているはずだが、そろそろ終わるころである。
「ところで…… シー先生。このたびのことなんだが…… 」
あと少しで切り上げようと、ラズールは話題を変えた。ルーナ・シー女史には次に会ったら文句を言ってやろうと、ずっと思っていたことがあるのだ。
「ロティとグルになって、シェーナの婚約者候補に僕を推薦したんだって? 」
「あらグルだなんて。王妃殿下に聞かれたから答えただけよ。あなたなら適任、ってね、ユーベル先生。受けていただけて良かったわ」
「…… 彼女が可哀想だとは思わなかった? 」
「いいえ、まったく。だってあなたはいい男ですもの」
コロコロと笑うルーナ・シー女史はどうやら、心の底からそう信じているらしい。
いつどこで何をしたのだ自分、と記憶を探っても、ラズールに思い当たることといえば悪いことばかりなのだが。
―― 彼女の結婚祝いにプレゼントしたのはガーターベルトだし。チョイスの理由は冗談半分、そのころ彼女が書いていたお色気小説へのアドバイス半分である。
そんな彼に、女史は遠慮など皆無なようすで傷口に塩塗り込む発言をした。
「それに、今さらですもの。いくら引きずってたって、あなたもそこまで傷つきはしないでしょ」
―― おそらくはリーゼロッテ王女との婚約解消のことを言っているのだろう、とラズールは推測した。
25年も前のあの件に関する話題は一応、政治的には禁忌になっているものの、リーゼロッテ自身のあけすけな性格のせいもあり、知る人は知っている。リーゼロッテと仲の良いルーナ・シー女史ももちろんそのひとり、というわけだ。
そしてルーナ・シー女史は 『王太子とシェーナとの婚約破棄の件を、ラズールが己の経験と重ね合わせて心痛めているのではないか』 と気にかけているのである。
気にかけてはいるがあえて 『傷つきはしないでしょ』 と断定するところが、ツンデレ的な性格のなせるワザであった。
もっともラズールは、痛めるような心など持ち合わせてはいないのだが ―― なのに。
ざわりと、胸の奥底でなにかが動く。見てはいけないものだと、瞬時に判断できる、なにかが。
「僕が? なにに傷つくというんだい? 」
「ああら。まさか、ひとに聞かなければおわかりになりませんの、ユーベル先生? そんなことだから、わたくしごとき小娘に追い抜かされるのでしてよ? 」
「別にかまわないよ、僕は」
話しにくいところから、さりげなく話題を転換されたことにラズールは気づいた。
ずばずばと言いたい放題でありながら、できる限り逃げ道を用意してくれるのが、ルーナ・シー女史の優しいところである。
死ぬに死ねないラズールの長い余生が多少なりとも温度のあるものになったのは、彼女と出会ったおかげに違いなかった。
「…… むしろ、あのイイ子ちゃんな駄文しか書けなかったお嬢ちゃんがよくここまで成長したものと、感慨深いねえ」
「まあね。そのあたりは、おかげさま、と申し上げておこうかしら。いい踏み台になってくださって感謝するわ」
そろそろおいとまするわね、とルーナ・シー女史は軽やかに立ち上がった。
普段はよくこの温室で書き物をしているが、今日は友人の家に泊まるため、何も持ってきていないそうだ。
それからさらに2、3の他愛ない応酬を繰り返したあと、彼女は立ったまま、ついでであるかのように本日いちばんの痛烈なセリフでラズールを斬りつけた。
「あなたがその昔わたくしにプロポーズした件。早めに、シェーナちゃんに言い訳しといたほうがいいわよ? 」
なぜ今いきなりそれ。
飲みかけたお茶にむせそうになって、寸前で止めるラズールに、『ざまぁご覧なさい』 と言わんばかりの視線を投げかける、ルーナ・シー女史。
―― その昔ラズールは、評判最悪な息子の結婚を焦っていた両親に詰め寄られて面倒くさくなり、ついウッカリと彼女の名を出してしまったことがある。
結果、その翌日には両親が彼女の父親に挨拶に行き婚約をゴリ押ししようとしたのだ……
あれはラズールにとっては、かなり黒に近いグレーな過去であった。そして年月が経ち、人間的にまともになるに従ってその黒さは増してきている。
できれば誰にも言わずにひっそり墓場までもっていきたい。しかし、なかなかそうはいかない。
「今日はほら、うちの娘とシェーナちゃんがお茶しに行ったでしょ? 絶対にばらしてると思うのよね、あの子」
ラズールが 『メイ』 と呼ぶ少女は、両親を含めて大体の人から 『メイリー』 と呼ばれているのだ。
ラズールの意思のいかんによらず、あのプロポーズは、クローディス家 ―― すなわち女史とメイの母娘間ではただの笑い話である。
それを親友とのおしゃべりで悪気なくばらすということは、考えればじゅうぶんあり得る話だった。
―― もしかして、迎えに行ったときのシェーナの様子がおかしかったのはそのせいかもしれない……
やっと、ふにおちたラズールである。
「それなら、きみからシェーナに言ってくれないかな? なにもなかったんだってね」
「あら珍しく弱気じゃないの? 女性は口説くのが礼儀だと信じてる人とも思えない」
「…… 彼女をガッカリさせずに説明できる自信がないんだよ。ひどい目に遭ったあとに現れた婚約者が実は鬼畜でした、じゃ気の毒すぎるだろう? 」
華やかな笑い声が温室に響いた。
「本当のことなんだから、しかたないでしょう? あのときのユーベル先生ったら、本当にヒトデナシだったものね」
「僕なりには真剣だったし、悪い取引とは思っていなかったよ。今でも、きっと僕たちはうまくやっていけただろうと思っている…… けど、あのプロポーズのしかたは、あまりよくなかった」
「ふふふ。まさか今ごろ、そんな反省を聞かせていただけるだなんて」
そういえばあのときは、ルーナ・シー女史には花束ひとつで謝罪しただけだった。
その程度のことだと考えていたところがまたヒドいが、彼女もそれであっさり許してくれたのだ ――
よく許したものだな、と今になってラズールは思う。
出会ったころは、からかいがいのあるお嬢さんでしかなかった。なのに彼女は長い付き合いを通してゆっくりと、他人と自分を許すことをラズールに教えてくれていたのだ。
(あのときは、本当にすまなかったね)
そんな謝罪は笑って流されるだけだろうから、違うことばを彼女の耳にささやく。
「もし過去に戻れるなら、きみをきちんと口説き落としてからプロポーズするよ。きみのヤンデレ旦那より上手にできるはずだが」
「いいのよ、昔のことですもの」
ルーナ・シー女史の爆笑寸前の表情は 『あなたじゃ無理よ』 と語っているようである。
「…… かわりにわたくしは息抜きできる場所を得られたわけですから、悪くはないわ」
「うちで息抜きしようなんて考えるのは、今も昔もきみくらいだけどね」
「もったいないこと。こんなに素敵なところなのに」
ルーナ・シー女史の無邪気な称賛に、ラズールは口の両端を上げてこたえてみせた。
―― きみがここを素敵な場所だと言わなければ、僕はそれに気づきもしなかった。
牢獄だと思っていたこの邸を守ろうという気になったのは、きみのおかげだと言ったら…… きみは、きっと 『いい番犬になったこと』 と笑うんだろう。
「とにかくね、ユーベル先生。それはきちんとご自分でおっしゃらなければ」
「…… こんなに頼んでても、ダメ? 」
「だーめ。がんばってね」
大袈裟に頭をかかえてみせながらルーナ・シー女史を見送るラズールの口元には今度は、本人が意識しない笑みが浮かんでいた ――
そして、彼はまったく気づいていなかった。
シェーナが、ふたりを気にするあまりに物陰からこっそりそれを見てしまっており、なぜだかその理由が彼女自身にもはっきりわからぬままに、非常にモヤモヤしていたことなど ――
その日の夕食前、アライダが猛烈な勢いでやってくるまでは。