5. 見つからない
「アイシュラー少佐は場末の娼館で何度か顔を合わせたよ。人間的には勇敢で情にあつく部下にも慕われている、とてもいい男なんだがね…… うん、そういうことだ、クライセン。
それから、ブラント氏ははっきり言って商才がないうえにキツい性格の母親がいて、ドードマン氏はたしかに裕福だが、未婚に見えて実は愛人を5人囲っているばかりか腹に異様に脂肪分をためこんでいる。おそらく何かの病気だろうね。
ザトゥーリン男爵令息は、シェーナとルーツが同じだし年齢的にもギリギリ釣り合いがとれて話が合うかもしれないが、なんだったかな…… そうそう、趣味が医学で解剖マニアだ。婚約式を蹴って死刑後解剖に飛んでいったものだから、相手の令嬢と両親とを怒らせて婚約解消になったのが5年前」
「もう、旦那様でよろしいのでは、旦那様? 」
ラズールがシェーナの暫定の婚約者となって、1ヶ月。
公爵家での暮らしにもようよう慣れてきたシェーナが親友とお茶をしに街のカフェに行った、その合間 ――
公爵家に代々仕える忠実かつ有能な執事のクライセンが、ついに音をあげた。
彼の主人が親切心から一時的な婚約者となり保護したもと聖女の、真の婚約者探しは ―― 主人の隠れた完璧主義と異常な記憶力から、非常に難航していたのである。
だがラズールは甘いカフェオレを口に含みつつ、クライセンの能力を過信しているか、それとも何かの復讐かとしか思えない無邪気さで首をかしげた。
「クライセンにしては珍しいことを言うね? 」
「旦那様の (純潔の乙女のような) 選定眼に沿える完璧な方などおりません。もう、旦那様でよろしいではありませんか (アライダも喜ぶし)。奥様を大切にされたいと思われているだけ、ほかのかたよりマシでしょう。なにより奥様と旦那さまは、もう同居されているのですよ。世間的に見れば結婚されたも同然かと」
「クライセン。僕が、なんのために女性と同衾しつつ一切手出しはしないという苦行に耐え続けていると思っているんだい? 僕ではダメだよ。彼女を心から愛する人でなくてはね」
「…… 旦那様がそうなされば、よろしいのでは? (そちらのほうがアライダも喜びますし) 」
「それに、もう少し若いほうがいい…… 考えてもみたまえ。もし結婚などしてしまえば、僕が60のときにシェーナはまだ38だ。
彼女は浮気をするような性格ではないから、若者との情熱的な恋を知ることもなくジジイに貼りつかれて年を取ってしまうんだよ? そのようなみっともないジジイになりたくないね、僕は」
「ごほん。…… 失礼いたしました」
クライセンは今年で60歳。一方で妻のアライダは42歳になったばかりである。
他人にはじゅうぶんすぎるほどじゅうぶんに気を遣う主人も、長年仕えてきた執事にはけっこう容赦ないのだ。
「わかったかい? では、候補者探しを続けてくれたまえ。なに、どこかに僕の忘れている優良物件がひとつくらい転がっているさ」
ちょうどこのときラズール自身が、王宮前の大通りのカフェにて彼の婚約者 (仮) の親友から 『多少の瑕疵はあれどもかなりの優良物件』 扱いされており、その説得にシェーナは 『心から愛されたい、なんてやっぱり贅沢なのかな』 などと悩み始めていたところだったのだが ……
もちろん彼は、そんなこと知るよしもなかった。
それどころか、侍女長であるアライダの意見も交えて執事が推測した奥様の気持ちについても、あるわけないと思い込んでいたのである。
「ですが、奥様はなにより、旦那様から愛されたがっておられるのではないかと…… 」
「だからこそ、さ。鋭い子だ。どれだけ溺愛してみせても、寂しそうな顔をする…… 心から愛してあげられる男でなければ、シェーナを幸せにはできないだろう。ただし愛し方はノーマルに限る」
「…………。幸せにならなければいけないのは、旦那様もでございますが」
「僕? 僕はじゅうぶんに幸せだよ、クライセン ―― さて、そろそろお嬢さまのお迎えに行くかな。マイヤーを呼んでくれたまえ」
カップを置く動作ひとつをとっても無駄に洗練されている主人を、クライセンは複雑な思いで眺めた。
ラズールのいう 『幸せ』 は嘘ではないだろうが彼自身は幸福感というものからは縁遠いことを、この執事は知っている。そして、その原因が遠い昔の経験にあることも ――
その経験のうちの1つには、前公爵から命令を受けたクライセンも加担していた。というか、直接にあの娼婦に毒を与えたのはクライセンだった。
あの娼婦 ―― ティナと呼ばれていた女は、クライセンが最初に会いに行ったとき 『いずれそうなると思ってたよ。あのお坊ちゃんが本当にお坊っちゃんだとわかったときからね』 と穏やかに笑みを浮かべた。
クライセンが前公爵の命令で彼女を殺しにきたことを察知していたのに、彼女は怒りも嘆きもせずに彼を許したのだ。
『亡くなったことにして遠くの街に逃がしても良い』 と提案したクライセンにティナが求めたのは、花嫁のドレスを着て死ぬことと妹の将来を保証すること、たったの2つだけだった ――
その準備が整った2回目の逢瀬。
いくらなんでも最後の瞬間には嫌がって抵抗するはずだ、そしたら逃がしてあげればいい……
すがるようにそう考えていたクライセンの前で、どこかの姫の婚礼さながらに美しく装った彼女はひとしきり子どもの頃の思い出とまだ幼い妹のことを語り、それからやすやすと毒をのんでみせた。
ただ静かにすべてを受け入れるその様子からは、死は彼女にとっては救いであることが見てとれた。品のいい坊っちゃんに声をかけたのも実はそのための計算だったのでは…… とすら、クライセンは感じたものだが ――
その直感が正しかったとすれば、最後に慈しんだ少年の心を一緒に黄泉に連れ去ることもまた、彼女の計算のうちだったのだろうか。
この件でラズールがクライセンを責めたことはなかったが、こうして、死の世界に魂を置いてきたような主人を見守り続けること自体が、彼に与えられた罰なのだ ――
「旦那様。馬車の用意が整いました」
「ありがとう、マイヤー」
マイヤーは呼ぶまでもなく、時間どおりにやってきた。
クライセンが忙しいことを理由に随行を頼み、ほかの仕事も増やして自由に動ける時間を無くしても、マイヤーは変わらず淡々と正確に業務をこなしている。
―― 先日、シェーナの忘れ物にこと寄せてきちんと管理するようにリーゼロッテから警告され、 『マイヤーは侯爵家の別荘にいるマクシーネと会ったに違いない』 と彼を警戒していたラズールだが ――
それは、思い過ごしだったのだろうか。
「急に仕事を増やしてすまないね、マイヤー。休む暇はあるかい? 」
「はい。できない量ではございませんので、ご安心くださいませ」
「そうか。ありがとう」
馬車で斜め向かいの扉付近に座った執事代行に話しかければ、ものやわらかだが感情のこもらないセリフが返された。予想どおりだ。
感情を知覚できないならラズールと同じだが、そうではなく、マイヤーは感情を過度に抑制する――
亡くなった実の母親からは殴られて育ったと聞いているが、マイヤーが感情を抑え込み何も考えていないように見えるのもおそらくそのためだろう。
感情を抑制しひたすら周囲に従うのは、暴力を回避するための、または理不尽さから心を守るための防衛であったのだろう、とラズールは推測していた。
その防衛が破られたのは、マイヤーの愛する妻、マクシーネに対してだけだったのだが……
彼が負の感情を表す方法として 『殴る』 ことしか覚えずに育ってしまったのは、しかも暴力を愛情に連なるものととらえてしまっていたのは、不幸としか言いようがない。
―― さきほどラズールがクライセンに 『じゅうぶん幸せ』 と言ったのは嘘ではなかった。
そうなるよりほか仕方なかった過去を持つ者とは違い、ラズールはそうなることを選択したのだ。
その選択は半ば自覚しつつも正しくはなかったが、選択の余地があったということ自体が幸せと言わねばなるまい。
「 ……………… ですか? 」
ぼそぼそとした質問が己に向けられていたことに、ラズールはふと気づき、視線を斜め前に向けた。
―― ルーナ王国では 『目下の者は目上の者に話しかけてはならない』 という貴族の伝統が一部の式典などでは残っているものの、あまりに不便すぎるので非公式の場ではフランクに流している者がほとんどだ。由緒ある公爵家においてもラズールの代からは例に漏れずそうなっている ――
とはいえ、マイヤーが自分から主人に質問するのは、めったにない珍事であった。
「すまない、マイヤー。考え事をしていてね。聞きそびれた。なんだい? 」
「………… 奥様を、愛しておられるのですか? 」
マイヤーにしては、本当に珍しい質問であった。
なんと答えるべきかをしばし迷うラズール。
シェーナを愛していない、と言うのは違う気がするが、愛していると断定するのもこの場合はまた、語弊があるように思う。
そもそも愛しているというのならば、ラズールはたぶん全人類を愛している (ただし性的に愛せるのは女性に限る) 。彼にとって、この世に愛すべきでないとしたらそれは叔父である国王ただひとり ――
もっとも、誰を愛するにしても憎むにしても、その感情は知覚できていないわけだが。
数瞬の沈黙のすえ、ラズールはきわめて当たり障りなく、そして嘘ではない答えを実にスマートに返していた。
「シェーナはかわいいよ。これまで苦労してきたのだから、これからは幸せな人生を送らせてあげたいと思う」
「……………… かしこまりました」
なにがどうかしこまったのかは知らないが、マイヤーはそれで納得したらしい。
その後、街に着くまでの時間を、主従はそれぞれの物思いにふけりつつ過ごしたのだった。
王宮前の目抜きどおりで人気のこじゃれたカフェ 『アクア・フローリス』 。
紅茶やハーブティー、それに贅沢感が半端ない3段重ねのケーキスタンドに各種デザートが彩りよく盛り付けられたアフタヌーンティーセットが、若い女の子に人気のメニューである。
シェーナとメイの間のテーブルにも、からっぽになったケーキスタンドがそびえているが、どうやらふたりのおしゃべりはまだ、尽きないらしい。
楽しそうなシェーナの表情を 『良かった』 と判断していることをあらわすために、ラズールは唇の両端をつりあげた。
「お嬢さま。そろそろお時間ですが、延長なさいますか? 」
「なにいってるの、おじさま。延長なんてしませんよ。結婚式の準備とかいろいろあるんでしょう?」
執事風に身をかがめて尋ねたラズールに、呆れ顔を見せるのはシェーナの親友、メイ ―― ラズールの数少ない友人のひとり、ルーナ・シー女史の娘でもある15歳だ。
ルーナ・シー女史も若いころは破天荒で尖りまくった作家だったが娘が生まれたとたん、性格改造でもしたのかと疑ってしまいそうになるレベルで丸くなった。
それまでは女の子がチラリズムだけで男性を奴隷化する話だとか貴婦人がアンティークジュエリーに宿る精霊たちと毎晩のように性の饗宴に溺れる話だとか、とにかく本番は一切ないのにとんでもなく不埒なお色気ものを得意としていたのだが……
『美しき鉱物学者と社長兄弟』 という、男同士の恋愛を親子兄弟間の愛憎まで巻き込んで三角どころか四角五角の関係にまで発展させたストーリーで全国の女性の約25%を腐に目覚めさせた小説を完結させたあとは、すっかり趣旨変えして女性の夢を具現化したかのごとき恋愛小説を書いている。
その姿勢を批判する読者も多かったが、ラズールとしては 『あの人格破綻したお嬢ちゃんがよくぞここまで人並みになったものだ』 と思うにつけ、小説の内容はさておき、彼女の幸福は歓迎するべきだと考えていた。
さて、その幸福の主な要因たるメイであるが ――
彼女はおそるべきことに母親どころかラズールまでをも、いつのまにか懐柔してしまっていた。
会うたびに 『おじたま、おじたま』 『おじたま、だいちゅき』 『あたち、おじたまのおよめたんになうの! 』 などと、ひたすら無邪気になつきまくる、というワザによって。
彼女に己の荒みようを伝染させてはならない、と気を遣い、ラズールがその胸中砂漠を隠しまくっているうちに砂漠自体にもまた、多少の変化が訪れていたのだ……
ごくときたま、蜃気楼のオアシスが錆色の大地の上をふっとゆらぐ、その程度ではあるが。
変化は、永遠に最底辺からあらゆるものを呪っていたいという厨2こじらせ的な願望のあるラズールにとっては歓迎すべきことではないものの、止めようがないものでもあった。
はじめのうちは意識して作っていた柔らかい表情も態度も、今や標準装備である。
「 ―― メイもはやく帰るんだよ。お父様が迎えにくるのかな? 」
「ぶっぶーはずれ。私が、父を工場まで迎えに行くのよ! 今日は母がお友達の家にお泊まりする予定ですから、私と父はふたりで、このあと一緒にお買い物して 『ランクス・アウラトゥス』 でお夕食」
「お父様がでれる顔が、目に浮かぶようだよ」
ルーナ・シー女史の謎の多い夫シドの、冷たく取り澄ました薄味の顔面が崩壊するのは、女史と娘のふたりに対してだけ ――
シドは妻一筋といえば聞こえはいいが、ようは常識人の皮をかぶったヤンデレ男。
彼の妻への執着ぶりはラズールには理解できないものであり、理解しなくても別に困らないものでもあった。
「ではシェーナ、僕たちもそろそろいこうか? 」
「はい、公爵」
肘を差し出せば、素直につかまってくる婚約者 (仮) 。だがなぜか、泣きそうな顔でうつむいている ――
メイになにか、吹き込まれたのだろうか。
「どうしたんだい、奥さん? 」
実の姪も同然の娘が、親友に対して悪気なく暴露しそうなことといえば……
ラズールが脳内で瞬時にアップしたリストは、思いがけないシェーナのひとことの前に霧散した。
「あの…… ラズールって呼んでも、いいですか? 」
なるほど、メイからは 『婚約したのに公爵と呼ぶのはヘンだ』 とでも言われたのだろう ―― と、あたりをつけるラズール。
彼の耳の底に、このときなぜか、遠い昔に婚約者だった王女が彼にかけたのろいがよみがえっていた。
『次にあなたを …… と呼ぶ人が現れたときには、あなたはきっと幸せになっているわ』
誇り高い声に隠されていた想いをはっきりと悟ったのは、ラズールを愛してくれていた娼婦と一緒に感情を葬り去ってしまったあとだった。
大切なものは必ず失われてしまう。つかの間の幸せに、喪失の痛みをかけるほどの価値などない ――
なのに、なぜ今さらあののろいを思い出さなくてはならないのだろうか。
(名前などただの記号なんだから好きにすればいい)
ラズールはなるべく優しく、シェーナの額にキスを贈る。
暫定の婚約だとはまだ、明かせない以上…… 彼女がラズールになんとか歩み寄ろうとしているその努力は讃えてみせたかった。
「…… ラズール」
「なんだい、シェーナ? 」
「呼んでみただけです」
「ほんとうにかわいいね、僕の奥さんは ―― 僕たちも、このままデートする? さもないと、アライダが鬼のダンスレッスンを用意して待っているよ」
侍女長のアライダによれば、貴婦人にダンスのレッスンは必須であるらしい。
難しすぎるとシェーナに訴えられたため、ここ最近はラズールも一緒にレッスンを受けるようにしていた。
一緒だと緊張するのか、よりギクシャクとしてしまうのがかわいらしいので、レッスンのときシェーナにささやく溺愛セリフは倍増、と彼は決めている。
そのせいか、以前よりもさらにレッスンに苦手感を示すようになってしまったこの婚約者 (仮) は、またしても思いがけない反応を見せた。
「それじゃ、帰らないと」
「へえ…… めずらしいね」
「だって公爵…… ラズールも一緒にレッスン受けてくださるんでしょう? だったらいいわ」
「では、喜んでお相手つかまつりますよ、お嬢さま」
「ありがとう」
この変わりよう ―― いったいシェーナになにを吹き込んだんだ、メイ。
ちらりと頭の隅を走り去っていった疑問はさておき、帰らなくてはレッスンに間に合わない。
普段どおり馬車に乗せるためにラズールがシェーナを横抱きにすると、なぜか彼女は闘志あふれる表情になった。
見ていて飽きないのはいいが、喜ばせてはあげられないのがやはり気にかかるところである。
一刻も早くシェーナに真の婚約者を見つけてあげねば、と心に決めつつも、とりあえず彼女をいたわりつつ本邸に戻った矢先。
執事のクライセンは、ラズールにこう告げた ――
「旦那様。ルーナ・シー女史がお会いになりたいそうですが、いかがいたしましょう? 」