4-2. 慣れてはいけない②
王宮へ向かう馬車の中で、ラズールはシェーナのことを考えていた。
シェーナが心の声を聞くことを知らないラズールにとっては、彼女は 『カンが鋭く他人のことをよく観察して』 おりかつ 『遠慮深い』 ―― 親切にしてもさほど喜ばないのはそのためだろう、と彼は推測している。
前者は (ラズールの得意分野ではないが) 好かれることが多そうだから良しとして、遠慮深い点だけはやはり、真の婚約者が見つかるまでには矯正しておきたい。
あれは一見、美点のようではあるが世の男性にはいくら性格が良くとも、女性に 「要らない」 と言われると 「あっそうなんだ」 と勘違いしてそのまま引く者が多数 ――
真面目に生きてきた男ほど、彼女らにも 『慎ましくてイイ子な私をもっと愛して♡ 欲しいって言わなくてもセンスが良くて愛が感じられるプレゼントをちょうだい♡ 』 という願望があることを知らないものである。
逆に知っている男は、ラズールのように広く女性と仲良しである場合が多いので話にならない。
(そうだな。普通はいくら慎ましくて自己評価が低くても、毎日毎晩ほめて甘やかして貢いであげれば…… まあ、1ヵ月もあれば落ち…… ではなく、遠慮を忘れてくれるものだが…… シェーナの場合は倍、見ておこうか。彼女はなかなか固そうだから)
その後、いくらほめて甘やかして貢いでも一向になびかない彼女にある意味振り回されまくることになるなど、このときの彼にはまだ予想もついていなかったのである。
さて、ラズールが王宮での用事を終えたところで国王につかまり 「どう新婚生活は? 」 などといじられそうになったので 「これからシェーナを迎えに行きますので失礼します」 と塩対応をしたところなぜか物凄く嬉しそうな顔でフレンドリーに 「行ってらっしゃい! 」 と見送られてアテルスシルヴァ侯爵家の別荘に向かった、その帰り道 ――
「あっ…… どうしよう」
馬車にゆられつつラズールが他愛もない話をしていると、シェーナが急に 『アライダが作ってくれた図書館のオススメ本リストを忘れてきた』 と言い出した。アライダがそんなものをたった一晩で作り上げたところに仕事への執念を感じてしまうが、問題はそこではない。
問題は、それまで黙っていた執事代行のマイヤーが急に 『だったら自分が引き返して取りに行く』 と提案してきたことである。
―― 彼を、逃げた妻への執着で勝手に行動しないように随行させたことが、かえって裏目に出てしまったようだ……
「マイヤーは、仕事が立て込んでいるだろう? ほかの者にするよ。ありがとう」
「…… かしこまりました」
さりげなさを装って返事をすれば、マイヤーは普段どおりにおとなしく引きさがる ――
だが、その暗い眼差しに一瞬、突き刺されたような気がしたのは …… おそらくラズールの気のせいではないだろう。
やはり、マイヤーは独特のカンでもって、なにか気づいているのだ。
(明日は…… 特に予定はないはずだが、マイヤーが動けない程度に仕事を与えて、そうだな…… シェーナにプレゼントを買う口実で街まで随行させれば…… 勝手に動く時間はなくなるはずだ)
その日の夕食の話題は、結婚式のことだった。
この婚約を結婚まで持ち越す気はラズールにはまったくなく、かったるいことこの上ないが…… 多少は準備などもしてみせて国王を安心させてあげなければいけない。
なお、こんなナメたことを考えてはいるが、ラズールには嘘をついているつもりはなかった。
資金を出し準備は進めておいて、シェーナに真の婚約者があらわれたときに準備ごと引き継げば、若いふたりにとってはちょっとしたプレゼントになるだろう ―― くらいに思っていたのである。
(まあ、出すもの出しとけば女の子は大体喜ぶだろう)
この心の声がシェーナをイラつかせているとは思いもよらない公爵閣下は、あくまでのんきに彼女に着せるドレスのことなどをしゃべりつつ、食事を進めた。
シェーナがそばで美味しそうに食べてくれる、それだけでも食欲はずいぶんと違う。きっと今日は料理長も、残されていない皿を見て喜ぶことだろう ―― だが慣れてはいけない、と彼は思った。
シェーナは、いつか手放して、幸せな花嫁にしてあげなければならないひとなのだから。
さて、食後のシェーナのエステと入浴が終われば、あとは寝るだけ ―― 男女間のソレな意味ではなくただ寝るだけ、という拷問が待ち受けている。
間違えてウッカリ手を出したとしても、それなりに満足してもらえる自信はあるものの、それではシェーナにも真の婚約者にも申し訳ない。ラズールに処女を仕込む趣味はない以上、その方面の楽しみは真の婚約者に譲るのがスジである ――
そんなわけで、彼は、今夜も扇情的ではまったくないのがかえって扇情的な夜着姿のシェーナの枕元に、左腕を提供することにした。
たとえ寝ぼけてウッカリしたとしても何もできないよう腕枕で片手を拘束しておこう、とそういう意図である。
この心の声を読んだシェーナはまたしても (失礼じゃない!? ) とイラついていたわけだが、公爵閣下はやはり、そんなことはもちろん御存知ない。
差し出した腕におずおずとシェーナの頭がのせられ、鳶色の髪の毛の先がラズールの頬をくすぐった。
―― 昨晩 『王太子とは手つなぎどまり』 と聞いたときには、それがいきなりこんなオッサンと男女間のソレに移行すればさぞ嫌だろう、と同情したものだが……
この感じだと毛虫のように嫌悪されているというわけではなさそうだ、とラズールは判断した。
それにしても人の温もりとは凶悪なものだ。腕にかかるかすかな重みとほどよい熱、それだけでも、昔の感情がよみがえりそうになる ――
『あんた腕枕してもらったことがないの? 』
彼女は笑って、裸の腕を少年に差し出した。
『おいでぼうや、よくおやすみ』
あのとき彼女の口から漏れていた、異国的な響きのメロディーが耳の奥にゆったりとこだまする。流浪の民の子守り歌は、優しく物悲しく彼を包んだ ――
「きゃああああっ! 」
翌朝ラズールは、シェーナの悲鳴と腕の上をごしごしとこすってくる布の感触で目を覚ました。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい! そんなつもりじゃなかったんです」
腕にべっとりとつくヨダレは、夜着の袖で拭いた程度ではなかなかとれないらしい。上の口が夜間これだけ潤おうならば、と条件反射的にわいて出た下品な思考を急いで打ち消し、ラズールはゆったりとほほえんでみせた。
「ああ、気にしないで奥さん。拭くなどもったない」
瞬間、頭に浮かぶ対応は2通り ――
1) 彼女のヨダレをじっくり味わう。
2) 初・同衾記念だとフォローする。
2だな、とラズールは判断した。1では彼女には刺激が強すぎるだろう。
「せっかく、奥さんが初めてつけてくれたヨダレだ。記念に洗わず永久保存するよう言っておくよ」
「それって、わたしのヨダレを公爵家の子孫代々に家宝として残す、っておっしゃってます? 」
「それはいい考えだね。ではさっそくそのように 「しなくていいです! 」
キレの良い返しに、ラズールの口元にはほほえみが浮かんでいる。相変わらず自らの感情は知覚できない彼は、おそらく今の己は楽しそうに見えるだろう、と他人事のように考えた。
「せっかくだから、きみのその夜着も揃えて初・同衾記念として家宝に 「もうアライダさん呼びますからね 」
呼び鈴の澄んだ音が終わるか終わらないかのうちに 「はい、ただいま! 」 と扉のすぐ外から侍女長の張り切った声がした。いつからそこにいたのかが気になるラズールである。
「失礼いたします、奥様、旦那様。おめざをお持ちしました ―― 本日は、メレンゲのクッキーとキウム産の紅茶でございます」
「美味しそう! ありがとうございます、アライダさん」
「侍女として当然でございます」
幸せそうなアライダを見るにつけ 『実はこの婚約は暫定』 とは言えない ――
やはり、せめて候補者が見つかるまでは黙っておこう、とラズールは決心し、メレンゲクッキーをひとつつまんだ。
「はい、シェーナ。あーん」
「いえいえいえ、自分で食べられますから! 」
「遠慮深いね、奥さん。いいじゃないか、昨夜はもっとすごいことをしているんだから…… 」
「………………! 」
ぐっとつまったあと、おとなしく口をあけるシェーナ。
ここで 『してない』 とツッコミを入れたら、アライダがクライセンを巻き込み 『旦那様・奥様の初夜を推進したい委員会』 を作ることは確実 ――
そこに思い当たったらしいあたり、シェーナは頭の回転は悪くないようだ。それに、短期間でアライダの性格をよくつかんだものである。
「はい、あーん…… 美味しいかい? 」
「…… は、はい…… あの、公爵は? 」
「僕はいいんだよ。きみが美味しそうに食べるのを見るのが、いちばんの御馳走。はい、あーん」
「なんだか申し訳ないような…… 」
「なら、きみも僕に食べさせてくれるかい? 」
「は、はあ…… あ、あーん? 」
甘くてサクサクしたクッキーは、口のなかに入れるとこうばしいアーモンドの香りを残して、すっと溶けていく。
『まるで幸せのようね』
―― 婚約解消が内定したころ。
この菓子を食べながら、リーゼロッテがぽつりとそう漏らしたことがあった。会ったことのない他国の王子のもとに、海をこえて嫁ぐのは気丈な彼女とはいえ不安だったのだろう。
そのくせ 『逃げようか』 と聞いた少年に彼女は 『豪華な衣装をまとった豚になるのはごめんよ』 と言い放ったのだ ――
「幸せだね、シェーナ」
「ひぇっ!? なんでここで心にもない、じゃなくて、なんでここでいきなり? …… んーあー、でも、そうですね、それっぽいかも。甘いけど、すぐに消えてなくなっちゃうところとか」
「消えたら、また次をあげるよ。はい、あーん」
「は、はあ…… あーん? 」
「ありがとう、シェーナ」
バカップルそのままにベッドで食べさせあいを繰り広げる彼らを離れたところから見守りつつ、満足げにうなずくアライダ。もし、シェーナがほかの男と結婚したら最も悲しむのはこの侍女長だろう。
「そうそう、アライダ。朝食時に、マイヤーとクライセンに来るように言っておいてくれたまえ。急ぎ頼みたい用事があるんだ」
「? マイヤーなら、朝早くに出かけましたが。なんでも奥様の忘れ物を取りに行くとか…… 」
「…… そうか。気が利くね…… 」
「ええ、真面目な人でございます。もう少し話しやすければ助かるのですけれど」
「まったくだ」
マイヤーはどこまで勘づいているのかが、ラズールは気になった。
マイヤーは以前、マクシーネをリーゼロッテづきの侍女にして逃がしたときにも、誰も彼には言わなかったはずなのに、いつの間にか侯爵家の周辺をうろついていたのだ ――
結局マイヤーがアライダ作成・図書館オススメ本リストを持って戻ってきたのは、朝食が終わったころだった。
「早かったね、マイヤー。どこにあった? ロティの馬車かな? 」
「…… いえ。別荘のほうに。ちょうどあちらでも、こちらに届けてくださる準備をしていたところでございました。どうぞ」
「ありがとう」
受け取ったリストにはびっしりと格調高い文学作品のタイトルと作者名、そして概要が書き込まれている。ぱらぱらとめくると、カードが1枚、ひらりとテーブルに落ちた。
そこにはリーゼロッテの文字で 『しっかり管理してよね』 とひとこと ―― 一見、忘れ物をしたのをなじっているかのようだが、おそらくは違う。
つまりはマクシーネが別荘を訪れたマイヤーを見たのだな、とラズールは了解した。
マイヤーとマクシーネが直接会ったのかはわからないが…… マクシーネはきっと、マイヤーを見掛けただけでも、おびえてしまったことだろう。
ラズールとてマイヤーをしっかり管理したいのはやまやまだが、一方では甘々なプレ新婚生活を送るべくアライダから監視されていて動きが制限されている。なかなか難しい問題だ。
ラズールは隣でお茶を飲んでいたシェーナにリストを渡した。
「はい、奥さん。リスト、見つかってよかったね」
「はい、ありがとうございます…… マイヤーさんも、ありがとうございます。置き忘れてきちゃって、ごめんなさい」
「いえ…… 仕事でございますから。奥様はお気になさいませんよう」
抑揚にとぼしい声で丁寧にお辞儀をするマイヤー。彼の態度から、なにかを読みとることは困難だ。
―― 娼婦だった母親が亡くなり、彼が公爵家に連れてこられたのは、ラズールが12歳のころ。そのころからマイヤーは常に目を伏せ、なにごとにも逆らわずに生きてきた。
使用人たちの噂話から彼が異母弟だということをラズールが知り、父親すなわち前公爵にマイヤーを認知するよう詰め寄ったとき ――
前公爵は、こう言い放った。
『娼婦の子が公爵家で使ってもらえるだけで有難いというものだろう。それ以上は何も望まぬな、と問うたらな、あれも、そのとおりと答えたぞ ―― なに、成人したら男爵位ていどはくれてやるさ』
そのころのラズールには、この異母弟のことを気にかけつつも、ある種の傲慢さをもって憐れんでいたところがあった。
だがそれから数年後に、ラズールが死ねない代わりに感情を手放したときから ――
ラズールにはマイヤーが、鏡に背中合わせに映る己自身のように思えてしまうのだ。
(もしなにかが少し違えば、自分は彼だったのではないだろうか)
この感覚は、マイヤーが妻となったマクシーネを殴っていることにラズールが気づいても、消えなかった。
マクシーネは当然、救済せねばならない。しかし ――
ラズールとて、自暴自棄になっていたときに差しのべられた腕に何も考えずに甘えた結果、誰よりも優しかった女性を死に追いやってしまった者だ。
命じたのはラズールの両親で、行ったのは代々続く忠実な執事のクライセンだが、誰よりも罪があるのは、間違っていたのは、ラズール自身だった。
マイヤーは正しくなかったが己にもまた彼を裁く資格などない、としかラズールには思えず ――
かくしてマイヤーはマクシーネから引き離されたあとも 『鉱山関係事務に優秀だから』 という理由でもって公爵家の使用人として残ることになったのである。
この措置は当時公爵家にいたメイドや侍女たちからは評判が悪く、アライダなどは特に怒りくるっていた。
―― だが、この世のどこに、人を裁けるほど正しい者がいるのだろうか?
「マイヤー、今日から当分、クライセンの代わりに僕についてくれるかな。クライセンは別の仕事が忙しくてね」
「かしこまりました」
「急に用事を頼むこともあるから、すまないが外出は控えてくれたまえ。頼んだよ」
「…… かしこまりました」
あとでアライダには極秘で事情を説明しよう、とラズールは考えた。アライダならば信用できるし、マイヤーの見張りとしてちょうど良い。
そのアライダはテキパキとシェーナの今日の予定を告げている。
「奥様は、昼食後に語学のレッスンがございます。お茶の時間のあとは夕食までダンス、夕食後はエステでしっかりと疲れをおとりくださいませ」
「ひええ…… 」
「アライダ…… いきなり厳しすぎないかい? 」
「いいえ、まだまだ、余裕でございますとも。昼食まではご自由にお過ごしくださいませ。温室や森をお散歩されてもけっこうですし、図書館へ行かれても」
「図書館! いきます! 」
シェーナの緑がかった茶色の瞳がキラキラと音がしそうなほどかがやいた。よほど、本に飢えているようだ。
「―― では僕も、図書館のほうで仕事をしようかな。一緒に行こうか、奥さん」
ラズールが抱き上げると、シェーナの全身が一瞬こわばって、それから手足がバタバタと動きだす。
「おっおろしてくださいっ」
「このていど、慣れたまえ。夫婦になるのだから。それとも、僕が抱っこできなくなるまで幸せ太りしてみるかい? 」
「なんでその二択しかないんですか、公爵」
シェーナと話しているとき、己の表情はどうやら楽しそうであるようだ、とラズールは思う。周囲の使用人のなんだか生温い目線からしてもそうなのだろう。
だが、その感情はわからな ――
息がしやすくなる。
暗い水面に浮かぶ泡のように、そのことばはとつぜん、ラズールの胸の中ではじけて、彼をおおった。
(ああ、そうなのか)
ラズールのなかに巣食う空虚に、彼女はやすやすと入り込む。
動くものひとつなかった死の世界に、風が吹く。過去と現在をかたく隔てていた壁が、蜃気楼ででもあるかのようにゆらぐ。
まるでずっと、ラズール自身がそれを望んでいたとでも、勘違いしてしまいそうなほどに。
(だが、ただの勘違いだ。僕はそんなことは望みはしない)
幸せになど、決して、慣れない。慣れては、いけない。
―― だがその後、約1ヶ月のあいだ毎日のようにハタ目には甘々な新婚バカップルとしか思えない生活が続いたため、ラズールはしばしばひそかに己を戒めねばならなかった。
そして、そんな婚約者の内心の声を聞き取ってはシェーナが落ち込んでいたのは…… 当然、ラズールにはまったくわからないことであった。