4-1. 慣れてはいけない①
ラズールはシェーナを寝かせると、そっと寝室をあとにした。
左右確認、よし。抜き足差し足忍び足。自邸にいながら気分は泥棒である。
―― 万が一にもアライダ・クライセン夫妻を起こしてはならない。見つかってしまえば、きっと彼らは結託して、手を出せない女性と同じ寝室にラズールを閉じ込めようとするだろうから。
そんなことになれば、彼にとっては正直いって拷問だ。
無事にエントランスホールを抜けて本邸の外に出ると、ラズールはほっと息をついた。
夜の静寂にラベンダーが色濃く香っている ―― ルーナ王国の、短く美しい夏。
シェーナは良い季節に生まれたのだな、と思いつつ、彼はゆったりした足取りで図書館に向かった。
図書館とはいっても、公爵家のそれは一般に公開しているものではない。
歴代の当主が広く書画を蒐集した結果、保管庫が大きくなったものである。貴重な文献や版画が多くほかの王族も閲覧にくるため、専任の係員がついて過ごしやすいように体裁が整えられ、図書館と呼ばれるようになったのだ。
だが、この時間には閉まっており係員もいないので、ラズールは2階にある自室のベランダの柵に縄をかけて登ることにしている。それ専用の縄の隠し場所は、彼しか知らない。
警備員に泥棒と間違われること数回、執事のクライセンにやめるよう忠告されることその倍 ―― わかったよ、とその都度は答えるが忘れたふりをしてまたやる。
ただ、間違ったあとで恐縮しまくる警備員はかわいそうなので 『泥棒の真似をする公爵を捕まえたら褒美に金貨10枚進呈』 ということにしておいた。他愛ない遊びではあるが、長い余生には刺激が必要なのだ。
エロ小説を書く理由のひとつは、それに似たものかもしれない。
警備員に見つかることなく図書館2階のプライベートルームに侵入したラズールは、まずコーヒーを淹れた。適当にたっぷりのミルクを注ぎ、砂糖を溶かす。
自らの感情を知覚できなくなって以来どういうわけか、ラズールは味覚もぼんやりとしてしまっている。
ものの味は一応わかるものの、美味い不味いという感覚がわからない、料理長泣かせの主人になっているのだ。
ではどうやって食事をこなすかといえば、誰かと一緒であれば相手の感覚に頼る。だから、自分が食べるより人に食べさせるほうが好きである (ただし相手が女性の場合に限る) 。
そして、ひとりのときは過去の記憶に頼る ――
甘いカフェオレの味は、子どものころに婚約者だった王女が教えてくれたものだ。
生ぬるい飲み物をゆっくりと喉にとおし、ラズールはしばし目を閉じた。
まろやかな口当たりにベッタリとした甘さとかすかな苦味 ――
彼女とともに国をより良い方向に導けると信じていたころの、傲慢な情熱。すべてを失ったと思っていたときに得た優しい慰めへの、昏い陶酔と耽溺。
それらが失くなることはなく燻り続けていると知るのは、この部屋にいるときだけ。原稿に向かい、文字を綴るときだけだ。
―― 情熱を捧げれば、いつのまにか燃え尽きて灰になる。
愛すれば、壊れて消え去る。
現実は、真実をぶつけるにはあまりにも、もろくて儚い…… だから。
真実は、虚構の中でしか語れない ――
記憶の中の彼女らを、彼は丹念に紙の上に綴っていく。
清らかな気高さと、包み込むような温もり。かわいらしいわがままさと、いじらしいまでの献身。誇りに満ちた眼差しと、淫らに誘う笑み。慈しみあふれる手と、柔らかく甘美な肢体。美しい話し方と、快楽に漏れる声……
泣きたくなるほどに愛していた。いつまでも愛していたかった。愛している、愛している、愛している、愛している、今もずっと ―― 虚構の中では。
扉をドンドンと叩く音にラズールが目覚めたときには、窓の外にはすでに日が高く登っていた。
「坊っちゃま! 坊っちゃま! 出てきてくださいませ! 」
なにやら怒り心頭に発しているらしい声は、侍女長のアライダだ。
どうしてこんなにすぐにバレたんだろう、と一瞬考えて、そういえばクライセンに 『図書館に行く』 と言ったな、とラズールは思い出した。
それに、ロープも片付けずベランダの柵にくくりっぱなしだ。
「坊っちゃま! おられないフリをなさっても無駄でございます! するすると首尾よくお運びになれなかったのはショックでいらっしゃいましょうが、 そ れ で も ! 初夜明けの奥様をひとりで放置なさるなど、 言 語 道 断 ! 」
なるほどいい具合に誤解してくれたものだ、とラズールは思った。
どうやらシェーナのほうも、『未遂どころかするつもりもなかった』 ことは上手くごまかしてくれたようだ。
きっとアライダの勢いにおそれをなしたのだろう。
「疲れているんだよ、アライダ。もうしばらく寝るから、あとでクライセンを寄越してくれ」
「…………。あの、坊っちゃま。初めての女性というのは、それはもう、デリケートなものでございますから…… いかに百戦錬磨の坊っちゃまといえど、期待されたようにはいかないことも、ございましょう」
「いや。シェーナは悪くない。僕ももうトシだからね」
「何をおっしゃいますか。まだまだこれからでございます」
「うん、慰めてくれて嬉しいよ。だが、やはり正式に結婚するまでは無理をしなくてもいいかと思う。これからは 「今夜からは奥様と朝までしっかりおやすみになってくださらなければ、こちらも業者を呼んで壁紙の貼りなおし作業をさせていただきますが? もうウン十年手入れしておりませんし」
「……………… わかったよ」
公爵家で最強なのは、間違いなく侍女長だと思うラズールであった。
アライダによると、シェーナは今朝は早々に、王太子の姉で現在はアテルスシルヴァ侯爵夫人であるリーゼロッテとともに、海の近くにある侯爵家の別荘のひとつに向かったという。
「ロティがシェーナと? ずいぶんと急だね」
「事情は極秘ということで、リーゼロッテ殿下からはお手紙を預かっております。軽食と一緒に置いておきますので…… 残さずお召し上がりくださいね」
「一緒に食べないかい、アライダ」
「そういったことは奥様におっしゃってくださいませ! では失礼いたします」
アライダの気配が遠のくのを待ち、ラズールは扉を開けた。
軽食は具の少ない薄いサンドウィッチ。そばに置いてある手紙を開けると、紙に並んでいたのはリーゼロッテ本人の華やかな文字だった。
侍女にも書かせないということは、よほどの内密事項なのだろう ――
『ノエミ王女を別荘でしばらく預かることになったわ。マクシーネも一緒よ。気をつけてね』
短いがたしかに、知られるとまずいことしかない内容である。
まず問題は、旧マキナ王家の血筋であるノエミ王女。彼女は他国の手に渡ってしまえば、その血筋を復権させるという大義名分による侵略戦争がマキナで起こりかねない。
―― そうすると、マキナに最も近い港を有するルーナ王国も巻き込まれてしまうだろう。ゆえにルーナ王国は、聖女から地位を剥奪し婚約破棄するという異例の暴挙に出てまでも、ノエミ王女と王太子の婚約をとりつけたのだ。
その問題の王女が、王宮から警備の手薄な侯爵家の別荘に移ったのは、間違いなく極秘事項に相当する。
そして次が、マクシーネ。彼女はもとは公爵家の侍女で、かつ執事代行のマイヤーの妻だった。
だがマイヤーがしばしばマクシーネを殴っていることに気づいたラズールは、彼らの間に介入せざるを得なかった。
暴力から逃れさせるためにマクシーネをマイヤーから引き離し、公爵家から身柄を移させてリーゼロッテの侍女にしたのだ。
そして今、ノエミ王女と王太子の婚約内定にともない、マクシーネはノエミ王女の侍女になっている――
こちらのほうの問題は、マイヤーがまだマクシーネに執着しているらしいことにあった。
王宮内ならば、いくら公爵家の使用人とはいえ、そうやすやすとは接近できない。だが、侯爵家の別荘ではそうはいかない。
リーゼロッテの 『気をつけてね』 は、マイヤーに知られないよう注意、という意味も含まれているのだろう。だが。
―― リーゼロッテがシェーナをなぜかノエミ王女に会わせるために連れにきた、その事実がすでにまずい。
マクシーネのことはもう、マイヤーに気づかれている可能性がある、とラズールは推測した。
異常な恋をする男のカンをナメてはいけないのである。
(マイヤーは当分、勝手な行動をしないように僕につけておくとして…… クライセンには、別の仕事を頼むか )
サンドウィッチがようよう片付くころ、クライセンがやってきて、扉の外から遠慮がちに声をかけてきた。
打ち合わせをするため場所を食事用の明るいサンルームに移したところで、忠実な執事は改めていたましげな表情をつくり主人の足元に目を落とす。
「旦那様…… 初めての女性とは、そうしたこともございますので…… どうか、お気に病まれませんよう」
「きみもか、クライセン ―― 僕が彼女に手を出そうとしたと? 」
「いいえ、正直なところ、まったく。今のはアライダに頼まれたぶんでございます」
手際よく淹れた甘めのカフェオレが、ラズールの前に置かれた。これも、なにやら激しく勘違いしているアライダがクライセンに頼んだことである。
「―― 奥様は旦那様お好みの、遊び慣れて反応が楽しくてある程度甘やかしてくれるこなれた女性とは正反対でございますから」
「のぞいていたのか、クライセン」
「その程度のことは。旦那様の執事でございますから…… それで、今後しばらくの私めの仕事は、そうしたご婦人がたに花束のひとつも持っていって叱られてくることでございますね」
「理解の早い執事で助かるよ」
急に婚約をしたために、これからしばらくは、そうした女性たちに招待されたお茶会や夜会をすべてキャンセルしなければならないのだ。
そして、ラズールの余暇のスケジュールはそうしたお誘いばかりで埋まっていた。
それらをラズール自身が直接断りにいけば、より面倒な事態が起こりかねない ―― したがってこの辺のことは、重労働で申し訳なくとも執事に任せるよりほか、ないのである。
淹れてもらったカフェオレをひとくち含み、自分で淹れたものより温かい、とラズールは思った。
クライセンは、ものの味に無頓着な主人がいくら適当でいいと言ってもかまわず、カップとミルクをきちんと温めて丁寧に飲み物を作るのだ。
「それで 「はい。こちらが、奥様の婚約者候補の方々のリストでございます」
「ありがとう…… 仕事が速いね、クライセン」
「それほどでも。そちらに関しては、あまり期待されないでくださいませ。おそらくはお気に召さないかと」
クライセンから受け取ったたいして厚みのない紙の束をパラパラとめくり、ラズールはわずかに眉をひそめた。
「ヴェンデ伯爵令息とカウニッツ子爵は、ワイズデフリンの知り合いだ。除外」
「ワイズデフリン夫人とは、旦那様もかなり親しいではありませんか」
「だからさ。彼女の知り合いはいくら品行方正に見えてもみんなクズなんだよ、クライセン。カウニッツ子爵など、みたまえ。劇場の踊り子を妊娠させて堕胎させ、2度と子どもの生めない身体にしたうえに、都合が良いから愛人になれと持ちかけた。腹を立てた彼女は劇場を飛び出して娼婦をやりながら彼の悪口をばらまいているよ。知らないかい? 」
「さすがにそこまでは、存じ上げませんでした」
「そうか…… ディアルガは…… うん、まぁ…… 若くして騎士団長になった男だし、悪くはないが…… 性格に難ありでシェーナの婚約者にふさわしくはないな。それに彼は胸と尻が大きい女性が好きだ」
「よく御存知で」
「胸と尻しか見てもらえなくて腹を立てた彼女らが、彼をフったうえに意趣返しで僕と一緒にいるところを彼に見せつけようとするのさ。おかげで僕はディアルガからずいぶん嫌われているよ」
「それは…… よくありませんな」
「そうだろう? …… すまないが、クライセン。もう少し探してみてくれたまえ」
見終わったリストを執事に返し、ラズールはもう一度カップに口をつける。カフェオレはまだ温かい。
「きちんとシェーナを愛してくれそうなまともな男だ。年齢が釣り合って、そこそこ金持ちなら貴族でなくてもかまわない。身分より性格だ。あとは女性の夢を壊さない程度の容姿…… はあったほうがいいが、その他の条件が良ければとりあえず候補に入れておいてくれたまえ」
「アテルスシルヴァ侯爵のご子息、エデルフリート様は」
「彼はとんでもなく良いが、非公式ながらメイの婚約者だよ。まずすぎる」
メイ、本名はメイユ・リーゼロッテ・クローディス。ラズールの友人ルーナ・シー女史の娘でかつ伯爵令嬢、しかもシェーナの親友である。
ルーナ・シー女史はエキセントリックな性格の大衆小説家だが、その実は伯爵夫人なのだ。そしてリーゼロッテ、つまりはアテルスシルヴァ侯爵夫人とも仲が良い。
当然ながら、その息子と娘は幼馴染みで 『本人たちさえ良かったら将来は…… ねえ? うふふ♡ 』 と母親同士が画策している仲なのである。
エデルとメイの婚約がまだ正式に決まっていないのは、ひとえに母親たちが 『本人たちの意志が最重要』 と明言しているせいにすぎない。彼女らは、政略婚が常識であるルーナ王国の貴族のなかではかなり変わり者なのだ。
―― そんなところに縁談など、差し込めるわけがない。
「しかも…… どうも、国王が僕をシェーナに押しつけようとした理由が、どうやら彼女らの推薦らしくて、だね…… 」
「ははあ、なるほど…… それはいけませんな」
「だろう? 」
「かしこまりました。ほかをあたってみることにいたします」
「頼む…… では、ちょっと仕事に行ってくるよ。マイヤーは? きみは忙しくなるだろうから、これからしばらくは彼に随行してもらおうと思っているのだが」
「マイヤーに伝えます。ですが…… 」
とんでもなくハードルの高い主人の要求にも顔色ひとつ変えない優秀な執事は、だが、ラズールが 『仕事』 と言ったとたんに怪訝そうな表情になった。
「軍の仕事はたしか、結婚式が終わるまで国王陛下から禁止されておいででしたのでは? 」
「あのような戯れ言をいちいち真に受けていたら、休暇明けは書類に埋もれることになってしまうよ―― ちょっと行って、毎日報告を送ってもらえるよう頼んでおかなければ。ついでに帰りに、シェーナを迎えに行くことにしよう」
「それはまことに結構なことでございます。奥様も喜ばれるでしょう」
「そうでもないかな。だが、礼儀は尽くさなければね」
それで喜んでくれるようなひとなら簡単だったんだが、とは思っても、言わない。
ラズールは薄い書類の束を執事に押しつけ、立ち上がった。