2. 喜ばせられない
聖女シェーナ・ヴォロフはもとは平民だった。
だが、その手にあった月と星のあざが正真正銘の聖女の証と認定されたために父親に男爵位と宮廷役人の職が与えられ、貴族の一員となったのである。
―― ということは、晴れて聖女を解任されて乾杯するにふさわしいのは、オシャレな宮廷料理の店ではなく、ざっくばらんな家庭料理 ……
神殿を出てすぐラズールは、影のように付き従っていたマイヤーに店を予約するように頼んだ。
マイヤーは本来ならラズールの異母弟にあたるが、父親である前公爵が彼を認知しなかったために使用人として育ち、現在は執事代行の立場にある男である。
ラズールが爵位をついだときには結婚する予定もできる望みもすでになかったため、マイヤーに養子になりゆくゆくは跡をつぐよう勧めたこともあった。しかしマイヤーは 『自分には公爵は向かない』 と遠慮して、いまだに使用人をやっている。無口だが真面目な働き者なのだ。
「あまりうるさくない端のほうの、窓際の席で予約してくれたまえ。頼んだよ」
「 ……………… 」
無言でうなずき去っていくマイヤーの背を見送り、ラズールはシェーナの耳に口を寄せた。
「それではデートに行こうか、お嬢さん? 街歩きなど、いかがですか? 」
「え。いきなりですか? たしかにデートしたいって言ったの、わたしですけど」
きょとんとするシェーナ。かわいい。
「大切な奥さんのお願いをかなえるのに、なにか問題でもある? 」
「いえ…… ありがとうございます」
「では、いこうか」
シェーナの緊張をほぐすように話しながら、歩調を合わせてゆっくりと歩く。
中央神殿は王宮の敷地内であり、城門に出るには噴水の広場を抜けなければならない。意外にもここでさっそく、シェーナは喜んだ。
これまで忙しすぎて王宮の敷地を散歩したことがなかったのだそうだ。
目を輝かせて庭園を眺めるシェーナの表情をラズールは観察し、彼女が興味をひかれていることについて、話題を提供する。
気を遣って彼女に合わせているわけではない。少なくともそうしている間は、無味乾燥な己の心情を忘れていられるからだ。その上で相手が楽しんでくれれば、ラズールにとってはいくばくかの感情的なエサをもらったも同然なのである。
―― ちなみに、ラズールは人類全般が、そういった意味で好きであった。
相手が誰でありどんな目に遭わされたとしても、ひとり胸中砂漠と向き合わざるを得ないときの、この世から消え去ってしまいたくなる気分よりは大いにマシだからだ。
好きなものはできうる限り大切にするのが、あたりまえ (エサがもらえればなお良し)。
そんなわけで、ラズールは男性に対して少し自粛する以外は誰にでも見境なく親切を垂れ流してしまっているのであるが、ともかくも。
―― この時点で、表情や動作から感情の動きがわかりやすいシェーナは、ラズールにとってはなかなか悪くないエサ係だったのである。
城門を出てすぐ、左右に王室御用達の有名店が立ち並ぶ大通りに入ると、シェーナの表情はますます豊かになった。
その目は休む暇もなく次々と見るものを探し、口も嬉そうによく動く。
「うわぁ。こうして大通りを歩いてみると、馬車からの眺めとはまた違って、楽しいですね。あのショーウィンドウのドレスの赤、きれい」
「ではあの店に行こうか」
双子の姉妹が経営する高級ドレス店 『イリス&ヴェーナ』 はラズールにとってもなじみの店である。だがシェーナには、そうではなかったようだ。
「いえいいですよ。なんかいかにも一見さんお断りみたいな感じで、引け目が半端ないので」
「心配しないで。店長とは顔見知りだよ。たしか、若いお嬢さん向けのドレスも揃えていたはずだ」
「…… ああ。ですよね」
納得顔でうなずくので、では店に入る気になったのかと思ったラズールだったが、次の瞬間、シェーナはやたらとキリッと表情をひきしめ、姿勢を正した。なぜだか戦闘態勢である。
―― 実はこのとき彼女は 『ヤツは女性のドレス選びにも慣れた歴戦の猛者……! 油断するな、わたし。喰われるまえに喰うべし! 』 と己にはっぱをかけていたのだが、もちろんラズールにはそんなことはわからない。
「いえ。お高そうですし、今日は持ち合わせもないのでいいです」
「そんなこと。僕が、奥さんに支払いをさせたりすると思うかい? 」
「………… いいえ。けど、まだ奥さんじゃないですし、買っていただくと、なんだか申し訳ないので」
「そう? では、また今度にしようか。少し残念だが」
イヤと言われれば引き、なんら感情は動かないがとりあえず 『残念』 と言っておく。
それがラズールが女性と付き合う際のスタイルであった ―― が、それにしても。
ドレスを買う程度で断られたのは、初めてであった。
たしかにドレスは高価なものではあるが、出費したところで懐は蚊に刺されたほどにも痛まない。公爵家は金持ちなのである。
―― かつて領地であったムルトフレートゥム地方の金鉱の権利は、絶対王政になった現在でも公爵家が所有。鉱山を経営するかたわらで多数の事業に出資し、その利回りだけで使用人をじゅうぶんに養える。
ラズールが海軍大佐としてもらっている給料は全額小遣いとして使えるだけでなく、もしそのつもりなら店の1つ2つ権利ごと買い取る程度は朝飯前 ――
こうした公爵家の金銭事情を、ラズールがこれまで付き合ってきた女性たちは当然のごとく察知していた。
彼女らにとってはドレスや装飾品は、ねだるもの。ラズールにとっては買い与え着せて脱がしてまた着せるまでの過程と彼女らの反応を味わい、胸中砂漠を束の間、わずかに癒すものだったわけである。
だから、なぜシェーナがこれほどにドレスを遠慮するのか、ラズールにはわからなかった。いったい何が気に入らなかったのだろうか。
(もしかして、かなり昔に流れた公爵家困窮の噂を信じているのかな。それとも、金持ちアピールがウザかったのか…… いやアピールしたつもりはないのだが、聞きようによってはアピールととれないこともなかったかもしれないね)
ラズールは反省した。
なにしろ、これから当分、代わりの婚約者が見つかるまではラズールはシェーナとしか付き合えないのである。
シェーナに喜んで心地よくすごしてもらわなければ、ラズールが味わえる感情はしょっぱいものや苦いものだけになってしまう……
それはそれでオツなものではあろうが、感情的甘党モンスターの彼にとっては、それしかないというのは大問題だ。
―― ドレスがダメならば、宝石類ではどうか、いやこの慎ましやかさならばリボン程度から始めたほうがいいのか、それとも……
ラズールが脳内地図で目まぐるしく候補の店を検索していると、シェーナは突然 『やっぱりドレスがほしい』 と慌てたように言い出した。
気まぐれなどではないことは、申し訳なさの漂う表情を見れば一目瞭然。むしろ、ラズールが反省していたのを見てとったかのようである。
実際にはその能力で心の声を聞きとった、というのが正しいところだが、それを知らないラズールは 『こちらのことをよく見ている子なのだな』 と、シェーナのことを解釈した。
―― 実はこういう人間は、ラズールの苦手なタイプである。
彼の人間関係の作り方は 『親切』 一辺倒であるわけだが、そこには 『親切にすれば相手の喜びの感情を一時的に味わえる』 という打算が含まれている。なので不要な親切はバッサリ断ってくれたほうが都合が良いのだ。
いや、断れなくても 『このヤロー要らんものくれやがって! 』 的な憎しみや怒りがあるのなら、まだ味わいようがある。
だが、この 『遠慮と申し訳なさ』 という心境はかなり薄味で、彼の感情的飢餓症状を抑えるにはイマイチ役に立たぬのだ。
―― まあ、苦手なタイプとはいっても、エロ小説家でもある彼は 『これもネタの1つ。いつか使える』 と処理することにしているわけではあるが。
たとえば過度に遠慮深いヒロインを甘やかしまくり舐めるように愛でつくして己の前でだけは大胆になるよう育て上げる話を書くときとか。
シェーナはさっきドレスを断った理由を、さらに申し訳なさそうに言い訳しだした。
「その、端から端まで全部、とかそういうことされたら困るな、って思っただけなんで」
「してもいいよ? 」
「それだけはまじに遠慮させてください」
やはり金持ちアピールがイヤだったのだな、と解釈したラズールはシェーナに 「普通にオーダーすることにしよう」 と提案。やたらと仰々しく礼を言う彼女を見て、ふたたび内心で首をかしげた。
やはり、シェーナはあまり喜んでいないようだ。
(―― ああそうか、やはり聖女を罷免されたことがショックだったかな。かわいそうに)
あのときは気丈に王太子をロ◯コンに仕立てあげて笑い飛ばしたとはいえ、シェーナはまだ18歳の乙女。みんなの前で婚約破棄を宣言されて、傷ついていないわけがないだろう。
慰めようとラズールは彼女の肩を抱き寄せた…… と、その背中がかすかにこわばる。どうやら緊張しているらしい。
だが、これくらいは慣れてほしいのでそのままにしておくラズールである。
―― だって、これからしばらくはシェーナ以外の女性にはさわれないのだから…… 肩くらいは許してほしいところなのだ。
店に入り、ドレスをオーダーメイドで数種類、さらに公爵家でのこれからの生活に要りそうな簡易着などをざっくりと注文すると 『それ棚買いよりもお金かかるパターン』 と、シェーナはまたしても遠慮しはじめた。
彼女の主張では 『そんなお金があるなら貧民街への支援にまわすべき』 であるらしい。
シェーナは、もとは隣国フェニカの神職系貴族の血筋とはいえ、生まれも育ちも貧民街。育った場所に対する思い入れは、ひとしおなのだろう。
だが 『貧民街には毎月寄付をしている』 と説明しても納得しかねているらしいシェーナが、ラズールには気の毒に思えた。
きれいに手入れされた庭園も美しいドレスも大好きな普通の女の子なのに、自分のために生きることを知らない ――
お金がないところから搾り取っているのではなく、あるところから出しているだけなのだから、自分にもその程度の価値はあると信じたっていいのに。
聖女の色である白よりももっと、似合う色があるのを知って、うんとおしゃれすればいいのに。
「―― そうそう、来客用のアフタヌーンドレスもいるね。オーダーメイドでもいいが、そこのトルソーが着ているものがシェーナに似合いそうだ。髪や目に合わせるなら、黄系色が入ったものがいいね。オーナー、何点か、試着させてもらっていいかな? 」
「かしこまりました」
「もうこれで、じゅうぶんですからね、公爵! 」
「わかったよ。では、それだけ頼む…… ついでに、公爵ではなく名前で呼んでくれてもいいんだよ、奥さん? 」
「そ、それは…… もう少し待ってください」
「そうかい? 残念だ」
試着と採寸のために別室に案内されるシェーナに手を振ってみせるラズールの耳の奥に、はるか昔にきいた誇り高い少女の声が、ふいに響いた。
―― いいこと? あなたのことを …… と呼ぶのは、今日でおしまい。だってもう、お互いに特別じゃなくなるんだもの。明日からは皆と同じに、ラズールと呼ぶわ。でも次にあなたを …… と呼ぶひとが現れたときには、あなたはどうしたって絶対に幸せになっているんだから。
それは、彼女が生命をも削って彼にかけたのろいの2つめ。
( ………… )
彼もまた、遠い記憶の中に沈んだ名で彼女に呼びかける。
―― たしかにそのとおりだったこともあるが、僕はもう、幸せにはならないと決めたんだよ。
シェーナが採寸と試着を終えたあとは、オーナーとの面談が待っていた。
徹底的にシェーナの好みに合うドレスを作るとオーナーが張り切ったためもあって相談はそれなりに時間がかかり、店を出るころにはもう、夕日が道の上に長い影を作っていた。
カフェに行こうかとシェーナに提案したが断られたので、そのまま連れだってマイヤーに予約しておいてもらった家庭料理の店に向かう。
平民の労働者が仕事帰りに寄っていくような、気軽で料理の美味い店はシェーナの気に入ったようで、今日1日でいちばんくつろいだ顔をラズールに見せてくれた。
ラズールの冗談にしっかりツッコミを入れながら笑うシェーナは、昼のパーティーのときよりもかわいく見える。
そういえばこうした 『デート』 なるものはほかの女性とはあまりしたことがなかったな、と気づいたラズールは、一瞬、これが執筆中のエロ小説のネタに使えるかを考えた。
―― この小説のヒロインとヒーローは小道具を変え体位を変えヤりまくってばかりいるが、たまには前座でデートを入れるのも新鮮かもしれない。
食事のあと、馬車の広場までの道を散歩するようにゆっくりと歩く。その間も、おしゃべりはやむことがない。
シェーナの好奇心は道端の小さな雑草にまで及ぶ。
『昔はいつもお腹がすいていたから、よく友だちと食べられるかどうか試しては親に叱られた』 などと言い出したときには、どうコメントしようか戸惑ってしまった ――
こうした己の思考の動きは、ラズールとしてはめずらしく、面白くさえあった。
さてこうして、おしゃべりしながら歩くかたわら、頭の片隅で小説のヒロイン・ヒーローのデートシーンを練っていたラズールであるが……
こちらのほうはどうにも、最初に考えていたほどには面白くなる気配がしない。
おそらくはシチュエーションとしてあまりに一般的すぎることが原因だろう、とラズールは考えを打ちきった。
使えなくても、たいしたことはない。そもそも、さほど期待しているわけではなかったし。
―― エロ小説においては前座はもちろん大切であるが、本番と比べると重要度は添え物のパセリ並み……
特に現在ラズールが執筆中の 『ネーニア・リィラティヌス』 シリーズにおいては、ヒロイン・ヒーローの関係はもはや揺るぎないものになっているし固定客はついているしで、いきなりメインディッシュをどかんと客の目の前に出しても喜ばれる予感しかしない。
なので、前座のパセリ度はよけいに上がるのである。
―― といったことを考えつつ、馬車に乗り込む直前。
シェーナに 「 (一般的な基準と照合すればおそらく) 楽しかったよ」 と挨拶をしたラズールは、本日何度目かになるがまたしても、内心で首をかしげることとなった。
「こちらこそ、ありがとうございます。楽しかったです」
お行儀よくこう返しながらもシェーナが、緑がかった茶色の瞳を怒りに燃やしているように見えたからである。
もしかして、おしゃべりをしながら脳内の1割程度でほかのことを考えていたのがバレたのだろうか ―― そう気づいたラズールであったが、実情は少し違う。
その脳内の1割のさらに1割程度がシェーナに読まれた結果 『このひと、わたしとのデートをパセリって言ったわ! 』 といった類いの誤解をされてしまっていたのだ。
(ちなみに脳内の1割程度を小説のために提供するのは、彼の感覚ではしかたのないこと ―― 提供したくて提供しているのではなく、何をしているときでもネタさえあれば脳が突発的に勝手に考え出すのである。病気みたいなものだから許してほしい)
そして。
「失礼するよ。馬車のステップが高いからね。小柄な人は乗りにくい」
「…… ありがとうございます」
「どういたしまして」
馬車に乗るためにシェーナを横抱きにしたラズールは、彼女のこわばった目つきに本日何度目か+1でさらに、内心で首をかしげることとなった。
(たいていの女性はもっと、喜ぶはずなんだが…… )
この心の声もまた、シェーナに聞き取られて 『喜んでみせたほうがかわいいのかもしれないけど、全っ然、そんな気になれないわぁぁあ! 』 と内心で荒ぶられていたとは、やはりまったく気づいていないラズール。
『彼女の遠慮深さと、まだ緊張がとれていないせいで態度が固くなるのだろう』 と彼は判断したのであった。
―― 喜ばせにくい相手ではあるが世話をするのはどのみち、真の婚約者が彼女に見つかるまでの間 ――
溺愛しておけばなんとかなるさ、とのんきにかまえる公爵閣下と、心の声が聞こえるせいですっかり彼に敵意をもってしまったもと聖女。
彼らの前途は、まだまだわけがわからなかった。