15-3. 愛さずにはいられない③~エピローグ
“ ―― 不思議なことにこの会話は艦の誰も聞いていないし、きみがあとでマイヤーに尋ねても、彼はなんのことかわからない、と言うだろう。彼はムルトフレートゥムに着いたころには、なぜかすっかり忘れていたからね。
だが、僕は覚えている。
僕の心の片隅には決して癒えてはならない傷がある。
それは国と民とのために生きることを誇りとした少女であり、満たされない者に分け与えることを知っていた娼婦であり、どうあがいても上手く生きられることのなかった、すべての者であって…… どんなときにも、忘れることはできない。
申し訳ないが、きみといるときにもだよ、シェーナ。
しかし、きみに甘えているから書くと、きっときみは許してくれるだろうと思っている。
もし許してくれるならば、きみだけで心をいっぱいにできなくて済まないが…… それでも、きみの幸せを一番に考えるよ。
そのついでに僕も少しばかり幸せなるかもしれない。だがこれは別に、きみのためというわけではないからね。気にしないでいてくれたまえ ―― ”
寝室の片隅を照らす魔法の灯が、魔力切れを起こしてちかちかと瞬く。
ふかふかの羽布団の上にお行儀悪く寝っ転がり胸に紙の束を抱きしめて、シェーナは泣いていた
――
ラズールがマイヤーを牢獄まで出迎えに行ってそのままムルトフレートゥムの金鉱に送り、公爵邸に戻ってくるまでの10日間。
さほど期待もしていなかったが、シェーナはラズールから音信のひとつも、もらっていなかった。
そのうえ、彼は帰るなり 『〆切があるのでね。済まないがひとりで寝てくれたまえ』 と言い訳し、夕食後すぐに図書館の自室に閉じ込もってしまったのだ。
こうなると、ラズールが当分出てこないことをすでに知っているシェーナ。
「わたしとマイヤーさん。わたしとお仕事 (エロ小説) 。どっちがだいじなの、なんて…… いえないですよねえ」
「いいえ、奥様にはじゅうぶんその権利がおありですとも! 」
アライダにグチを漏らしつつテキトーにエステと入浴と着替えを済ませ、ひとりベッドにぼすんとダイブしたところで ――
シェーナは枕元に、分厚い紙の束を発見したのである。
手にとってめくってみると、1枚目にラズールの字で 『真実を、愛するきみへ』 とあったからピンときた。
―― おそらく今夜の図書館宿泊は、照れ隠しの敵前逃亡…… いや、別にシェーナが敵というわけではないのだけれど。
これは読むしかない、というわけで、繊細すぎてやや読みにくい文字が連なる手紙 (?) を 『わあユーベル先生の直筆原稿だあ。すごーい (棒読み) 』 と考えるようにしつつ、たどっていき ……
いつのまにか、泣かされていた。
―― 女神から授かったとされる能力で、シェーナにはラズールの心の声が聞こえていた。
それはいつも、現実に口に出して言ってくれている溺愛ゼリフに反してしょっぱめなことが多く、シェーナは愛されていないと感じては落ち込んでいたものだ。
最終的には 『どうやら愛されていないわけではないようだけど、まあともかく公爵はこういう人よね。パセリと思っとけば…… いないよりものすごくマシじゃない? よし、パセリだパセリ! 人生には添え物も必要なのよ、うん』 というあたりで納得していたのだが……
この分厚い手紙 (?) には、シェーナと出会う以前からこれまでのラズールのことが物語ふうに綴られていた。
それは、パセリと片付けるのには重すぎるシェーナへの愛と、どう聞いても腹立てるしかなかった彼の心の声の裏にあった、ひねたパセリくらいに苦い人生をじゅうぶんに味わわせてくれるものであり ――
もう読んじゃったらシェーナとしては泣くしかないし、ラズールが照れまくってひとり籠城を図る気持ちも不本意ながらわかってしまった。
シェーナは泣きながら手紙 (?) を読み返し、読み返してまた泣き ―― 泣きながら眠ってしまっていた。
翌朝、目覚めたとき、まずシェーナの目にとびこんできたのは、瑠璃と琥珀のきれいなオッド・アイだった。ラズールによだれがついた寝顔をじっくり鑑賞されていたのである。
「奥さん、おはよう。昨夜はすまなかったね。少々、急ぎの仕事で」
「あれ、公爵? 敵前逃亡…… じゃなくて、〆切は? もういいんですか? 」
「大丈夫。シー先生の新しいお色気ものに推薦文を書くだけだからね」
「シー先生のお色気もの、出版されることになったんですね!? 」
「そう。チラリズムとフェチが主体で本番がないのにとんでもなくエロいというのが、彼女のお色気小説の特長でね…… ジグムントさんなんて僕のを読むより興奮しているよ、いつも」
「へえ…… 」
「だが、僕には生身のきみのほうが興奮するからね。安心して、シェーナ」
「わたしがいくら嫉妬深いからって、シー先生の小説のヒロインにまで…… んっ 「これが10日前のぶん」
「ちょっと公爵。朝からなに 「9日前」
「あの、それより、このお手紙のことですけど…… 」
「ああそれなら、きみに会えないあいだ、ずっときみのことを考えていたら、いつのまにか書けていた」
ラズールはシェーナを膝の間にすっぽりおさめ、うなじに唇を押しつけて 「8日前のぶん」 ともごもご言っている。くすぐったくてシェーナは思わず身をよじった。
「内容的にかなり事実も混ぜこんでいて、名前を変えても身元特定できてしまいそうだから、公表はできないかな。きみだけのための物語だよ、シェーナ」
「ということは、やっぱり、おおむねはうそ…… 」
「さあね? …… 7日前」
うそとも本当ともつかないラズールの返答に苛立ったシェーナは、集中して彼の心の声を聞き…… その結果、真っ赤になって彼の胸に顔を押しつけるしかなかった。
なんとなればラズールの心の声は、このあと6日前から前日まで徐々に愛撫を激しくしていき今朝に達したところで本番スタートという、エロい計画でいっぱいだったからである。
(もう、嘘はきらいって言ってあるのに、もう……! )
昨晩シェーナが手紙を読みつつ、本当はとても愛されていたのだと思って泣いてしまったアレも、もしかしたらラズールなりのサービス精神でしかないのかもしれない……
そう考えてしょっぱい気持ちになってしまっていたシェーナの耳の上辺を、ラズールの唇がやわらかく噛んだ。
そのまま、聞こえるか聞こえないかの速さでささやく。
「だが、虚構が真実でないなんて誰が決められるんだい? 」
「えっ、いまなんて? 」
「きみは誰よりもかわいいよ、シェーナ…… 6日前」
シェーナの手がとらえられ、指先の1本1本にキスが落とされる。
「あの、もっとハッキリ言ってくださってもいいんですけど、公爵? 」
「そうだね…… とりあえず今は、とんでもなくきみがほしい」
「はっきりしすぎ! 」
シェーナは赤い顔のまま、ラズールの首に腕を回して唇に素早くキスした。
そのまま逃げようとしたが抱きしめられて逃亡かなわず、もっとすごいことをされてしまったのは、言うまでもない。
そして7月、結婚式の日がやってきた ――
ルーナ王国の結婚式では多くの場合、新郎新婦ともにそれぞれの家で支度を済ませてユーノー神殿で落ち合うか、花婿が花嫁を家まで迎えに行くか、どちらかの形式をとる。ラズールとシェーナは後者だ。
これはシェーナの父ヴォロフ男爵の希望によるものであるが、経済効果をあてこんでパレードの距離を長くしたためでもある。公爵の結婚というと、もはや国家レベルの祝い事だからだ。
おかげでパレードのルート ―― ヴォロフ男爵家の門すぐ外からユーノー神殿までと、ユーノー神殿から王宮前広場までの道端には早や露店が並び、人々がお祭り気分を楽しんでいた。
―― が、ヴォロフ男爵父娘はそうしたところは意に介していないようだった。
というのも、ラズールが屋敷に到着したちょうどそのとき、 「シェーナぁぁっ……! 」 というヴォロフ男爵の怒鳴り声が聞こえてきたからだ。
この声の大きさといい、劇場で親子漫才を披露するには、やはりぴったり ―― などとひそかに思いつつも、とりあえず急いで屋敷の中に入るラズール。
「坊っちゃま! 奥様は、こちらでございます! 」
「ありがとう、アライダ」
「お早く! 行ってさしあげてくださいませ! お時間がきてしまいますから! 」
シェーナの身支度をするため、アライダは前日からメイドたちとともにヴォロフ男爵邸に泊まっていた。
彼女がすぐにやってきたということは、おそらくシェーナの身支度は済んでいるはずだが ―― この焦りようはもしかしたら、シェーナの身になにか起こったのかもしれない。
そう考えたラズールは、ほとんど走るようにしてアライダが示した方向に飛び込んだ。
「シェーナがどうされましたか、お義父上」
問いかけて、すぐに気づく。
たしかに、このときを逃してしまえば今日のシェーナのドレス姿をじっくり堪能できるのは、帰宅後になってしまうわけで ―― だからアライダは、ラズールを急がせたのだ。
(先ほどのヴォロフ男爵の悲鳴はおそらく、楽しく親子喧嘩でもしていたのだろう)
「ああ、シェーナ。とても美しいね、僕の花嫁さんは」
瞬間的に 『脱がせがいがある』 と思ってしまったことは伏せてラズールがほめると、シェーナは背後に飾ってある肖像画の女性とそっくりの目元を、晴れやかにほほえませた。
「公爵も、素敵ですよ。 …… それに、母の作った飾りボタンを使ってくれて、ありがとうございます」
「こちらこそ、大切な形見を使わせてくれてありがとう。シェーナの髪飾りとお揃いで嬉しい」
「…… わたしもです」
シェーナの髪とラズールの礼装の袖口には、シェーナの亡くなった母ニモラが作った木彫りの薔薇が飾られている。
ニモラは生前、木彫りを趣味としていた。聖女として暮らしていた神殿を引き払うときシェーナが身につけていたのも、母が作った精緻な薔薇のブローチだったのだ。
高価な宝石ではなく、母の形見である木彫りの装身具を結婚式で身につけたいとシェーナから相談されたラズールは、その細工の見事さに改めて目を見張った。
聞けば、貧民街では手先の器用な者たちが手に入れやすい木片に細工をほどこすのを趣味にしているのだという。
これは使わない手はない ―― そう考えたラズールはシェーナに高級ドレス店 『イリス & ヴェーナ』 のオーナーに相談するよう勧めた。
オーナーもまた木彫りに新たな可能性を見出したようで、シェーナの母が作ったものを結婚式用の髪飾りとしてアレンジするかたわら、シェーナに貧民街で木彫を趣味にしている者たちへの仲介を頼んできたのだ。
シェーナはよほど嬉しかったのだろう。それからの彼女の行動は驚くほど早く、貧民街の者たちはもうオーナーから注文を受けて制作に取りかかっている。
オーナーによれば、結婚式から1ヶ月以内には新しいブランドとして売り出せるそうだ。
「公爵閣下の結婚式で使われるものでございますから、大流行間違いなし、と存じます」
オーナーに言い切られて、シェーナは責任を感じてしまったらしい。
寝言で 『ひええ…… ごめんなさい、こんなに在庫かかえさせちゃって! 』 と泣いていたので、ラズールも協力を申し出た結果、はからずもお揃いの飾りとなったのである。
「わたしだけじゃ無理でも、公爵が一緒ならばっちり流行に乗せられそうな気がします」
「さあね…… まあ、ひとの評価はさておき、僕たちにとってはこれがいちばんだろう? 」
「はい、公爵…… あの」
―― あくまでブランドを売るためにしたこと。奥さんの手前、お揃いが嬉しいだのいちばんだのと喜んでみせる程度やぶさかではないが、別にそこまでべったり貼りつく濡れ落ち葉的な (以下略) ―― と、ラズールが己に向かって言い訳していたとき。
シェーナが手をつないだまま、うんと背伸びしてラズールの耳に口を近づけた。
懐かしい呼び名が、彼女の声でささやかれる。
「アレクトゥル」
―― 瞬間、ラズールの中を思い出が駆け巡った。
『アレクトゥル』
湖の色の瞳の、誇り高い少女が呼ぶ。
『アレクトゥル』
艶やかな黒髪の、慈愛に満ちた娼婦が呼ぶ。
ふたりの声が、重なる。
『次にあなたがこの名で呼ばれるときは、あなたはきっと、幸せになっているわ』 『…… どうしたって、そのはずさ』
「アレクトゥル」
―― それは、泣きたくなるような幸せ。
手放したくない、とは思わないことにしている。
どれだけ願い、執着しても、永遠に続くものなど、あり得ないのだから。
―― だから、そのときまでは。
なによりも、大切にしよう。
いつか消えてしまうとしても、出会えただけで幸せだったと思えるように。
ラズールは素早くシェーナの髪飾りにキスをして表情を整え、肘を差し出した。
「ありがとう、奥さん。…… じゃ、行こうか」
「はい」
屋敷の門までの1分足らずが、ふたりきりの時間 ――
夏の明るい陽の差す小道を、ラズールは花嫁を横抱きにして歩く (ドレスの裾を汚さないためにであって別に彼女と密着したかったからとかそんなわけでは 以下略)。
金糸で細やかな刺繍が施されたドレスを身に纏うシェーナは初々しく可憐で、幸せと同時に罪悪感を覚えずにはいられない。
(もっときみに相応しい男なら良かったのにな)
若く情熱的で、後ろめたい過去などなにひとつなく、無鉄砲に自身の正しさを信じ込み、失うことに対する恐れも知らずに、ひたすらまっすぐに彼女だけを愛して ――
そうであれば良かったが、彼はそうするにはいろいろと失敗を重ねすぎていた。
幸福であればあるほど、おそれずにはいられない。愛すれば愛するほど、かなしまずにはいられない。
―― それでも、きみがそばにいることを許してくれるならば、どうしても……
愛さずには、いられない。
※※※※
アリメンティス公爵ともと聖女シェーナの結婚式はつつがなく終わり、そののち誰でも参加自由とした披露宴では、ディアルガ侯爵にエスコートされてやってきたワイズデフリンが、シェーナにワインをひっかけた。
いつぞやのお返しである。しかし。
もしかしたら、と予想していたシェーナは、さっそくワインの樽を持ってこさせ、ニコニコしながらワイズデフリンの頭上にドボドボ注いだのだった。
「ワイズデフリン伯爵夫人にも、酒神の祝福を! さあ、みなさん! ワインをかけあって、結婚をお祝いしてくださいね! 」
―― ルーナ王国の結婚披露宴でワインぶっかけ祭りが行われるようになった、その始まりである。
同じく、幸福をもたらす装身具として木彫りの薔薇を新郎新婦が身につけることや、ライスシャワーならぬパセリシャワー (パセリにこだわりすぎたシェーナの発案) などがこの後、結婚式の定番となっていく…… のだが。
それを慣習として受け入れている、多くの人は知らないだろう。
10年後、 『王国一の女たらし』 の汚名をすっかり返上して家族一筋になった美貌の公爵閣下が、未だにその愛妻から 『わたしにとってはあなたはあくまでパセリだけどね? 』 などと言われていることは。
そのたびに公爵閣下が 『光栄だよ、奥さん』 とデレていることも。
―― 妻と一緒に彼はずっと、貧民街とその端にある娼館に集まる者たちへの支援を続けているが、以前のようにかたくなに幸せを拒絶することはない。
どれほど幸せであっても、ひとを失う悲しみが癒えることはなく、切り捨てられた者の苦痛を忘れることもないからだ。
だが妻のそばにいる限り、彼は愛さずにはいられない。そうすると、どうしたって、幸せにならずにはいられない。
妻の手に口づけて顔面とろけさせている公爵閣下の周りには、子どもたちのはしゃぐ声が賑やかに響いている。
(了)