15-1.愛さずにはいられない ①
雪の壁に飾られた幾千ものろうそくが、あたたかな光をゆらめかせて闇を照らしている。ルーナ王国では雪灯祭のこの時期、お茶の時間にはもう日が沈んでしまうのだ。
プロポーズのシチュエーションとしては昨日よりもこちらのほうがロマンチックで良かった、と、ろうそくの灯にみとれているシェーナの横顔を眺めてラズールは判断した。いざ、平常心。
「本当は昨日、ここでプロポーズしようと思っていたんだ。言う前に失敗したが…… 」
もっと大人の余裕をもとうと予定していたのに、口調がなんだかおずおずと気弱げになっている。
昨日の失敗 ―― この場でシェーナをほめあげても 『味わいがい』 にこだわられて全然喜んでもらえなかったという ―― が、ものすごく邪魔してきているのだ。
そんな己に若干苛立ちつつラズールは、コートのポケットから小箱を取り出し、ふたを開けてシェーナの目の前に差し出した。
特注していたダイヤと白金の指輪 ――
見れば、さすがにいくらなんでも喜んでくれるだろう、と半ば祈るような気持ちで期待していたのだが、結果はといえば……
シェーナはやはり、引き気味だった。
「公爵…… そんなに気をつかわなくて良かったんですよ? 」
「違うよ。国王命令などではなく、僕が君となら結婚したいと思ったから…… 受けてくれるかい? 」
そう、嘘ではない。覚悟を決めたはずだ。
なのに、シェーナが気の毒になってしまうラズール。
―― 初恋だなどと言ってこなければ、なんとか逃がしてあげられたのに……
国王命令で押しつけられた爛れたおっさんにいったいなにをトチ狂ったのだろう、と、この期に及んでも彼は思わずにはいられなかった。
(断われない以上はもっと早くにきちんとプロポーズしておけばよかったんだが…… 気づくのが遅くなって済まなかったな)
そんなラズールの気持ちが伝わったのか、シェーナは大いに悩みはじめた。
「うう、ちょっと待ってくださいね。うーん…… 」
そして、遠慮がちに変なことを聞いてきた。
「あの公爵。お気持ちは大変に嬉しいんですけど…… 正直なところ、公爵にとってのわたしの地位って、たまたま拾った捨て犬にちょっと情が移った程度ですよね……? 」
それはもっと直接的にわからせてくれと言っているのだろうか、と思ってしまいそうになるのを、瞬時にラズールは封印した。
いくらシェーナがかわいくても、がっついてはならない。常にサービス精神をもって冷静に、である。
―― かわいいのはシェーナだけではないはずだ、とラズールは己に言い聞かせた。
全ての女性はかわいくて偉大で素晴らしい。犬もかわいいが、くらべものにはならないのだ (特にシェーナとは) 。
「いや、大丈夫。犬ではなく、ちゃんと女の子に見えているよ」
「いえいえ、そういう話ではなくて…… あの…… スノードロップの彼女のこと、聞かせてもらってもいいですか? 本当のところ、今でも、いちばん大切なのってあのひとなんですよね? 」
「 ……………… 」
そうきたか、と、ラズールはとりあえず指輪をしまった。
プロポーズはまたしても失敗だ。
将は勝ち戦であっても深追いをしない。負け確ならばなおさらだ。
さっと引いて、出直すほうが良い。
―― シェーナが気にしているスノードロップの彼女とは、小説家ユーベル唯一のエロなし著作 『アーヴェ・ガランサス・ドロップ』 のヒロインである。彼女の紋章がスノードロップ、という設定なのだ。
昨日も似たようなことをシェーナから聞かれて、そのときは 『作品のヒロインであり、彼女のことを考えているのはあくまで仕事』 とラズールは答えた。
だが、それで納得していないということは、おそらく ――
シェーナが聞きたいのは、そのモデルとなった人物、すなわち遠い昔にラズールと婚約していた王女のことなのだろう。
―― あのひとが生まれたのは3月。その年はことに寒く積雪が多かったが彼女が生まれたとき、王宮の庭園でその冬初めてのスノードロップが花開いた。
以後、誇り高く凛としていながらも明るく気さくな人柄と相まって、彼女は 『スノードロップの王女』 と人々に親しまれてきたのだ。
ヒロインの紋章をもっとバレにくいものにしておけば良かった、と今さらながら思うラズール。
だが、例の小説を書いた当時は別にバレてもかまわない、程度にしか考えていなかったのだからしかたない。
それに、いくらシェーナが気にしていてもあの婚約解消は本当に、ラズールにとっては昔の話でしかないのだ。
そもそも 『スノードロップの王女』 がラズールのものだったことなどない。彼女はいつも、国民みんなのものである。今も、昔も。
( …… と、割りきれればいいのだが、たしかにそうではない部分もあるのが、また…… )
小説にできるのは済んだことだからだが、小説をラズールに書かせるのは、今も割りきれていないなにかだ。
それは欲望や願望であることもあれば、みじめに残された未練や執着であることもあるが…… どちらにしても、誰かに見せたいような良いものではない。
―― もしも王女との婚約が破談にならず、娼婦と知り合いになることも死なせてしまうこともなく…… 円満に未来を継ぎ国民の幸せを願いそのために働き続けていられたならば、おそらく。
ラズールは、出版社の社長からどれほどスカウトされたとしても小説など書かなかっただろう。というか、そのきっかけとなった黒歴史ノートからしてが、この世に存在することなどなかったはずだ。
―― だから、こういうことは話したくない。
愛する人にはなるべくなら、明るくきれいで楽しいものだけ見せて幸せな気分でいてもらいたいのだ。
それでも、シェーナが望んでいるのは、知ることだった。
「…… で。話し合いの場がどうして、公衆浴場の貸し切りになるんですか、公爵? 」
「ちょうど休業日なうえに、オーナーがうまくつかまって良かったね」
「祭り見物中に気の毒ですよ」
ハーブの香りの湯気の向こうから、シェーナの戸惑ってはいてもキレの良いツッコミが聞こえてきて、ラズールは思わずほほえんだ。
外でふたりきりで落ち着ける場所となると、ルーナ王国の都市部では、宿か公衆浴場の貸切個室程度しかない。
よりシェーナが珍しいほうを、ということで公衆浴場にして正解だったようだ。
ツッコミ入れつつも、好奇心旺盛にあちこちへきょろきょろと顔が動くのがかわいい。雪灯祭に出掛けていたオーナーをつかまえて全館貸切にしてもらって本当に良かった、とラズールは自画自賛した。
話の内容がどうしようもないおっさんの暗い過去であっても、話し終わったあとは、岩盤浴やミストサウナを存分に楽しんでもらえる。
―― ちなみにふたりとも今は、ルーナ王国の公衆浴場に関する規則により浴衣を着ている。
その意味で、うっかりその気になればいつでも押し倒すことのできる宿よりはよほど安全でもあった。床も固くて不慣れな者にはやりにくいし。
だがシェーナは、ラズールの慣れたようすに疑惑を抱いたらしかった。
「…… これまでも、こういうことを? 」
「さすがに全館貸し切りにしたのは、これが初めてだよ、奥さん」
嘘は言っていないが全館でなく個室を貸切にしたことなら、ラズールにはもちろんあった。
しかし当時は相手が誰であっても一時的な楽しみを分かち合う関係でしかなく、お互いに本気ではなかったのだから許してほしいところである。
―― と、この辺のニュアンスが伝わってしまったのか、シェーナはまたしても少々、不機嫌になった。
「だけど、話しにくいこと話すのには向かないんじゃないですか、ここ? 声、すごくひびいてますよ」
実はそれが良いのだが、これからするのはそういう話ではない。もっと大切な、相手がシェーナだからする話なのだから。
ラズールは腕を伸ばしてシェーナを抱えあげ、座って膝の上にのせた。尻と太ももの感触がなかなか…… ではなくて。
「だからね。小さな声でしか話さない。そのかわり…… なんでも、話すよ。嘘はつかない」
なるべく誠実さを心がけたのだが、シェーナのツッコミは鋭かった。
「隠し事は? 」
「それは…… 」
うっ、と詰まるラズール。
隠し事など、てんこ盛りある。
その最大級はもちろん少年のころ彼が親の制止を聞かずに通い続けたせいで死なせてしまった娼婦、ティナのことで ――
彼女のことは常に心の片隅にあり、それがゆえに誰にも話せず小説などにはもちろんできない。
―― まだ終わってはならない、終わらせてはならない。
どういう状況であろうと忘却は罪だと、彼は思う。
「なるべくしないようにするが、どうしても必要なときは勘弁してほしいな」
「…… わかりました。それで手を打ちましょう」
しばらく考えたのち、シェーナはうなずいた。真実を望んではいても、無理に暴きたてることはしない ――
これだからシェーナには降参するしかなかったのだ、とラズールはわずかの間、目を閉じた。
「ありがとう」
「こちらこそ。無理を聞いていただいて、ありがとうございます」
「当然だろう? 夫婦になるのだから」
ラズールはほほえんでみせた。
もっと何を話しても差し支えのなかったような年齢で出会っていれば、シェーナをこれほど悩ませることもなかったかもしれない ――
そう思うにつけ、彼女が愛しかった。
どうしてこんな、我ながら面倒なおっさんに現在進行形で初恋しているのか、その理由は未だまったくもってわからないが。
「僕と彼女が婚約していたのは、もう20年以上も前のことだ ―― 」
ラズールはささやくような声で話し始めた。
―― 王女との婚約が当時の国際事情により壊され、少年のころの彼が当然と信じていた未来が奪われた。その未来は、もう2度と戻らない ――
話してみると、たったそれだけのことなのだ。
だが話せば、まざまざとよみがえる。
そのころ国にかけていた情熱も、それを突然失った絶望も。
「―― 本当は、彼女を愛していたってそのとき気づいたけれど、もう遅かった…… というわけですね? 」
「彼女は得難い同志で盟友だとは思っていたが、恋や愛といったものではなかったんだよ、シェーナ」
話を聞いていたシェーナがときどき挟んでくる質問で、彼女が小説のほうの当時の話をかなり信用しているがゆえに誤解をしていることがわかった。
だが、それがまったくの誤解であるかどうかは正直、ラズールにも判断がつかないところである。
―― そのころは、王女が隣にいるのが当たり前だった。彼女は良き友であり政治上のパートナーでありいずれは結婚するはずの相手だった。
しかし、国王の政略により彼女を失うときに感じた苦痛や絶望のうち、どれだけが愛や恋というものでありどれだけがそうではなかったのかは、ラズールには未だにわからない。
プライドを傷つけられた怒りは愛だろうか?
未練がましい執着心は恋になるのだろうか?
自身が意のままに操られる駒に過ぎなかったと知ってわきおこった反抗心は?
(だが、もし僕が逃げようと言ったときに彼女が同意していたら、あるいは…… )
小説の主人公のように、どんなに愚かでも、王女と共にどこかでひっそりと生きていける道をラズールは必死で探したかもしれなかった。
―― もっとも、すべては仮定にすぎないのだけれど。
現実には、誇り高い王女は決して逃げようとはせず、ラズールもまた、それを受け入れたのだから。
そしてヤケになっていたところで、たまたま差しのべられた優しい腕にすがりついた。その腕の主にラズールはすぐに夢中になった。
あのときも、愛していると信じていたが、振り返るとあれは、ただの甘えでしかなかったのかもしれない。
本当に彼女を愛していたのならば、両親がラズールの娼館通いに対して不穏な空気を醸し出すようになっていたときに、絶対に何事も起こさせぬよう、何らかの対策を講じたのではないだろうか。
どちらにしても、一途な愛というものを当時のラズールが知っていたなら。それをもって、自身にできることを尽くして闘っていたなら。別の未来があったのかもしれない。
だが、彼はそうせず、ただ、すべてを投げ棄てただけだった。
―― ラズールが政治を蹴って海軍に入ったこと、放蕩を繰り返し悪評を立てさせて自ら結婚と縁遠くしたことを、一途な愛の裏返しと取り沙汰する者もたまにはいるが……
そんな美しいものではないことは、彼自身がいちばん良く知っているのだ。
「すべては僕を都合の良い駒にしたがる者たちへの復讐…… と言うと、大袈裟だね。つまらない、小さな反抗であるだけで、決して、彼女への一途な想いなどという鬱陶しいものの結果ではないんだよ」
途中で少しばかり話題がそれたりもしたが、シェーナはおおむね優秀な聞き手だった。優秀すぎる、と言っていいかもしれない。
ラズールはここでしめくくるつもりだったのに 『当然まだ、続きがありますよね』 という顔でじっとラズールに身を寄せている。
しかたなく、ラズールは隠しておくつもりだったことを追加した。
「ただ、あのころに彼女に…… 彼女と共にあるはずの未来に、捧げていたほどの情熱は、もうどこにもない。愛や恋ではなかったが…… もう、あんな思いは2度とできない」
誇り高い王女と共に国を導く未来を信じていた。慈愛あふれる娼婦に心身ともに溺れて、いつか幸せにしようとひそかに誓った。だが未来は消え、誓いは破られ、心の炎は残らず冷たい灰になった。
シェーナの初恋が現在進行形である限りは心からシェーナを愛そう、と覚悟を決めても、かつてのような幼くひたむきな情熱は、ラズールのなかのどこにもない。
―― だが、それでも。
誰よりも大切にしたいと、誰よりも幸せになってほしいと願ってしまうのは、シェーナだけで。
もしも己にそれだけの情熱が残っているならば、恋をしたかったと思うのも、シェーナただひとりだ。
「初恋と言うときみは怒ったけれど…… 初恋するなら相手はきみしかいないとは、思っているんだ」
これ以上悩まないで良いように思いを込めて、できる限りイヤらしくない感じのキスをやわらかなほおにラズールは贈った ―― はずだが、シェーナの反応は相変わらずしょっぱめだった。
「つまりは、別に好きじゃなかったけど、あてがわれたらまあそれでもいっか、ってことですね? 」
「ものすごいシビアだね」
「だってパセリですからね? 」
―― そういえば昨日も、シェーナは 『おまえなんてタダのパセリだって正直に言ってくれたらいい』 などと怒っていた ――
まあ、口に出せば彼女を傷つけること程度はラズールも予想がついていたからこそ、 『パセリ』 発言はこれまで脳内でだけにとどめていたのだが。傷つけるとわかっていることをわざわざ口にする必要はない。
あたりまえだが、正直は必ずしも美徳とは限らないのだ。いくら正直であっても、そこに思いやりがなければ、無駄どころか爆弾にもなりかねないのだから。
しかし 『パセリなどと』 と否定しかけたラズールに、シェーナは非常にいい笑顔を向けたのだった。
「いいんですよ、パセリでも? …… だって結婚はパセリみたいなものでしょう、公爵閣下? 」
「え…… 」
あっけにとられた次の瞬間に、ラズールは了解した。
―― 己にその資格があるとはラズールは思っていないが、それでも彼女は、彼がそばにいることを許してくれた……
パセリでもいいのだ、と。
笑い声が、風のようにラズールの全身を吹き抜けていった。
以前のように、彼のなかにいる別の誰かが面白がっている、とはラズールはもう思わなかった。
心の片隅からは常に悲しみが消えることはなくても、楽しんでいるのは、笑っているのは彼自身だった。
(きみとの結婚がおまけなら、この人生もまだ、そう捨てたものではないのだろうね)
ラズールはシェーナをもう一度、きっちり抱え直した。
「パセリだなどと、思ったこともないよ、奥さん。プロポーズもきちんと、やり直させてほしい。国王命令などではなく、僕の意志で、きみと結婚したいと思ったのだから」
「 ……………… はい。よろしく、お願いします」
少し複雑な表情をしながらも、シェーナはこっくりとうなずき ―― それから、ふたりは貸切の浴場をゆっくりと楽しんだのだった。
だがそれだけでは、その日は終わらなかった。
時間が経つにつれて着なおしても着なおしても浴衣の前がはだけぎみになってしまうせいか。
それとも、婚約者との関係がかつてないほどに修復してほっとしたせいか、はたまた禁欲生活が限界に達していたせいか ――
我ながらみっともないと猛反省しつつも、ラズールの一部は止めようがないレベルで盛り上がってしまったのである。
床下を通る温泉水で程よく温められた岩盤に手をつないで仲良く寝転がり、非常にリラックスしつつなんてことはない話をしていたときのことだった。
なんとか気づかれないようにしよう、とかなり挙動不審になった彼に、シェーナは当然ながら気づき、怪訝そうな顔を向けた。
「公爵? どうかされたんですか? 」
「いいや、なんでもないよ、シェーナ」
「そうですか…… 」
言えるものか、と反射的にラズールが考えたのも無理はない話であるが、シェーナはそのまま押し黙ってしまった。寂しげに顔を背ける。
数分の間、沈黙が流れた。
「………… すみませんが、シェーナ・ヴォロフ嬢」
「なんですか、公爵」
「急でまことに申し訳ないが、今ここでプロポーズさせてくれないだろうか。ついでに受けていただければ、もっと嬉しいのだが」
「へ? いまここで? なんで? っていうか雰囲気」
「雰囲気については、シェーナが気に入らなければもう1度、別の場所でやってもいい。だがしかし、これは急務になってしまったんだ。せめてプロポーズをきちんとしてからでないと、きみに申し訳ない」
「あの? なんだか話がよく見えないんですけど公爵? 」
「だろうね、シェーナ」
ラズールは下品に盛り上がったモノができるだけシェーナの目に入らないよう身体をひねりつつ、片手でそっと彼女を引き寄せた。
「早い話が、きみがほしい」
「 ……………… 」
楔石の色の瞳が大きく見開かれ、そのまま固まった。