14-1. 認めざるを得ない①
ときが来るまではプロポーズのことは意識しないでおこう。
そう決意したラズールの心境は、さながら軍事作戦であった。
―― かつてマキナで革命が起きたとき断頭台に上がった者たちは最後まで気品を保ち優雅であったという。
それが、王族・貴族に骨の髄まで叩き込まれたプライドのありかたなのだ。いついかなるときも、余裕を失うなどあり得ない。
緊張? していても、認めない。
そんなわけで彼は、非常に意図的に考えることを限定した。
雪灯祭に向かうためシェーナと馬車に乗り込んだあと最初の話題は、気になっていたマイヤーの処遇についてである。これまでもときおり、さりげなくシェーナに聞いてみていたのだが、そのたびに 『まだはっきりと決まっていない』 と返されるのが常だったのだ。
今回も同じような返答かと思えば、シェーナはけっこうな不満顔になって 「せっかくのデートなのに、またマイヤーなんですか? 」 などと言い出した。 『せっかくのデート』 だと。殺す気か。
(朝晩顔を合わせていてなにがせっかくなのかとも思うがね)
こう考えることでかろうじてメンタルを平常に保ちつつ謝れば、シェーナはそのほおにまだ不満を残したまま説明しだした。
「マイヤーさんは…… 出所したら、ムルトフレートゥムの金鉱で監督助手をしてもらおうと思っています。衣食住は保証しますが、ノエミ王女への償いのかわりに、給与は全額、貧民街への支援にまわします。これなら公平ですよね? 」
―― なるほど、監督助手ならばマイヤーの知識も活かせて適任ではある。
僻地の鉱山送りで一生無給、というところが気の毒ではあるが、必需品は経費で落とせばまあ問題はない。
きっとシェーナは、なるべく公平な処罰を、と考える一方で、ラズールの気持ちをも汲もうとしてくれたのだろう。
だがそうするとなると問題は、公爵家で行っている金鉱関連の事務の引き継ぎである。
執事代行のほうはともかく、主要事業の事務を信頼して任せられる者となると、そう容易には見つからない。
引き継ぎができる者が見つかるまではマイヤーに続けてもらっていいか、とラズールが問うと、シェーナの表情がぱっと輝いた。自慢げだ。
「マイヤーさんの引き継ぎができる人ですか? ―― ここにいますけど? 」
どやあ、とばかりに胸を張るシェーナの説明によれば。
マイヤーを金鉱送りにするには代行の人員が必須であるため、彼女はここ数ヶ月の間こっそりクライセンに教えてもらいつつ、事務を覚えたそうだ。
まさかであった。
(クライセンめ…… )
おそらくは以前、朝起きてみたらクローディス家にいるはずのシェーナが隣で寝ていたときと同じことだろう。
―― あのときは 『公爵をびっくりさせたいので内緒にしててくださいね』 とシェーナから頼まれていたのだと、あとで執事から聞いた。
クライセンに侍女長のアライダはじめ、使用人たちは総じて 『奥様』 からのこの手の依頼に弱いようだ。
だが、驚くのはこれだけでは終わらなかった。小さな驚きなどふっとぶ発言を、この直後シェーナは繰り出したのである。
「しばらくは公爵の手をわずらわせるかもですが、慣れたら大丈夫なはずです。安心してエロ小説を書いていいですよ、ユーベル先生? 」
「まいった…… 知っていたんだね」
「本当は公爵が言ってくれるまで待とうと思ってたんですけどね。けっこう限界でした」
「それは、黙っていてすまなかった…… 」
「バルシュミーデ兄弟社のジグムントさんには、半年後にはロティーナちゃんシリーズ最新作を書けそう、って言ってくださってかまいませんよ? 」
「そこまで知っていたんだ? 」
「だってジグムントさんにせっつかれて、あせってらっしゃいましたよね、めずらしく」
「ばれていたのか…… 誰にも気づかれていないと思っていたのにな」
今日が意図的に思考を制限している日で良かっった、とラズールは苦笑した。でなければたぶん、恥ずか死んでいた。彼はエロ小説を愛してはいるが、その作者であることを堂々と明かせる相手は限られているのだ。
どんなに親しくても、執事のクライセンはじめ、家の者にはなんだか言えない。友人以外にも然り、である。だから知っているのはリーゼロッテとルーナ・シー女史の一家だけ ―― 女史の娘でシェーナの親友であるメイがばらしたのか、とラズールは納得した。
それは正しいがそれだけではなく、シェーナがその能力でラズールの心の声を聞いたからでもあることを、彼はまだ知らない。
そしてたったいま、シェーナが彼を完璧に落とすべく 『心の声が聞こえることは黙っていよう』 と決意したことにも当然、ラズールは気づいていなかった。
(『どうしてだか僕のことをよくわかってくれてる』 感があるなんて最強…… のはず、だし…… ね? )
そんな婚約者の心の声などもちろん知らないラズールは、街に入って急に静かになったシェーナの頭越しに、祭りのため華やかに彩られた雪の壁を眺めた。
無数のろうそくであたたかな色に染まった雪壁をシェーナと眺めていると、ふっと少年のころの思い出が甦る。
―― 当時は、クローディス家の主であったルーナ・シー女史の父親が見事な幻影を雪壁に描くのが常で、雪灯祭の初日にそれを眺めるのはラズールの小さな楽しみだった。
シェーナにはこの祭りにどんな記憶があるのかラズールは尋ねようとしたが、思い直して口をつぐんだ。
彼女が窓の外に夢中になっているようだったからだ。たまには黙って同じ景色を見るだけというのもいいだろう。
(だからってその、とくに安らいでいるとかそういうわけではなくてだね)
己への言い訳がなんだか苦しい実感のあるラズールだが、ここで認めてしまうわけにはいかないのだ。
―― 1つ認めてしまえばなしくずしにすべてが崩壊してしまう気がする。
そして、親子ほど年齢の違う若い娘に 『手放したくない』 とかいって執着するみじめなおっさんになりそうな気がする。
そうなってから彼女に理想の再婚相手が現れたらどうするのだ ―― 認めるのは、彼女が幸せになってからでいい。
スノードロップが一面に雪を割って花開く ―― 周囲を囲む雪壁が、春を待つルーナ王国の人々にとっては鉄板の幻影を繰り返し映し出している広場で、ふたりは馬車を降りた。
「公爵はスノードロップ、お好きですよね? 」
「逆にこの国でこの花嫌いなひと、いる? 」
「たしかに」
寄り添って雪壁を鑑賞しつつ、そぞろ歩く。
シェーナに行き先の希望があればそちらを優先しようとラズールは考えていたが、彼女は素直にラズールのエスコートに身を任せていた。
シェーナは、魔法師たちが工夫を凝らして映し出した数々の幻影のほうを見るのに、いっしょうけんめいだったのだ。
そんなところがまたかわいい、と思うラズール。女性はみんなかわいいのでかわいいと思うのは問題ない、と判断しているのである。
しかしいよいよシェーナとラズールが初めて出会った場所に近づいたとき、シェーナはふっと我にかえったようにツッコミを入れてきた。
「―― って、こっち、貧民街ですよ公爵? 」
「なにか問題でも? 」
「あの、公爵? 知らん顔してわたしを父に会わせるつもりなら、お断りですからね」
シェーナの父親はラズールから見れば子ども思いの良い父親だが、親子というのはとかく、なにかがあるもののようだ。父親の話題に、シェーナはいつになく厳しい顔をしている。
それはともかく ―― シェーナがラズールと初めて会った場所を覚えていなくてもガッカリなんてしていない、とラズールは瞬時に己に言い聞かせ、足を止めた。
「だから父とは今日は会わないって…… 」
「違うよ。覚えてない? 」
少し苛立っているらしいシェーナに、ラズールは完璧を意識して、ほほえんでみせた。
―― さて、いよいよである。
まずは無念無想、そして平常心。
そのうえでプロポーズらしく甘ったるいセリフを並べ立てる ――
暫定的な結婚とはいえ、シェーナにとっては初めてされるプロポーズである (前の婚約者であった王太子はしていないと調査済み) 。
悪い思い出にならないよう、できるならばラズールは、彼女を喜ばせてあげたかったのだ。
だがシェーナはラズールの問いかけに、本当にまったく心あたりのないようすで首をひねった。申し訳なさそうだ。
「すみません。なんのことだか、さっぱり」
「そうか…… まあ、きみはまだ小さかったからね? 12歳くらいだったかな」
「へ? 」
覚えていなくてもしかたがない、とラズールは再度、己に言い聞かせた。
―― ギリギリで救われたとはいえ、暴漢に襲われたような場所である。
むしろ、覚えていなくて良かったともいえよう ―― という見方をするならば、プロポーズの場所としてここを選んだのは失敗だったかもしれない。
だがこの場所に決めた当初は、ふたりの思い出の場所というと、ラズールはここしか思いつかなかったのだ。
シェーナが婚約破棄を宣言されたパーティー会場など論外だし。
「ここ ―― きみと僕が、初めて出会った場所なんだが」
「 ……………… 」
ラズールが説明すると、シェーナは眉根を寄せて一心に考えはじめた。かわいい。
そして数十秒ののち 「あっもしかして…… 」 とつぶやき、人差し指をびしり、と彼につきつけた。
「味わいがいのお兄さん! 」
「えっ…… 」
つい、平常心と無念無想を忘れて絶句するラズール。まさか、それで覚えられていたとは。
―― 6年ほど前の夏の夜、娼館の女主人を訪ねた帰りだった。
このころラズールはファラザから 『結婚するからタダでやらせろ』 としつこく娼婦に迫る客について相談を受けていたのだ。
聞くところによるとその客はタダで、とは言うがケチなわけではなく、むしろお目当ての子に花だチョコレートだ宝飾品だと貢ぎまくっていたらしい。つまりは、来るところとホレる相手と口説き方を間違えている非常に残念な男子であったのだ。
身元を調べたら騎士団の者だったので、娼館は出禁にしラズールのほうで手を回して海軍に異動させることにしていた ――
その出禁を本人に告げた、とファラザから報告を受けた直後。
失恋でヤケになったらしい彼が通りすがりの女の子に乱暴しようとしているところに、ラズールはたまたま行き合ったのである。女の子を助けるのは当然というものだろう。
そのころのラズールはフリーな立場であり今よりもうちょい性的にも元気であったため、助けた女の子とワンチャンあってもやぶさかではない、くらいの気持ちではあった…… ところが。
襲われたのはどんな子かな、と見てみれば、相手はまだ10歳かそこらの 『もっと肉をつけたまえ』 とお菓子を与えたくなるような子どもだったのだ。トマスくん (暴漢) 、目は大丈夫か。
そのときにたしかに 『味わいがいがない』 と内心でボヤいた記憶が、ラズールにはあった。
だが、たとえ子どもといえど女性を前にしてそんな発言をした覚えは……
(しかし僕も当時は今よりもう少し、荒さんでいたからね…… )
実際に発言していたとしたら我ながらヒドい、とラズールは少々反省した。
ともかくも、プロポーズを前に 『味わいがいがない』 を思い出されたままなのは、非常にマズい。
なんとかしなければ…… と、彼はまたしても、完璧にほほえんでみせた。
「ここできみに初めて会ったとき、天使が舞い降りてきたかと思ったんだよ、奥さん」
もともと用意していた激甘ゼリフは完璧なはずだ。
―― ちなみに天使とはもともとフェニカ光信教が伝える存在であるが、現在ではルーナ王国の愛の神と混同されてなにやら 『翼を持つ、奇跡的に善く美しい存在』 的な意味あいとなっている。
愛の神が少年の姿であることを考慮すれば、当時どこにも肉のついていなかったシェーナを 『天使』 と評するのは別に嘘じゃない。
実際、暴漢に襲われた直後だというのに即座にキレのあるツッコミを入れてくる胆力と頭の回転の良さにはほれぼれしたし ――
と、なんとかロマンチックな方向に持っていこうと甘い言葉を重ねるラズールに対して、シェーナの反応はどうにもしょっぱいものだった。
「えーでも公爵、味わいがいがない、って言ってましたよね? 」
「それは、ほら。そうとでも自分に言い聞かせないと、僕が犯罪者になってしまうだろう? もしかしたら…… きみには、ひとめぼれだったかもしれない」
「おかげでトラウマになって初恋とかする勇気もでなかったんですよ? 」
「そう…… それは、申し訳なかったね」
言ったかどうかも覚えていない 『味わいがい』 発言がそれほどのトラウマになってしまうとは…… 心底から謝りつつも、ラズールは頭脳を高速回転させていた。
―― 言うべきか、言わざるべきか。
―― だがしかし、恋と結婚は別物であり、愛とも別物であり、愛したことはあっても恋したことは今までになかったと断言できる。
―― ということは、今ここでこう言ってしまっても嘘ではない。問題は言ってしまったときの己のメンタルであるが…… そもそも恋などに振り回されるトシでもないし、無念無想で乗りきってみせる。
最優先は、なんとか喜んでもらえる感じのプロポーズまで持っていくことだ。
「だが、僕のほうは初恋だから…… 許してくれるかな」
完璧だとラズールは思った。
声のトーンから表情まで、大抵の女性は喜んでくれるレベルに仕上げている。それでもこれまでの経験からいえば、シェーナが喜ぶ確率は50%といったところ。
さて、答えはどうだろう。
「もうがまんならん」
はずした。
普段なら面白がっていられようが、今回ばかりはそうもいかない。だってまだ任務遂行できていないし。
少々焦ったラズールは、色仕掛けに出た。シェーナを抱き寄せて顔を近づけ、思わせぶりにほめまくったのである。
だがシェーナはどんどん不機嫌になっていった。心の声が聞こえる彼女には、ラズールの無念無想を意識した内心と、言われているセリフとに温度差がありすぎることから、セリフのほうを 『嘘』 だと思い込んだのだ。
実際には、嘘ではない。ただ彼は、発言を真実だと認めるのが怖いから、内心でガードしまくっているだけだ ―― が、シェーナにはもちろん、そんなことはわからなかった。
すっかりキレてしまった彼女は 『公爵が本当に愛しているのは小説のヒロインただひとりですよね? 』 というようなことを言い出した。なにげに痛いところをついてきてはいる。
ラズールはこれまで、リアルでは感情が知覚できなかったためにできていた内面の空白部分 ―― 他人に親切にして喜んでもらうだけでは足りなかった飢えを、小説の主人公に感情移入してヒロインを愛しまくることでなんとか埋めていたのだから。
彼のヒロインはただひとりで、彼女は過去に失った女性たちの象徴で…… あるときには昔彼を愛してくれていたリーゼロッテであり、あるときには永遠に年を取らないティナでもあるが、現実にはもう、ふたりともどこにもいない。
だから 『あくまで仕事だから。恋や愛というものではないよ』 とラズールは説明した。
真実というわけではないが、嘘でもない。
虚構のなかではともかく、現実には彼は誰にも恋していなかったし、万人をできうる限り愛するべきだとは考えていたが、心底から愛しているわけではなかったからだ。
―― なのに、説明ついでに生き物のように勝手に出てしまった言葉は、ラズールをひそかに動揺させるのにじゅうぶんな威力を持つものだった。
「僕が愛しているとしたら、それは、きみただひとりだよ、奥さん」
きみただひとりって、なんだ。
―― ここでシェーナが喜んで 『実は私も…… 』 などと言い出せば、ラズールとて己の変化を認めざるを得ず、なしくずしにハッピーエンドへと突き進めたかもしれない。
だが、シェーナはすっかりひねくれていた。
なにしろこれまでに散々、ラズールの 『結婚 = 添え物のパセリ』 『特別じゃない』 等々の心の声を聞かされて、しょっぱく苦い思いをし続けてきたのである。
それらの心の声は、最初のころはともかく、ここ最近はラズールが自身に対して本音をごまかすため用いる方便になっていたのだが、そんなことはシェーナにはもちろん、知りようがなかったのだ。
したがってシェーナは 『きみただひとり』 発言を当然、嘘だと断定した。そして、泣きそうになっていた。
心の声が聞こえるがゆえに、彼女は嘘が大嫌いである。
なのに、好きになった人からは嘘の気持ちしか言ってもらえない ――
そう感じたシェーナには、急激にガマンの限界がきていた。
ラズールの腕をふりほどくと、シェーナは一歩後ずさった。
「わたし、本当は公爵が初恋なんですよ。だからかな。ガマンしようと思っても、いろいろ見ないふりをして、頑張ってみようと思っても…… うまくいかないです。わたしの心の中だけの話で、たぶん変にこじらせてるんだ、っていうのは、わかっているんですけど」
なぜ突然こうなる。
ラズールは、戸惑った。が、シェーナが悩んでいることだけはわかった。
それなら彼女の悩みを解決するのが先、と彼は判断した。
―― 今のシェーナの発言の中には、なんだかものすごく気になる部分もあったのだが、とりあえず置いておく。
「シェーナ。ひとりで悩まないで。ちゃんと、聞かせてほしい」
「本当はパセリなのに、大切なふりなんてしないでください。オマエなんて国王命令で押し付けられただけのただのパセリだから思い上がるな、ってちゃんと言ってくれたらいいんですよ。そしたらいろいろ諦めて、立派なお飾りの公爵夫人になれるようにだけ、頑張りますから」
そんなひどいこと、ラズールは考えたこともなかった。たしかに 『パセリ』 は思ったが、それはシェーナが、ではなくて、ラズールにとっての結婚というものが、である。
そしてシェーナを 『パセリ』 扱いしているつもりはなくても、国王命令だからしかたなくおっさんと結婚する女の子をメインディッシュにして食い散らかすわけにも、いかぬではないか ――
どっちかというと大切にして幸せにしてあげたい。申し分ない若者としかたなくではない結婚をして良い人生を歩んでほしい。
そう思ってきたはずなのに、なんだか激しく誤解されていることにラズールは困惑していた。
ただわかるのは、やっぱり最初から 『この婚約は暫定』 と説明しておいたほうが良かったのでは、ということくらいだが…… 今さら後悔してももう遅い (そして今から説明すればますますひどいことになりそうだ) 。
その後、ラズールは一応シェーナの見解を否定してみたのだが、彼女には納得がいかなかったようである。
ついには 『実家に帰ります』 と宣言されてしまった。
プロポーズに至る前に失敗 …… 意図的に無念無想と平常心を心がけていなかったら、ラズールは膝を折りそうになっていたかもしれない。
とりあえず余裕をぶっこいてシェーナを実家まで送り、そのままのノリで 『好きなだけいていいよ』 などと物分かりの良い婚約者ぶってシェーナと別れた、そのあと。
とぼとぼと馬車に戻る途中、なんとなく先ほどの会話を反芻していて、ラズールはとんでもないことに気づいた。
そのことについて、公爵邸に戻るまで考えてみたが、結論は出なかった。
「お帰りなさいませ、旦那様。いかがでしたでしょうか」
「ただいま、クライセン。プロポーズは延期だ。シェーナは少しの間、実家で暮らしたいそうで、送っていった」
「さようでございますか…… 」
執事は目を伏せた。
―― 本邸の扉を開けて主人の顔色を見た瞬間から、うまくいかなかったのだろうとは思っていた。だが、まさか実家に戻られてしまうとは。
妻の侍女長がどれほど嘆くことだろう。それに主人も ――
女性関係での失敗などほとんどない人であるだけに、主人がどれほどショックを受けていることかと、クライセンは心配した。
「そうしたこともございましょう。お気を落とされませんように…… 」
「ああ、大丈夫だ。それよりクライセン、大変なことが起こったんだよ」
プロポーズの失敗より大変なこととは、なんだろう。
怪訝な表情をする執事に 『王国一の女たらし』 と悪名高い主人は、蒼白になった顔面を向けた。
「シェーナが、本当は僕が初恋なんだと…… しかもどう考えても、現在進行形のようなんだ ―― 」