13-2. ままならない②
ひとつ、ふたつ、みっつ……
底冷えのする石造りの地下牢で、マイヤーはぼんやりとタペストリーのしみを数えていた。
彼はひとりでいるときに、ものを考えるということをほぼしない。考えても苦しくなるようなことしか浮かんでこないのが、わかりきっているからだ。
唯一違ったのは、公爵邸にもと聖女であったシェーナがやって来てからしばらくの間だけだった。ラズールが彼女を溺愛しているのを見て、それまで胸の底によどんでいた復讐心がはっきりと形をとったのである。
―― マイヤーが、全人類のなかでたったひとり愛している妻のマクシーネ。彼女をマイヤーから取り上げ、引き離したのは彼の主人だった。
誰もそうは言わないがマイヤーは、主人が妻を寝取ったものと信じて、ひそかに恨んでいる。なにしろマイヤーの主人は 『王国一の女たらし』 と悪名高い男なのだ。
親切で思いやりのある優しい主だと使用人には評判がいいが、その優しげな上っ面の陰で何人の女を弄んだことだろう、とマイヤーは思う。妻もきっと、毒牙にかかってしまったのに違いない ――
マイヤーがまず画策したのは、主人から、その愛する女を最悪の形で引き離すことだった。同じ苦しみを主人にも味わってもらいたかったのだ。
折しもちょうど、王太子の新たな婚約者であるノエミ王女が警備が手薄になりがちな別荘に移ったことを知り、それが使える、と彼は考えた。
実際に、ノエミ王女と仲良くなったシェーナからの贈り物、と毒を入れたジャムを持っていけば、それはなんの検査もされずに受け取られた。マイヤー自身が公爵家の信頼厚い使用人であったからだ。
あとは、いい遊び相手であったラズールをシェーナにとられた形になって憤然としている、と噂のワイズデフリン (自称) 伯爵夫人にシェーナが事件の首謀者と情報を流し、騎士団にタレ込ませるだけ ――
ここまでは、うまくいった。愛する奥様を犯罪者として引き離せば、主人のような立場の人間が彼女を再び娶ることは二度と叶わないはずだった。
なのに、そこに王家の長女であるリーゼロッテが首をつっこんできて、あっというまにシェーナを保護してしまった。
王族でも中心に近い人物からちょっかい出されては、計画が頓挫しないわけがない。焦ったマイヤーは、目的を変えた。
ラズールからシェーナを引き離すことではなく、マイヤー自身が妻を取り戻すことに ――
そのときすでに公爵家から逃亡していたマイヤーは、まずワイズデフリンの使用人に変装して騎士団に向かった。そして 『ノエミ王女服毒事件は、ワイズデフリンがノエミ王女の侍女、マクシーネに指示をしたものである』 と、騎士団に嘘の証言をしたのである。
そののちマクシーネがとらえられるのを見計らって、今度は犯人として自首。マクシーネには罪がないと証言して彼女を保釈させたのだ。
身を犠牲にしても救ってくれた夫にマクシーネは感謝し、必ず戻ってきてくれるに違いない ―― マイヤーはなぜだかそう確信していた。
認知の歪んだ者にありがちな、単なる思い込みを事実と誤認するアレだが、彼自身は当然そのことにはまったく気づいていない。
―― しかし、その確信は、しばらくして破られることになった。
たしかにマクシーネは騎士団本部にやってきたが、それは彼の元に戻るためではなかった。
マクシーネは、ルーナ王国の法に則り、かつてマイヤーから受けた暴力への復讐と離婚の許可証を騎士団に求めたのだ。
かつての彼女からは信じられぬような、憎悪に満ちた形相で罵られ、男性の急所以外の全身を蹴られ殴られ、騎士から離婚の許可証を受け取るさまを見せつけられ ――
マイヤーは、絶望した。
自身の間違いを、身にしみて知ったのである。
これまで彼は、愛しているからこそ殴るのだと信じていた。
だが、暴力にはいかなる理由もつけられるものではない。
―― マイヤーは幼い頃より母親から日常的に殴られて育ったために、暴力と愛を結びつけてしまうようになっていた。それを否定することは母親の愛を否定すること、つまりは 『母親からさえ愛されなかった、誰からも必要とされない自分』 を認めてしまうことにつながるからだ。
けれど、マクシーネから復讐として罵られ殴られているとき、マイヤーはそれが決して愛ではないことを理解してしまったのだった。
以来、知りたくなかった事実 ―― 己が母にとってはただのサンドバッグに過ぎなかったこと、そして己も愛しているはずの妻を同じように扱っていたことが、ことあるごとに彼を責めたてている。
『おまえは救いようのないクズなんだよ』
どんなに耳を塞いでも聞こえてくるそれは、妻の声のようでもあり母の声のようでもある。あらがうための言葉を彼はもたず、ひたすらうなだられる。
「ころしてください。すべて、わたしがわるいのです。うまれてきたのが、まちがいだった」
その後の裁判で、裁判官にも主人がおせっかいにもつけてくれた弁護士にも、マイヤーはそう繰り返してきた。
なのに彼に言い渡された刑は死罪ではなく、禁錮96年というものだった。彼の主人が出していた減刑依頼と弁護士の腕が効を奏したのだろう。
優しい主人でよかったね、と地下牢を管理している騎士からも幾度か言われれたが、ほんとうに優しいというのなら見殺しにしてくれれば良かったのだ ――
あの男の優しさなど上辺だけの自己満足にすぎない、とマイヤーは思う。
「はーいそろそろ時間だぞ、マイヤー」
にじゅうし、にじゅうご……
タペストリーのしみを数えていた思考が、牢の扉が開く重い音と騎士の軽い口調、そして複数の人の足音で遮られた。少し前ならそれは取り調べの合図であったが、刑が確定した今は、その執行をあらわす ――
つまりはこれから、本格的な牢獄送りになるのだろう。どちらにしてもマイヤーには、どうでもいいことだ。
これまでもこれからも、彼がするのは、終わりが来るのを待つことだけ。うつむいた顔をあげる必要もない ――
「きみたち、少し彼とふたりにしてくれたまえ。ふたりきりだからといって、いかがわしい行為に及ぶわけではないよ。僕は男は趣味ではないんでね」
「そんなこと誰も疑っておりませんよ、公爵閣下。まあ本来はダメなんですが、閣下ならしかたないですね」
「物分かりがよくて助かるよ、ありがとう」
「いえいえ毎度どうも、閣下。さっ、ちょっとばかりほかの用事をしてくるか、カールくん。はい、わけまえ」
「はっ、隊長。ありがとうございます。では閣下、少しの間失礼させていただきます! 」
かっと踵をそろえてわざわざ敬礼したあと、騎士たちは再び扉をきしませて牢の外に出ていった。
そしてマイヤーの目の前に、仕立てのいいブーツのつまさきが並んだ。と思ったらすぐにその片方が後ろにさがって、かわりに金糸で縁取られたコートの裾がすりきれたカーペットに無造作に乗っかる。
すべての良いものに祝福されているかのような瑠璃と琥珀のオッド・アイが斜め下からのぞきこんできた。
「マイヤー、無罪にはできなくて、すまなかったね。だが、半年ほどのしんぼうだよ」
「………… ころしてください」
「そうすると、悪いが僕が困るんだ。なにしろきみは有能な働き者だからね。きみがいなくて、僕もクライセンも難儀しているよ」
「わたしなど、うまれてきたのが、まちがいだったのです。ころしてください」
「少しがまんしたら出してもらえるようにはからってはいるよ、マイヤー。その後、きみの処遇を決めるのはシェーナだから…… 前とまったく同じ、というわけにはいかないだろうが。シェーナならばきっと、ひどいようにはしないと思うよ」
「ころしてください」
「なにか差し入れをしたかったが、牢獄に入るときの身体検査ですべて取り上げられてしまうんだそうだ。だから、あとでタバコを送るよ。きみはやらないだろうが、牢獄では現金よりもいろいろ便利に使えるそうだからね」
「…… ころしてください」
「きみは海の上に出るのは初めてだね。ムェヴェ島は牢獄としては最悪だがロケーションは最高だ。水が冬も凍らず深く透きとおって、夏の夜には空も海も岬に残った雪も薄紅色に染まる。ルーナ王国の海でいちばん美しい場所だよ」
「うまれてきたのが、まちがいだったんだ」
「牢獄からも少しは海が見えるだろうが、夜中に散歩は無理だろうから…… きみを迎えに行くときは夜にしよう。季節も夏で、ちょうどいい」
「ころしてください」
「海はいいよ。自分がどうしようもないときでも、海は変わらないからね。安心できる」
騎士たちの靴音が再び近づき、扉の外から面会時間の終わりが告げられた。
扉が開けられ、入ってきた騎士が手にしていたものを見たラズールは懐から財布を取り出した。
「ねえきみたち。彼に目隠しや手錠は必要ないと思わないかい? それに公爵家の馬車を使えば護送車は必要ないよね? 」
公爵家の財力のごくわずかな一部を使って、港までのマイヤーの護送をみじめなものにしないよう騎士たちと交渉するつもりなのである。
交渉は極めてスムーズだった。
騎士たちはいくばくかの金貨を見せられると 『そういえば護送車の馬丁はひどい腰痛で休憩が必要そうだった』 などと言い出したのだ ――
どうやら主人は、しばしば地下牢に面会に来ているうちに騎士たちをすっかりたらしこんだようだ、とマイヤーは視線を床に落としたまま了解した。
「―― ありがとう。きみたちは物分かりがよくて、ほんとうに助かるよ。護送車の馬丁にはあとで腰痛の薬を届けさせよう」
「はっ。こちらこそ、いつもありがとうございます、閣下! 馬丁もお慈悲に喜ぶことでしょう」
「大したことではないよ。気にしないでくれたまえ」
賄賂を渡すほうも受けとるほうもごく爽やかに交渉が成立し、マイヤーは久方ぶりに以前と同じように主人と並んで石畳の廊下を歩くこととなった。
普段と違うことといえば、彼らの前後を騎士たちが固めていることだけである。
「ご主人様。わたしは、救われたいなどと思っておりません」
「わかるよ」
「ころしてください。もうじゅうぶんなんです。ころしてください」
「それは2つの理由でできない。僕にはそんな権利はないし、僕はきみにも生きていける場所がある国を見たいんだよ、マイヤー」
「そんなものはこの世のどこにもないし、誰ひとり望んではいません」
「だからさ、マイヤー。僕ひとりくらいは夢を見ていたって、なんの差し支えもないだろう? 」
大いにある、とマイヤーは思ったが、口にせずに再びラズールから目をそらして、うつむいた。
この主人がとんでもなく身勝手な夢想家だということなど、彼はずっと前から知っていたのだ。
※※※※
牢獄のあるムェヴェ島までは王都の港から船で丸1日。
一緒に島までマイヤーを送ると財布をちらつかせて騎士たち全員から呆れ顔をされ、執事のクライセンからは 『スケジュールがどうにもなりません』 とたしなめられてすごすごと公爵邸に戻ったラズールが、マイヤーが無事に到着したとの知らせを受けたのは2日後の夕方だった。
使用人おもいの親切な主人のためにと、騎士団の担当者が気を利かせて知らせを急いでくれたのだ。
早馬でやってきた使者を休憩させて返したあと、公爵家の執務室にはほっとした空気が漂った。
「これで、心置きなく奥様にプロポーズできますな、旦那様」
「クライセン。言っておくが僕は、まだシェーナの再婚を諦めているわけではないよ。探しているんだろうね。裕福で若くて真面目でそこそこ優秀で気の優しい男なら、貴族でなくてもかまわない、と言っているだろう? 」
「はい、もちろん探してはおりますが…… まず裕福で若い者はたいてい、甘やかされてぼうっとした不真面目な2代目3代目でして。逆に真面目で優秀となると、性格がキツかったり少々ゆがんでおったりするもので、なかなか」
「そうか…… まあ僕よりはマシだろうが、シェーナにふさわしいとは、いえないね」
「はい。さようでございます」
「では悪いが、引き続き探してくれたまえ。よろしく頼むよ」
「はい。かしこまりました」
クライセンは表向きうやうやしい態度を崩さないが、シェーナの話題が出るときはやはり、その目がなんだか笑っているような気がするラズールである。もっとも、もう慣れたが。
「しかしもう、明日から雪灯祭が始まりますが……」
「プロポーズは、するよ…… 晴れていたら」
「雪なら」
「それならまた、その次の日だ」
答えつつ、ためいきが出そうになるのをラズールはかろうじて抑えていた。
シェーナの再婚相手が内定していたら、気軽にいくらでも甘いことを言ってプロポーズできるだろうが……
まだ引き受け先がまったく見つからないこの現状でプロポーズするのでは、まるで本気のようである。
認めたくはないが、ラズールは緊張していた。
どう考えても責任重大でありかつ 『こんな爛れたおっさんから本気っぽいプロポーズされても嬉しくはないだろうな』 とシェーナに同情してしまっているせいだ。
「これだけ寒ければ、明日も雪だろうね」
そう呟く主人を見る執事の目は、ものすごく生温いものを含んでいたのだった ―― だが。
ラズールの願いもむなしく、その翌朝には雪はやみ、めずらしいことに青空さえ顔をのぞかせる極上の天気だった。
腕枕のうえで幸せそうに眠る婚約者のよだれを拭いてあげ (かわいくてしかたない) 、その寝顔を見ていると、目を閉じたまま不意に彼女はハッキリと喋りだした。
「あ、やっぱやめます! 召し上がれとか絶対に無理です公爵」
いったい何を食べさせてくれる気だったのだろうか ―― などと考えているうちにシェーナが目を覚ましたので、朝の挨拶がてら際どいところのぎりぎり2歩手前までひとしきり彼女を愛でた、そののち。
ラズールは無念無想をひたすら心がけ、そこに余裕を上乗せしていい笑顔でお誘い申し上げたのだった。
「今日はデートに行こうね、奥さん」