12-2. 許されたくない②
「目抜き通り…… いや、その前に旧市街のほうへ」
王族貴族御用達の高級宝飾店へ行くよう馬丁に告げかけてクライセンはふと思い直し、行き先を変えた。
旧市街 ―― すなわち、いまの貧民街である。
「…… 25年になるね」
「さようでございますね、旦那様」
急な変更が当然であるかのように短く言葉をかわす主従は、同じひとのことを考えている。
あのひとを死なせてしまった日も同じように、冬の始まりを告げるやわらかな雪が舞っていた ――
娼館の古い木の扉が軋んだ音を立てて来客を告げた。
入ってきたのは、昔馴染みのふたりの男。暖炉の前に縮こまるようにして座っていたファラザは顔をゆっくりと上げ、身ぶりで彼らに椅子を勧めた。
年を取ってもなお見事な金色の髪をした主人は短く礼を言って腰掛けるが、執事のほうは立ち尽くしたままだ。壁際に寄りうつむいて主人とファラザが話し終えるのを静かに待っている。
例年どおりのこの日の光景だが、歳月は彼らの上にも確実に降り積もっていた。
娼館の女主人の豊かな黒髪は色あせ、少年は華やかさよりは落ち着きのほうが勝ってみえる大人になり……
変わらないのは、彼らがひそやかにしのぶ亡くなったひとの思い出だけだ。
「毎年言っているが、こんなところにわざわざ来なくてもいいんだよ、お坊ちゃん。忘れたって誰も恨みはしないさ」
「そうかも知れないが、僕は忘れようとは思わないよ、ファラザ」
「あたしはあんたが来なけりゃ忘れていたよ、あの子が亡くなった日なんてさ。娼婦はみんな早死にだからね。ティナのあとにあの部屋に入った子は、もう2人も代わったよ…… と、これは前にも話したか。あたしもそろそろ、あちらかもねえ。最近はふっと見ると、あの子らが遊びにきているんだ」
「それは羨ましいね」
「何言ってるんだい。若い嫁さんもらってウハウハの新婚生活なんだろう。色狂いの公爵様がこんどは娘みたいなトシの…… ごめんよ、もっぱらの噂ってだけで、あたしは信じちゃいないから」
『娘みたいなトシ』 のところでガックリ肩を落としたラズールに、ファラザは珍しいものを見るような目を向けた。
彼女の知っているお坊ちゃんなら、たしかにそうだね、と笑ってみせるだろうと思っていたのだ。
「…… まだ婚約中で、さほどウハウハでもなく、がっつり禁欲中だ。やりたい盛りを過ぎていて本当に良かったよ」
「だったらここに来るのもマズいんじゃないのかい? もし誰かに見られたら」
「かまわないよ。この婚約は、シェーナにふさわしい真実の婚約者が見つかるまでのものだったからね。忌々しいことに国王命令で結婚はしなければならなくなったが、やがては良い相手と引き合わせて再婚してもらう予定なんだよ。だから彼女とは、多少はつついたり撫でまわしたりしてしまうこともあるが、あくまで潔白と言い切れる範囲…… のはずだ」
ラズールが堂々と言い切れないのは、数日前の夜に夢の中でシェーナにけっこう際どいことをしてしまったからだ。
夢だからまあいっかと思っていたが、夢の中でさえ塩対応されて際どいだけで終わってしまい、それでも近くにいて触れられることが嬉しかった…… のも、まあ夢の中だからいいのだ。別に現実に嬉しいわけではない。
「ともかく、たとえ僕の娼館通いが噂になったとしても、それは彼女の評判を傷つけずに円満に離婚できる助けになる、程度のことなんだよ」
「ふうん…… まあそうなれば、こっちとしては上得意様を失わずに済んで万々歳だがね」
「結婚しても支援なら、いくらでもするさ。みんな先生の大切な妹たちだからね」
ファラザは冗談めかして 『上得意様』 と呼ぶが、かつて 『先生』 と慕っていた娼婦を失くして以来、ラズールがこの娼館の女を抱いたことはない。
ただその日には必ず自らここを訪れ、館の修繕費や娼婦たちの小遣いとしていくばかの金を置いていく。
娼婦をやめたい女の相談に乗って教育を受けさせ働き口を探すこともあれば、彼女らが育てられない子どもの養子縁組みを斡旋することもあった。
支援が今に至るまでずっと続いているのは、ラズール自身の慈悲心からというよりは、愛情深いひとりの女性の想いを継いでいるからである。
そしてそれが娼館の営業妨害にはならないのは、女主人であるファラザが娼婦たちからとっているのは住居代のみだからだ。
古い時代には貴族の館だったこのアパートは、たまたま集まってくる者たちがその身よりほかに売るものを持たなかったため、いつしか 『娼館』 と呼ばれるようになったが……
きちんと家賃を納めてくれさえすれば、彼女らが娼婦である必要は、ファラザとしてはないのである。
「何があっても支援はやめない。安心してくれていいよ、ファラザ」
「ありがたいね、ほんとうに ―― だけど、いつやめてくれたって、あたしたちはお坊ちゃんを恨みはしないよ。もうじゅうぶんしてもらっているんだからね」
25年間。少年だった男は、どのような人生も思いのままになるような恵まれた経歴の陰で、亡くなった人を悼み続け、幸せを拒絶して生きてきた。
そして誰に向かっても言う ―― 僕はとても幸せだよ、と、美しい顔に偽りの笑みを浮かべて。
ファラザが 『恨みはしない』 と本心から彼に言えるようになったのはごく最近のことだったが、それでも 『もうじゅうぶん』 との思いに嘘はない。
同じ流浪の民出身の友が彼と出会ったために生命を失ったことは、ファラザにとっては非常に不本意で ―― だがそれは、彼にとっても同じだったのだから。
ティナのあとにも多くの娼婦の死を見送り、自身もあちらを意識するようになって以来、ファラザの気がかりは亡くなった友のことよりもむしろ、友が慈しんでいた少年が過去にひきずられたまま人生を終わってしまうことのほうになっていた。
(ねえ、ティナ。あんただって、もうじゅうぶんだろう? )
そう尋ねても、今はもう彼女の心の中にしかいない友は、ただ泣きそうな顔でほほえむだけなのだけれど。
「ねえ、お坊っちゃん。そろそろ忘れてやったほうが、ティナだってほっとするかもしれないよ? 」
「それは先生がそう言ったのかい、ファラザ? ここにきて? 」
「―― いいや」
ラズールの笑顔はあまりに悲しそうで、彼のために嘘をつこうとしていたファラザの決意を即座に打ち砕いた。
ほんとうは 『そうだよ、ティナだって、あんたが忘れて幸せになったほうが嬉しいんだってさ』 と言ってやるつもりだったのに。
―― 先ほどラズールに話したとおり、亡くなった女たちは確かに折々ファラザのもとを訪ねてくる。
しかし彼女らは、嘆きも怒りもせず、希望も喜びも口にはしないのだ。ただありし日のように、くだらない世間話やカード遊びに興じては、帰っていく ――
ファラザにできるのは、それをぼんやり眺めることだけ。彼女らはファラザに、話しかけてはくれないのだ。
死者の目には、生きている者は映らないのかもしれない ――
嘘のかわりにファラザの口をついて出たのは、なんということのない、ただ言ってもどうしようもないがゆえに、これまで語らなかったことだった。
「ティナに会って、しゃべりたいねえ」
「そうだね、ファラザ」
「会ったら、お坊っちゃんはどうする? また抱いてもらうかい? 」
「 …………………… 」
なんということのない質問だったのに、虚をつかれたようすでラズールは押し黙った。
長い沈黙のあと、ぽつりと彼は言った。
「僕は薄情者だな。そうなりたくないと思ってきたが、やはり両親の血を継いでいる」
「なんだい? やっぱりティナにはもう会いたくないとでも言うのかい? 」
「いや、会いたいよ」
「じゃあなんだって、薄情者になるのさ」
「幸せになるのを、その場かぎりでなくて、ずっと見届けねばならないひとが先生ではないんだ。なのに、会ったらまず許しを乞いたい、と思ってしまった。都合が良すぎて自分に反吐が出そうだ」
ラズールの両親は口先ではいかにも立派なことを言いつつ、実際には彼ら自身や公爵家にとって都合が悪いものを平気で排除する人たちだった。
なぜ平気でいられるかといえば、彼らには常に正当に見える言い訳が用意されていたからだ。
大勢の民のため、国のため、家のため。かわいそうだが仕方がない ――
自身を慈悲深く正しい人間だと信じ愁いに眉をひそめてみせながら、彼らは行く手を阻むものを容赦なく切り捨てていく。
その姿をラズールは嫌っていたはずだが、結局は彼らと同じなのだ、とこの瞬間に悟ってしまっていた。
―― もう2度と一方的な正義のための犠牲は出さない。誰からも省みられないもののために、この生を捧げる ――
その誓いを破るときには罰されるのが当然と考えていたはずなのに、ときが来てみれば、みっともなく許しを乞おうとする。
それが現実の、生きている彼の姿なのだ。
切り捨てるだけの覚悟もないぶん、よけいに無様でみじめだとラズールは思った。
「いいじゃないか。ティナなら怒りはしないよ。というかね、喜んで許してくれるんじゃないかね」
「………… そうかもしれないがね」
許しを乞いたくても罰されたくても、どちらにしろもう2度とは叶わない。
それを知っていてもファラザがまったく違うことを言うのは、残された者たちは生きていかねばならないからだ。
ファラザの思いやりに満ちた嘘に、少し前のラズールならば、 『死者の思いを踏みつけてまで生きる必要など、ないだろう? 』 と答えていただろう。
彼をこの世につなぎとめていたのは 『国のために生き、国のために死ね』 という王女ののろいだけだったのだから。
―― これまでの人生ではいつであっても、もし死ねるならば、ラズールは喜んで死んでいた。彼にとっては人生などその程度のものだったのだ。
だが今は、そうではない。
シェーナが幸せにならないうちはまだ死ねない、と彼は思うようになっている。
たとえ暫定とはいえ婚約者となることを引き受けたからには、彼女をきちんと幸せにするのが義務だからだ ―― というのが一応の言い訳ではあるが、義務以外のなにものでもない、と己を納得させるのにもそろそろ限界が来ていることに、ラズールは気づいていた。
いつのまに、と考えてもわからないが、今の彼の生の中心にはシェーナがいる。
これまでラズールは息を詰めるようにして、この世界から外れた者のために生を捧げようとしてきた。
楽しいことではないが、それがラズールにとっての正義であり、唯一の望みでもあったはずだ。
なのに今は、シェーナのそばにいることに喜びと安らぎを見出してしまっている。
彼女に触れ、他愛ない話をし、ときどき飛び出てくるとっぴな言動とくるくるとよく変わる表情を面白がり ――
そのことが、ラズールにはいたたまれなかった。
「許しを乞いたいが、許されるのは怖い…… 幸せになるのは、怖い。僕にとっては幸せは狂気だ。あんなものに染まってしまえば、どれだけ冷酷になれるんだろうね、僕は。決して幸せにはなれないひとたちを忘れて笑う者には、なりたくない」
「今そう思っているなら、お坊っちゃんはたぶん、どれだけ幸せになっても大丈夫さ…… えっ、ティナ? 」
「先生がどうしたんだい、ファラザ」
「いや、なんでもないよ」
ファラザは首を横に振ってみせた。しかしこのとき、彼女には小さな奇跡が起きていたのだ。
―― 遠い昔に亡くなったときのままの、花嫁の姿をした友は音もなく階段を降りファラザの隣に立つと、優しく彼女を抱きしめて頬を寄せた。
生きているときとは違う、けれども温もりに満ちた何かが、ファラザの心に流れこんでくる。
「ねえ、お坊っちゃん」
ファラザの口は、勝手に言葉をつむぎ出していた。
「どれだけイヤがってもさ、あんたと仲良くなったら大体のヤツは、あんたにも幸せになってほしいって思うもんなんだよ。この館の子たちだって、みんなそうさ。
あんたが若い奥さんにバカみたいに溺れてるって噂を聞いて、あの子たちがどれだけ喜んでるか知ってるかい? 『あたしたちのこと捨てるのね』 なんてくだらないこと言ってる子は、ひとりもいないよ。
あんたは昔っからそうだけど、あんたが自分を憐れむかわりに憐れんでいる可哀想な子たちだって、いつまでも口開けてお恵みを受けるばっかりじゃないんだよ。
恵まれたらそのぶん、心が育つのさ。それでそのぶん、いつか誰かに返そうと思えるようになるものさ。もちろん、あんたにもだよ。人に恵んどいてその返礼は受け付けない、っていうのは、ずいぶん無礼な話じゃないかね」
「…… だって僕はずっと世界を憎みたくてしかたなかったんだよ、ファラザ。返礼を受け付けていたら、いつまで経ってもその資格がある者にはなれない」
「えっ、なんだいそのヘンな資格。いやもう諦めなよ、その辺は。悪いけどお坊っちゃんには無理だから。生まれた瞬間に川に投げられる赤子ででもないとダメだよね。だいたいが、お坊っちゃんもあたしたちも恵まれすぎてるんだから。
でも、お坊っちゃんはその生まれとかなんかのおかげだけど、あたしたちが恵まれてるのは半分くらいはお坊っちゃんのおかげさ、ね? 」
「それを言うなら先生のおかげだよ、ファラザ」
「なんだっていいよ。ともかくあたしたちはもう、お坊っちゃんには感謝しちゃってるわけだし、取り消そうとしても、もう遅い。だから、あたしたちのために、覚悟して幸せになってくれたらいいのさ、あんたも…… 」
ファラザの喉が聞こえるか聞こえないかの音で少年の名を囁いた。ファラザが初めて知る呼び名だ。ラズールが驚いたように、目を見張る。
「先生」
「ようやっと気づいてくれたね。本当に不出来な生徒だよ。じゃあ、あたしもそろそろ…… ちょいと、のろいを残していこうかね」
ふわりとティナが離れていくと、急にからだが重たくなったようにファラザには感じられた。耐えられずテーブルに肘をつき、ラズールに 「そっちに行ったよ」 とささやく。
ファラザの目には、ティナが今度はラズールのそばに立ったのが視えているのだ ――彼女は幼い子の姉か母ででもあるように、優しく彼を抱きしめ、もう一度その名を呼んだ。
【…… 次にこの名であんたを呼ぶのは、絶対にあの子だよ】
霊としてのティナは、ラズールには見えず、声も聞こえていないものらしい。彼は見当違いの方向に顔を向け 「先生…… 」 と絶句している。
そんな彼のようすにウケまくって笑いだしたところが本当にティナらしい、とファラザはほほえんだ。
若いときのまま年を取らない友は、もしかしたら霊などでなくファラザ自身の願望が作り出した幻影かもしれないが …… それがまったくの嘘だと決めつけることは、ファラザにはできそうもなかった。
「クライセン。言っておくが、あれでなしくずしに僕が若い娘に貼り付くやにさがった濡れ落ち葉になるなどと誤解しないようにね。シェーナの再婚相手探しは続けたまえ」
「かしこまりました、旦那様」
娼館への支援内容の希望を聞き、再び訪れることを約束したのちファラザに別れを告げ、当初の目的どおり、目抜通りの高級宝飾店へと向かう途中。
馬車に揺られて半眼閉じつつ、ラズールは執事に念を押した。
―― 先ほどはファラザの様子があまりにも真に迫っていたから、本当に先生があの場に来ているのかという気になってしまったが……
あとになってみるとなんだかファラザにしてやられたようで、ものすごく納得がいかない。
あれがファラザの芝居だったと疑っているわけではないし、一部はたしかにあれで説得されてしまったところもあるのだが…… それも含めて、どうにも不本意だ。
そしてクライセンが例年のこの日どおりに沈痛な表情であるのに、ラズールをちらちらと窺うその目はどこかほっとしているように見えるのにも、納得がいかない。
25年間こだわり続けてきたことが、あの程度の奇跡まがいで払拭されたとでも思っているのだろうか。
(たしかに、おこぼれ的なものや返礼的なものにあずかってしまうのはしかたがないのか、とは思わされてしまったが…… あくまでしかたがない、であって、積極的に幸せになろうなどと考えているわけではない)
ラズールは腕組みし、ついでに脚も組んだ。
斜め前に座っている、どことなく浮わついてしまっている執事にちょっとした蹴りをくらわすため…… などではなく、組みたかったから組んだだけだが、うまく靴先が執事のスネにヒットしたものである。
「ああ、すまない、クライセン。痛かったかい? 」
「いえ…… お気になさいませんよう、旦那様」
「ありがとう。マイヤーの件がやっと落ち着いたところなのにすまないが、しばらくはシェーナの再婚相手探しを急務と思ってくれたまえ。相手は条件がよほど良くない限りは初婚が望ましい。アテルスシルヴァ侯爵家にも再度、打診を。なにしろシェーナは僕が大切に育…… ててはいないが、大切に…… うん、手を出すのをなるべく控えてだね」
「かしこまりました、旦那様」
やっぱりどうにも、クライセンがウッカリ笑ってしまいそうになるのに耐えているようにしか、ラズールには見えない。
若干イラッとしたラズールは再び脚を組み替えたが、今回はさっと避けられてしまった。執事のくせになまいきだ。
「旦那様。そろそろ 『ラクリマエ・ステラ』 に着きますが、もしお疲れでしたら私が注文をして参ります」
「いや、いいよ。きみはシェーナの好みに詳しくはないし、サイズも知らないだろう、クライセン? 」
「サイズは教えていただければ問題ありませんし、婚約指輪は金とダイヤと相場が決まっておりますが…… 」
「細かい違いがあるんだよ。やはり、実際に見てみないとわからないだろう。良いのがなければデザインから特注することも考えなければならないしね」
「…… かしこまりました」
「だからといって僕が今さらウキウキと婚約指輪を選ぶなどと誤解しないように。シェーナには、いったん引き受けた責任があるから、彼女が幸せになるようできる限りのことをする。それだけだ」
「もちろん、了解しております」
クライセンは厳粛な面持ちで頭を下げたつもりだったが、そんな彼を見た主人はまたしても、行儀悪く脚を組み替えたのだった。