11-2. 死んではいない②
「無罪だろうとは思っていたのだが、すまなかったね、イザベル…… お詫びのしるしに、新しいドレスの請求書と誕生日のワイン祭りの後始末の請求書を、こんど公爵家に送ってくれたまえ」
「あら、ありがとう。ですけれど…… お友達からは金銭はいただかないことにしていますの。贈り物なら大歓迎ですわ」
「宝飾品やドレスは今、ダメなんだよ。シェーナが 『地味にイヤ』 だと言っていた」
「では結婚式に呼んでくだされば、それでよろしくてよ」
「ありがたい申し出だが、結婚はしない。僕と彼女の婚約は、彼女に真の婚約者が見つかるまでの暫定的なものなのでね」
「うそ」
「いや、本当」
驚きのあまり 『冤罪をかけられた薄幸の美女』 スタイルを忘れるワイズデフリン。伏せていた顔をあげ、まじまじとラズールを見つめた。
「―― なのに、シェーナさんにあんなことなさったの?」
「あんなこと? 」
そういえば最近、シェーナへのスキンシップが徐々に濃くなっていっている自覚はあったラズール ―― だってなんだかガードが緩くなってきているものだから、予想外に長く続いている禁欲生活と相まって、つい。
だが際どいところの2歩手前くらいで止めている。セーフだと思っている、個人的に。
(あんなこと、とはどれを指すのだろう…… シェーナは最近、図書館にこもっているかノエミ王女の見舞いに行っているかだと思っていたが、イザベルにも会っているのか? )
とりあえずラズールは、何気なさを装いつつ探りを入れることにした。
「特に思い当たりはないが…… シェーナから何か聞いているのかい? 」
「………………。いいえ、別になにも。そう…… 思い当たりがありませんのね…… 」
ワイズデフリンが指した 『あんなこと』 とは、彼女の誕生日パーティーの夜に騎士団からかなり強制的に任意同行を求められたシェーナをラズールが庇った件であった。
―― あのとき 『そこまでしてこの子を!? 』 と衝撃を受けたのは自分ひとりではなかったはずだ、と彼女は確信している。
あまりにも月並みなので言わないが、本気であれを忘れているとしたら目の前の男は 『まじに罪作りなク◯ヤロー』 だとワイズデフリンは思った。
この男に見せられるものならば、 『公爵はああいう人なので』 と言ったときのシェーナの顔を見せてやりたい。そして、それでもまだ 『僕たちの婚約は暫定なんだよ』 とスカしていられるかどうか確認したい。
(でも…… あたくしの知ったことではないわね)
ワイズデフリンは立ち上がって鉄格子のはまった小窓に近づき、艶然とほほえんでみせた。
「では、あたくしの結婚式には呼んであげますわね、ラズール。それまでになんとかしておかないと…… もうあたくしも、あなたのお相手はできなくてよ」
「へえ…… いつだい? 」
「そうね…… 」
―― このときワイズデフリンは出所を遅らせまでして、騎士団長のディアルガ侯爵 (32歳独身、ルーナ王国貴族には珍しい恋愛結婚支持者だが恋人はできてもすぐに女たらしの公爵のほうに行ってしまう歴14年) に猛アタックをかけていたのだ。
当初は自力で無罪を勝ち取るための色仕掛けだったが、彼女としてはディアルガ侯爵は悪くない獲物であった。そして、ロックオンされたディアルガ侯爵のほうもまんざらでない様子だったのである。
とはいえ、この時点で彼らはまだ、スタート地点にも立っていなかったのだが ――
ワイズデフリンは確信に満ちた表情で断言した。
「早ければ、来年の9月かしら」
「そうか、良かったよ。おめでとう、イザベル。ぜひ出席させてもらうよ」
「ええ、お願いしますわね」
騎士が面会時間の終わりを告げた。
簡単な挨拶を交わしてラズールは去り、ワイズデフリンは再びバレエの柔軟体操にはげみはじめる ――
お互いに振り返りもしないのは、お互いに相手にその程度の興味しかないとわかっているためだ。
(もしあの子を手放すのなら、それはあなたが愚かだったというだけですわ、ラズール…… でも)
美しい形を意識して入念に腕を伸ばしつつ、ワイズデフリンは思った。
―― 彼がどんなに愚かでも、きっとあの子のほうが、手放しはしないでしょうね。
※※※
「またここですか、国王陛下。まるでベンジョムシですな」
「だって密談には最適でしょ、ラールくん」
王宮の奥の奥。国王専用の非常にプライベートなその場に入れる人物は限られており、イヤンな音が周囲に漏れないよう魔法で防音もバッチリ ――
たしかに安全で密談に最適ではあるがどうにも緊張感に欠け、清潔なのにどことなくいかがわしくもあるその場所に案内されたラズールは、王冠を外した叔父に向かい早速、毒舌を叩き出した。
ワイズデフリンに面会したあとのことである。
―― バレていたがワイズデフリンのほうはやはり 『ついで』 であり、本日のラズールの目的の第一は国王に会ってマイヤーを生誕65周年記念の恩赦リストに押し込んでもらうことだった。
マイヤーの処罰についてはまだ裁判も始まってはいないが、行動は早いほうがいい。恩赦できる人数には、限りがあるからだ。
公爵家どころか国にも害なす可能性のある人物を助ける ―― 周囲からは非難されても仕方がないことではある。
だが、マイヤーに国家意識があるわけではない。
マイヤーは、中心に己ひとりしかいない、狭く暗く歪んだ世界に閉じ込められているだけなのだ。
その世界が痛みと悲しみと苦しみで満ちていることを知っているラズールにとっては ―― 彼を助けることは、誰からも理解されなくても正義であった。
「密室殺人にも最適ですね」
「でも犯人はラールくんしかいないよね? それ? 」
「捕まることなど恐れていて国王殺しができるはずがありませんな、叔父上」
「あっじゃあボクそのときには、血文字でダイイングメッセージ残すね! 誰か困ったちゃんのさぁ」
「踏み消して差し上げますので御安心ください」
いつにも増して滑らかなラズールの憎まれ口に、国王はニマニマが止まらない。
ラズール本人はいいトシしたおっさんのつもだろうが、国王から見れば彼は、まだまだ可愛い甥なのである。
「それはそうと、シェーナたんどう? いい子でしょ、ねえねえ? ラールくんのくせにイロイロ真面目に控えてるって噂も聞くけどさあ…… 結婚式の日取りが決まったらツバつけちゃってもいいからね? 」
「不潔なことを言わないでください。彼女に悪いと思わないんですか。そもそもこの婚約は暫定だというのが条件のはずです。破るとおっしゃるのであれば、ここで即、血の海に沈めて差し上げますが」
「………… ラールくん、どうしちゃったの? もしかして病気? 」
「病気になりそうですが今のところ健康体です、ご心配なく」
「ガマンはカラダによくないよー? 病気になりそうならすぐにでもガバリと…… 」
「 ……………… 」
「 ……………… 」
「 ……………… 」
「 ……………… 冗談です。すみません」
「おわかりになったなら、けっこうです。ではマイヤーは恩赦リストに加えてくださいますね。ありがとうございます」
国王が身を縮めるようにして謝るとラズールは無言の殺気を引っ込め、ついでに結論まですっとんだ。
すっとんでもこのタヌキおやじは何のことだかわかっている。
だからこそ、ラズールが到着するなりお茶の1つも出させずトイレに案内させたのだ。
―― なのに国王は、もったいぶってアゴに手を当て、首をかしげてみせた。
「ええええ? どうしよっかなぁ? 」
「叔父上…… せっかくの生誕記念祭にテロリストを潜り込ませたいんですか? 」
「えっ…… どんだけテロリスト飼ってるのラールくん(笑) マイヤーだってテロリストみたいなもんじゃん。仮にも王族害しちゃったんだからさあ! 」
「…… あなたに恨みを持つ人間を焚き付けることくらい簡単にできますがなにか、国王陛下」
「えっでも予告しちゃったら、むしろ殲滅の好機で情報集めて作戦立てて、当日は特殊部隊を配置するよね? ラールくんのジョークわかりにくくて好きよ♡ 」
「気色悪い言い方はやめなさい」
国王にはとりあえず毒づくと決めているラズールだが、今回に限っていえば、考えるまでもなく彼のほうが劣勢であった。
なにしろマイヤーを恩赦リストに押し込めるかどうかは、国王しだいなのだ。
この交渉でどうしても優位に立ちたいのであれば 『マイヤーを恩赦しなければ、シェーナとの婚約を解消する』 と脅すのが有効だろうが……
女性との関係を政治的取引に使うようなヒドいことは、ラズールにはできない。
そこまでを国王は見透かしてじゃれてきているのである。
このままでは、時間が無駄になるだけ ――
そう判断した彼は、ためいきとともに吐きすてた。
「条件はなんです? 」
「あれあれ? 聞き分けいいねー? どうしちゃったの? 」
「叔父上と遊ぶほど暇ではないのでね、僕は」
「寂しいこと言わないでよー、ラールくぅん♡ 」
「 条 件 は な ん で す ? 」
ニヤニヤと笑み崩れていた国王が、すっと表情を変える。
真剣な顔をすれば母に似ているのだ、とラズールは初めて気がついた。
だが母と同じ深い青の両目は、冷たかった母のそれとは違う感情に満ちている ――
その感情につける名を探ることを彼はひそやかに拒絶した。
「…… あの子を幸せにしてあげなさい、ラールくん。それが恩赦の条件だよ」
「それなら、御安心を。もうすぐ、アテルスシルヴァの息子と見合いが決まります。もしダメなら、ほかの適任者を…… シェーナが幸せになるまで彼女の結婚相手はきっちり探しますよ、ご心配なく」
「えーっ、ちょま、ラールくん!? きみ、自分が適任者になろうとは思わないの!? 」
「僕はもっとも不適格でしょう。愛してみせても喜ばない。それに僕のようなつまらぬ者よりも、もっとシェーナにふさわしいのがたくさんいますよ。どこかに」
「あのさ…… ラールくん」
まじまじと甥を見つめ、口をはくはくと開閉させつつ考え込む国王 ――
彼がシェーナの新たな婚約者にラズールをあてがったのは、女神への手前とかなんとか言い訳したものの要は、ふたりにも幸せになってほしかったからである。
少々トシではあるがラズールより金持ちで地位があって女性を大切にする男はそうは転がっていないし、ラズールだって決まってしまえば若い娘万歳な状態になるだろう ―― と、ある意味ではナメてかかっていたのだ。
実際に、耳に入ってくる噂からはラズールとシェーナが (まだ婚約中にも関わらず) 精製した砂糖まみれの極甘な新婚生活を送っているとしか思えなかったし。
それが、実態はいまだこんなだったとは……。
(えーと…… どーやって説得しよーかな…… )
3秒ほど悩み、国王はすぐにそれを放棄した。
いいトシしていまだ反抗期の甥に説得など無効だからだ。
ただ眉間に少々のシワを寄せて 「ねえ、ラールくん」 ともう一度呼びかける。
「―― その前に自分がシェーナたんをどうしたいかとか、考えたこと、ある? 」
「国に切り捨てられた傷をお互いに舐めあうような惨めな余生だけは送らせたくないですね、彼女には」
「あっそう。じゃあ条件追加ね。候補者探しは今後一切禁止。きみがシェーナたんと結婚すること。じゃないとマイヤーの恩赦は認めない」
「叔父上……! 」
「 国 王 命 令 」
顔面蒼白になって睨み付けてくる甥 ―― それが楽しくて仕方ない、とばかりに国王は実にイヤな感じの笑みをそのほおに浮かべてみせた。
「アテルスシルヴァとの見合いは、ボクから断っておいてあげるね? 」
「シェーナが気の毒ではないんですか? 」
「そんなの、ラールくんが気の毒じゃなくしてあげればいいでしょ、以上」
「僕にはそのような能力はありませんが。ああ、そこに控えている侍従のダミアンくん。陛下に突発性認知症の疑いが出たのですぐに宮医を呼んでくれたまえ」
「いや違うからダミアンくん! そこでまじに医者呼びにいったりしない! 」
シェーナとラズールの婚約が決まった当時の会話が再燃しており、国王と侍従と公爵、とメンバーも同じ ――
なのに誰ひとりとして、そのときと同じ表情をしている者はいなかった。
国王はとんでもなく嬉しそうで、呼びかけに応じてトイレに入ってきた侍従は笑いを噛み殺しており、公爵は ――
心底からわく怒りに呑まれそうになりつつ、かろうじてそれを抑えていた。
彼自身まだ気づいていないが、夢でも虚構でもない現実においては実にウン十年ぶりに、ラズールは感情を知覚していたのである。
「じゃね、ラールくん。キミの信念はマイヤーの恩赦を選ぶものと期待しているよ」
「 ……………… 」
手を振る国王に無言で礼をし、荒々しくドアを蹴ってトイレから出ていく公爵閣下。
その態度はまさしく、下町の不良少年そのものであった。
「…… あ。ドア凹んだ」
「公爵閣下に修繕費を請求しますか? 」
「いや、いいよ、ダミアンくん。記念にこのままにしておいて、またいつかネタにしてネチネチからかってやるんだからね」
「は、かしこまりました」
うんうん、と満足そうにうなずく国王。頭の中では先ほどの甥の、怒りに耐えているらしき表情を愛でまくっている。
(ラールくんたら、人間らしくなっちゃってさぁ…… ほんと良かったなぁ…… )
―― 願わくばこのまま、彼の中で止まっていた時が、ふたたび動き出すように ――
「やあ、ブリギッテ。今日もかわいいね」 「ツェツィー。彼と婚約したんだって? おめでとう。また祝いを贈らせてもらうよ」 「ギーネ、その髪どめはリュクスくんから? 似合っているよ。僕のアドバイスかって? そんなわけないだろう? 」 「ディート、今日もよく頑張ってるね。はい差し入れ、あとでみんなでわけてくれたまえ」
王宮の侍女やメイドたちに、普段と比べればかなりおざなりに挨拶をしつつラズールは南門へと向かっていた。
早足になっているのは苛立ちゆえ ――
マイヤーの恩赦と引き換えにシェーナとの結婚を迫られたことや 『ルーナ女神の手前、もと聖女を王族と結婚させて、女神の意向をないがしろにしているわけではないと示す』 という策略に、なんらかの情を見出すことはラズールにはできなかった。
シェーナのことを少しでも思いやるならば、とてもそんな命令できないだろうに…… 『かわいい』 とか 『いい子』 などとほめつつ体よく利用しようとする、そのやり方には吐き気がする。
(どうしたい、だと? そんなもの、最初から決まっている)
誰にも利用されることなく、自由に、そのひとらしくいられるように――
それがラズールの理想と憧れであった。そして、誰もがそうできるわけではなくても、せめて目の前にいるひとだけでもそうあってほしいと望むことでもあるのだ。
だが、現実の彼は常に周囲の者を利用してきた。
際限なく親切を垂れ流して喜んでもらい、感情的飢餓を満たすことで ――
ギブアンドテイクだと彼は割りきってきたし、罪悪感など知覚する能力は持ち合わせていない。が、決して良いことだと思っているわけではなかった。
しかしシェーナは違う。ラズールにとっては、シェーナは常に自由で彼女らしいひとであるように見えているのだ。
―― どのような状況であれシェーナは、自分で選択することを忘れない。
たとえ選べない状況であっても、自身の心を投げ棄てるようなことは決してしない。
たとえば国王命令で婚約を押しつけられて従うにしても、諦めて妥協するのでもなければ、何もせずに幸せにしてもらうのを待っているのでもない。
きちんと、幸せを自分の手で作ることを知っており、またそうできるひとなのだ。
―― だからこそ、彼女は本当に嬉しいときにしか喜ばない。どれだけ溺愛してみせても反応がしょっぱかったのもそのためだと、今のラズールは解釈している。
なかなか喜んでもらえない点はラズールにとってはつらかったが、一方で、彼は安心もしていた。
彼女は彼の感情的なエサにはなり得ない。
そしてそれは、何があっても彼は彼女を利用する者にはなり得ない、ということでもあったのだ。
だが、そのことに気づき彼女のそばにいることに安らぎを見出すようになるにつれ ―― ラズールは、己がシェーナを別の意味で利用しているだけなのではないか、と考えてしまうようになっていた。
しかもこれは、ギブアンドテイクですらない。
相手は心から愛されることを望んでいるのに、彼があげられるのは見せかけの愛だけなのだから。
(いずれは、心から愛せる能力のある者と結婚させて完璧に幸せにしてあげられると思っていたからこそ、シェーナのそばにいられたんだ。でなければ僕にその資格などない)
ラズールが宮殿の外に出ると、短い秋の終わりを告げる雪がちらほら舞う中で公爵家の執事クライセンが馬丁とのんびりと世間話をしているのが見えた。
王宮の敷地に馬車を入れられるのは、王族と許可を得た業者のみ ―― 特に表門である南門は業者は通れぬため、公爵家のもののほかに馬車の影はない。
「クライセン! 」
まだ距離はあったものの気が急いて呼べば、はじかれたように執事が顔をあげ、すぐに小走りに寄ってきた。思いの外、大声が出たものである。
「どうされました、旦那様。めずらしく慌てておいでのようですが」
「国王にシェーナと結婚するよう、命令された。マイヤーを恩赦する条件だ」
「それは、おめでとうございます」
「めでたくなどないよ。タヌキおやじに足元みられて最悪だ。マイヤーを助けようとすれば、シェーナを利用することになる」
「おそれながら利用ではないと存じますが、旦那様」
「シェーナを利用しなければならないなら、僕は全人類から踏みつけられながら世界をのろったほうがマシだ」
「 ……………… 」
厨2的な暗黒面を己が口走ってしまっていることにも気づいていないらしいラズールを、クライセンはまじまじと眺めた ――
外面を取り繕うことにかけては一級、外面オバケと呼んでも差し支えないレベルであるはずの主人が、パニックに陥っておられる。本当にめずらしい。
「失礼いたします」
主人の横に立って肩の間に手を置き、そっとなでおろす ―― 2度、3度と繰り返すと、こわばっていた背がふっとゆるんできた。
「…… すまないな、クライセン。みっともないところを見せてしまった」
「なにをおっしゃいます、旦那様」
「…… だが、どちらも捨てられないんだ。シェーナの幸せも、マイヤーも」
主人の声が震えるのを聞いたのは、何十年ぶりだろう、とクライセンは振り返った。
―― クライセンがまだ、ラズールの父の執事だったころ…… 彼がまだ、ラズールに人として信用されていたころ以来だ。
信用が戻ってきたわけではない。
当時の主人 ―― 今は亡き前公爵の命令で、ラズールが慕っていた娼婦にクライセンが毒を飲ませた事実は消えはしない。
戻ってきたのは…… 息を吹き返したのは、2度と目覚めぬ遺体とともに葬ってしまっていた、少年の心だった。
(おかえりなさいませ)
数瞬、クライセンは無言で頭を垂れたあと、顔をあげた。
「僭越ながら申し上げます。旦那様との結婚が国王陛下のご命令である以上、もう奥様の見合い相手に立候補する者などおりません」
「だがシェーナを見れば、略奪婚でもしたいと思う者が現れるかもしれない。クライセン、とにかく候補者を集めて茶会でも夜会でも開きまくってくれたまえ」
「略奪婚で国王陛下のご機嫌を損ねれば、奥様とて苦労されることになりましょう」
「だったら公爵家で保護してあげればいい」
「それで奥様に 『あのひと婚約者を裏切っておきながら、夫婦でその世話になってるなんて、面の皮が城壁なみね』 と他人様から後ろ指をさされる生活を…… 」
「だったら、白い結婚にしよう。そして真の適格者が現れたら、シェーナの名誉を傷つけぬように離婚して、ふたりを結婚させれば良いね。国王は離婚するなとは言っていない」
「…… それしかございませんね、旦那様。しかし、そのためにまず、旦那様がなさなければならないことは…… 」
「なんだ」
クライセンは重々しく、告げた。
「奥様へのプロポーズかと、存じます。また、一度は奥様のお父上にも、正式にご挨拶なさるべきかと」