10-2. 切り捨てない②
「―― 国益をなにひとつ考えていないご意見にびっくりよ、ラズール。ジンナ帝国がノエミ王女をダシにしてマキナを支配下に置いてごらんなさい。我が国は大国に囲まれる形になってしまうのよ? 」
「もしそのあげくにジンナがルーナに攻めてきたとしても、我々王族が滅びるだけだよ、ロティ。民は意外と大丈夫なものだから、心配ない。ジンナなら統治もしっかりしているし、支配地域の民を差別することがいかに高リスクかも理解しているしね」
「それにシェーナちゃんはどうするのよ。また王太子と復縁だなんて、ほんといい加減にして、と思うでしょうね、きっと」
「だが…… 実際の話が、僕のようなどうしようもないおっさんと婚約するよりよほど良いだろう? 」
「呆れた…… まだジタバタしているのね? 」
「当然」
リーゼロッテは小さくためいきをついた。
彼女が息子のエデルフリートとシェーナの見合いを承諾したのは、実はラズールに対する当て馬にするためだった。
―― ルーナ・シー女史から 『ユーベル先生とシェーナちゃんは…… たぶんいけます! 』 と聞いていたリーゼロッテは、ならば彼の気持ちをあとひと押し、と息子を一時的な当て馬として提供することに同意したのである。
ちなみにリーゼロッテの息子、エデルは、幼馴染である女史の娘、メイリーと将来結婚するものと疑っていない。
なので、もし見合いになればシェーナはおそらくテンパったエデルから 『君を愛することはない! 』 と宣言されることになるだろうが……
その前に自覚したラズールが見合いをキャンセル、のほうにかけていたのだ。
「あのね、ラズール」
「なんだい? 」
「シェーナちゃん、迎えに行ってもよくってよ? 事件にケリはついたんだもの…… ワイズデフリンには申し訳ないけど、罪をかぶってもらうわ」
「気づいていたのか…… ワイズデフリンは本当は、この事件に関してはおそらく無罪だね」
「ええ、そうね」
ワイズデフリンは貴族女性たちには評判の悪いひとだが、バカではない。王族に手を出す愚かさなど、百も承知だろう。
もし彼女が王族を平気で害するような人間なら、これまでにリーゼロッテを1度も狙わなかったはずがないのだ。
なにしろ彼女は 『世が世ならば、あたくしも王女だったのに』 と、年齢の近い王女であるリーゼロッテを逆恨みしているのだから。
「でも、マイヤーが主犯では、国としての立場が悪くなりすぎる…… ラズール、なぜ、ふたりに減刑依頼など出したの? 」
「ワイズデフリンは気の毒だが、マイヤーをかばうために罪を分担してもらう。シェーナを困らせた代償と思えば、その程度は…… 気の毒だがかまわないだろう? だが、刑はできるだけ軽くさせる。極刑さえ免れさせれば、あとは頃合いをみてふたりとも恩赦させることができるからね」
「そう…… まあ、あなたならそうだろうと思ったわ。もう少し国のことを考えてくださればいいのに、どうしてそんなにバカなのかしら」
「…… 昔に。この部屋で、湖の目の女の子に教えてもらった」
―― 誇り高く優しかった彼女は、ラズールとの婚約解消が内定しているのになお、彼を部屋に呼んだ。
身を捧げ (結局はお互い初めてだったせいで未遂に終わったが) 、自棄になった少年が死なないように生命を削ってのろいをかけ……
言葉以外のすべてで愛を伝えようとした。
人のために何かをなそうとするなら、己の立場を省みず、できることを最大限に ――
そのことをラズールに教えた少女は、今はもうどこにもいない。
「そう…… 」
深い湖の色の瞳が、うつむいた。
「あのね、ラズール…… あのころより、守りたいものが増えたの」
「知っているよ、ロティ」
「あのころは、わたくしの気持ちと誇りだけ守ることができれば、それで良かったのだけれど…… 今は、この国のすみずみまで……
愛されて健やかに育つべき幼い子がいて、彼らの成長を見守るべきおとながいて、未来を夢見る若者もいて……
けれど、すべてを守るのはとても無理だから、切り捨てるべきものは切り捨てないといけないの」
「それでいい。大丈夫だよ、ロティ」
決して泣かない彼女をなだめようと軽くハグしかけたが、ラズールはすんでのところで手をひっこめた。
彼の脳内にはなぜか 『どっ独占欲なんて! 』 と慌てるシェーナが蘇っている。違う、こっちじゃない。
思い出すべきはアライダの 『奥様以外、 絶 対 禁 止 ! 』 のほうだ。
「きみが切り捨てたものは僕が拾おう。愛されない子どもも、酒を飲んで道端に転がっているじいさんも、病気で死を待つだけの娼婦も、うまく生きられずに人を傷つけてしまう若者も…… 僕に、できうる限り。
だから、きみは安心して信じる道を行けばいい」
「………… つまりそれは、減刑依頼を撤回はしない、ということね? 」
「そのとおり。僕は、間違えざるを得なかった者を切り捨てる国が、好きではないからね」
「困ったひと…… 長生きするといいわ」
彼女のほほえみは、昔によく見せていた太陽のような笑顔とは遠い。
それはそれで良いものだ、とラズールは思う。
いろいろな苦しみとほんの少しの喜びとを経て複雑に進化した感情もまた味わい深い…… シェーナに会いたいな。
(なんだ今のは)
唐突にでてきた感想 (願望とは認めない) についてラズールは瞬時に、整合性のある理由を見つけようとした。
(つまり、複雑な味わいもいいが、怒るにしても申し訳ながるにしても常に素直できれいで実はけっこう癖になる…… わけがないだろう。
喜ばれるのが一番いいに決まっているのだから。だが前にノエミ王女とのお茶会が決まったときのあの嬉しがりようは、なかなか美味しかった……
だからつまり、そうだ、急いで迎えに行って新しいドレスを仕立てさせれば、また少しは喜ぶだろう…… つまり、エデルくんとの見合いを早く実現させてあげたいと、そういうことだね、うん)
かなり無理やりな論理展開ではあったが、ラズール自身はそうは考えていない。
とりあえず 『己は子どものような年齢の女性にみっともなく貼りつこうとするおっさんではない』 と結論づけた彼は、余裕をもってリーゼロッテに頭をさげてみせた。
「ともかく、今回はなにもかも失敗で本当に済まなかった…… だが、そろそろ行くよ。きみから許可も出たことだし、シェーナを迎えに行かなければね。エデルくんとの見合いの件、よろしく頼む」
「ねえ、ラズール。あなたは本当に、それでいいの? 」
「最近よくそう聞かれるのだが…… 正直、なぜ聞かれるのかがわからないよ。エデルくんならシェーナにも申し分ない。ではまたね、ロティ」
親しみを込めたかのような別れの挨拶のあと、名残惜しさをあらわすために何度か振り返ってみせつつ去っていく彼の背に向かって、リーゼロッテは思いきり舌を出した。
―― 海を隔てた隣国マキナの王家が政変により滅んだのは、ラズールとの婚約解消の約4年後。
そのため当時のマキナ王太子との婚約が自然消滅しても、ラズールと再び婚約はできなかった。
なぜならその当時にはもう、彼は公爵家の放蕩息子として評判が悪くなりすぎていたからだ。
結果からみれば、彼と結婚しなかったおかげで現在の愛する夫と息子に恵まれたわけだから、別にかまわないのだが……
あのときの気持ちは、今も心の片隅にへばりついている。そしてそれは、誰にも言えない。
※※※※
王宮を出たあとのラズールの予定はもともと、マイヤーの不始末により発生した 『各方面へのお詫び行脚その1、重要な取引先』 だった。
が、少し予定を変更してその前にクローディス伯爵家にシェーナを迎えに行く旨を伝えると、執事のクライセンはじわりと生温い目線を送ってきた。
そんな目をされるのも、ラズールはもう慣れている ――
ジグムント編集長にエロ小説が書けない旨を伝えたときも。
シェーナの寝室にこそこそ潜り込もうとしてアライダに見つかったときも。
料理長にしばらく食事は薄いサンドウィッチかクッキーだけでいいと伝えたときも ――
みな一様に、半ば憐れみ半ば和んだ眼差しになったのだから。
シェーナが帰ってくればすべて解決するので、もうそんな目で見られることもないだろう ――
そう考えていたラズールだが、しかし目論見は外れてしまった。
彼がクローディス伯爵家にて久々に会ったシェーナに、迎えにきた旨と事件のあらましを伝えたところ、その反応はあまり良いものではなかったのだ。
「なんかそれ、おかしくないですか? 」
彼女はまず、マイヤーとワイズデフリンの容疑についてツッコミを入れてきた。
『わたしをおとしいれたいなら、わたしに直接、毒を盛ったほうが早い』 が彼女の主張だ。さすが、賢い。困るけど。
『騎士団の調べた結果で確たる証拠がなければ横やりは入れられない』 とラズールが答えれば、とりあえずといった感じでいったんは納得。だが ――
シェーナはなぜか、相当に腹を立てたらしかった。
帰ろう、と誘うラズールに 『帰りません』 とけんもほろろなひとこと。さらに。
『公爵のことけっこう好きになってたんですけど…… 今の公爵は、なんかイヤです』 とまで、言われてしまった。
実はシェーナはこのとき、ラズールの心の声からワイズデフリンがおそらくは無罪であることを知ったのだ。
なのにマイヤーのために他人に罪をなすりつけようとする公爵にイラついて 『もしワイズデフリンが本当に無罪なのなら、わたしがなんとかする! 』 と決意したところであった。
もちろん、そんなことはラズールにはわからない ―― ともかくも。
なんかイヤ …… これまでラズールが、女性から言われたことのない台詞である。
なかなか新鮮だ、と彼は考えることにした。
ショックなんか受けていない。そんなもの知覚する能力は、そもそも備わっていないはず ――
『なかなか新鮮』 と考えるまでにゆっくり10秒程度かかったうえ、その間がめずらしく空白だったが、頭脳にもたまには休息が必要ということだろう。
なにを勘違いしたのか、そばで突っ伏して寝ていたルーナ・シー女史がわざわざ薄目をあけて 『ぷぷぷぷ…… 良い気味ですこと! 』 とあてこすってきたその一方、同じくそばで会話を聞いていた彼女の娘メイは 『はい、おじさま。傷心に甘いもの』 とクッキーをくれたりもしたが……
べつに傷ついているわけではない。そんなもの知覚する能力は、そもそも (以下略)
「じゃ、メイ。 (シェーナを) よろしく頼むよ」
いいおじさんぶりを発揮しつつメイに別れの挨拶をしながら、ラズールはふと思った。
(そうか…… 今夜もシェーナはいないんだな…… )
ということは、またよく眠れないということだが、それは仕方のないことだ。シェーナは安眠枕では、ないのだから。
―― それから数日後。
かなりの強行軍で各方面へのお詫び行脚を終えたラズールのもとに、またしても不都合な知らせが入ってきた。
「マイヤーが、事件はすべて自分の仕組んだことだったと、罪を認めたそうでございます」
「なんだって、クライセン」
「マクシーネが騎士団に、以前にマイヤーから受けた暴力に対する報復と離婚の許可を求めに行きまして…… 」
執務室でたまっていた書類にサインをしながらラズールが聞き返せば、その隣でクライセンも書類にサインしながら説明する。
彼らの向かいでは、アライダが書類をじっくり精査している。
アライダは奥様がいなくて仕事がなくなりフテ腐れかけていたところを、この流れ作業に半ば無理やり参加させられたのだ。
ほぼ強制とはいえ、仕事があるだけマシ…… と、その目はイキイキとしている。が、なにぶん慣れない書類を必死で見ているために終始無言である。
マイヤーが抜けただけで倍に増えた仕事をしながら彼らは、働き者の執事代行の有り難みをひしひしと感じていた。
「―― マイヤーは騎士の見ている前で、マクシーネにアゴから爪先までボッコボコにされたそうで…… 唯一無事だったのは男のだいじなところだけだったそうですが、それも 『つぶれてしまえ』 と暴言を吐かれたと聞いております」
「マクシーネ…… すごいな」
「まったくで。そして騎士はマイヤーの見ている前で、マクシーネに離婚の許可書を与えて神殿に提出するように指示したとか」
「神殿に手を回して受理しないように 「それはいくらなんでも横暴でございます、旦那様」
「たしかにマクシーネにとっては、そうだね。離婚はすべきだ…… だが、このタイミングで離婚されてはマイヤーが死んでしまう」
「ですから、マイヤーはすっかり意気消沈してこれまでの証言を変え、事件に関わったのは自分ひとりだけでワイズデフリンからは指示などもらっていない、と言い出したのでございます。死刑にしてくれと毎日訴えているとか…… 」
書類にサインをするラズールの手が一瞬止まって、また動き出した。
「―― 先にワイズデフリンが、シェーナがノエミ王女に毒を盛った犯人だと複数の紳士を使って騎士団にタレ込ませたことについては? 」
「それも、奥様に敵意を持つ女性を利用して奥様をおとしいれようと、マイヤーがワイズデフリンに情報を渡したのだそうです。公爵家に復讐がしたかったのだと」
「ふむ…… ほぼ予想どおりだね」
「ワイズデフリンは事務手続きが終了次第、無罪で釈放されます。マイヤーが主犯になるのは確実でございます…… 旦那様」
「なんだい? 減刑依頼なら取り下げなくていいよ」
「…………。僭越ながら申し上げます。公爵家としては、マイヤー単独の犯行であり当家は一切関与していない旨の声明を出し、彼に対して厳罰を望むべきかと」
ラズールの手のしたで紙がガサリと音を立てた。 『しまった、ずれた…… 』 と呟く主人は最近なんだか人間らしくなった、とクライセンは思う。
「―― 以前にマイヤーに、なぜマクシーネを殴るのか聞いたことがある。そのとき彼は 『気に入らないことは殴って教えるのが当たり前ですよね? 愛する家族なんですから』 と答えたよ」
「クズですな」
「そのとおりだね。だがそれをマイヤーに教えたのは彼の母だ。マイヤーは母親から、気に入らないことがあれば殴られて育った…… 彼にとっては家族から暴力をふるわれるのが日常だったんだよ。そんな彼がこれまで、幸せだったと思うかい? 」
「ですが、だからといって彼を許しては、誰にも理解はされないかと…… 旦那様はお優しすぎます」
「誰も理解しないような世の中なのだから、僕ひとりくらいは理解する者になっても、かまわないさ。僕は間違えてしまった者、間違えざるを得なかった者を切り捨てはしないよ。もしきみが間違えたとしてもだ、クライセン」
「それは有難い思し召しですが…… 公爵家のためにはなりません」
「その程度で滅びる家なら、どうせいずれそうなるからさっさと滅亡…… すればいいとは言わないよ、クライセン。すまなかったね、少々気が立っていたようだ」
「お気になさいませんよう。意外と慣れておりますので」
クライセンはペンを置き、内心で深々とためいきをついた。彼の主人は、どうあってもマイヤーを庇うつもりであるらしい。
「差し出たことを申しましたこと、お詫びいたします、旦那様 ―― ですが、奥様はどうなさるのですか? 」
「シェーナを? なぜ急に彼女のことを? 」
「ノエミ王女を除けば、奥様はこのたびいちばんの被害者でいらっしゃいますが…… しかも、マクシーネが騎士団を訪れたとき、奥様とクローディス伯爵令嬢も付き添っていたようでございます」
「シェーナとメイが…… 」
ラズールの手が、完全に止まった。
「なぜ、マクシーネと? ああ、ノエミ王女とリーゼロッテを通じての知り合いか…… しかし親しくなったものだね」
「奥様はマクシーネの味方と考えて良いでしょう。もし旦那様がマイヤーを許されるなら、奥様はマクシーネと奥様ご自身がないがしろにされたように感じて、傷つかれるかもしれません」
「シェーナならわかってくれるさ」
「なにをおっしゃるのです、坊っちゃま! そのようなわけがございますか」
これまで黙って書類とにらめっこしていたアライダが、顔を上げた。さきほどから何か言いたげに口の端をピクピクひきつらせていたのが、ついに爆発したのだ。
「いいですか! いかに可哀想でもマイヤーは、罪もない女性を殴り、幼い王女に毒を盛って奥様を騎士団に捕まえさせようとし、しかもその罪を他のご婦人になすりつけようとした極悪人なんですよ!? そんなものを許そうとなさるばかりか、奥様ならわかってくださるですって? 奥様は聖女だったとは申しましても、基本は普通のお嬢さんなんですよ!? 冗談ではございません! わっかんなーいアナタなんてキライ! …… と、逃げられるがオチでございます! わたくしの仕事が、また…… うっ…… 申し訳ございません、今急に、目から汗が」
「………… 減刑依頼は取り下げないよ」
アライダの勢いと涙に押されつつも、ラズールは頑固であった。
「ノエミ王女は軽い腹痛だった…… なのに、極刑を求めるのはやりすぎだろう」
「政治的重要度というものがございますでしょう! 」
「政治なんか大嫌いだ、その程度で滅びる国なら…… いや、なんでもない」
再度ウッカリと年端のいかない少年のようなことを口にしかけたことに気づき、とりあえずごまかすラズール。国王の前でならともかく、家の執事や侍女に言うのはいただけない、と自分でも思う。
「シェーナには…… シェーナも納得できるように、説明なり今後のマイヤーの処遇なりを…… 考えるよ、アライダ」
「それでよろしゅうございます。差し出たことを申しましたが、聞いていただけてありがとう存じます」
「いや、僕のほうこそ、気を揉ませてすまないね…… だが、シェーナは帰ってこないかもしれないよ。僕はどうやら、嫌われたようだから」
「「 ……………… 」」
クライセン夫妻は、主に気づかれないよう、そっと目配せしあった。
―― 実は彼らは先日、シェーナから 『事件も解決したことだし、そろそろ帰っていいですか? 』 と連絡を受けていたのである。
しかも 『ぜんぜん驚かない気もするけど、驚かせたいので公爵には内緒にしておいてくださいね』 とのミッションつき。
彼らとしてはもちろん大歓迎だ。ひそかに 『旦那様は奥様の枕をかかえてしょんぼりお休みされています』 と現状をシェーナに伝えておいて、本当に良かった。
―― シェーナが公爵家に戻れば、アテルスシルヴァ侯爵家子息エデルフリートとの見合いの正式な申し込みも、いずれは来るはずだが……
それについては 『坊っちゃまがいくら意地を張られても、奥様がお断りになりますよ』 とアライダが確信を持って言うのだから、たぶんそうなるのだろう。