9-1. それ以上ではない①
ワイズデフリンの誕生日を祝う夜会 ―― その日までにノエミ王女の服毒事件について明らかになったことは、わずかしかなかった。
『マイヤーに予測不能な動きをされては、夜会でシェーナを守りにくくなる』 との判断から彼をなるべく仕事に縛り付けた結果、泳がせてしっぽを出させるほどの余裕もなくなったためだ。
ただし、マイヤーの部屋からは彼が騙し取ったと思われる毒物が確認され、彼自身が事件に関与している疑いはいよいよ濃厚になった。
そして執事のクライセンは、リーゼロッテに早くマイヤーのことを伝えるよう、ラズールをせっつくようになった。
公爵家を守るならそうした方が良いとはわかっていても、そうするとマイヤーをかばえなくなってしまうという事実が、ラズールの決意を鈍らせていた。
―― もし王族を害する意図があったと認められてしまえば、公爵家がいかに手を回しても極刑を免れない。
だからリーゼロッテに伝える前に、マイヤーにノエミ王女を害する意図がなかったことだけでもはっきりさせておきたい、とラズールは考えていたのだ。
たとえマイヤーが事件の主犯だったとしても ――
ノエミ王女を本気で害そうと考えたなら、シアン化合物をジャムになど入れる (あるいは入れさせる) はずがない。
なぜなら、シアンが糖分と結びつくと無毒化されてしまうことは、この毒を扱う者の常識といってもいいのだから。
だが、マイヤーの意図をきっちり証明するにしても、直接、彼に真相を問うにしても、まだ証拠は足りなかった。
(ともかくも、目下の仕事はワイズデフリンのほうだな)
まずは夜会で婚約者 (仮) を最後まで守ることが優先 ――
そう割りきり、シェーナをエスコートして現れたラズールをワイズデフリンはにこやかに出迎えた。
「ようこそ、ラズール。それに、もと聖女様。お越しいただけて光栄ですわ」
かすかにイヤミを込めた口調ではあるものの、イザベル・ワイズデフリンはぱっと見、優雅で上品な美女である。
教養は深く見識は広く、どのような話題にも打てば響くように応じつつ、決して偉そうにはならない配慮も持ち合わせている。その上で、口に出すのがはばかられるような娯楽を陰で提供するのだ。
賢く美しく高貴な血筋を引く女から最上のもてなしを受け、刺激的な楽しい体験をさせてもらえ、いい気持ちにさせられる ――
紳士たちが巷の娼婦ではなく彼女に金を注ぐ理由はそこにあった。
もっともラズール自身は、ワイズデフリンからは 『友人』 扱いされており 『パトロン』 とは見なされていない。彼女は、れっきとした王族であるラズールを友と呼ぶことで、自尊心を満たしているのである。
ラズールがもうちょい真面目な人物なら 『ツバメ』 扱いされたかもしれないが……
現状そうなっていないのは、国一番の女たらしと呼ばれる男を愛人にしても 『さて騙されているのはどっちか』 と人々の冷笑を誘うだけだからだ。
―― このようにプライドが高い彼女が、怒り狂って執事に花束やケーキを投げつける様子が想像つかぬところだが……
世の中には、自分より下と見なしたとたんに尊大な態度に出る者もいるものだ。
ワイズデフリンはおそらく、客の見ていないところではそのタイプになるのだろう、とラズールは考えた。
「やあ、誕生日おめでとう、イザベル。ささやかながら、きみにプレゼントがある…… クライセン」
「はい…… 」
ラズールが振り返ると、執事が美しい彫金が施されたジュエリーケースの蓋をあけ、うやうやしく頭をさげてワイズデフリンに差し出した。
―― 余談だが、今回の随行がマイヤーでなくクライセンになったのは、マイヤーが熱を出していたためだ。
流行病が心配されるような高熱ではあったものの、医師によると軽い風邪ということだった。
そして本人は最初のうち 『平気だから働く』 と主張していたが薬を飲むと深く眠り込んでしまった。疲れていたのかもしれない。
アライダには (見張りも兼ねて) マイヤーの世話をするよう頼んでおいたが、この状態でなにかしでかすということもないだろう ――
「こちら、ジンナ帝国はチウユー産の真珠でございます」
執事が捧げ持つジュエリーケースには、大粒の真珠のまわりに小粒のダイヤとルビーをあしらった金のペンダントが入っていた。
ルーナ王国では真珠はとれないため、おもにジンナ帝国から輸入する。大きく姿の美しい真珠はダイヤよりもさらに貴重なのだ。
ワイズデフリンは満足げにうなずいた。
「ありがとう、ラズール。こんなに大きな真珠は珍しいわね。素敵な贈り物ですこと…… ねえ、つけてくださる? 」
「やめておくよ。ほかのみなに嫉妬されてしまうからね」
「まあ。なら、あとで内密にじっくりお願いしますわね」
「それは楽しみだが、きみとふたりきりになりたい者が多すぎて、僕まで順番がまわってくるかどうか」
「そうね。幸運の女神があなたに微笑むよう祈ってさしあげるわ、ラズール」
「ありがとう。きみにもね」
「ありがとう、ラズール…… では、あたくし。ほかのかたにも挨拶しなければなりませんので、またのちほど」
ワイズデフリンはうまく隠しているが、やや挑発的な言動にシェーナへの敵意があらわれているのかもしれない ――
そう考えるラズールの横では、シェーナがムッとしたように顔をしかめていた。
「きみの次の誕生日にはあれより良い物を贈るよ、奥さん? 」
「えっとですね。それはありがたいですけど、そういうんじゃないんです」
実はこのとき彼女は、ワイズデフリンの 『ふん、ただの小娘ね。予想以上に平凡じゃない』 から始まる一連の、悪意と敵意と嘲笑に満ちた心の声を聞いてしまっており、盛大に頭にきていたのだった。
そして 『売られたケンカは買うべきよね』 と決意すると同時に 『救済美形に貼り付かれてはケンカの邪魔』 と計算を巡らせていたのである。
―― かくして。
ワイズデフリン邸に向かう道中、 『僕から離れないように』 と散々シェーナに言い聞かせ、自身もそのつもりであったラズールの努力は、パーティーの開始早々に打ち砕かれることとなった。
「きゃ☆ 申し訳ありませぇん、公爵閣下♡ 」
「いや、きみのようなかわいいお嬢さんなら大歓迎だよ」
「そんなぁ♡ かわいいだなんて♡ 恥ずかしいですわ♡ 」
どこぞの令嬢 (ラズールの記憶によれば、貿易商のゲプハルト男爵の三女。使用人に手を出そうとして断られ、逆恨みのあげくに父親に讒言して彼を追い出した、なかなかいい根性したお嬢さんである。失恋からは早々に立ち直ったようでなにより ―― ちなみにその使用人は今公爵家で働いているが、彼女はまったく知らないようだ) に、わざとらしくぶつかられているうちにシェーナが、ラズールから離れて飲み物を取りにいってしまったのである。
急いでシェーナを追いかけようとするラズールであったが、あっというまに令嬢がたに取り囲まれて身動きがとれなくなった。
「公爵閣下…… お会いできて光栄でございますわ」
「ああ、きみのような美しいお嬢さんと会えて、僕も光栄だよ」 (たしかハイゼ男爵のひとり娘、デビュタントのときから評判の美少女だったが、より条件のいい婚約相手をと男爵夫妻が出し惜しみしているうちに早や28歳)
「そんな…… わたくしのごときいきおくれにお気遣いされなくても」
「とんでもない。きみはきれいだよ。きみの魅力に気づいてくれるひとが、いつかあらわれるさ」 (女性は、どの時期にもそれぞれの美味しさがあるんだからね。卑屈にならずに、がんばるんだよ)
「公爵様…… 「あっあのっ! 公爵様ぁっ! 」
潤んだ目を向けるハイゼ男爵令嬢とラズールの間に、話したくてうずうずしていたらしい別の少女が割って入った。
ルーナ王国では 『目下の者は目上の者に話しかけてはならない』 というマナーは古くさいものとみなされている。公式の式典でもない限り、誰も守ったりはしないのだ。
「このたびはご婚約、とってもおめでとうございますっ」
「どうもありがとう。そのリボンの髪飾り、よく似合っているよ。きみのかわいさを引き立てているね」 (ノイマン子爵の次女、噂話が大好きで結婚するより新聞記者になりたい…… が、業を煮やした子爵に無理やり婚約させられてジタバタしている。相手は平民とはいえ国内有数の織物商の息子、悪くはないと思うが…… 新聞記者はできないだろうな。気の毒に。まあ、本人が望めば…… ちょっとしたゴシップ紙を自主発行くらいはできるか)
「あっ…… はい。あの、ありがとうございます…… さて! それより、公爵閣下! お相手のシェーナ・ヴォロフ男爵令嬢とはいつお知り合いに? 国王陛下のご命令でゴリ押された婚約との噂もきいていますが、いかがですか? 」
「シェーナと最初に出会ったのは、彼女が暴漢に襲われたところを僕が助けたときだよ。彼女はそれから僕のファンになってくれたらしくてね (もっとも、すぐに父親の嘘だとわかったが) …… 国王陛下からもたしかに (非常にイラつくと判断できそうな) 口添えはあったが、婚約を決めたのは僕だ (ただし暫定で) 」
周囲の令嬢たちから歓声ともためいきともつかぬ声があがった。
彼女らは 『婚約を決めたのは僕』 なる文言を深読みし、そこに愛あるストーリーを脳内で勝手に付加して感動または嫉妬したのであるが、その辺のことはラズールにはわからない。
「う、噂では、シェーナさんと館に引きこもって甘々な新婚生活を送られているということですが、いかがでしょうか!? 」
「そうだね。シェーナは素直な頑張り屋さんで反応もけっこう面白い子でね…… 満足しているよ」
ラズールとしては、溺愛してみせても割かし塩対応されているところなどは 『甘々』 とはとても言えぬのでは、と思うのだが……
シェーナが彼女らに悪くとられぬよう気を遣って評価すると、こうなるのである。
だがこの発言は、またしても一部の令嬢の脳内でかなり高度に変換されてしまっていた。
『す、素直に頑張って…… 反応も面白くて…… 女たらしと評判の公爵閣下をも満足させてしまったのね!? シェーナ・ヴォロフ…… あなどれない女! 』 と。
「満足…… ということは、あの…… ぶっちゃけ、今後わたくしたちにチャンスがある可能性は!? 」
「それはもちろん、あるさ。きみたちはまだまだ、若くてきれいでかわいいんだからね。良い恋ができるはずだよ…… がんばりたまえ」
ここでミュラー子爵令嬢がたずねた 『チャンス』 とは、言わずもがな 『公爵閣下との恋愛のチャンス』 であったわけだが、ラズールはそうは受け取らなかった。
彼にとっては自身は 『 (暫定ではあるが) 売約済みの爛れたおっさん』 であるから、若い令嬢たちの相手になどなりようがない、とたかをくくっていたのである。
そのうえで、友人の娘であるメイとの交遊で鍛えた 『いいおじさんぶりっこ』 を発揮した返答がこのセリフ ――
だが、ラズールを取り囲んでいる令嬢がたは、もちろんそうは思っていない。
―― 以前は 『国一番の女たらし』 の称号が障害となっていた公爵閣下。しかし婚約して以来の彼の真面目な変貌ぶりを見れば、女たらしとはいえ浮気を心配する必要はむしろ他の貴族男性よりも低い、とさえ言えよう。
(つまり、シェーナ・ヴォロフの立ち位置に入り込めばいいのよ)
彼女らは一様に、そう考えたのだった。
「はい! 」 「がんばりますぅ! 」 「あの…… わたくしはいつでも…… 応じる覚悟はございますの…… 」 「あら、わたくしだって! 」 など口々に返答する彼女らの胸中は、希望とやる気に満ち溢れていた ――
「なにをしているんだ」 とラズールが、つぶやくまでは。
令嬢たちと話し込んでいる間も、実のところ彼の目は絶えずシェーナに注がれていたのだ。
―― 公爵閣下の婚約者はいま、某令嬢 (ラズールの記憶では材木場を経営しているミュンター子爵の長女、ミリアム・レーベカ17歳) と、お互いほぼ同時にワインを引っかけあったところだった。
ミリアムがシェーナにワインをひっかけることは、直前の彼女の動きから予想できていた。
『ずいぶんとまたオーソドックスな嫌がらせでかわいらしいな』 と思いつつも、なんとか令嬢たちの垣根を抜けて婚約者 (仮) をフォローにいこうとしていたラズールだが……
ここで嫌がらせを受けそうになった本人がワインをかけ返すとは、まったくの想定外である。
シェーナはさらに、近寄ってきたほかのふたりの令嬢にもワインを頭からぶっかけ、身振りで 『かけかえしてちょうだい』 と要求しているようだ。
令嬢たちがそのとおりにすると、またしても頭からかけかえして ――
「さあ、ワイズデフリン伯爵夫人のお誕生日を、ワインをかけあって盛大にお祝いしましょう! 」
周囲が気づいて騒然としだす直前のいいタイミングで、シェーナの明るくも凛とした声がホールに響いた。
太陽のような笑顔 ―― 目にしたとたんにラズールが普段、閉じ込めている記憶のフタが、止めるすべもなく開く。
『あら、逃げるだなんて。そのようなことするなら、わたくしたちは豪華な衣装を身に纏った豚になってよ? 』
ラズールとの婚約を解消して他国の顔も知らぬ王子の元に嫁ぐことを受け入れたときの王女の、その表情。
『妹にはちゃんとした男と結婚してもらいたいよねえ。それで、幸せな普通のおかみさんになってさ』
ささやかな夢に殉じた ―― 公爵家の権力の前にそうせざるを得なかったはずなのに、なにひとつ恨まなかった、今はもうものいわぬ、あのひとの……
逃げるよりも、守られるよりも、誇りを胸に、笑って闘い続けることを選ぶ ――
彼女らのその輝きに圧倒され、少年だった彼は口をつぐむしかなかった。
もし彼が本当に恋したとしたなら、きっとそのときだったのだろう。
だが当時の彼は、自身の心に気づくこともなく全てを投げ棄ててしまった ――
「はい、どうぞ…… お誕生日おめでとう! 」
「はい、どうぞ。おめでとう! 」
「はい、どうぞ。お誕生日おめでとう! 」
会場ではシェーナが、客に次々とワインの入ったグラスを渡しはじめていた。
『おめでとう! 』 と叫びながら彼らにワインをかけ、自身もかけかえしてもらっているのだ。
―― もともとワイズデフリン伯爵家ゆかりのザントノワール地方には、誕生日や結婚式などをワインをかけあって盛大に祝う習慣がある。
嫌がらせをされそうになって、とっさにその習慣を使うことを思いついたのだろう。
ほかの客にイヤな思いをさせず、嫌がらせの首謀者であるワイズデフリンにだけその場で報復するにはなかなかいい手段である。
楽しくワインをぶっかけあったあとのパーティーホールは、きっとひどいありさまになるだろうから ――
だが、ひとりそれを始めるのは、かなりの勇気がいるはずだった。
まかりまちがえば 『単なる頭のイタい子』 として客全員から白い目で見られてしまう。
しかし 『そんな事態には決して陥らぬ』 とでも言いたげに、明るい笑顔とまっすぐな姿勢と強い眼差しを、シェーナは保ち続けている。
―― 守るなどおこがましいことだった、とラズールは悟った。彼女を惨めにすることは、おそらくこの会場の誰にもできない。
瞬間、子どものような笑い声が、ラズールのなかを吹き抜けた。
感情としては知覚できないが、愉快な状況ではあると彼は判断しており ―― そして、彼のなかにいる彼に近しい誰かが、この状況をもっと楽しんでみせろと笑っている。
それがこの場の全員を巻き込み、ひいてはシェーナを助けることにつながるはずだ ――
わかってはいたが、楽しそうに笑い続けるその声を、彼は恐れた。
(そのフリならばいいが、心から楽しんではならないんだ。忘却は残酷で、罪深いことだろう? 僕は彼女らの痛みを忘れない、懐かしい過去などにはしない、楽しまない、愛さない、幸せになどならない)
それって自己満足に過ぎないのよ、と、冷静そのものの王女の声がした。
難しいことをあれこれ考えずにあの子を助けてやりなよ、と温かなあのひとの声がした。
―― ラズールのなかで、ふたりの女性の声が重なってひとつになる。
『わたしたちのせいで、あの子を助けないなんて決めるなら、許さないから』
―― いまだけだよ。
ラズールは情けなく、自身に言い訳をした。言い訳をしてみれば、それは事実でもあるように彼には思えた。
―― 楽しむも楽しまぬも、所詮は一夜の夢なのだから。いずれはかなく消え去っていくのだ。そして手もとには、なにも残りはしない ――
ならば、楽しもう。
彼は口の両端を上げ、グラスを手に取った。
―― 彼女とともに美酒に酔いしれてはしゃぐのも、つかのまの夢ならば、許されよう ――
「誕生日おめでとう! 」
ラズールはほがらかに叫び、手近な紳士にワインをかけはじめた。
―― こうして盛大なワインぶっかけ祭りの会場と化したパーティーホールは、後日。
莫大な清掃料及びカーペットとタペストリーの入れ替え費用で、ワイズデフリン (自称) 伯爵夫人に悲鳴をあげさせることになったという。