7-1. 幸せにはならない①
「せっかくダンスの講師を呼んでくれていたのにレッスンをキャンセルさせてしまって、すまなかったね、アライダ…… ところで、シェーナは? 」
「奥様は図書館で読書中でいらっしゃいますので、もうじきお迎えに上がります」
「そうか。図書館ならむしろ、ダンスのレッスンよりも喜んだかな」
読書好きな婚約者 (仮) が夢中になって本を読んでいるときの顔を思い浮かべてかすかにほほえんでみたラズールであったが、すぐに口元を引き締めた。
なんとなれば、侍女長のアライダが何か言いたげな厳しい目をこちらに向けていたからである。
「どうしたんだい、アライダ」
「…… 奥様のお気持ちもお考えくださいませ、坊っちゃま」
「ああ、そうだね。なるべく大切にしようとは思っているが、まだ足りていないのはわかっているよ…… どうすればいいかは考えているが…… 風呂で全身丁寧に洗ってあげるのはどうだろう」
せっかくの冗談に、アライダはにこりともしなかった。
「それも結構でございますが、そういうことではなくてですね」
「どういうことだい? 」
「…… 端的に申し上げます。今後、坊っちゃまは…… 」
アライダはすーはーと深く呼吸したあと、びしり、と姿勢を正した。
「奥様以外の女性への身体的接触、 禁 止 ! たとえ友情や親切心からのものであっても 禁 止 でございます! それから! 」
「まだあるのかい? 」
「甘えるならばほかの女性でなく、奥様に甘えてくださいませ! 」
「…… アライダ。なぜ急にそのようなことを言われるのかが、僕にはさっぱりわからないんだが」
「奥様が、ルーナ・シー女史に御挨拶されようと温室に出向かれまして…… しかし、お話が盛り上がっているようだったので、と遠慮されてそのままお戻りになったのでございます」
なるほど、とうなずくラズール。
シェーナには遠慮深いところがある。そこをなんとかしようと、婚約してから約1ヶ月の間、なるべく溺愛してみせ甘やかしまくっていたはずだが……
やはり、真実の愛でないのでさほど効力がないのだろう。申し訳ないことだ。
「遠慮などしなくていい、とシェーナに伝えておいてくれるかい、アライダ」
「………… わかっておられますか、坊っちゃま」
「なんだい? 」
「奥様は、坊っちゃまとルーナ・シー女史のあまりに親密なご様子をご覧になって、嫉妬されたのでございます」
「………… まさか。シー先生とは、正真正銘、ただの友だちだよ。からかったことはあるが、寝たことはない」
「存じておりますし、僭越ながら奥様に説明もさせていただきましたとも! 」
「それでも嫉妬したというのかい? それはおかしい。シェーナがもし僕のことをそれほど好きになっているとしたら、あれだけ溺愛してみせていて喜ばないはずがないだろう? 」
「わかっておられませんね、坊っちゃま…… 」
主人の前なのでなるべく表に出すまい、と努力していても漏れ出てしまう、呆れ顔とためいき ――
それほど悪いことをした覚えはないのだが、と内心で首をかしげるラズールに、アライダはとんでもないことを言い出した。
「人は、欲張りなものでございます」
「うん」
「狩ったウサギの大きさに気づかない狩人でも、そのウサギが逃げ出そうとすれば、大きく美味しそうに見えるものでございます…… すなわち今の奥様はまさに、その状態かと」
「まるでシー先生が当て馬だったというように聞こえるね、それは」
「 そ の と お り で ご ざ い ま す 」
「まさか」
「いいえ。坊っちゃまからなし崩しにプロポーズされた過去といい、若々しく見えてしまう童顔といい、ルーナ・シー女史はまさしく立派な当て馬でいらっしゃいました」
「だが、シー先生はただの友人でしかもヤンデレ夫つきの既婚者で」
「関係ございません」
「僕は評判最悪の王国一の女たらしで」
「関係ございません」
「その上、おっさんだ」
「関係ございません」
「………… 今の話は、聞かなかったことにするよ」
「どうしてです、坊っちゃま? 国王陛下のご命令での婚約なら、ご結婚は確実ではございませんか。奥様がより旦那様を想われるのであれば、そちらのほうが奥様のためにも、よろしゅうございましょう」
いや全然よくない。むしろ、まずい。
―― もう、この婚約は真の婚約者が見つかるまでの暫定のものだとばらしてしまおうか…… と、一瞬考えたのち、ラズールは首を横に振った。
そのような残酷なことを、新しい奥様のためにイキイキと張り切っている侍女長に言えるだろうか。いや、無理だ。
(やはりクライセンが言うとおり、パーティーでの偶然の出会いを演出して 『シェーナに真実の愛が見つかったから婚約解消』 という方向に持っていったほうが…… アライダも納得するだろう)
そして今の 『当て馬』 云々に関しては…… アライダが納得する答えは、おそらくただひとつだ。
「…… わかった。ほかの女性にはうっかり触ってしまわないよう気を付けるし、いつ甘えたのかはよくわからないが、シー先生にはもう甘えない。シェーナにはもう一度、謝るよ…… これでどうだい? 」
「よろしゅうございます。ぜひ、そうなさってくださいませ…… 差し出たことを申し上げましたのに、お聞き入れくださいまして有り難うございます」
「いや、僕のほうこそ。忠告感謝するよ、アライダ」
「いえ…… では、失礼いたします。奥様をお迎えに行って参りますので」
いそいそと去っていく侍女長を見送りつつ、ラズールはひとり考え込むときの癖でアゴに手を当てた ――
当て馬とは、それほど効力を発揮するものだろうか。
(…… するだろうな)
ルーナ・シー女史の訪問だけなら、おそらく大したことはなかったのだ。
だが、その前情報、すなわちラズールが彼女にプロポーズしたことがあるという事実が、シェーナに対してかなりの威力を発揮してしまった可能性は高い ――
だが、アライダの言うような 『嫉妬』 まではいかないのではないか、とラズールは首をかしげた。
これまでのシェーナの様子から見るに、彼女のラズールへの感情は 『好意』 以前のものである。
ラズールが吐いてみせる砂糖まみれの溺愛セリフにも際どくならない程度のスキンシップにも、返される感情は 『緊張』 『警戒』 ひどい場合には 『寂しさ』 や 『軽い敵意』 ――
そうしたほろ苦い感情を味わうのもそれなりには美味しいものの、 『喜び』 や 『嬉しさ』 は皆無なように見えるのが、感情的甘党モンスターであるラズールにとってはつらいところであった。
婚約したためにほかの女性からのお誘いを一切断っている現状では、余計に。
(あの様子では、僕を 『獲物』 扱いするというよりはむしろ逆…… いつ補食されるかと怯えているのに、 『嫉妬』 にまでに変わるわけもない。しかしアライダの人を見る目は確かではあるが)
これまで親切一辺倒で女性にモテてきたラズールに、補食される恐怖が獲物を逃がしかけた苛立ちに変わる複雑な経緯などわかるはずもなかった。
無論、毎日のように溺愛してみせていることがすなわち、シェーナ自身でさえ気づかぬほどの弱パンチを恋愛的に与えまくっていることに通じるなど、思いも寄らなかったのである。
なにしろシェーナは基本、ラズールが何を言っても何をしても、緊張したり戸惑ったりしているだけなのだから。
―― ともかくもひとまずは夕食時のシェーナの様子を観察してみよう、と決めたラズールだったが……
その日の夕食で彼女がいきなり、婚約者として一歩も二歩も歩み寄ろうとするがごとき態度に出るとは、完全に予想外であった ――
夕食を始めてすぐ。
ラズールがダンスのレッスンをキャンセルして来客をとったことを詫びると、シェーナはそれを許すよりも前にまず、緊張を乗り込え彼を名前呼びしようとジタバタしはじめた。
昼には果たし合いでもするかのような表情で何度も 『ラズール』 と呼んでくれていたのに ――
あれは彼女によると、調子にのった結果であるらしい。
しばらく耳をほんのりと染めて試行錯誤したあげく、シェーナは諦めることにしたようだった。
「あの…… お昼には、なんか調子にのっちゃってお名前で呼んだりしてたんですけど…… 公爵、に戻してもいいですか? 」
「きみが呼んでくれるなら、なんでもいいよ、シェーナ。なんなら、ほかの者が 『公爵』 と呼ぶのを禁止しようか? 」
「いえいえいえ、それではあまりにもみなさんに申し訳ないですって…… ら、ら、らず」
「じゃあ、ラズと呼んでもらおうかな。それなら呼びやすい? 」
ラズールとしては、名前などただの記号だと思う。公爵でもなんでもかまわない。
だが、女の子が名前呼びにこだわるのならば、それはそれでかわいらしいものだ ――
しかしこの提案が、よりラズール自身の 『獲物』 化を助長している可能性があることには、彼はまったく気づいていなかった。
この程度は、彼にとっては単なる日常会話の範疇なのである。
「う、あ…… らず」
「なんだい? 」
名前など記号なのだ、とラズールは自身に言い聞かせた。
―― 公爵家の由緒正しい血筋をあらわす瞳の色にちなむこの名が、少年のころラズールは好きではなかった。
彼の片目はたしかに 『瑠璃』 だが、片目は 『琥珀』 なのだ。
『そのみっともない黄色い目を隠しなさい』
若かった母の、冷たい声が脳裏によみがえる。
『まるで不義の子のようではないの。悪魔のいたずらとしか思えない…… 本当に、なんてことなのかしら』
―― 母がラズールの琥珀の片目を嫌ったのは、この辺りに本音が隠されていたのだ、と大人になったあとで気づいた。
前国王の三女として王宮で育った少女は、この色の瞳の宮廷楽士にかなわぬ恋をしていたのだ。そして、意に染まぬ結婚で夫となった前公爵が当然のように重ねる不義に苦しめられてもいた ――
愛していなくても、いや、愛していないからこそ、夫が不義という形で彼女をないがしろにするのが許せなかったのだろう。
愛もなければ尊重もされない結婚が、どれだけ彼女の自尊心を傷つけたかということは推測してあまりある。
なのに、生まれてきた息子は彼女自身が不義を働いたかのような、オッド・アイ ――
理解してみれば、仕方のないことであったのだ。
それでも、ラズールの中にはまだ、母の冷たい目と声に怯え、自身を母の意に沿うように造形しようとしてもできずに泣いていた幼い子どもが膝をかかえてうつむいている。
幼馴染みでもあり婚約者でもあった王女が、琥珀の片目を 『孤高の獣みたい。かっこいいわ』 と評し、若干の苛立ちも込めて 『隠すなんてバカみたい。ならわたくしがその名で呼んであげる』 と言ってくれなかったら……
ラズールはおそらく、自身を価値のない出来損ないと信じて成長したことだろう。
後に婚約が解消され、彼女が彼のことを 『ラズール』 としか呼ばなくなっても ―― その都度、胸の奥で何かがひっかかれるような感触がかすかにはするものの ―― 彼女に感謝し、彼女を敬愛してみせる理由はそこにあるのだ。
(らず、だけなら、まあ…… 『ラズール』 よりはかなりマシか)
彼は、歓迎していることを示すために、目の前の婚約者 (暫定) にほほえみかけた。
「きみだけの呼び方だね。嬉しいよ、シェーナ」
「あふうっ…… らず…… 」
「なんだい、奥さん」
「らず」
どうやらシェーナは名前呼びで精一杯で、ほかのことを話す余裕がないようだ。そこまでして名前呼びにこだわるところもまた、かわいらしい。
食事の進まない婚約者 (暫定) の口にタイミングを見計らっては料理長自慢の仔牛のステーキを運んであげていると、彼女はやっと落ち着いたのか、夕方に読んだという本の話題を持ち出した。
「さっき、図書館で本を借りてきたんですけど、それが公爵の若いころの話に取材したものだって、アライダさんが言うんですよ」
「ああ、 『アーヴェ・ガランサス・ニヴァリス』 ? 」
本のタイトルはすぐに思い当たった。
その昔、ラズールが女性向け月刊誌 『月刊セレナ』 のためにジグムント編集長に頼まれて書いた、珍しくエロなしの恋愛ものである。
連載中はかなり評判が良く本として出版もされたが、時が経ち忘れられかけていたところを、なぜか最近の新聞に 『ユーベルのエロと比べると極めて平凡』 なるアンチ書評が載ったためにかえって人気が再燃しているのだ。
そして作家ユーベルことラズールとしては 『平凡』 という評価は悪くはなかった。
急ぎの依頼ではあったし、エロ小説ではないものの設定だのストーリーだのをいちから作るのが面倒だったために若かった当時の婚約解消やその周辺事情を当たり障りがなくなるまでねじ曲げて使ったのが 『アーヴェ・ガランサス・ニヴァリス』 であったのだが ――
憑依型の作家であるユーベルはそこに、当時の心情をかなりの量ぶっこんでしまったのだから。
虚構の中にいるときはいいが、しらふで見ると 『よくこんな恥ずかしいこと書けたな自分』 という感想しか出てこぬ未練がましいことこの上ない厨2的ラブレター。
それが 『アーヴェ・ガランサス・ニヴァリス』 の正体なのだ。むしろ 『感動的』 などと評されるほうが困る。
もしラズールに感情が知覚できたならば、きっと恥ずかしさのあまり、出版された本を全て回収して燃やしたに違いない。まあどうでもいいか、としか思えぬので、そのまま放置しているが。
「 ―― あれはかなり変えてあるが、そうだね。ヒント程度には利用しているかな。面白い? 」
「はい。一度ざっと読んだんですけど、もう一度ちゃんと読みたくなって」
「そう」
聞こうか遠慮しようか迷う ―― そんな様子で、シェーナはラズールのほうをうかがっていた。王女との婚約解消のことが、よほど気になるのだろう。
「言っておくけれど、僕たちは駆け落ちなんてしていないよ。非常に円満に別れたんだ」
「それもアライダさんから聞きました」
すべてはもう終わったことだよ、とラズールは内心で呟いてみた。
―― それが当時はどれほどの痛みをもたらそうと、そしてラズールが内面荒廃した人生を歩むことになる最初のきっかけであったことは間違いなかろうと……
そして今でも、その話題には心の奥底がざわついてしまったりもするが、それでも。
小説にできるのは、完全に過去のことだと見なせているからだ。
―― いまだ捨てきれない痛み、捨てる気などない痛みは別のところにある。
それは、誰にも話すことなどできない。
自分自身に、向かってですらも。
デザートのシャーベットを食べる間、シェーナは言葉少なに、なにか悩んでいるような表情をしていた。
厨2的ラブレター小説にアテられて 『円満に別れた』 との説明に納得が行っていないのだろうか。
―― だが、なぜラズールのことが特に好きではない女の子が、そこにひっかかるのか……
解せぬ、と、若干、眉をひそめてみるラズール。
このまま考え続けていれば、アライダの言ったとおり彼がシェーナにとって大きなウサギになりつつある可能性に気づいたかもしれない。
しかし残念ながら、ここで邪魔が入ってしまった。
「失礼します」
マイヤーである。マクシーネがらみで今は警戒せざるを得ない男とはいえ、もともとの彼は寡黙な働き者なのだ。
「料理長がベリーのジャムを多めに作りましたので、どなたかにお贈りになりますか」
「僕は特にないよ、ありがとう。シェーナは? 」
「んー…… 違う。と思う…… 」
「シェーナ? ジャムをあげたい人がいるかい? 」
「あっ、すみません、公爵、じゃなくて、ららら、らず…… 」
「なんだい、僕のかわいい小ウサギさん」
「あふぅっ…… じゃあノエミちゃんに、今度クッキー作るときに、持っていこうかな…… 」
「かしこまりました。ご準備いたします」
「んー…… 」
マイヤーが頭を下げて去っていったのにも気づかぬようすで、うなっては首をかしげ、を繰り返し続けるシェーナ。
実はこのとき彼女は、ラズールの心を未だに占めているらしい女性の存在をかぎとり、 『あのひとかな…… んー…… でも…… 』 と悩みまくっていたのだが、ラズールはもちろん、そんなことは知らない。
ただ、そんなシェーナもかわいらしい、とじっと観察していただけであった。
そのうち執事が、食後のお茶と封書の積まれた盆を運んできた。手紙や招待状の類いをラズールは、食後のこの時間にチェックすることにしているのだ。
封書は重要物とそうでないものとにわけられており、ラズールが手に取るのは主に重要物のほう ――
だが、そのいちばん上にのせられていた招待状に、彼は怪訝な顔をしてみせた。
「クライセン。どうしてワイズデフリン伯爵夫人の招待状が、重要物のほうにあるのかな? 」