聖女さまのメイドになりましたが、暗殺者らしき男と鉢合わせしてしまいました。
「今日からこちらに聖女様が入られます。みなさん、心して尽くすようお願いしますよ」
「はい」と一列に並んだ使用人全員が答えた。私、ナリネも同じくだ。
先日私は聖教会に雇われたメイドだ。
両親は根っからの使用人で、もちろん私も母と同じくメイドになった。
父と母はずっと雇ってもらっている伯爵家で働いている。私はそうじゃなく、最近まで親戚のやっている宿屋兼食堂で住み込みで働いていた。今回、聖教会が色々なところに声をかけて使える使用人を探しているという話を聞き、どうせならと面接を受けたのだが、まさか受かってしまうとは思わなかった。
しかしありがたい。正教会の使用人になり、自分の能力を生かせるなんて願ってもない。将来も安泰に違いないと私はるんるん気分でこちらに引っ越した。
ナリネの使用人部屋は、立地の問題からとても良い部屋で、しかも新築。いい匂いだ。
そして今日、ナリネたちが全霊でお仕えする主人が屋敷に移って来ることとなっていた。
使用人のトップである執事のバトーさんがナリネには念入りに声をかけた。
「ナリネ、あなたは聖女様の専属になりますから、頑張るのですよ」
「はい」
「彼女はあまり人に世話されるのに慣れていないらしいので、その仕事はあなた一人で行っていただきます。何かあればすぐに報告を。それから、自分の判断で物事を決めないように」
「わかりました」
この世界に時たま現れる聖女様という存在は、体のどこかに聖痕が現れた少女のことを指す。
そして彼女たちは汚れを払うことができるスピリチュアルな存在だ。一つの国で一人か二人生まれれば大当たりな、とても貴重な存在なのだ。
だから彼女らの存在が把握されるとすぐに聖教会と国によって保護される。しかしその把握はとても難しい。
生まれた女性の子供が聖女かどうかというのは、すぐにわかるわけではないからだ。
聖痕が現れる時期は女神の気まぐれと呼ばれるくらい統一性がない。一歳でわかることもあれば、六十を超えてから出現することもあると記録が残っている。
そして、この国にも久し振りに聖女様の聖痕が現れ、国はとても浮かれている。
この度の聖女様は、先日聖痕を発現された三歳の女の子だ。
先ほど皆の前で、略歴が教えられた。
名前はルピ。苗字は聖女になった時に外されるので無し。年齢三歳、金色の髪、緑の目。
能力の発現はまだなし。
性格は温厚。
好きな食べ物はお菓子類。今のところはビスケットを一番好まれていた。
辛いもの、冷たいものは禁止。
アレルギーは無し。
そして今日から聖教会の本部であるこの神殿の奥の屋敷一人で暮らすことになっている。
こんな歳で親元から離されるなんて、なんだか辛い話ではあるのだが、仕方のないことなのだそうだ。
人間の欲望というのは恐ろしいもので、聖痕のある少女を親元でそのまま普通に生活させていると、人攫いや神隠しにあったりするのだという。過去にそういうことがあったということだ。
だからナリネは選ばれたのだと自覚している。ナリネは数年間特殊な訓練を受けていて、武術関係のさまざまな技が使える。そしてこれは秘密にしているのだが、眠りの魔法も少し。
使用人の家系の出で、その様な技術のある女はいない。だから聖教会も最初は、女性騎士とメイドを各々つけるか、女性騎士にメイドの真似事をさせるかと考えていたらしい。そんな相談している時に、良い者がいたらと紹介を依頼していたナリネの訓練先から、その存在を知ったらしい。そして聖教会側から声をかける前に、まんまとナリネは面接に現れたと言うわけだ。
そしてナリネは聖女様の専属メイドとして選ばれた。
もちろん他の使用人も、武術や武器の覚えのあるもの達で構成されている。
大変な仕事だ。心してかからなくては。
ナリネは緊張して、ゴクリと唾を飲んだ。
目の前には聖教会から迎えに出した馬車が止まっている。
中には聖女様がいらっしゃるのだ。
馬車の前には聖教会の総主教始め、白い服装のお歴々が並んでいる。そして聖女館を警護する聖騎士の部隊。こちらは深緑色の制服。
そして聖女館の使用人。男性使用人は黒、女性使用人は灰色だ。
聖女に関わる全ての人間が綺麗に整列していた。
御者がドアを開き、中から少女が現れた。
聖教会の総主教さまが、老いた顔をにっこりと微笑ませ、聖女様の手を取った。
馬車から安全におろすと、そこに整列して集まっていた主教、司祭の面々が深く頭を下げた。
その列とは別に控えていたナリネも頭を下げる。
「ようこそいらっしゃいました、聖女ルピ様。これからよろしくお願いいたします」
全員が一斉に「よろしくお願いいたします」と復唱した。
聖女様はその声にびくりとされて、助けを求めるように周りをキョロキョロされた。
「恐れる必要はありません。皆、あなたのことを歓迎しておるだけです」
「は、はい……」
ああ、怯えて、可哀想に。
ナリネは今にも走っていって抱きしめてあげたくなったが、今はその時ではないので、しっかりと地に足をつけたままで見守った。
数時間後、やっとナリネは聖女様に紹介され、疲れ切った彼女を部屋に連れて行くことができた。
本来なら歩いている主人の後ろを静かについていくのがメイドの役目だが、聖女様は疲れ切って、ナリネのお仕着せのスカートを掴んで離さなくなってしまったので、そのまま並んで部屋に向かうことになった。
「手を繋ぎましょうか?」
声をかけると、彼女はこちらに目を向け、コクリと頭を下げた。
ああ、可愛すぎる。
「では、聖女様。お手をどうぞ」
手のひらを差し出すと、彼女はナリネの人差し指と中指をぎゅっと掴んだ。
「ではお部屋に向かいましょうね」
もうナリネは母性本能が目覚めてしまっていた。
絶対にこの子を守るわ。
部屋に着くと、室内を案内し、色々な使い方や、毎日の過ごし方を説明した後、温かいミルクをお出しして、お話を聞いた。
ミルクを飲んでから彼女は元気を取り戻し、これまであったことや、今日見た面白かったことなどを教えてくれた。
ほとんどのことはとても些細なことで、大人になったら誰でも知っていたり見たことのある話だったが、彼女は愛らしい顔をして楽しそうに教えてくれた。
それから少しお昼寝させ、夕飯を部屋で召し上がっていただいた。
寂しいだろうからと、ナリネも一緒にいただくことになっていた。
どうやら聖女様の子供らしさに衝撃を受けた総主教様以下のおじいさんたちも、彼女には母親代わりが必要なことがわかったらしく、今日から私は、メイド兼乳母として役割が増えることになった。私に異存はない。
今日の空き時間にその話を受けた時、聖女様の家庭の話を聞いた。親元を離されたと誤解していたが、彼女の母親は既に亡くなっているらしい。もし存命であれば聖女様は家族でここに移り住んでいたはずだった。しかし母親は産後間も無く亡くなってしまわれ、彼女は祖父母によって養われていたようだ。祖父母の方達は聖教会に住処を移すのを拒否され、彼女は一人でここにきたと言うわけだ。
父親はわからないらしい。
だが、聖女様の母親は身持ちが悪かったわけではなく、聖女様の父親は言えない方だと生涯口をつぐんでいたそうだ。
そのあたりの事情をきいたナリネは、なんだか切なくなってしまった。
夕食が済むと、お風呂と着替えのお手伝いをして、ベッド入れる。そのまますぐにでも眠りに落ちそうだったので、一応明日の朝の時間を伝えて枕元の蝋燭の火を落とした。
それから、自分の部屋に持っていく用の蝋燭だけを持ち、部屋の外に顔を出す。
部屋のドアの前には二人ほど聖騎士が控えていて、夜の警備をする。
ナリネは二人ともに「よろしくお願いします」と頭を下げて部屋に戻り、続き部屋として作られた使用人部屋に入った。
ナリネの使用人部屋は、聖女様の室内の衣装部屋の隣に作られたもので、聖女様とは扉一枚でしか離れていない。それも薄い扉で、音は筒抜けになっている。
ドアの側で、聖女様の寝息が届く事を確認し、ナリネは就寝の準備を始めた。
それから二時間後。
ナリネは寝間着に着替え終わり、日中固く縛ったままだった茶色い髪を解くと、何度も何度も櫛で梳かしていた。
一瞬、聖女様の部屋からカタリと音がした気がした。
ベッドの近くではない場所からの音だ。
ナリネはサッと立ち上がると、部屋の蝋燭を吹き消した。
音を立てずにその部屋を出て、聖女様の部屋様子を確認する。
頭巾をかぶった黒ずくめの男と目が合った。
まずいと思った時には遅く、背後に回り込まれ口を押さえられてしまう。
相手の服は、とても動きやすそうな上下で、夜に紛れるためのものだとわかる。
部屋の中に灯りはない。窓から入る月の光だけで判断するしかない。
男がナリネの首に手を回し、グッと力を入れようとした瞬間、ナリネは肘を思いっきり男の腹部にめり込ませた。
「うぐっ」という声が男からもれ、拘束が弱まる。ナリネはもう一度肘を振り切り、俯きかけた男の顔面に肘をめり込ませた。
完全に腕が解かれたので、すぐに男から離脱し、聖女様のベッドへ走りながら「曲者!」と大声を出した。
数歩でベッドにたどり着き、聖女様を確認する。
何の問題もない。顔を近づけて寝息を確かめ、薬品の匂いがしないかを嗅ぎ分ける。
大丈夫。
「隊長!」
「大丈夫ですか!」
部屋のドアが開き、どかどかと男たちが入って来た。そして隊長を呼ぶ声。
「大丈夫だ……」
ナリネは一瞬部屋の外に聖騎士団の警護隊長がすでにいるのかと思っていたのだが、「大丈夫だ」と答えたのは、部屋の中にいた黒ずくめの男だった。
ナリネは慌てて聖女様の体を抱き起こし、ベッドを乗り越えて窓際まで移動する。
暗殺者かと思ったが、誘拐?
入ってきた隊員も不審者を心配するあたり、ここに彼を招き入れたのはこの二人だ。
誰も信用ならない。
ナリネは男達の方にくるりと振り向き、窓を背中にした。
肘で窓を破ろうと振り上げると、警備隊長らしき黒ずくめの男が慌ててナリネに追いつき腕を掴んで止めた。
「待て、待て違う。これは試験だ」
「それを証明されるまで信じません」
ナリネは腕を捻って警備隊長の手から逃れ、隊長らしき男に蹴りを入れて離れる。
そして隣の窓に移動。
肘で最初の目論見通り窓を割ると、聖女を抱きしめたまま、そこから飛び降りた。
「おい待て! くそっ三階だぞ! 下へ回れ!」
声は遅れて聞こえてきた。
確かにここは三階だが、途中に窓枠や飾り段があることはチェック済みだった。そこにしっかりと着地し、窓から地面を探す彼らの目から逃れる。
衝撃でうっかり目が覚めた聖女様と目があった。
「ナリネ……? え、外?」
「ええ、暴徒が現れましたので、総主教様のお部屋に行きましょう。舌を噛まないように、お気をつけくださいね」
ナリネは彼女を再び微量の魔法を使う。ベッドから抱き起こす時から聖女様には眠りの魔法を使っていた。
聖女様はまた気持ち良さそうに眠りに落ちる。
それを確認すると、ナリネはしっかり頭に入れていた、この聖教会の敷地内の地図を思い出し、総主教の部屋に突撃することにした。
「ああ、全く君は素晴らしいね」
ヨボヨボのお爺さん的外見の総主教様は聖女様を抱きしめたまま部屋に訪れたナリネを招き入れ、パンパンと拍手をした。
「いえ、まだ賊は……いえ、謀反でしょうか? 警備隊の方が部屋に侵入し、襲ってきましたので応戦し、こちらへ聖女様を連れ出しました」
「ああ、それでいい。それにここに来たのもよろしい。君に説明する必要があるだろうから起きて待ってはいたのだが、まさか直接ここに来るとはな」
「罰は受けます。しかしこういう場合、誰が信じられるかわかりませんのでこちらにしました。私はこちらに勤めさせていただくのは今回が初めてですので権力図や派閥もわかりません。申し訳ありません」
「いや、いや、いい判断だ。重要なのは聖女様の安否だ」
そう言って総主教はソファーの上の聖女様を見たので、ナリネもそれに倣った。聖女様は毛布を与えられ、ぐっすり眠っている。
「そのうち警備隊も君を探してここに来るだろう」
「あの方達は一体?」
「彼らは何と言っていた?」
「一瞬、違うとおっしゃっておりましたが、信じる必要を感じませんでしたので窓を割って部屋を出ました」
ナリネはあの場で信じるか信じないかの判断を下す必要はなかった。それは聖女様に対して一番責任のある方がする事だ。使用人である私は、相手の言葉に左右されず、任務を遂行することが仕事だ。
「ああ、その判断で正しい。少しゆっくりしなさい。まだ少し時間がかかるようだ」
ナリネは頷いた。確かにここに来るのは時間がかかるだろう。正規ルートでくれば、何人もの警備に止められるところだ。総主教ともなると、聖女様同様に敷地内に屋敷を持ち、警備が手厚いのだから。
「こちらの警備は聖女様の警備隊とは別の?」
「ああ。別の隊だ」
「そうですか」
だったらここまで警戒する必要はなかっただろうか?
ナリネはこの部屋にたどり着くために、聖女様を背負い、壁を登ってきた。そして直接総主教様の窓を叩いたのだ。
「ところで君は、誰のところで修行したのかな」
「マーカス閣下の特殊訓練、武器訓練に参加させていただきました」
「ああ、それは強いだろうな」
マーカス閣下は、軍事部隊を作るスペシャリストとして知られる男爵で、領地には強固な要塞と、訓練施設、部隊を持ち、何種類かの新人教育訓練を行なっている。
その種類は、正統派の騎士、武器、特殊訓練で特殊訓練を行った人物はその経歴を秘匿される。
ナリネは一度、メイドという道を諦めてその訓練に参加しに行った。本当は騎士訓練を受けたかったのだが、適性試験の結果で特殊訓練を勧められ、そちらに移った。
「ところでなぜその道へ行こうとしたのかな」
「両親の勤め先の子息にお手つきにされそうになったので、仕方なくそこを離れました。ちょうどマーカス閣下のところが新人募集していましたので応募しました。寮付きだったので。そこを出た後は、やはり使用人の方が向いていると思い、働き先を探しながら親戚の宿屋で住み込みで働いておりました」
「なるほど。面白い経歴だ……」
総主教がくすくすと笑った。
そのうちにどかどかと靴音が聞こえだした。そして間も無く部屋のドアが開けられる。
「総主教様、逃げられ……。ここか」
黒ずくめの男は、すでに頭を隠していた頭巾を脱ぎ、その顔を晒していた。
そして言葉は途中までは総主教に向けられていたが、後半はナリネに向けられたものだった。
男は、ウェーブのかかった黒髪をかき上げ、一瞬ため息をついてから、姿勢を正して踵同士をぶつけて敬礼した。
「任務完了いたしました」
「ああ、くつろぎたまえ」
総主教はさっきまでとは違い、まじめ腐った顔で男に語りかけた。
「それで、君の評価はどうだねルート君」
「問題ありません。彼女は完璧に聖女様を守り切りました」
「そうだろうな」
なるほど、試験だったわけだ。
総主教は満足げな顔をして男の顔を眺めた。
「彼女に派手にやられたようだね」
ナリネが見上げると、左目の周りははっきりと青あざができている。
そして初めて見た彼の顔は、とても整っていた。
全てのパーツがバランス良く並んでおり、眉は意志が強そうな直線型。顔から滲み出る印象は少し厳つくはあるが、きっと大人の女性にモテるだろう。だが代償として若い娘からは恐れられて近づいてもらえないだろう。
そんな印象の男だった。
男の顔を見て、そんなことを考えてしまうあたり、ナリネも女である。と自分で呆れた。
「ええ、全く、すごい肘打ちでしたよ」
男の言葉に、思考を戻す。
彼の顔のアザの話だ。ナリネは何か言うべきかと思ったが、先に総主教が口を開いた。
「ナリネさん、彼は聖女警備隊の隊長、ルート君だ。よろしくしてあげてくれ」
「はい」
「そして、今日は悪かったね。君ももう寝るところだっただろうに、寝間着のまま外出させてしまって」
そう言われて、ナリネは自分が今白いフランネルの寝間着……ネグリジェ一枚で、髪も結っていないことに気がついた。
一気に顔が赤くなる。
「……っいいえ」
ナリネは恥辱を感じた。言葉とともに一度頭を下げた後、顔の熱が収まるのを待つまで顔を背けて壁を睨んだ。髪をまとめたかったが、紐もピンもない。諦めて垂らしておくほかなかった。
「今日は初日だからね、聖女様が守れるかどうか、君を試させてもらったんだ。君はとても良くやった。もう部屋に帰って眠ると良い」
ナリネは聖女様を見て、それから慌てた。
「あの、聖女様の部屋の窓を割ってしまいましたので、聖女様を寝かせる場所が……」
「窓を? なぜ割ったんだね」
総主教が問い詰めたのは警備隊長のルートの方だった。
「彼女は窓を割り、そこから聖女様を抱えたまま飛び降りました」
「なんと」
「素早い離脱で舌を巻きました」
「ああ、ますますよろしい」
で、窓はどうするんだろうとナリネが思っていると、警備隊長が喋った。
「今から部屋に行って私の方で窓に板を貼ろう」
「そうですか、では」
ナリネは聖女様の元へ行き、総主教が「毛布ごとで構わない」と言ったので、毛布で体を包んでから、眠ったままの彼女を抱き上げた。
「では、失礼いたします」
「ああ、今度はそっちの扉から出ていってくれ。私の警備隊にも君の生の顔を覚えてもらいたいからね」
「はい」
「では、私も失礼いたします」
警備隊長も後ろで頭を下げ、ナリネの後ろを追うように部屋を後にした。
ナリネは歩きながら、とても健やかに眠る聖女様を眺めた。
彼女がほとんどの間眠っていたことに誰も疑問を抱かなかっただろうか?
今日の出来事に疲れていたと思っていてくれればいいが。ナリネは眠りの魔法のことは隠しておきたかった。その方がもしもの時の武器になる。
「聖女様を私が抱いてもいいのだが」
後ろを歩いていた警備隊長が声をかけてきた。
「いいえ、結構です」
「疲れないか」
「疲れません」
つっけんどんに答えた自覚はあった。
だがナリネは彼の試験を怒っていたわけではなかった。訓練所へ行っていた頃は、抜き打ちでの訓練はいつものことだったので、似たような目には何度もあったことがある。だからさっきの事は気にならないし、根に持つつもりもない。
ナリネが気になるのは、今自分が寝間着一枚であり、髪の毛も下ろしたままだと言うことの方だった。
こんな格好でこれから一緒に働くことになる男性の前を歩かなきゃいけないなんて、屈辱以外の何者でもない。
「君が強いのは認めるよ」
「ありがとうございます」
「どこで訓練を?」
「マーカス閣下のところです」
「なるほど、強いわけだ」
しみじみと納得した声が聞こえる。そしてすぐに質問が追ってくる。
「それで、訓練を受けた理由は?」
ナリネは総主教に答えたのと一字一句同じ事を喋った。
「両親の勤め先の子息にお手つきにされそうになったので、仕方なくそこを離れました。ちょうどマーカス閣下のところが新人募集していましたので応募しました。寮付きだったので。そこを出た後は、やはり使用人の方が向いていると思い、働き先を探しながら親戚の宿屋で住み込みで働いておりました」
「なるほど、ほかに意図はないと」
「はい。襲われそうになったことで、男をぶちのめしたいと思った以外の意図はありません」
「ははは……君は強いな」
ふと気づくと、隣にルート隊長が並んで歩いていた。
見上げると、目が合い、中庭を歩く間、彼の目に月の明かりが当たってキラキラ輝いているのが見えた。
警備隊長にアザを作ってしまったのは申し訳なかったかもしれない。
明日は散々噂されるに違いない。
「今日はいい月夜だ」
「は……?」
「君の髪に月の光が輝いている」
どうしたのだろうこの人は。突然の詩的な言葉に、ナリネは首を捻って月を見上げた。
空には雲ひとつないようで、月が丸く大きく輝いていた。
「たしかに満月ですね。試験は新月の前がよかったかもしれません。今日は明るくて簡単過ぎましたから」
そう答え、もう一度彼の顔に視線を戻した。
彼はまだナリネを眺めていた。彼の瞳孔は開いている。
それはもちろん夜だからのはずだ。
それとも、
居た堪れなくなるべきだろうか?
ナリネには彼の意図が図りきれなかった。
そして彼はフッと笑った。
そして前を向いてまた歩みを始めた。
気づかないうちに二人は足を止めていたようだ。
「さあ、聖女様の部屋に帰ろう。窓を直さなくては」
「材料を取ってこなくてよろしいんですか」
「ドアの前にいた騎士がもう用意しているはずだ」
彼は気楽そうに言った。
今度は警備隊長がナリネの前を歩いている。
ナリネは彼の引き締まった体を観察した。
動きもとてもバランスがいい。今日の様に手加減していなければ、彼はとても強いだろう。
素晴らしい騎士に違いないと評価した。
少しして前方から「まったく君はいい女すぎるな。……惚れそうだ」とか、そんな呟きが聞こえた気がしたが、ナリネは聞こえなかったふりをした。
だが顔が熱くて仕方なかった。
今は振り向かれたら困る。
今夜はとても月が綺麗な夜だから。
読んでいただいてありがとうございました。
楽しんでいただけたら幸いでございます。