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動機

 だるい土曜日の午後。パッとしない天気にシャワーも浴びてみたけれど、じめじめとした感覚が増すだけだった。

 手の中でその冷たさを肌に馴染ませる携帯は、ベルを鳴らさない。

 太股の上で、猫が頭を垂らしてている。その柔らかな体に指をすり寄せてみると、悲しくなる程の暖かさが私を襲った。とても心地いい手触り。もっと強く抱き締めたいけれど、抱き締めたら逃げてしまうし、無理矢理抱き締めたら苦しんでしまう。私が手を伸ばせなかった何かに似ているから、猫が側に居ると落ち着く。

 村田真之が死んでから一日経った。私の記憶では確かそうだった。




 時間がとても長く感じられた。

 子供は立ち入り禁止の集中治療室。入って手前の方のベットの人たちは、急な発作や大怪我などらしく、周りを囲む家族が心配そうに見つめている。けれど奥の方になると、重病な患者たちが死を待つように眠っていた。

 その一番奥の部屋に村田は居た。ライブ会場の楽器みたいに、沢山のコードにつながれて。

 辛くて、そんな村田の姿から目を逸らした。でも、側に居てあげられるのは私しか居ないことに気がついて、ゆっくりと顔を上げた。

 薬物多量投与の影響で筋肉が硬直し、痙攣で体が時々ぴくぴくと動いた。村田が穢れていく。なんとしても生命を繋ぎとめようと、薄汚い混濁した液体を身体に混ぜられる。

 私はそっと、村田の手を握った。なんて冷たい身体。

 悲しくなった。鼻が痛くなって、目頭が熱くなった。けれど涙は出なかった。もしかしたら私は、冷酷過ぎる人間になってしまったのではないだろうか。

 村田はもうこの世界に居ていい人間ではない。本能で分かる。けれどまだ急変は起こらないという確信があった。まだここに居る。こちらの世界に、居る。

 ずっと同じ日が続くと思っていた。日差しが刺さる日も、雨の痛い日も、雪の冷たい日も、桜の降る日も。なのにどうして変わってしまったのだろう。変化のないことが、一番幸せなことだというのに。

 私は強く村田の手を握った。すると筋肉硬直で痙攣する村田の手が、まるで私の手を握り返しているかのように動いた。違う、村田が握り返したんじゃない。

 そうとは分かっていても、私は祈るような気持ちで村田の手を両手で握り締めた。




 泣きただれた顔を窓に向けて、開け放たれた窓の外の景色を眺めた。私の気だるさを象徴するように、雨は淑やかに降り続いていた。永遠の輪廻転生。雨を見ているとそれを信じられるような気がする。

 隣にあるペットボトルを手に取り、ぬるくなった水を飲む。なんの変わりもない水。村田と出逢った時期、私は毎日のように図書館へ通い、自販機で水の入ったペットボトルを買っていた。何故水なのかは分からないけれど、とにかく水が飲みたかったのだ。それ以外は飲みたくなかった。

 図書館は身体が落ち着き、心がわくわくする場所だった。そんな雰囲気が好きだった。だから夏休み中ずっと図書館に通っていた。お金には困っていなかったから、アルバイトなどをする必要もなかった。朝、図書館が九時に開館すると同時に入館し、一時くらいに昼食を食べに、本を借りて近くの喫茶店へ行く。そしてまた食べ終わると図書館へ戻り、閉館ギリギリになって帰宅する。

 家にいても何の意味もなかった。


「よく熱心に本を読んでるね」

 息が出来なくなるくらい蒸し暑い夏の日、私はいつもの通り図書館へ来ていた。明るい色をした木目の大きな読書用テーブルに座りながら、ハインラインの『夏への扉』を読んでいたところ。SF界では有名で、人気の高い作品である。私はこの作品が好きで、もう何年か前に必死に読み進めていった記憶がある。最後の主人公の企みに、目が離せなくなってしまったのだ。今はもう、結末の方はあまり覚えていないのだけれど。

 主人公を騙した女の手によって、主人公が冷凍睡眠に入れられてしまうシーン。そんな時、突然隣の男の子に声をかけられ、少し驚き少し苛立ち、そちらを窺った。

 ふわふわとした栗色の髪と、必要以上なまでに黄色人種的な黄色い肌。そんな肌に白いTシャツが似合っていた。年齢は同じくらいだろうか。目許が優しげに細められていて、それにとても親近感を抱かせた。だが、常識的に考えて、いきなり他人に話しかけてくる奴に普通の人はあまり居ないと思う。

 私はしばらく無表情のまま彼を見つめると、眉をひそめて口を開いた。

「誰?」

 知り合いにこんな顔は居なかったと思う。それに不思議な雰囲気のする人だ。なんというか、敵意というものがない。

「声かけちゃまずかった?」

 私は更に眉間にしわを寄せた。元々無愛想なのに加えて、だ。

「まずかったって、普通他人にいきなり声をかけたりしないと思いますけど」

 私はつっけんどんな敬語で答えて、しっかりと私と相手の境界線を引く。相手がどんな奴であろうと、私は私の態度を崩さない。

 別の言い方をすれば、崩せない、かもしれないけれど。崩そうとしたことがないから分からない。

「ごめん、本当に怪しい者じゃないんだ」

「何か私に御用ですか、手早く済ませて下さい」

 スッパリと言い切るのは私の癖だった。そんな私の鋭い目に捉えられた、目の前の妙な男は、なんと弁解しようか迷っているようだ。

「えーと、それ、その本、出版社は何処?」

 私は彼に表紙を半ばつきつけるようにして見せた。

「あ、やっぱりそうだ」

 一人で納得する男を前に、私は小首をかしげる。

「この本ね、俺が訳したやつなんだ」

「あなたが?」

 しばらく色々な角度から本を眺めてから、普段滅多に大きく開かない目をパッチリと開き、目の前の“自称翻訳家”を見つめた。親戚が編集者か何かだろうか。それともまさか、筆で自分の生活を営んでいるとか。

「うん、暇だったから。それに、俺、アメリカからの帰国子女で英語は得意なんだ」

 ニカニカと笑う彼の手許に目をやると、『続・写真撮影のテクニック』と背に太い明朝体で書かれた分厚い本が握られていた。

「余程多趣味なんですね」

 私はいつでも言いたいことをストレートに言う。その通り、今も。

 彼は軽く苦笑いすると、

「暇だからね」

 と言った。

 私は呆れたように目を伏せた。邪魔が入ったので、別の席に移動しようかと考えだしたところ。

「ね、良かったらちょっとその本の感想聞かせてよ」

 私はすぐに顔全体で「なんでよ」といった風な顔をした。相手はもしかしたら年上かも知れないけれど、変な人とは関わり合いになりたくはない。

「あなたの執筆した本ではないんでしょう?」

「うん、でも訳した方として原作の良さがきちんと読者に伝わってるか知りたいんだよね」

 私は細く開いた目の中から、男の顔を凝視する。向こうは頬に微笑みを湛え、凛とした表情のままこちらを見つめ返していた。




 また一口、口に水を含む。生ぬるい水が、ゴクリと私の喉を通り抜けた。

 村田が現れてからはあまりに幸福な時だったから、私はこの切り裂いてしまいたいような人生の中で、少しだけ永遠を祈った。

 私の父親と母親は、私が十三歳の時離婚して以来一度も日本に戻ることなく海外に住んでいる。余程居心地がいいのか、私に会いたくないのか知らないけれど、私を誰も引き取らなかったことだけは事実だ。別にそれで寂しいとか孤独だとか感じたことはない。空気、水、本。世の中には沢山の愛すべきものがあるし、それだけで私は十分だった。生活費やその他諸費などは父と母が適当に私の口座に振り込んでくれる。だから私は、まだ彼らが生きていることを知る。そして時々その人たちのことを考える。新しい人生をどう歩んでいようと、私にはさほど関係のない話だけれど。

 村田は私と同じようで少し違った。両親が居ないことは居ないのだけれど、彼の場合は死別だった。両親を飛行機事故で亡くしたのだ。一瞬のことだったそう。村田の父親の経営する会社の取引相手とのパーティがロサンゼルスで行われ、そこからの帰りの飛行機がエンジン故障により墜落した。その話を聞いてから私は良く死ぬ瞬間について考えるようになった。

 村田が死んだ今となっては、死なんていうものはあまりに恐れ多くて想像することなど出来なくなった。生と死は、科学的に証明されているようで、人知をはるかに超えた存在なんだと思い知らされた。




「ロサンゼルス?」

「うん、俺も行ってみたいんだ」

「ロスでギャンブルでもするつもり?」

 私は思ったことをスパッと言い、彼の気楽な態度を一刀両断にした。

「何となく思うけど、そういうのって続くと思うよ」

「続くって、俺が父さんや母さんみたいに飛行機事故であの世行きになるってこと?」

「そう。私こういう勘は当たりやすい方だから信頼してくれていいと思う」

 手許の熱いカフェラテをちびちびとすすりながら、いつも通り感情のない声で言った。でも自分が誰かに何かを忠告してやりたいと思って、忠告を実際にしてやったのはこの人くらいかもしれない。

「まあそれもそれで楽しいんじゃないかな」

 村田は本当にどうでも良さそうに言った。私は呆れて目を伏せた。

 確かに、今更どうでもいいことなのかもしれない。

「そういえば、夏場だっていうのに凄いよな」

「何が」

 私は視線を窓の向こうに向けたまま言った。

「君が」

「私が?」

「こんなクソ暑い日だっていうのに黒いTシャツ。その上にまた白いシャツ羽織ってるんだから」

 村田は私の服装に目を向けた。私も自分の身体に目をやってみる。黒いTシャツの上に白いシャツを羽織り、その下は黒いスカート。そして律儀にくるぶしまでの靴下を履いて、コンバースのスニーカーを履いている。私は白黒の服装が一番好きだった。

「女性はあまり肌を露にしない方がいいのかも知れないけどさ、もうちょっと涼しくしないといつか熱中症で倒れるよ」

 村田は自分の手許のアイスレモンティーを口に含んだ。私はしばらく自分の手許の熱いカフェラテと、村田のアイスレモンティーを見比べる。

 この喫茶店で落ち合うのも何度目になっただろうか。この夏休み、村田と出会ってからほとんど午後は喫茶店などで過ごしている。

 どうしてだか知らないけれど、一人のときより村田と居る時の方が落ち着くような気がする。恋とか、そんな気取ったものではなくて、安心とかそういう甘ったるい感覚のものだと思う。どうしてそう思うのか分からないけれど、多分気楽だからだと思う。元々私は誰に対しても気を使わない。大概の人は気分を悪くする。でも、村田は自分の好きなようにのびのびと話し、時々黙り、時々私の話に耳を傾ける。本当に気楽。

 でも、私が気を使ってないといないということは、きっと村田は気を使っているのだろう。そうしなければ、こうやって話していることすらままならないだろう。

「あ、そうだ」

 いきなり手を打つと、村田はゆったりとしたズボンのポケットの中から、普通より一回り大きめのサイズの写真を取り出した。

「この間撮ったのを現像したんだ。良かったら見てよ」

 村田の差し出した写真をそっと取り、一枚ずつ眺めた。こういうのは普通ならお世辞で褒め殺しするべきなんだろう。でも、そういうので喜ぶ人はきっとうまくなる気がないんだと思う。

 その写真たちが写しているものは、なんの変哲もない庭の一部たちだった。

「これはいつとったの?」

「先週かなぁ。ま、俺にとって時間なんてあんまり関係ないからね」

 村田は高校に受験しなかった。両親が残した莫大な遺産で、のんびり生活をしている。多分、贅沢をしなければ死ぬまで働かなくて済みそうな額の遺産だそうだ。

「そう。私は律儀に学校に通ってるから時間に束縛されて、そんな自由になった想像が出来ないわ」

「学校に行かないは行かないで、趣味が増えるよ」

 村田はわざとらしく肩をすくめた。そして、指を折りながらゆっくりと数え出した。

「今までに、釣、合気道、カメラ、翻訳、読書。独学でミサイルの勉強もしたなぁ。」

「とんでもないこともしてるのね」

 私は彼の言葉を一つとして信じて居なかったので、適当に流した。

「様々な分野を手広くカバーしてるのさ」

 得意げに言う村田に、私は思い切り如何わしげな視線を向けた。

 私が写真を一枚一枚見ていく姿を、村田が目を細めて見ている。私の視線は確かに写真を向いているのだけれど、分かる。こちらを向いて、まるで遠くで飛び立つ鳥を見つめるような目で、私の横顔を眺めている。

 私は、一枚の写真を手に取ると、視線を合わせぬまま村田に訊いた。

「これは?」

 村田が「どれどれ」と身を寄せてくる。私の手の上に乗った写真をまじまじと眺めると、眉を寄せて「うーん?」と唸った。

「心当たりがないの?」

 改めて村田を向いて訊いてみると、村田は視線を上げて首を横に曲げた。

「あるようなないようなで、よく分からない。でも絶対俺が取った写真だっていう確信はある」

「すなわち撮影した時の事細かな記憶が欠落している、と」

 私が言い換えてやる。

「そう」

 村田はコクリと頷いた。

 私は写真に向き直ると、じっと見つめた。

 写真の中に写っていたのは、間違えなく血だった。古びた紙のような色をした壁に、なすり付けられたような血があった。まるで、手についた血を必死にこすり落とそうとするように。そして、私はこの血に強い既視感を感じた。

 私の身体が自然と震え出した。

 いけない、早く自分の制御が効く場所に逃げないと。ほとんど私の本能的な心理だった。

 村田はいち早く私の異変に気がついた。

「どうしたの」

 焦った表情で私の顔を覗く。俯いた私の表情が見えたかは知らない。村田が私のことをとても心配しているのはよく分かった。それと同時に、どうすればいいか困っていることも感じられた。人に触られたり、必要以上に言葉をかけられたりするのが嫌いな私に、どう接すればいいか困っているのだろう。

 よくも私はこんな時に、思考が回ると思う。普段から表情を浮かべないようにしてたのは、ふとした拍子に欠落した表情を繕うのが面倒だから。そして嘘に等しい弁解をせずに済むから。自分にも分からないことを他人に語るのはとても難しい。それでも人の多くを詮索をしたがる。

 喫茶店のクーラーが、私の身体を薄く覆った汗を冷やした。

 首だけで向いて、村田に言う。

「ううん、大丈夫」

 私は何故だか村田が困る姿を見たくなかった。それで、頑張って、何年ぶりかの微笑みというものを浮かべてみた。唇の端を少し寄せただけなのに頬の筋肉が痛い。

 でも私の微笑みを見た村田は、まるで何か衝撃を受けたように目を見開いた。そして次第に険しい表情になり、普段の表情は消え失せた。私はその時、何年ぶりかに人を怖いと思った怖いと思った。

 私の腕を掴むと、

「出よう」

 と目も合わさずに言って、強引に私の手を引いて外へ出た。急激な温度差が私を襲う。じりじりとコンクリートを焦がす日光に、息苦しささえ覚える。

 喫茶店から出て一分程歩いた。そこには並木道が広がり、木漏れ日がきらきらと海のようだった。

 人の少ない脇道で、ようやく立ち止まった。村田は私の手を離した。私はそれまで、一度も手を振り払おうとはしなかった。

「ねえ」

 村田はうつむいたまま声を発した。今は返事に相応しくないと思い、そして返事に適する言葉が見つからないので黙っていた。

「どうしてそんなに、悲しい目をして笑うのさ」

 私は黙っていた。

 風が辺りの木々を揺らし、葉の間からこぼれる光が踊る。夏草が茂る公園の原っぱを、風が優しく撫でていく。そしてその風の尻尾が、私の頬に触れて遠くへ消えていった。

 風の音が絶えた時、村田が口を開いた。一つ一つ慎重に言葉を選んで。

「俺は何も訊かないよ。だけど、そんな顔をするのはやめてくれ」

 私は驚いた。顔を上げた村田の頬には、一筋の涙が伝っていた。

「これは要求や、強要なんかじゃない。お願いだ。俺は辛くて見てられないよ」

 何の為に涙を流しているのだろうか。一体、何の為に。

 私はどうにかしなければならないと思って、更に自分を混乱に陥れることになった。まるで、ほつれ出した糸のように。まるで、火の中に放り込まれた氷塊のように。止める術がない、どうすればいいか分からない。

 混乱の極みに達する私が崩れていく前に、何かひんやりとした感覚が、一瞬身を掠めた。

 そしてもう、次の瞬間には村田の胸の中に居た。

 震えて自分を支えるのも大変な私は、完全に村田に寄りかかってしまっていた。心の中で、「私は誰にも寄りかからず、自分だけで生きていくはずじゃなかったのか」と何かが囁いていた。

 それでも、私は。

 逞しい腕に力強く抱かれることに、安堵さえ覚えていた。

「混乱を押さえ込むのが悪いこととは言わない。でもそれをずっと続けていたら、君は死ぬまで苦しむことになるよ?」

 村田の言葉が不思議に悲しく響いた。




 手許にある二つ折りの携帯を開いて、青白い光を顔面に向けた。目が痛くなる。スクリーンが私に時間を教える。今は三時、時間が物凄く早く感じられる。ついさっき夜が明けたと思ったのに。今の私はまるで、夢の中を泳いでいるようだ。時間や肉体の干渉を受けない、そして感覚すらない。何故だか過去の回想ばかりしてしまう

、村田との。

 昔こういう風に壊れてしまう寸前になった私を、村田が助けてくれたことがあった。そう、先程私が泳いだ夢の中にもあった気がする。あの時は確か、写真を見て混乱してしまったのだ。

 あの写真の中の血に私は脅えた。痛む、父の日常的な精神的虐待の傷跡が。生々しい死体やグロテスクな写真を見せては、私の悲しむ顔や嘔吐する姿を見て楽しんでいた。血は付き物だった。

 これを「心の傷」なんて言い飾ることはしないけれど、きっと何処かで引きずっているのだろう。私も馬鹿みたいに母親っ子だったから、父親の刃から守っていってくれなかったことに、裏切られた気がした。時々覚える、人に対する強い不信感。

 私の太ももの上に頭を垂れる猫が、その小さな頭をもたげた。四本足で立ち上がると気持ち良さそうに肢体を伸ばし、冷たいフローリングの床を歩いていった。恐らくトイレだろう。

 小さな心の揺れも感じ取ってしまう、優しい村田。誰が悪かろうと自分を責めてしまう、悲しい村田。思い出す度、無限に続くであろう喪失感が溢れ出す。

 あの時私が抱いてた気持ちを恋心と勘違いしていたのなら、私はどうしていただろう。

 雨が勢いを弱め、霧のようになってきた。




「ご家族の方ですか?」

 冷静な態度の看護婦が、私の対応をした。ナースステーションのカウンターを挟んで、私は言った。

「いえ」

 私の顔にはいつものようの表情はなかった。だが今日は少し違う。心臓が早鐘のように鳴っていた。こう落ち着いているのが大変なくらいだった。こんなに心を取り乱してしまうなんて何年ぶりだろうか。呼吸の割に酸素が足りない。

 平静を装う私に看護婦が訊いた。

「では、あなたは堀田美穂さんですね?」

 私がコクリと頷くと看護婦は腰を上げた。余程気が向かないのか動きが鈍い。それは面倒臭がっているというよりは、私をその場所へ連れて行かないようにしているようだ。もしくは気が動転した私の勘違いかもしれない。

 ナースステーションから出た看護婦を追った。足が上手に動かずうまくついて行けなかった。まだ八月で夏真っ盛りだというのに、私の身体はガクガクと震え始めていた。そして身体の芯から、全身が凍るように冷たかった。膝と指先の震え。私はそれをクーラーのせいにして、ひたすら看護婦の背を見つめる。

 集中治療室のドア。その一つ目のドアを開けると、まず全身に風のようなものを浴びせられて除菌され、手もきちんと消毒用のもので洗う。

 本来ならば未成年者は立ち入り禁止となっているのだが、今回は特別に入れさせてもらった。その看護婦の真摯な態度から、余程事態が深刻ということが窺えた。私は集中治療室の奥へと進んで行った。

 村田が倒れたという報告を受けたのは病院からだった。初め連絡を受けたときはとても驚いた。と、いうか家の電話が何ヶ月かぶりに鳴ったことに一番驚いた。どうやって電話に出るのか思い出せなくて、取るのに緊張してしまった。

 病院側曰く、家族も親戚も居ない為誰も呼ぶことが出来なかったので、倒れた村田の荷物の中にあった私の家の電話番号にかけてみたらしい。やはり誰も知り合いが居ないと病院としても良くないらしい。知り合いが呼びかけをした方が意識を取り戻す可能性も高いという。

 けれど、私に村田の側にいる権利などあるのだろうか。

「こちらですよ」

 看護婦は集中治療室の中でも最も重態な患者が入る個室の前で止まると、あとはドアの前で今まさに入室しようとしていた医者に案内が代わった。私が小さく会釈をすると、相手もまた小さく会釈した。

「堀田美穂さんですね」

 私は頷いた。

 そして医者は村田の部屋のスライドドアをゆっくり開けた。医者の後に続き、私も入室し後ろ手でドアを閉めた。

 そこは今まで感じたことがないくらい静かで、不思議な部屋だった。そう、まるでどこかの曲にある、戦場で迎えたクリスマスのよう。

「村田さんは元々心臓を患っておりまして、発作が起こったときに薬を服用出来なかったせいでこのような事態になってしまったのだと思います」

 私は村田の眠るベットを眺めていた。

「とても残念なご報告をしなければならないのですが」

 医者は言葉を濁らせた。私は村田の側に寄って、眠る彼の顔を見つめながら促した。

「どうぞ」

 医者は咳払いを一つし口を開いた。

「今回あまりに病院に来るのが遅くなった為、かなり危険な状態です。村田さんの場合、心臓の方から脳に影響する病気なので、申し上げにくいのですが、“脳死”という可能性が高くなっています」

 私はその場に相応しい言葉が見つけられず、かといって死が迫ってきている恐怖もうまく感じられず、

「そうですか」

 と、私は答えた。

「しばらく一人、いや、二人にさせて頂けますか」

 私が言うと、医者は静かに頷いてドアを開いて外へ出る。ドアを閉める前に、医者は言った。

「意識不明の状態でも、声は聞こえていることもありますよ」

 私は医者の声を背中で受け止めながら、張り詰めた空気を保っていた。医者がドアを閉め、出て行く。

 子供騙しの慰めの話は聞きたくなかった。私の聞きたいのは、村田の爽やかな微笑みから生まれる優しい声だった。




 いつでもよそ行き顔の気取った猫。私の方をじっと見つめている。アーモンドみたいな目。ビー球みたいな瞳。

 私が手で招く仕草をすると、猫はすたすたと足音もさせずこちらに向かってきた。

 村田がくれた猫だった。彼の家の広い庭で野放し状態で飼っている猫が産んだそうだ。恐らく雑種。私の家に突然尋ねてきたと思ったら、タオルで包んだ猫を見せたのだ。その無邪気な瞳を見て、つい私は微笑んだ。次の瞬間はっとして口に手を当てた。私が笑うと、村田が悲しむんじゃないかと思ったのだ。けれど、私の予想に反して村田はとても嬉しそうに、幸福そうに笑った。私はそれだけで胸に暖かな感情が溢れた。だから、この猫の名前は「サチ」。

 サチは私の手を舐めた。サチは、私が悲しんでいると自然と側に寄り添う。

 私はそっと、サチの背中に手を滑らせた。

 ついに私の遠泳にも、陸地が見えてきた。




 失いたくは無かった。例え村田との出会いが嘘でも。

 医者の言葉を思い出す。このような事態になってしまったのは、薬が服用できなかった為、と言っていた。もし、服用できなかったのではなく、服用しなかったのなら。彼は何を望んでいるだろう。そしてもしこのままずっと生きていたら、誰とも話せず、誰も会いに来ず、趣味に時間を費やすことも出来ず、無限の時間を真っ暗闇で一人で過ごすとしたら。彼は何を望んでいるだろう。

 村田の手を握っていた手を離し、静かに立ち上がった。

「私に出来ることは、これくらいしかないから」

 聞こえているとは思わなかったけれど、最後の声をかけた。いつもの表情だった。心には波一つ立っていない。

 村田に繋がる全てのものを、むしりとるように外していく。お疲れ様、村田。もう、貴方は十分頑張った。

 点滴の液体がチューブからぽたぽたと垂れ出す。そしてゆっくりと、全ての物から村田を離した。氷の仮面をつけたような顔をしている村田に、私は静かに見入った。そして、私は村田の頬に顔を寄せて、口付けをしようとした。けれど、何か間違っているような気がして、顔を離した。

 私は集中治療室を出た。いつもの表情で。いつもの態度で。

 ただ一つ違ったことがあった。帰り道に通ったいつもの図書館の前、そこを通った時、頬に熱い涙が流れていた。いつもの表情に。いつもの態度に。そしてその涙に手を触れた瞬間に、何かが切れたかのように、私は泣き崩れた。今まで厳重に封印されていた何かが、壊れていくように。




 雨が、止んだ。

 私の隣で座っていたサチが、急に「ニャア」と鳴いた。

 分かってるよ、と私は視線でサチに言った。その時玄関のチャイムが鳴った。

 私は決意が出来ていた。そして、この部屋を出て行く時がきた。

「警察の者です。堀田美穂さんですね」

 私はコートの男たちに向かって頷いた。

 警察官たちは顔を見合わせ、私に言い放った。

「あなたを村田真之さん殺害の容疑で、署でお話をお聞かせいただきたい。ご同行願います」

「はい、分かりました」

 素直に返事をし、何も持たずそのまますぐに靴を履く私に面食らった警察官たち。私のことをまじまじと見つめている。

 パトカーの中で、隣に座っていた男が言った。

「こういうところで折入った話を訊くのも難だが、俺には君みたいな子が人を殺したなんて考えられない」

 私は黙って、正面の窓の外から見える景色を眺めていた。

「教養深そうだし、頭も良さそうだ」

 警察署が見えた。私は目を伏せた。

「犯行の動機は、なんなんだ?」

 彼の言葉を背に受け、私はパトカーを降りた。蒸し暑い空気が私を包み込む。眩しさに目が眩みそうになった。

「動機?」

 私は彼の方を振り返り、堂々と言い放った。

「彼の頬にキスしたかったから」

 眩しさゆえか、私の言葉ゆえか、顔をしかめる警察官を尻目に、私はクーラーの効いた警察署へと足を踏み出していた。

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