閑話 じれじれ水族館
時間軸: 二巡目告白後の友達以上恋人未満の時期のできごと
「わあ、綺麗」
壁一面に広がる大水槽にはゆったりと動く白い絹のようなミズクラゲが優雅に泳いでいる。
館内にはヒーリングミュージックがかかっており雰囲気ばつぐんだ。
王立学園からほど近いこの水族館は、学生のデートスポットとして大変人気だ。メアリももちろん以前のルカと何回か来たことがある。
「へえ、幻想的だね」
メアリの隣にいるルカは言葉とは裏腹に、さして感動のないような表情でクラゲを見ている。
以前ルカが水族館を好きだと思ってたのはメアリの勘違いだったのだろうか。
ルカのその虚ろな目がふっとメアリの方を向く。メアリは心臓が締め付けられた。
なんて昏い目をしているのだろう。本当に楽しんでくれているのだろうか。
今日水族館に来たのはメアリが友達としてルカを誘ったからだ。
ルカが以前の人生で「メアリと水族館行くのが好き」と蕩ける笑みで言っていたことを覚えていたからだった。
(なんだか、思ってた反応と違う……)
今日のメアリの服装は以前の人生でルカが好きだと言っていた白いワンピース姿だった。
確か以前の人生で初デートの時にも着て行ったのだった。
あのときは急にルカが服を買ってくれたのだが、白いワンピースにクレープの苺ジャムがついてしみになっていたことを、試着室に入ってから気づいたのだ。ルカはいつも優しい。
(もしかしてこのワンピースが好きだっていうのも社交辞令だったのかしら……)
メアリは若干自信を失っていた。以前のルカなら出会い頭に服装について砂糖を垂れ流すくらい褒めちぎってきていたが、今のルカははっとした顔をして終わりである。随分とそっけない。
クラゲをぼんやりと見ているルカをまじまじと見つめていると、メアリの視線に気が付いたルカがふっと口の端を緩めた。注意して見ていないと見逃すような微細な笑みだ。
「ん? どうかした?」
若干甘さの感じるその声は、甘さ控えめでメアリの知らないルカの声だ。
「あ、ううん! ちょっとお手洗い行ってくるね」
メアリは思わずどぎまぎしてしまった。ルカの色香にあてられそうだ。
なんというかこの薄暗い室内でぼんやりと光を受けるルカは人間離れした麗しさを醸し出している。
「ああ、じゃあこのあたりにいるね」
ミズクラゲを背景にしたルカはまるで絵画の額縁の中にいるかのように美しい。
メアリは苦しくなった胸をおさえ、ぱたぱたと駆けて行った。
…………
ルカはミズクラゲを見ながらぼんやりしていた。この薄暗い空間はなんだか彼の心を深海に誘うような蠱惑的な魅力に溢れている。
今日のメアリも、白いワンピースがミズクラゲの水槽の明かりに照らされて、儚い美しさをたたえており、ルカの視線を縫い留めた。
目の前の大水槽を見つめ、ルカはひっそりと思う。
このガラスの檻に入ってくれているほうが安心できる。目を離したって、いつでもここにいてくれるのだから。
ルカは怖かった、自分の気持ちがメアリにどうしても惹かれていることが。友達、だなんて嘘だ。
でも今のこのあいまいな関係にも存外満足している自分がいて……。
今日みたいに好きだと思う瞬間にどうしても自分の醜い欲望が溢れ出してきそうになってふと恐ろしくなる。
ふとしたメアリの表情の変化や、振り向きざまに揺れる髪、ちらりと見えたうなじにルカの心は乱れてばかりだ。こんな自分に嫌気がさす。
(……随分と遅いなあ)
迷子にでもなっているのだろうか。
そういえば連絡先を交換していなかった、ということに気づきルカは愕然とした。
闇のように昏い不安が押し寄せてくる。
いっそ囲ってしまいたいという欲求に頭をふった。
そんなこと考えている場合でない。彼女が迷っているのなら、ここで待っていたって無駄だろう。
ルカはお手洗いの標識に目を向け歩き出した。一本道だからどこかで出会うだろう、という安直な気持ちを胸に。
…………
女子トイレはさすがに混んでいた。
メアリはリップを塗りなおしながら切なげなため息を小さくつく。
ルカの気持ちがわからない、どんどんわからなくなっていく。
私の知っていたルカは何だったのだろうか。もはや内面は別人ではないか。
それでも……それでもルカのことが好きだった。
あのとき、夕日に照らされた学園の中庭でルカと対峙したときに、うるさいくらいに自分の心臓は高鳴っていて、降ってくるように恋だと気づかされた。結局一度、絆された自分の心はもうどうにもならないのだ。
(よし、行こう!)
落ち込んでいたって仕方ない。前回はルカに押されていたが、今度はメアリが押せばいいだけなのだから。
ぱんぱんと頬を軽くたたき、気合を入れなおしてメアリは化粧室を出る。
そう、化粧事情に詳しくないルカが今どんな思いで水族館をさまよっているのか彼女は知る由もないのだ。
…………
(メアリが、どこにもいない)
水族館のなかは人に溢れ、人波にもまれながら、ルカの不安は煽られた。
するりと腕の中から大切なものが逃げ出してしまったかのような喪失感が胸に広がる。
歩きまわるたびに目につく水槽の中にはカラフルな熱帯魚が楽しそうに泳いでいる。ああ、気が狂いそうだ。
結局さんざん歩き回ってもといた場所に帰ってきてしまった。もうここにしか彼女の手がかりはないのだ。
「あ、ルカ! ルカもお手洗い行ってきたの?」
うしろから彼女の声が聞こえ、ルカの心臓は苦しくなった。
ああ
好きだ
……………
メアリが待ち合わせ場所にもうすぐ着く時、ルカが自分の前を背を向けて歩いているのが見えた。どうやら彼もお手洗いに行っていたようだ。
たたっと駆け寄って横から肩をぽんぽんと叩くと、ルカははっとしたような真に迫る顔でこちらを振り向いたのだ。
「ルカ……?」
ルカは無言だった。無言でメアリをじっと見つめている。
そんなに見つめられと照れる。
ルカは無言のままじりじりと迫り、後ずさるメアリを壁際まで追い詰めると、そっと壁に手をついた。
水槽のない部分の壁だったから通り過ぎる人たちの目は向いていなかった。
「遅かったから心配したよ」
「ごめん……」
メアリはルカが怒っているのだと思った。きっと彼は待ちくたびれたのだろう。
…………
自分の腕の中で、まっすぐこちらを見上げているメアリにルカの心は騒いでいた。
本当にどうしようもないと自分にあきれる。
この腕の檻の中に閉じ込めて、ようやく安心できるだなんて。
「また行こう、水族館」
ルカはメアリを見つめ、吹っ切れたような笑顔で言った。
「僕、好きになったみたい」
(君のことが……ね)
次回「ヤンデレ王子は完璧主義者」で二巡目の出来事をルカが変えていきます。