幸田露伴「五重塔」現代語勝手訳 其 九
其 九
小僧が運んできた茶を上人自ら注いでお勧めになれば、二人とも勿体ながって、恐れ入りながら頂戴していると、
「そう遠慮されては言葉に角が取れず、話が丸く行かぬわ。さあ、菓子はもう、こっちから取り分けぬから、勝手に摘まんでくれ」と、高脚の器を押しやり、自分も天目(*1)を取り上げ、喉を潤されて、
「面白い話と言っても、世捨て人の老僧らにはそうたくさんあるものではないが、近頃読んだお経の中に、つくづくなるほどと感心したものがある。聞いてくれ、こんな話じゃ。昔、ある国の長者が二人の子を引き連れて、麗らかな天気の節に、香り芳しい花が咲き、軟らかな草が滋っている広い野原を愉快げに遊んでいたところ、水は夏の初めなので、大分涸れてはいたけれど、まだなお清らかに流れて、岸辺を洗っている大きな川に行き当たった。その川の中には珠のような小磧やら、銀のような砂でできている美しい洲があったので、長者は面白がって、一尋(*2)ばかりの流れを無造作に飛び越え、あちらこちらを見廻せば、その洲の後ろの方にもまた一尋ほどの流れで、陸と隔たれている別世界がある。まるで浮世の生臭い土地とは懸絶れた汚れのない清らかな地であり、そのまま一人で歓びのあまり踊り出したが、渉ろうとしても、渉ることができない二人の子どもが羨ましがって喚び叫ぶのを憐れに思い、お前たちには来ることのできない清らかな地であるが、そんなに来たければ渡らせて与るので待っておれ。見てみよ、我の足下のこの小磧は一つ一つが蓮華の形状をしている世にも珍しい磧である。また我の目の前のこの砂は、一粒一粒が五金(*3)の光を放つ比類稀な砂であるぞ、と教えてやれば、二人は遠目にもそれを見て、いよいよ焦燥って渡ろうとするのを、長者は徐に制しながら、洪水の時にでも根こそぎになったものらしい棕櫚の樹の一尋余りなのを架け渡して橋として与ったが、自分が先だ、お前は後だと兄弟同士で争った末、兄は兄だけに腕力強く、遂に弟を投げ伏せて、よし、俺の勝ちだと誇り高ぶり、急いでその橋を渡りかけ、漸く半ばくらいに至った時、弟は起き上がりさま、口惜しさのあまり、力一杯その橋を動かせば、兄はたちまち水の中に落ちた。苦しみもがきながらも何とか洲に辿り着いたが、この時、弟が早くもその橋を難なく渡り越えようとしているのを見ると、兄も橋の一端を一揺り揺り動かせば、丸木の橋なので、弟も堪らず水の中に落ち、長者が立っている少し手前に濡れ滴った身体で這い上がった。その時長者は歎いて、お前たちにはどう見える、今お前たちが足を踏み入れたその時からこの洲は忽ち前と異なり、小磧は黒く醜くなり、砂は黄ばんだ普通の砂になってしまった。よく見てみろ、どうだ、と言うと、二人は驚き、眼を見張って見れば、まったく父の言葉通りの砂と小磧。ああ、こんなものを取ろうとして可愛い弟を悩ませたのか、尊い兄を溺れさせたのか、と兄弟は共に慚じ、悲しんで、兄は弟の袂を絞り、弟は兄の着物の裾を絞って、お互いに労り慰めたが、長者は棕櫚の橋をまた引き取ってきて、洲の後ろの流れに打ち掛け、もうこの洲には用はない。彼方の方へ遊びに行くぞ、お前たち、先ずこれを渡れと言う長者の言葉に、兄弟は顔を見合わせ、先刻ほどとは違って、兄上、先にお渡り下さい、弟よ先に渡るがいい、と譲り合いしていたが、歳の順と言うことで、兄が先ず渡るその時に、弟は転ばないようにと、端をしっかりと抑える。その次に弟が渡る段になれば、兄もまた、揺れ動かないようにと抑えてやった。長者は難なくそこを飛び越え、三人一緒に長閑にゆっくりと歩くそのうちに、兄がフト拾った石を弟が見れば、美しい蓮華の形をした石で、また、弟が摘まみ上げた砂を兄が覗けば眼も眩いほどの五金の光を放っていたので、兄弟ともども歓喜び楽しみ、互いに得た幸福を互いに深く讃え合った。その時、長者は懐中から真実の璧の蓮華を取り出し、兄に与え、弟にも真実の砂金を袖から出して、大切にせよと与えたと言う。話してしまえば、子ども欺しのようじゃが、仏説に虚言はない。子ども欺しでは決してない。噛みしめてみよ、味のある話ではないか。どうじゃ、お前たちにも面白いか。老僧には大層面白いが」と、軽く言われるが深く浸みる。譬喩方便も上人の御胸の中にお持ちになっている真実から出るのであるが、これを聞いて源太も十兵衛も二人して顔を見合わせ、茫然とした。
*1 天目……茶の湯で使う、すりばち形の抹茶茶碗。
*2 一尋……両手を左右に広げたほどの長さ。5尺すなわち約1.5メートル、ないし6尺すなわち約1.8メートル。
*3 五金……金・銀・銅・鉄・錫の五つの金属。