幸田露伴「五重塔」現代語勝手訳 其 四
其 四
当時、有名な番匠として名を知られた川越の源太、彼が請け負い、完成させた谷中感応寺は指を差されるような難点など何処にもあろうはずはなく、五十畳敷の格天井の本堂、橋とも見間違うほどの長い廻廊、幾室かの客殿、大和尚の居間、茶室、学徒修行僧の居るべき場所、庫裡、浴室、玄関に至るまで、荘厳を尽くし、あるいは堅固を極め、あるいは清らかに、あるいは寂びて、それぞれの目的に適い、その設えは総てにわたって申し分ないものであった。
そもそもちっぽけな古寺をこれほどまでの大寺にまでしたのは誰か。法名を聞けば、その頃の三つの子どもでさえ手を合わせて礼拝するほど世に知られた宇陀の朗円上人である。早くから身延山において蛍雪の苦学を積まれ、壮年期には六十余りの国を雲水僧として行脚の修行を重ね、毘婆舎那、すなわち、観・妙観・正見という三つの行において、煩悩を断ちきる解脱の劒を研ぎ澄まし、世界悉檀、為人悉檀、対治悉檀、第一義悉檀という四種の悉檀において人々の苦しみを救う説法を行い広められた七十を超えた老和尚である。生臭い俗世を避けてきたため、身は鶴のように痩せ、眼は人の世の揉めごとを嫌って、半ば眠っているようでもある。当然、成住壊空の理を悟り、慾の火炎を胸に湧き上げることもなく、涅槃の真相を会得し、執着の彩色に心を染めることもない。そのような人物なので、堂や塔を建て、伽藍を作ろうとは望んでもいなかったが、その徳を慕い、教えを仰ぐために集まって来る学徒は非常に多く、
「それらの者が雨露を凌ぐには、今のままでは具合が悪くなった。もう少し堂が広ければ……」などと呟かれたのが事の起こりで、徳の高い上人様が新たに規模を大きくして寺を建てたいと仰っているぞ、という話が八方に広がれば、徒弟の中の機転の利く者は自ら意気込んで、あちこち駆け回り、感応寺建立のための寄附を勧めて歩いた。また一生懸命上人様の高徳を説き聞かせ、富豪に勧めて喜捨させる信者もいた。それでなくても日頃から仏を深く尊び信心している者が雲霞のようにいたので、その勢いは凄まじく、上は諸侯から下は町人まで先を争って財を投じ、我こそは後の世の安泰を図る一助になるのだという思いから、金持ちは黄金白銀を、また貧乏人も百銅、二百銅と分に応じて寄進をすれば、あらゆる川が海に注ぐように、瞬く間に驚くほどの金銭が集まった。そして、その中から才に長けた者が世話人となり、用人となり、万事万端執り行い、やがて立派に建立が成就したとは、聞いているだけでも小気味よい話である。
しかし、すべて成し遂げた後、用人頭の為右衛門が普請にかかる諸入用、諸雑費を一切締めくくり、手抜かりなくきちんと決算したけれども、なおも大金が余ったのである。これをどうするべきかと、事務役の僧の円道と共に頭を突き合わせて相談したが、特段良い考えも出ず、田地を買おうか、畠を買おうかと考えたけれど、田や畠にしても余るほどの寄附があるので、今更またこの浄財をそんなことに使ってもと思いあぐね、面倒なこと、良きに計らえ、と皺枯れたお声で答えが返ってくるのを承知で、ある時円道が恐る恐る、
「どのように使うのがよろしいでしょうか」と伺ったところ、
「塔を建てよ」と、ただ一言いわれた切り、振り向きもなさらず、鼈甲縁の大きな眼鏡の中から微かな眼の輝きを放たれて、後は何の経か書物かを黙々と読み続けられるだけであった。そんなことがあって、いよいよ塔を建てることに定まったが、例の源太に見積もりを出せと円道が言い付けたのを、知ってか知らずにか、上人様にお目通り願いたいと、のっそりが訪ねて来たのは今から二月ほど前のことであった。
★ 素人の独り言
「毘婆舎那」、「四種の悉檀」、「壊空の理」、「涅槃の真」など、この節にある仏教用語については、無知な私が解説できる訳でもなく、誤って解釈してしまっている可能性があるかも知れない。誤りも含め、この辺りに知識の深い方がいらっしゃれば、お教えを乞うところである。