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幸田露伴「五重塔」現代語勝手訳   作者: 秋月しろう
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幸田露伴「五重塔」現代語勝手訳  其 三十四

 其 三十四


「さあ十兵衛、今度はどうしても来るべしじゃ。つべこべ言わせぬ。上人様がお(よび)じゃぞ」と、七蔵爺(じじ)がいきりきって玄関から我鳴(がな)れば、十兵衛は聞くなり、すぐに身を起こして、

「なに! あの、上人様がお(よび)なされたと、七蔵殿、それは真実(まこと)でございますか。あぁ情けない。どれ程風が強くても安心されておられると思っていた上人様までが、この十兵衛が一心かけて建てたものを容易(たやす)破壊(こわ)れるかのようにお思いになったのか。口惜(くや)しい。世界で唯一人、自分を慈悲の目で見て下さる神、仏と思っていた上人様も、真底(しんそこ)からは()手腕(うで)を確かなものだとは思って下さらなかったのか。あぁ、つくづく世の中は心許(こころもと)ないもの。もう十兵衛の生き甲斐はなくなった。たまたま当節、比類ない尊い名僧にこの十兵衛という男を知ってもらい、これが我が一生の名誉だと(から)(よろこ)びしたが、本当に果敢(はか)ない少時(しばし)の夢だった。嵐の風がそよと吹いただけで、丹誠凝らしたあの塔が倒れはしないかと疑われるとは……。えぇ、腹が立つ。泣きたくなる。それほど(おれ)は腑抜けな(やつ)か、恥をも知らない(やっこ)と見えるか。自己(おのれ)がした仕事が恥辱(はじ)を受けても、のうのうと知らん顔をして生きているような男と(おれ)は見られたか。仮にあの塔が倒れた時、この(おれ)は生きていようか、それでも生きていたいと思うか。えぇ、口惜(くや)しい、腹の立つ。お浪、それほど(おれ)は潔くない男だと思うか。あぁあぁ、生命(いのち)ももういらん。この身体(からだ)にも愛想が尽きた。この世から見放された十兵衛は、生きているだけで恥辱(はじ)をかくという苦悩(くるしみ)を受ける。えぇ、いっそのこと、塔も倒れてしまえ。暴風雨(あらし)ももっと(はげ)しくなれ。少しでもあの塔が壊れてくれればいいのだ。空に吹く風も、地を打つ雨も、人間(ひと)ほどは(おれ)情無(つれな)くはない。塔が破壊(こわ)されても、倒されても、悦びこそすれ恨みはしない。板一枚吹きめくられても、釘一本抜かれても、味気ないこんな世にもう未練は持たない。物の見事に死んで退()けてやる。十兵衛という愚魯漢(ばかもの)自己(おのれ)技術(わざ)粗漏(てぬかり)によって恥辱(はじ)を受けても、生命(いのち)惜しさに生存(いきながら)えているような鄙劣(けち)な奴ではなかった、そんな(きれ)い心を持っていたのだと、せめて後で(とむら)ってもらいたい。一度はどうせ捨てる身。捨処(すてどころ)はよし、捨時(すてどき)もよし。仏寺を(けが)すのは恐れ多いが、自己(おのれ)が建てたものがもし壊れたのなら、その場を一歩でも立ち去ることなど出来ようか。諸仏(しょぶつ)菩薩(ぼさつ)もお許し下され、生雲塔の頂上(てっぺん)から(ただ)ちに飛んで身を捨てよう。投げた五尺の皮囊(かわぶくろ)(やぶ)れて醜いだろうが、(きたな)いものは盛ってはおらず、あわれ男の醇粋(いっぽんぎ)、汚れのない血が流れるとなれば、不憫とも思ってご覧いただきたい」などと、思ったか、思わなかったか、もう十兵衛自身も半分分からないまま、何時(いつ)の間にか夢路を辿(たど)るようにして、七蔵とさえ何処(どこ)でか別れて、今いる此処(ここ)は……、おぉ、それ、その塔である。

 上りつめた第五層の戸を押し開けて、今まさにぬっと十兵衛が半身をあらわせば、(こいし)を投げたような暴雨は眼も開けさせず(おもて)を打ち、一つ残った耳までも扯断(ちぎ)ろうとする猛風が呼吸(いき)さえさせず吹きかかって来る。思わず一足(ひとあし)退(しりぞ)いたが、負けじと奮い立って前に出た十兵衛、欄干を(つか)んで()っと睨めば、(そら)五月(さつき)の闇よりまだ黒く、ただ囂々(ごうごう)と風の音だけが宇宙に(みち)て物騒がしい。さしもの堅固な塔も、虚空に高く聳えていれば、どうどうどっと、風が押し寄せる度に揺らめき動いて、荒波に揉まれる棚なし小舟があわや転覆してしまうかのような風情(ふぜい)。これにはさすがに覚悟を極めた十兵衛、しかしまた、何を今更と思い直し、ここは一生一度の大事(だいじ)、生きるか死ぬかの岐路(わかれみち)だと、八万四千の身の毛を(よだ)たせて、奥歯を咬定(かみし)(まなこ)(みは)り、いざその時はと、手にしてきた六分(ろくぶ)(のみ)の柄を忘れるほどに()()()引握(ひっつか)んで、天命を静かに待つ。一方、そんなことを知ってか知らずか、風雨を(いと)わず塔の周囲(まわり)を何度となく徘徊する、怪しい男が一人いた。


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